第20話:去りゆく星、新生の産声
2035年、11月29日。
横浜のスタジアムを包んでいたあの狂熱的な光は、一夜明けて冬の淡い曇り空に溶け、跡形もなく消えていた。
黒川祐介は、いつものように早朝の冷気の中で目を覚まし、ストレッチを行い、父・良一の引いた出汁の香りに包まれながら朝食を済ませた。スタジアムで「答え」を見つけたあの日から、彼の日常には一つの淀みもなかった。
だが、学校へ向かう電車の中、ふとスマートフォンの画面を眺めた瞬間、言いようのない空虚さが胸を突く。
『AETHER Nexus Open』、終幕。
公式SNSには優勝したFenrirの勇姿と、準優勝のNight Raidが涙を呑む映像が溢れている。ほんの数日前まで、自分たちもその熱狂の「当事者」になり得たのだという事実は、今や遠い過去の神話のようにすら感じられた。
「……終わったんだな、本当に」
独り言が、窓ガラスに白く滲む。
学校での日常は、昨日までと変わらず退屈で、しかしどこか優しかった。予選で負けた自分を誰も責めないし、そもそも自分がその「Kurosuke」であることを誰も知らない。
しかし、その「誰も知らない」という事実こそが、今の祐介には何よりも痛烈な疎外感として響いていた。自分は、あの光の舞台に一度触れてしまった。もはや、この平穏な教室に安住できる「要領のいい少年」には戻れない。
放課後、祐介は寄り道もせず真っ直ぐ帰宅し、自分の「戦場」であるデスクの前に座った。
三週間の活動停止、解除。
Leonとの約束の日。
彼は深く息を吐き出し、慣れ親しんだ『Aether Link』を起動した。
*
仮想空間上のBlue Cometの専用ルーム。
そこには、既にメンバーたちが集まっていた。
「おー、祐介。久しぶり。……なんかお前、少し絞ったか?」
最初に声をかけてきたのはShoだった。画面越しでも、彼の瞳に以前のような迷いがないことが見て取れる。
「……わかるか。少し、下ごしらえをしてきたんだ」
祐介が答えると、KaiとRinも「お疲れ」と短く挨拶を交わす。
三週間ぶりの再会。本来なら、ここから再起に向けて熱い議論が交わされるはずだった。だが、ルーム内を支配しているのは、期待よりも重い「沈黙」だった。
祐介は、メンバーリストを二度、三度と見直した。
――居ない。
Blue Cometの絶対的エース。論理の体現者。
あの地獄のような接戦を共に駆け抜けたRikuのアイコンが、そこにはなかった。
「……Leonさん。Rikuは、どうしたんですか。あいつ、寝坊するような奴じゃないでしょ」
祐介の問いに、ルームの最上段に位置するLeonのアイコンが、ゆっくりと明滅した。
「――全員、揃ったな。……いや、違うな。これが今の、Blue Cometの全員だ」
Leonの声は、いつになく重かった。
「祐介。お前がスタジアムで『答え』を見つけている間、このチームには一つの転機が訪れていた。……結論から言う。Rikuは、Blue Cometを脱退した」
耳を疑った。
祐介だけでなく、ShoやKai、Rinからも、押し殺したような息を呑む音が聞こえてくる。
「脱退……? なんでだよ。あいつ、スタジアムへ行くって、俺と一緒にあそこを歩くって言ったじゃねえか!」
祐介の声が、仮想空間を激しく揺さぶる。
「V1リーグのチームから、正式なオファーが届いたんだ。……『Gleam Valkyries』。お前たちも聞いたことがあるだろう。毎年、確実にベスト8からベスト4には食い込む、極めて安定したプロチームだ」
その名を聞き、祐介の思考が一瞬止まった。
Gleam Valkyries。ベテランの安定感と堅実な戦術で知られる「プロの代名詞」のようなチームだ。そんな保守的なチームが、公式大会の実績すらない、アマチュアの超若手であるRikuを引き抜く。それが何を意味するか。
「……ギャンブルだな」
祐介は呻くように言った。
「あいつら、安定を捨てて、Rikuという『論理の暴力』を組み込むことで、Fenrirを倒すための『変革』を選んだのか」
「その通りだ。……Rikuは、最初、迷っていた」
Leonが静かに語り始めた。
「Riku本人から、俺宛てに相談があった。あいつは……自分でも驚くほど、このチームに執着していたよ。自分を引き上げてくれたBlue Cometを、特に俺を置いていくことに、強い罪悪感を感じていた」
Leonのアイコンが、少しだけ優しく光った。
「それに、あいつは自分に問い続けていた。……『自分の論理は、V1の化け物たちに通用するのか』と。……傲慢な天才に見えて、あいつは誰よりも臆病で、誰よりも誠実に、自分の実力を疑っていたんだ」
「……Leonさんは、なんて答えたんですか」
「――『行け』とな」
Leonの断言に、祐介の胸が締め付けられる。
「プロの扉が目の前で開いたなら、迷わず飛び込め。ここでお前が妥協すれば、お前が積み上げてきた論理は、ただの『身内を満足させるための慰め』に成り下がる。……そう言って、俺があいつを追い出したんだ。あいつの意志を、俺がプロの世界へと、力尽くで蹴り飛ばした」
Leonという男の「厳しさ」と「愛」の正体を、祐介は初めて理解した。
Leonは、自分の手で育て上げた最高の教え子を、自分たちの夢のために囲い込むことをしなかった。
教え子の未来のために、自らのチームの核を、あえて欠落させたのだ。
「……勝手ですよ、本当に」
Shoが、泣きそうな声で吐き捨てた。
「エースがいなくなって……俺たち、どうやって戦えばいいんだよ。V2リーグのプロ共を相手に、あいつ抜きで勝てるわけねえだろ……」
その通りだ。Blue Cometの戦術は、Rikuという絶対的な「解」を前提に構築されていた。彼がいない今のチームは、翼を失った飛行機のようなものだった。
「――だからこそだ。Kurosuke、お前に命じる」
Leonの声が、祐介の心臓を直接掴んだ。
「……Blue Comet。……そのIGLを、お前に任せる」
静寂が訪れた。
これまでのBlue Cometは、LeonがDirectorとして戦局を管理し、Rikuが現場で論理を指揮していた。練習生に過ぎなかった祐介が、全権を握る司令塔になる。それは、このチームの構造そのものを根底から覆す決定だった。
「俺が……リーダー……?」
「そうだ。Rikuという論理の柱が消えた今、このチームに必要なのは、整合性のある『正解』じゃない。……相手が死ぬほど嫌がる『混沌』であり、常識を破壊する『野生』だ。……お前の目に映る戦場を、そのままチームの意志にしろ」
祐介は、自分の右手のひらを見つめた。
三週間、板場で研ぎ、市場で見極めた。自分なりに「プロの覚悟」というものを掴んだつもりだった。だが、今、自分の肩に乗せられた重圧は、それらすべてを過去のものにするほど、巨大で、重いものだった。
エースがいないチームを背負う。
Rikuという、自分よりも遥か先を走っていた怪物が、もう隣にはいない。
猛烈な悔しさが、遅れてやってきた。
置いていかれた。あいつは、俺を待たずに、一足先に「本物」の世界へ行ってしまった。
だが、その悔しさは、すぐさま熱い怒りと、それ以上の「高揚」へと変わった。
「……いいですよ。やってやりますよ」
祐介の声が、ルーム内に低く、鋭く響いた。
「あいつが、このチームを抜けたことを後悔するくらいにね。……エースがいないなら、俺がチーム全体を『凶器』に変えてやる。……Leonさん、俺はもう、ただのジョーカーじゃない。このチームの、王になる準備はできてます」
「……いい目だ」
Leonが、短く笑った。
「……最後に。あいつから、Blue Cometへの、そしてお前へのメッセージを預かっている」
Leonが、一つの音声ファイルを再生した。
スピーカーから流れてきたのは、聞き慣れた、少し澄ました、冷徹な少年の声だった。
『――Leonさん。そしてBlue Cometの皆さん。自分勝手な決断をしてしまったこと、謝罪はしません。ここで謝れば、皆さんと戦ったあの予選の熱を、自分自身で汚すことになるからです。自分は、最も高い場所へ行きます。それが、自分自身の論理を証明する唯一の方法だから』
ノイズの向こうで、Rikuが一度、短く息を吸う音が聞こえた。
『……Kurosukeさん。
あなたがいつか言いましたね。自分の論理はバレている、と。
……認めましょう。あなたの言う通り、自分はまだ、あなたの不気味な野生がなければ、世界の壁を越えられない。
ですが、自分はあえて、あなたのいない場所で、その野生を凌駕する絶対的な論理を構築してみせます。
……次に会うときは、戦場ですね。
自分に、V1の席を譲れと言わせるくらいのプレイを、期待していますよ。
……さようなら、僕の、たった一人の不快な相棒』
音声が、切れた。
祐介は、自室の椅子に背中を預け、天井を仰いだ。
視界が、少しだけ熱い。
不快な相棒、か。あいつらしい、最悪で最高の別れの言葉だった。
「……聞いたかよ、あいつ。相変わらず、ムカつく物言いだな」
祐介が吐き出すように笑うと、Shoが、Kaiが、Rinが、順番に笑い声を上げた。
その笑い声は、敗北の澱を、そしてエースを失った不安を、一気に吹き飛ばしていく。
「……行くぞ、お前ら」
祐介は、マウスを握り、自分の「武器」であるデバイスと深く同期した。
「プロ2部(V2)なんて、ただの通過点だ。……Rikuを、そしてあのFenrirを、下から全部引きずり下ろしてやる。……下ごしらえは、もう終わった。ここからは、本物の『料理』の時間だ」
2035年、11月29日。
Blue Cometは、絶対的な星を失った。
だが、その欠落こそが、一人の少年の「野生」を、チームを導く「意志」へと変貌させた。
冬の夜空。
遠ざかる彗星の尾の先に、新たな物語の産声が、激しく、鋭く響き渡っていた。




