第3話:境界線を越える者
2035年、10月22日、21時47分。
マップ『Caelum』、第23ラウンド。
スコア10対12。マッチポイントを握るプロ2部チーム『Ignis Esports』に対し、アマチュアチーム『Blue Comet』は、静まり返るボイスチャットの中で最後の賭けに出ようとしていた。
黒川祐介は、手元のショップメニューを無言で操作した。
通常、この最終局面で選ぶべきは、遠距離でも一撃で敵を葬り去れる高級アサルトライフルだ。だが、彼が購入したのは、短射程のセミオートショットガン『Cocytus』だった。
「Kurosuke……正気か?」
ヴァンガードのKaiが、震える声で尋ねた。
「このエリア、そんな武器じゃ守りきれないぞ。相手はプロだ。必ずアビリティで角を潰してくる」
祐介は応えない。
彼には「見えて」いた。
Ignis Esportsは、この10ラウンドの間、一貫して合理的な攻めを遂行してきた。彼らの情報の起点となるのは、開幕と同時に放たれる「ヴァンガードの索敵ドローン」だ。そのドローンは、防衛側のメイン通路を舐めるように進み、敵の位置を暴き、後続のストライカーが安全に突入するための道を切り拓く。
そのドローンには、一つだけ「死角」がある。
通路の入り口、頭上数メートルにある小さな装飾用の梁。
そこは、通常のキャラクター制御では登れない場所だ。しかし、この『Project: Aigis』には、移動アビリティを極限まで精密に制御すれば、コンマ数秒だけ滞空できる「仕様」が存在する。
「Leonさん、合わせてください」
「……あそこか。いいだろう、全力で合わせる」
Leonは祐介の意図を瞬時に理解した。彼は元プロとして、その「あり得ない」ポジションの存在を知っていた。だが、実戦でそれを使おうとする人間には、かつて一度も出会ったことがなかった。
試合開始のブザーが鳴る。
Ignisのヴァンガードが、昨日から100回は繰り返したであろうルーティンとして、索敵ドローンを放った。
ウィーンという無機質な駆動音。ドローンが通路を直進する。
その瞬間、祐介は動いた。
移動アビリティを一点に集中させ、自身の体を重力から解き放つ。
ドローンが自分の真下を通り過ぎる、そのわずか数センチ上。
視界の端を、無機質なカメラが通り抜けていく。
ドローンの操作画面に映るのは、誰もいない静かな通路。Ignisの通信には「メイン、クリア」という確信に満ちた報告が流れたはずだ。
「――来た」
ドローンの後ろから、二人一組でエントリーしてくるストライカーたちの足音が響く。
彼らは完璧な射線管理で角をチェックしながら入ってくる。だが、彼らの銃口はすべて「地上」に向いていた。
祐介は、梁の上から死神のように舞い降りた。
着地と同時に、『Cocytus』の銃身が火を噴く。
ドン、ドン、ドン――!
近距離でのショットガンの暴力が、プロの精密なアーマーを紙屑のように引き裂いた。
一人、二人。
一瞬で前線を喪失したIgnisのメンバーに、動揺が走る。
「上だ! 上にいたぞ!」
叫び声が聞こえるようだった。だが、祐介の「野生」は止まらない。
彼は倒した敵の武器を拾い上げる間も惜しみ、さらに前へ出た。
プロが「ここまでは来ない」と断定しているラインを、さらに数メートル踏み越える。
死角からの追撃。
Leonたちの援護射撃が絶妙なタイミングで Ignisの残存兵力をサイト外へと押し出す。
第23ラウンド、終了。
スコア11対12。
「……耐えた! あと一回、あと一回で追いつけるぞ!」
Shoが、これまでの疲労を吹き飛ばすような咆哮を上げた。
「次取ればオーバータイム(延長戦)だ! 全員、集中切らすな! 最後まで食らいつくぞ!」
Kaiの声も熱を帯びる。10ラウンドまで積み上げてきた泥臭い戦いが、祐介の「あり得ない一撃」によって、ついにプロの喉元を捉えようとしていた。
だが、祐介だけは、冷え切った汗を感じていた。
今、倒した敵の最後の一人――Ignisのリーダーのキャラクターが死ぬ間際、自分の位置を正確に捉え、一発の弾丸を自分のヘルメットに掠めさせていたからだ。
彼らは、もう「慣れて」いる。
*
運命の第24ラウンド。
祐介は、再び同じような奇襲を仕掛けようとした。
しかし、Ignisの動きは、前のラウンドとは全く別物になっていた。
彼らはドローンを飛ばさなかった。
代わりに、開幕と同時に四つの異なるアビリティを通路の「天井」と「物陰」に同時に投げ込んだ。
逃げ場のない爆炎と閃光。
「ぐっ……!」
祐介の『AETHER』製マウスが虚しく空を切る。
そこにいたのは、もう油断したプロではなかった。
一度見せられたイレギュラーを瞬時にデータベースに取り込み、それを抹殺するための「最適解」を共有した、完成された組織だった。
祐介が落とされた後のBlue Cometは、もはや抵抗の術を持たなかった。
Leonが必死にカバーに回るが、人数有利を得たIgnisの猛攻は、ダムが決壊するようにサイトを飲み込んでいった。
11対13。
試合終了のログが虚しく流れる。
静まり返るボイスチャット。
負けた。
あの一撃で流れを変えたはずなのに、結局は「組織の力」に押し潰された。
祐介は、デバイスを握る手の震えを抑えられなかった。悔しい、という感情を自覚したのは、人生でこれが初めてかもしれない。
その時、『Aether Link』の全体チャットにメッセージが飛んできた。
送り主は、Ignis Esportsのリーダー、ハンドルネーム『Ignite』。
『対戦ありがとうございました。Blue Cometの皆さん、特にKurosukeさん。驚きました。V2のスクリムで、まさかあんな位置からショットガンを食らうとは思っていなかった』
意外な言葉だった。
プロからの、直接の言及。
『正直、チームとしての動きはバラバラで、見ていて危うい部分も多かったです。Kurosukeさんのプレイも、チームの構図を壊している場面が多々あった。でも――あのスコア、そしてあの「嗅覚」。ランクマッチで噂になっているだけのことはある』
Igniteの言葉には、プロとしての矜持と、未知の才能への訝しみが混じっていた。
彼らにとって、祐介のプレイは「非効率」で「不快」なものだ。だが、同時に「無視できない脅威」として、彼らの脳裏に刻まれた。
Ignisのメンバーが退出した後、Leonが重い口を開いた。
「皆、お疲れ様。結果は負けだ。だが、V2相手にここまで戦えたのは収穫だ」
Leonは、一人一人のプレイに簡潔なフィードバックを与えていく。Shoの突っ込みすぎ、Kaiのアビリティの精度の低さ、Rinの報告の遅れ。それらは、祐介が感じていた「チームの粗さ」そのものだった。
そして最後に、Leonは祐介を指名した。
「Kurosuke。君のあのショットガンは、俺の予想を超えていた。あれは、かつて僕が見てきたどのプロにもできない、君だけの武器だ」
祐介は、ディスプレイを見つめたまま何も言わない。
「だが、君はまだ、このゲームを一人でやっている。君が突っ込んだ時、後ろのShoたちがどれだけ困惑し、ラインが崩れていたか分かっているか? 組織を破壊するのは敵だけでいい。味方の組織まで破壊してしまえば、結局は最後に押し潰される」
Leonの言葉は、鋭いメスのように祐介の「傲慢」を切り裂いた。
自分は、ただランクマッチの延長戦をしていただけだ。
Leonがどれだけ必死に自分のために「檻」を作り、情報を整理してくれていたのか。それを理解せず、ただ自分の野生に身を任せていただけだった。
「……すみませんでした」
初めて、祐介の口から素直な謝罪が出た。
要領だけで生きてきた彼が、自分の限界を、そして「他人の存在」の重さを認めた瞬間だった。
「謝る必要はない。それを教えるのが俺の仕事だ」
Leonの声が、少しだけ和らいだ。
「Kurosuke。単刀直入に言う。Blue Cometに、正式に加わらないか」
その言葉に、ボイスチャットにいた全員が息を呑んだ。
「……スタンドインとしてじゃない。6人目のメンバーとしてだ。まだプロではないが、俺はこのチームを、本気でV2、そしてその先のV1へ引き上げるつもりだ。君のその『野生』に、俺が持っているすべての『経験』と『論理』を注ぎ込みたい」
Leonの言葉には、抗いがたい魔力が宿っていた。
今まで、学校の先生や親から言われてきた「期待」とは違う。
それは、一人の戦士が、別の戦士の才能を認め、共に地獄へ行こうと誘っているような、不吉で、それでいて、震えるほど魅力的な誘い。
祐介は、窓の外を見た。
深夜の街は静まり返っている。
明日になれば、また無気力な高校生活が始まるだろう。実家の店を手伝い、適当に勉強をし、空虚な未来へと滑り込んでいく。
だが、今、このヘッドセットから流れてくる声の先には――。
さっき味わった、あの心臓が焼けるような悔しさの先には、もっと別の何かが待っている。
「……俺は、まだ何もできませんよ。チームのことなんて、何も分からないし」
祐介は、自分でも驚くほど、熱を帯びた声で言った。
「教えてくれるんですか。プロの、本当の『戦い方』を」
Leonは、力強く、そして穏やかに答えた。
「ああ。地獄を見せてやるよ。ようこそ、Blue Cometへ」
2035年、初霜の季節。
ただの暇つぶしだった『Project: Aigis』が、一人の少年の「人生」へと牙を剥いた。
黒川祐介。
後に世界を震撼させる最強のIGLの物語は、この小さな、しかし確実な一歩から始まった。




