第5話:共鳴の兆し
2035年、10月27日。
放課後の教室には、西日が長く、オレンジ色の影を落としていた。
黒川祐介は、机に突っ伏したまま、自分のしゃがれた声を思い出していた。一週間に及ぶ「強制言語化」の訓練。独り言を叫び続けながら、見えない敵と戦い続ける地獄。
喉の奥には、いつも熱い痛みがこびりついている。
(……やめときゃよかったな)
何度目かの溜息が漏れる。
昨日、Leonから届いたメッセージは、さらに祐介を憂鬱にさせた。
『明日のスクリム、1試合だけShoと交代して出場してもらう。本来のメンバーの中で、君がどこまで情報を落とせるか、そして、その情報がどう機能するかを確かめる』
自分はまだ練習生だ。正式なメンバーであるShoを差し置いて試合に出る。
それに対するShoの視線や、他のメンバーの困惑を想像するだけで、祐介のドライな精神は「面倒くさい」という拒否反応で塗り潰された。
だが、放課後の校門を抜ける足取りは、不思議と軽かった。
自分の不甲斐なさに打ちのめされながらも、心臓の奥の方で、あの「組織の暴力」に一矢報いたいという、正体不明の渇きが燻っていることを、彼はまだ自覚していなかった。
*
21時。
『Aether Link』のサーバー。
祐介が接続すると、既にメンバーが揃っていた。Leon、Kai、Rin、そしてエースのRiku。
チャンネル内には、針を落としたような静寂と、微かな緊張が漂っている。
「――Kurosukeが入ったな。では、今日のスクリムの予定を確認する」
Leonのディレクターらしい、落ち着いた声が響く。
「相手は『Vortex Esports』。プロ2部、V2の下位に位置するチームだ。実力的には、今のBlue Cometの本メンバーなら接戦、あるいは勝ち越せる相手だろう」
Leonの視線――正確には、ボイスチャットのアイコンの点滅――が祐介に向く。
「Kurosuke。君に課すルールは変わらない。とにかく喋れ。間違ってもいい、声が裏返ってもいい。君が見ている戦場を、言葉にして味方の脳へ流し込め。君個人のスコアなど、今日はどうでもいい」
「……了解」
短く答える。
「どうでもいい」と言われたスコアだが、祐介にとっては死活問題だった。
喋ることに脳を使えば、エイムは鈍る。状況判断は遅れる。
何より、エースであるRikuの隣で、無様なプレイを見せることへの、言いようのない屈辱感が彼の喉を締め付けていた。
「Kurosukeさん」
鈴を転がすような、しかし氷のように冷ややかな声が聞こえた。Rikuだ。
「本日はよろしくお願いいたします。Shoさんの代わりということですが……あまり、僕の邪魔はしないでくださいね。丁寧なコール、期待しておりますよ」
言葉遣いは極めて礼儀正しい。
しかし、その背後には「期待などしていない」という、明確な選民意識が透けて見えた。
祐介は小さく鼻を鳴らした。
「ああ。善処するよ、お坊ちゃん」
「……お坊ちゃん、ですか。面白い呼び方ですね」
Rikuは小さく笑った。そこには、反論する価値すらない相手に向けられた、残酷なまでの余裕があった。
*
マップは、再び『Caelum』。
試合開始のブザーが鳴った瞬間、祐介の頭の中に、無理やり言葉を押し込む作業が始まった。
「……ミッド。ドローン、来ない。モク、一つ。A側の入り口……。自分は、左の壁、張り付き……」
たどたどしい。あまりに、たどたどしい。
本来なら一瞬の判断で行う動きを、言語というフィルターを通すたびに、祐介のキャラクターは「ぎこちない人形」のように固まる。
敵のストライカーが顔を出した。
いつもの祐介なら、反射的にヘッドショットを叩き込んでいる場面。
だが、今は「右、敵視認……!」という言葉が先に脳を占拠し、クリックがコンマ2秒遅れた。
乾いた射撃音。
崩れ落ちたのは、祐介のエージェントだった。
「……っ」
「Kurosuke、声が止まっている。死んだ理由も、味方が拾える情報だ。早くしろ」
Leonの冷徹な督促。
「……すいません。相手、Aメインに、たぶん三人。自分を殺した奴は、今の撃ち合いで、少し、右に逃げた……」
ボイスチャットは、祐介の未熟な情報と、Leonの完璧な調整、そしてRikuの圧倒的なキルログで埋め尽くされていく。
前半戦。スコアは3対9。
V2の下位チームであるはずのVortexに対し、Blue Cometは苦戦を強いられていた。
理由は明白だ。ストライカーの一角である祐介が、完全に「穴」になっていたからだ。
キルスコア、2キル11デス。
目を覆いたくなるような数字が、Aether Linkのリザルト画面に並ぶ。
味方のKaiやRinの雰囲気も、目に見えて悪化していた。当然だ。勝ちに来ているスクリムで、練習生の発声練習に付き合わされているのだから。
「……Kurosukeさん。少し、お静かにしていただけますか?」
Rikuの、丁寧だが刃のような言葉が飛ぶ。
「あなたの情報は、ノイズが多すぎます。その未完成な言葉を聴くたびに、僕の思考のテンポが狂う。Leonさんの指示だけがあれば、僕は勝てますから」
祐介は、マウスを握る手を血が滲むほど強く締め直した。
言い返せない。
自分のせいで試合が壊れている。それは、事実だった。
情報の言語化という、プロとしての入り口。そのあまりの険しさに、祐介のドライな心は、ボロボロに擦り切れていた。
(……やめだ。こんなの、向いてねえ)
そう投げ出しそうになった、第15ラウンド。攻守交代から2ラウンド経過した、攻撃側。
祐介は、Leonのセットアップに従い、Aサイトへの突入準備をしていた。
その時だ。
ヘッドセット越しに聴こえる、敵のガーディアンが設置したアビリティの「設置音の微かな余韻」。そして、先ほどから繰り返されている、敵のヴァンガードの「索敵のタイミング」。
それらが、祐介の脳内で、一つの「線」として繋がった。
論理ではない。
戦場に漂う、微かな「淀み」を、彼の野生が嗅ぎ取った。
「……Leonさん」
祐介の口から、無意識に言葉が漏れた。
「何だ」
「Aメイン。敵のヴァンガード……さっきから、同じ角を、怖がってる。二回連続で、Kaiさんのフラッシュを食らってから……たぶん次、強気に出たら、あいつ、チェックせずに左へ逃げる」
ボイスチャットが、一瞬だけ止まった。
Leonが何かを言おうとしたその時、祐介はさらに言葉を重ねた。
「Riku。あいつ……モクの端から左に抜ける癖、ある。今の配置なら、たぶん、そこ。絶対に、撃ち合わない。逃げるから。……そこを、狙え」
それは、これまでの「情報の羅列」とは違った。
敵の心理の癖を読み切り、未来の空白を指し示す、残酷なまでの「予言」。
「……いいでしょう」
Rikuは、吐き捨てるように言った。
「そのデタラメ、信じて差し上げます」
試合再開。
LeonのDirectorによるスモークが、Aサイトの視界を遮断する。
Kaiのヴァンガードが索敵ドローンを流す。
通常なら、Rikuはドローンの情報を待ってから、確実に敵を排除しに行くはずだ。
しかし、この時。
Rikuは、ドローンを追い越して加速した。
スモークの端。
祐介が言った通り、敵のヴァンガードは強気な前押しを恐れ、角のチェックを怠り、背中を向けて左へ逃げようとしていた。
完璧な「心理の隙」。
Rikuのマウスが閃く。
一撃。
さらに、逃げ道に先回りしていたようなRikuの射撃が、カバーに来た敵のDirectorをも貫いた。
「――二人、ダウン。Aサイト、クリーン」
Rikuの声は、震えていなかった。
しかし、その後の彼のプレイには、明らかな「迷い」が生じていた。
なぜ。
なぜ、この練習生は、自分の論理でも、Leonの指示でも拾いきれなかった「敵の呼吸」を、あんなに的確に言い当てたのか。
ラウンドは、Blue Cometが圧倒的な速度で制した。
Wipe Outとはいかなかったが、Rikuの予測を超えた連キルが、試合の流れを強引に引き戻した瞬間だった。
「……Nice」
Leonの、短く、しかし含みのある言葉。
その後のラウンドでも、祐介のスコアは依然として低かった。
喋ることに苦しみ、凡ミスを繰り返し、最下位のまま試合は終わった。
スコアは8対13。Blue Cometの敗北。
スクリムが終了し、Aether Linkのリザルト画面が表示される。
沈黙。
いつもなら反省会が始まるところだが、今日は誰も口を開かなかった。
祐介の酷いスコアを責める気にもなれず、かと言って、あの第15ラウンドの「異質な一撃」を、どう評価すべきか分からなかったからだ。
「……Kurosukeさん」
不意に、Rikuが口を開いた。
いつもの丁寧な、取り繕ったような声ではない。
どこか、苛立ちと疑問が入り混じった、素の少年の声。
「第15ラウンド。なぜ、あのヴァンガードが左に逃げると分かったのですか。僕の計算では、あそこは右に引いてカバーを待つのが、最も生存率が高い動きだったはずです」
祐介は、ヘッドセットを外し、痛む喉をさすった。
「……分かんねえよ。ただ、あいつの視線が、ずっと怯えてるように見えただけだ。理屈じゃねえよ」
「理屈ではない、ですか……」
Rikuは、それ以上何も言わなかった。
「不本意だ」とでも言いたげな沈黙。だが、彼は確かに考え込んでいた。
自分が信じてきた「論理」という壁の外側に、もっと別の、ドロドロとした「人間の癖」という戦場があるのではないか。そして、目の前の出来損ないの練習生は、そこを土足で歩いているのではないか。
「今日はここまでだ」
Leonが、重い口調で締めくくった。
「Kurosuke。スコアはゴミだ。喋りも聞き苦しい。だが……君が今日落としたあの情報のいくつかは、確かにチームの刃になった。明日からも、その泥を啜り続けろ」
「……へいへい」
祐介は投げやりに答え、サーバーを退出した。
ディスプレイを消すと、部屋に静寂が戻る。
全身の倦怠感。喉の痛み。
そして、自分の不甲斐なさへの、吐き気がするような自己嫌悪。
「ただの遊び」のはずだった。
要領よく勝って、気持ちよくなって終わるはずのゲームだった。
なのに、今の自分は、負けて、貶されて、ボロボロになって、それでもなお、あの第15ラウンドの「一瞬のシンクロ」を思い出して、心臓が波打っている。
「……あー、疲れた。マジで、やってらんねえ」
祐介はそのままベッドに倒れ込み、自分に言い訳をするように毛布を被った。
疲れたから、寝る。
明日は学校だ。
進路のことも、将来のことも、全部どうでもいい。
……そう思いながら、彼の指先は、暗闇の中で無意識に空をなぞっていた。
Aメイン、敵、左。
逃げる癖。
そこを、撃つ。
彼の脳は、持ち主の意志に反して、既に「勝負」の熱に侵されていた。
2035年。
情報の洪水の中で、一筋の「共鳴」を見出した天才は。
まだ自分が、プロという名の怪物に呑み込まれつつあることに、気づいていない。




