第4話:泥を啜る日々
2035年、10月24日。
午後の微睡みに包まれた教室で、黒川祐介は頬杖をつきながら、窓の外に広がる秋の空を眺めていた。
黒板を叩くチョークの音。教壇で熱弁を振るう教師の、湿り気を帯びた声。そして、隣の席の男子が小声で話している、今日の放課後にどこのハンバーガーショップへ行くかという、取るに足らない相談。
手元のノートには、世界史の講義内容ではなく、昨夜の個人練習で気づいた『Caelum』のBサイトにおける射線の重なりが、殴り書きのような図形として記されていた。
(……結局、何やってんだろうな、俺)
不意に、底の抜けたような虚無感がこみ上げる。
鞄の奥では、進路希望調査票が三つ折りのまま、静かに眠っている。昨日の実力テストの結果は「学年4位」だった。塾にも行かず、授業中に寝てばかりいるのにその順位なのは、単にこの学校のレベルが低いのか、それとも自分の脳が、情報の要領を得ることに長けすぎているのか。
おそらく、後者だ。
祐介にとって、この世のほとんどのことは、解かれるのを待つ「パズル」に見える。教師の言葉から試験の出題範囲を予測するのも、客の顔色から割烹料理屋で出すべき茶のタイミングを図るのも、ゲームで敵の裏を突くのも、根底にあるロジックは同じだった。
「――黒川、ここを訳してみろ」
不意に指名され、祐介は立ち上がることもなく、教科書を横目で見て流暢な日本語を口にした。
「正解だ。……もう少し、やる気を見せろよ」
教師の溜息。クラスメイトたちの「またかよ」という、羨望と嫉妬が混じった視線。
祐介は鼻を鳴らし、再び窓の外へ意識を飛ばした。
プロ。世界大会。
そんな重苦しい言葉、本来の自分には似合わないはずだった。
放課後は適当に友達と遊び、実家の店を少しだけ手伝って美味い飯を食い、夜は誰にも邪魔されずにランクマッチで敵をなぎ倒して、気持ちよく寝る。それが「正しい」高校生活のはずだった。
なのに、今の自分は深夜まで情報の咆哮に晒され、喉を枯らし、意味不明な挫折感を味わっている。
(……面倒くさい。今日、練習休むって言おうかな)
そんなことを考えながら、放課後のチャイムが鳴ると同時に、彼は誰よりも早く教室を後にした。
*
21時。
自室に戻り、夕食の刺身を頬張った後、祐介は重い腰を上げた。
結局、練習を休む勇気も、ましてや『Aether Link』の通知を無視する勇気もなかった。一度踏み込んでしまった「勝負」の残り香が、彼の脳のどこかを執拗に刺激している。
「――21時01分。1分遅刻だ、Kurosuke」
ヘッドセットを装着した瞬間、Leonの無機質な声が突き刺さる。
「……すみません、飯食ってました」
「いいだろう。メニューを始める。今日は、先日君がIgnisとのスクリムで見せた『Caelum』の防衛、あのシチュエーションを一人でシミュレートしてもらう」
始まったのは、拷問に近い訓練だった。
祐介は空のマップに入り、Leonが設置したダミーボットを相手に、一人で防衛の動きを行う。条件は一つ。
「自分の視界に入るもの、思考すること、すべてを1秒も絶やさず声に出すこと」。
「Aメイン、ドローンを警戒……あ、今、足音。一歩。たぶん、左。だから、自分は、この角に……引く。いや、待つ。一発撃ってから、引く」
「遅い。言葉が詰まっている。思考をそのまま音にしろ。君の脳内で完結させるな。味方が君の目と同化できるレベルまで解像度を上げろ」
これが、地獄だった。
普段、祐介は「感覚」で動いている。敵が来る、と感じたら指が動く。そこに理由は必要なかった。
しかし、それを言語化しようとすると、脳の処理能力が「喋る」という行為に奪われていく。
言葉にしようとして、コンマ数秒、エイムが遅れる。
右に動こうと言葉に出した瞬間、指先が不自然な硬直を見せる。
「あ……くそっ」
ダミーボットの単純な射撃に、祐介のキャラクターが倒される。
ランクマッチなら、目を瞑っていても勝てる相手だ。なのに、今はこの無機質なボットすらも、世界の壁のように高く感じられた。
「もう一度だ。今のは、なぜ負けた? 理由を説明しながらリスポーンしろ」
「……声に出そうとして、集中が切れた」
「違う。君が、自分の動きを論理的に把握していないからだ。感覚に頼りきった『野生』は、疲労や混乱、そしてプロのプレッシャーに直面した瞬間に機能しなくなる。言葉にできない強さは、再現性のない幸運に過ぎない」
Leonの言葉は、祐介の「要領の良さ」というプライドを粉々に砕いていく。
1時間、2時間。
ひたすら画面に向かって独り言を叫び続け、マウスを振る。
喉はヒリつき、脳は熱を帯び、AETHER製の最新デバイスさえも、今は自分を束縛する鎖のように重く感じられた。
休憩時間。祐介はヘッドセットを放り投げ、ベッドに倒れ込んだ。
「……疲れた。マジで意味わかんねえ……」
天井を見上げながら、自分に言い訳をする。
こんなの、ゲームじゃない。ただの修行だ。俺は遊びたいだけなのに。
そのまま寝てしまおうかと思った時、Leonからの通知が飛んできた。
『Kurosuke、観戦用サーバーに入れ。本メンバーのスクリムが始まる』
*
『Aether Link』の観戦モード。
そこには、先日行われた自身のスクリムとは全く違う「Blue Comet」の姿があった。
画面の中で、青いユニフォームのキャラクターが縦横無尽に跳ね回っている。
ストライカーのShoではない。もっと鋭く、もっと無慈悲な、圧倒的な暴力。
「――本隊、Aセット開始。3、2、1……今です」
その声の主は、祐介よりも明らかに若かった。
Blue Cometの5人目、正規メンバーにして、このチームの「真のエース」。
ハンドルネーム、『Riku』。
16歳の少年。
祐介は、息をするのを忘れて画面を見つめていた。
Rikuの動きは、先日自分が無意識に発動させた「野生」とは正反対のものだった。
一切の無駄がない。Leonの指示、Kaiの索敵、Rinの設置した防衛ライン。それらすべてを完璧に「利用」して、彼は最短ルートで敵の喉元を掻き切っていた。
対戦相手は、先日、祐介が接戦の末に敗北したプロ2部チーム『Ignis Esports』だった。
だが、今のスコアは4対10。
Blue Cometの本メンバーたちが、プロの組織力の前に、無惨に蹂躙されていた。
「Riku、そこは待て! カバーが間に合わない!」
Leonの声が飛ぶが、Rikuは止まらない。
彼はあえて味方の連携から一瞬だけ外れ、敵の虚を突く一撃を叩き込む。それは祐介の「嗅覚」に似ていたが、決定的に違うのは、その動きが味方のスキルと「同時」に行われていたことだ。
結局、試合は8対13で終わった。
Blue Cometの敗北。
しかし、祐介が感じたのは、絶望ではなく「理解の範疇を超えた何か」への恐怖だった。
本メンバーが揃い、Leonの論理が完成している状態のBlue Cometですら、V2のプロには勝てないことが多い。
先日の自分は、あの「完成された組織」を相手に、たった一人の身勝手な奇襲で、11点まで取ったのか。自分の存在が、いかにイレギュラーで、不気味なものだったのかを、客観的な視点で突きつけられた気がした。
「――お疲れ様です、皆様」
ボイスチャットに、新しい声が入ってきた。Rikuだ。
穏やかで、しかしどこか冷めた静謐さを湛えた声。育ちの良さを感じさせる、丁寧な口調。
「Leonさん、今の最後のラウンド。Kaiさんのスキル、あと0.2秒遅らせていただけますか。僕のスピードに合っていません」
「分かった、修正する。……Riku、紹介しよう。新しく練習生として入ったKurosukeだ」
画面越しの視線を感じた気がした。
Rikuは少しの間、静寂を置いてから、鈴を転がすような声で言った。
「ああ、あなたが噂のKurosukeさんですか。お初にお目に掛かります。先日のリプレイ、拝見させていただきましたよ」
「……どうも」
「驚きました。あのような……失礼ながら、非常に無作法な動きで、よくIgnisから11点も取れましたね。チームとしての体裁は見るに耐えないものでしたが、あのショットガンの一撃だけは、何と言いますか……異質でした」
「異質」。
それは称賛ではなく、得体の知れない出来損ないの生物を見るような響きだった。丁寧な言葉の端々に、「自分とは住む世界が違う」という、無意識の選民意識が透けて見えた。
「ですが、今のままでは、あなたがこのチームで居場所を見つけるのは難しいでしょうね。僕がここにいる限り、ストライカーの枠が空くことはありませんから。Leonさんに『論理』を叩き込まれて、あなたのその不安定な『嗅覚』が死んでしまった時、果たして何が残るのか……少しだけ、興味はありますが」
16歳の少年の放った言葉は、祐介の胸に冷たく突き刺さった。
自分よりも遥かに若く、しかし遥かに「完成」された存在。
本来の祐介なら、「勝手に言ってろ」と切り捨てる場面だ。
だが、今さっき見たRikuの、あの冷徹なまでの暴力を前に、言葉が一つも出てこなかった。
*
スクリムが終わり、サーバーが解散される。
時刻は深夜1時。
祐介は、力なくマウスから手を離した。
全身の疲労が、泥のように押し寄せてくる。
「……はぁ。やってらんねえよ、マジで」
彼はそのままベッドにダイブし、着替えもせずに毛布に包まった。
あんなバケモノみたいな16歳がいる世界。
プロ2部にすら勝てない本メンバー。
自分に課された、意味不明な発声練習。
全部、投げ出してしまえば楽になれる。
明日もまた学校だ。
購買のパンを食べて、適当に授業をサボって、友達と笑い合う。
それでいい。それがいい。
……はずなのに。
目を閉じると、暗闇の中に残像が浮かぶ。
Rikuの放った完璧な射撃音。
Leonの、すべてを見透かしたような指示。
そして、自分が放った、あの情報の咆哮。
(……喋りながら撃つ、か)
無意識に、右手の指が動く。
AETHER製のマウスの感触を思い出しながら、虚空でクリックのシミュレーションを繰り返す。
自分が今、どこにいて。
何をしようとしていて。
誰に助けてほしいのか。
それを伝えることができたなら、あのV2の完璧な組織を、もっとボロボロに引き裂けるのではないか。
「……バカバカしい。寝よ」
自分にそう言い聞かせ、彼は眠りに落ちた。
自覚はない。
プロ意識なんて、欠片もない。
ただ、翌朝。
いつも通りに目が覚めて、いつも通りに鏡の前の自分を見て、いつも通りに「面倒くせえ」と呟いた祐介の喉は。
昨夜の過酷な練習のせいで、ほんの少しだけ、低く、しゃがれていた。
2035年、10月25日。
泥を啜り始めた天才の日常は、まだ、目に見える変化を起こしてはいない。
しかし、彼の心臓は、昨日よりもほんの少しだけ、熱い。




