第2話:情報の咆哮
2035年、10月。
放課後の喧騒に包まれた県立高校の教室で、黒川祐介は窓際の席に座り、タブレット端末を眺めていた。
画面に映し出されているのは、昨夜の敗北直後に行われた『Fenrir』の公式インタビュー映像だ。
「……今回、世界との差を最も感じた部分はどこでしょうか」
記者の問いかけに対し、画面の中のTakeruは、泥を啜ったような顔で沈黙していた。エースとして孤軍奮闘し、唯一世界と渡り合った男の瞳には、ハイライトが消えている。
数秒の静寂の後、彼は掠れた声で答えた。
「……技術の差ではありません。僕たちは、撃ち合う前から負けていました。相手のシステムに、その圧倒的な『勝つという意志』の強さに、全員が縮こまってしまった」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、背後の席でクラスメイトたちが騒ぎ出す。
「見た? 今朝のニュース。Fenrir、ボコボコだったよな」
「Takeru可哀想。あとの4人はマジで何やってんのって感じ」
「やっぱ日本人にFPSは向いてないんだよ。才能の壁ってやつ?」
祐介は彼らの声をBGMに、手元の問題集を流れるような動作で解き進めていた。
成績は学年トップクラス。だが、彼にとって勉強は「努力」ではなく、単なる「効率的な情報の処理」に過ぎない。ゲームも、勉強も、家業の割烹料理屋の手伝いも、すべては淡々とこなすべきタスクだった。
(……才能の壁ね)
祐介は内心で毒づく。
彼らにはわからないのだ。才能の問題ではない。画面の中の選手たちが感じていたのは、論理という暴力に殴られ、思考を奪われる恐怖だ。それを「才能」の一言で片付ける周囲の冷笑に、祐介は微かな不快感を覚えた。
*
放課後のバイトを終え、実家の『黒川』で夕食の仕込みを少しだけ手伝う。
「祐介、明日の朝は早いぞ。進路希望、まだ出してないんだって?」
父親の言葉を適当に受け流しながら、自室へ戻る。時刻は20時50分。
祐介は昨日と同じように『AETHER』製のヘッドセットを装着した。
彼はAETHER社が提供する統合通信ツール『Aether Link』を起動した。
入室したのは「Blue Comet - Scrim Area」。そこには、学校の教室とは対極にある、鋭利な緊張感が満ちていた。
「――今のリテイク、Shoのタイミングがコンマ5秒早い。相手のスキルが切れるのを待てって言っただろ。それじゃただの犬死にだ」
「……すみません」
「謝らなくていい。修正しろ。次は来るぞ、Kurosukeが入る」
Leonの声が鼓膜を叩く。
祐介が「こんばんは、Kurosukeです」と短く声を投げると、チャンネル内の空気がわずかに動いた。
「来たか。待っていたよ、Kurosuke。ディレクター兼リーダーのLeonだ。今日は急な誘いに応じてくれて助かる」
「いえ」
「他のメンバーを紹介しておこう。ストライカーのSho、ヴァンガードのKai、ガーディアンのRinだ。皆、君と同じ10代だが、このチームで本気でプロを目指している」
ストライカー、ヴァンガード、ガーディアン。
チームの槍となり、情報の起点となり、守りを固める盾となる。そして、それらを導くディレクター。
ランクマッチでは適当にこなしていたそれぞれの役割が、ここでは「生命線」として機能していることを、祐介はまだ知らない。
「今日の相手は『Ignis Esports』。国内プロリーグ2部(V2)の中堅チームだ」
V2。プロとして給料をもらい、勝利を義務付けられた集団。
戦いの舞台に選ばれたのは、デフォルトマップ『Caelum』。
中央に開けた広場があり、左右に二つのサイトが配置された、タクティカルFPSにおいて最も標準的とされる構造を持つ。この場所は、ごまかしが効かない。射線管理とアビリティの合わせ、そして何より「情報の処理速度」が勝敗を分ける。
試合開始のブザーが鳴った瞬間、祐介の耳は「音の洪水」にさらされた。
「Aメイン、ドローン回す。Sho合わせて」
「中央、足音二人。ガーディアンのアビリティ設置完了」
「ミッド、モク抜かれた。ダメージ30。一回引く」
「B裏、ラークの気配。Kurosuke、そこ見ておけるか?」
ランクマッチとは、情報の密度が根本から違っていた。
野良の試合では、せいぜい「Aに来ている」程度の断片的な情報しか流れない。しかし、ここでは自分たちが何を見て、何を考え、次の瞬間に何をしようとしているか、そのすべてが言語化され、弾丸のように飛び交う。
「……っ」
祐介は、その咆哮のような情報の渦に、一瞬だけ意識が眩んだ。
自分のキャラクターを動かすこと以上に、他人の情報を脳内で処理し、地図上に展開する作業がこれほどまでに疲弊するものだとは知らなかった。
だが、その混沌とした空気の中で、Leonの声だけが不自然なほど静かに、そして的確に響いていた。
「Kai、今の索敵は良い。だがShoのカバーが遅れている。Rin、逆サイトの情報を落とすな。Kurosuke……いい位置だ。そのまま待て」
Leon自身のプレイは、決して派手ではない。撃ち合いの強さも、祐介から見れば「普通」だ。しかし、彼はチームの崩れかけたピースを、言葉ひとつで繋ぎ止めていた。
それは、圧倒的な才能がない代わりに、数え切れないほどの敗北と反省を積み重ねてきた者にしかできない、執念の「調整」だった。
第1ラウンド。ピストル戦。
敵である『Ignis Esports』の動きは、恐ろしいほどに無機質だった。
彼らは、一人で動かない。
祐介が角で待ち構えていれば、必ずその前に索敵アビリティが飛んでくる。アビリティを壊そうと身を乗り出せば、二つの射線が同時に自分を貫く。
彼らは自分たちが勝てる確率が最も高い「形」を作り上げ、それを機械的に遂行してくる。
「B、セット来るぞ! 全員合わせろ!」
Shoの叫びとともに、Bサイトに激震が走った。
スモークが視界を遮り、フラッシュの光が網膜を焼く。アビリティの連鎖によって、防衛側の自由は一瞬で奪われた。
Leonの声が響く。
「引け、Sho。Rinはリテイクの準備。Kurosuke、君はまだそこだ。裏を突くタイミングは、俺が合図する。今は耐えろ」
祐介は、心臓の鼓動が早まるのを感じた。
今、撃ちに行けば一人か二人は倒せるかもしれない。だが、それでは「形」に負ける。サイトを一度明け渡し、全員でタイミングを合わせて奪還するプロの定石。
「――今だ、行け!」
Leonの合図と同時に、Blue Cometの4人が一斉にサイトへなだれ込んだ。
祐介もまた、裏ルートから音もなく加速する。
敵の5人が、正面からのリテイクに意識を集中させ、ほんのわずかに背後の意識が薄れた「空白の瞬間」を。
祐介のマウスが、氷の上を滑るように動いた。
一人、二人。
背後から完璧なヘッドショットを叩き込む。
しかし、三人目を仕留めようとした瞬間、祐介の視界が真っ白に染まった。
「な……っ」
敵のカバーだ。
倒された仲間の情報を瞬時に処理したIgnisの残りのメンバーが、祐介が顔を出すであろう位置に、予備のアビリティを残していたのだ。
完璧な対応。個の嗅覚を、組織の論理が上書きする。
「Kurosuke、そのまま右に避けろ! Kai、フラッシュ入れろ!」
Leonの絶妙なバックアップが入り、祐介は辛うじて命を拾った。
結局、そのラウンドはBlue Cometが辛勝した。だが、祐介の中に残ったのは勝利の味ではなく、底知れない恐怖だった。
これが、プロの世界か。
自分が「暇つぶし」で培ってきた野生の感覚が、組織という巨大な歯車に粉砕されそうになる感覚。
試合中盤、スコアは7対5。
祐介は、自分の意識が変容していくのを感じていた。
次第にLeonの指示が「道標」に見え始めていた。
Leonが埋めているチームの「粗さ」。Leonはそれらをすべて自分のプレイで補完し、祐介が最大限に暴れられるための「檻」を作ってくれている。
「……Leonさん」
「どうした、Kurosuke。集中を切らすな」
「いや。あんた、すごすぎるだろ」
思わず漏れた言葉。
ランクマッチで100回「Wipe Out」を取るよりも、この「崩れそうなチーム」をプロの2部と対等に戦わせているLeonの手腕の方が、祐介には理解不能な超絶技巧に思えた。
「俺はただの元プロだ。才能の限界を知り、戦場を去った人間だよ。だがな、Kurosuke。才能がある奴らが、才能だけで負けていくのを、僕はもう見たくないんだ」
Leonの声に、一瞬だけ熱が宿った。
それは、昨夜のFenrirの敗北を見て、祐介が感じた正体不明の不快感と同じ色をしていた。
*
後半戦。Ignis Esportsが本気を出してきた。
彼らは祐介の「嗅覚」による裏取りを、徹底的に対策し始めた。
Blue Cometのアマチュアとしての脆さが、次々と露呈していく。連携のズレ、報告の遅れ。Leon一人の調整能力では、もう追いつかない。
スコアは10対12。一度はリードしたポイント差も完璧に覆され、マッチポイントを握られた。
Blue Cometのメンバーのボイスチャットには、焦りと絶望が混じり始めていた。
「……ダメだ、勝てない。あいつら、ミスをしない」
「撃ち合っても勝てる気がしないよ……」
萎縮。
昨日見た、あの光景が再現されようとしていた。
日本中が「才能がないから勝てない」と諦めた、あの冷え切った空気。
その時、祐介の手が、激しく震えた。
怒りでも、恐怖でもない。
ただ、このまま「終わる」ことへの、猛烈な拒絶反応。
「……Leonさん。一つ、勝手なことしていいですか」
「何をする気だ?」
「形とか、メタとか、全部無視します。相手が『絶対にやってこない』と思っている一番馬鹿なことをやる」
Leonは、一瞬の沈黙の後、短く笑った。
「……やってみろ。責任は俺持つ」
祐介は、デバイスの感度を再確認した。
AETHER製のマウスが、呼応するように熱を帯びる。
彼は、武器を最強のライフルから、近距離特化の安価なショットガンに持ち替えた。
プロの定石では、この状況で持つべき武器ではない。
だが、だからこそ――。
「行こう。行儀の良い振りは、もうやめだ」
祐介は、情報の咆哮を自ら断ち切った。
Leonの指示すらも背景音に追いやり、研ぎ澄まされた「野生」だけを、戦場の最深部へと解き放つ。
2035年の深夜。
アマチュアとプロ。
才能と論理。
その境界線が、一人の少年の奔放な一撃によって、今、鮮烈に引き裂かれようとしていた。




