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Project: Aigis  作者: 遅めの果物
『AETHER Nexus Open』編
19/20

第19話:アリーナの残光

 2035年、11月28日。横浜。

 海風が冷たく吹き抜けるみなとみらいの景色は、今日、一変していた。

 巨大な帆のようにそびえ立つ**『AETHERアリーナ』**。その周辺には、オンライン予選を勝ち抜き、地獄のトーナメントを潜り抜けてきた選ばれし者たちの激突をその目で見ようと、八万人の観衆が詰めかけていた。


 黒川祐介は、防寒着の襟を立て、人の波に身を任せていた。

 駅を出た瞬間から、空気が違った。街中のデジタルサイネージというサイネージが、今日という日の「決着」を映し出している。画面越しに見ていた80万人の熱狂が、ここでは数万人の「体温」と「地響き」を伴う物理的な質量となって、祐介の皮膚をピリピリと刺した。


 Leonから渡されたデジタルチケット。それをゲートでかざした瞬間、祐介は境界線を越えた。

 そこは、かつて彼が「要領よく」生きていた世界とは、完全に断絶された異界だった。


 アリーナ内部は、最新のVR同期システムと3Dホログラムによって、中央のステージが戦場そのものへと変貌していた。AETHER社が誇る統合観戦ツール**『Aether Link: Stadium Edition』**。観客のリストバンドには触覚フィードバックが内蔵され、選手の放つ弾丸の風切り音、アビリティが炸裂する衝撃が、リアルタイムで観客の肉体を揺さぶる。


(……これが、本物の舞台か)


 祐介は、Leonが用意した一階席の中央に腰を下ろした。

 周囲は興奮に沸き立つファンで埋め尽くされている。応援するチームのタオルを振り、期待に目を輝かせる人々。祐介は一人だったが、そこに疎外感はなかった。むしろ、この巨大な熱気の一部として埋没していく感覚が、心地よかった。


 隣の観客が叫んでいる。前方の少年たちが、選手のスタッツを熱心に議論している。

 そのすべてが、祐介を加速させた。彼が見つめるのは、目の前の巨大なステージではない。

 そのさらに深淵にある、「プロ」と呼ばれる者たちの真実だった。


          *


 決勝戦。対戦カードは、絶対王者**『Fenrirフェンリル』対、今大会最大のダークホース『Nightナイト Raidレイド』**。


 Night Raidは、韓国人プレイヤー2人と日本人プレイヤー3人で構成された、今シーズン最強の多国籍チームだ。韓国勢特有の「軍隊レベル」と称される冷徹な規律・連携と、日本勢の得意とする「阿吽の呼吸」による精密なサポートが融合している。

 彼らは本選で、祐介たちを叩き潰した『Ignis Esports』を、文字通り「格の違い」を見せつけて撃破した。組織としての完成度において、彼らは間違いなく国内最高峰だった。


 だが。

 試合開始のブザーが鳴り響いた瞬間、アリーナを支配したのは、期待を裏切る「蹂躙」だった。


「――っ、何だ、今の……!?」


 祐介の隣に座っていた観客が、絶句した。

 第1マップ『Solstice』。Night Raidは、Ignisを沈めたあの完璧な「セット」を披露した。ヴァンガードの索敵に合わせ、三方向から同時に射線を通し、相手に反撃の隙を与えない。論理に基づいた、非の打ち所がない攻め。


 しかし、Fenrirはそのすべてを「予見」していたかのように、Night Raidが足を踏み出す寸前に、その急所を正確に撃ち抜いた。


 Fenrirのストライカーが、中央のタワーから文字通り「降臨」する。

 Takeruが去った後、彼らには絶対的なスターはいないと言われていた。だが、そこにいたのは「怪物」の群れだった。

 一人ひとりの個の強さが、Night Raidの精密な連携を力尽くで引きちぎっていく。それも、単なるエイムの暴力ではない。


 Night Raidが韓国仕込みの完璧な「正解」を選択したその瞬間、Fenrirはその正解の裏側にある、物理的に不可能なはずの「穴」を突いてくる。


 13対0。


 第1マップは、プロの決勝戦としてはあり得ない、完全なる無失点試合パーフェクトゲームで幕を閉じた。

 会場の八万人が、一瞬の静寂のあと、悲鳴にも似た歓声を上げた。

 祐介は、握りしめた拳が白くなっていることに気づいた。


(Ignisを倒したあいつらが……赤子扱いされてる……)


 オンライン予選の第3マップ、自分がRikuと組んでようやく14対16まで追い詰めた、あのIgnis。そのIgnisを圧倒したNight Raidが、Fenrirの前では、ただの「動く標的」に成り下がっていた。


          *


 第2マップ『Canal』。Night Raidは死に物狂いで食らいついた。

 彼らは一試合の中で修正を試みた。韓国人プレイヤーの圧倒的なフィジカルを前面に出し、日本勢がそれを狂気的なまでの精度でバックアップする。

 ようやく取った1ラウンド。会場が揺れるほどの歓声が上がる。


 だが、Fenrirは動じなかった。

 ホログラムに表示されるFenrirのコーチ陣のデータログが、その強さの正体を雄弁に語っていた。

 Fenrirは、この試合のために、Night Raidの過去500試合のプレイ動画、全選手のエイムの癖、心拍数の変動パターンに至るまで、莫大な資金力で雇った専属アナリスト軍団に解析させていた。


 彼らが強気に出るタイミング。

 彼らが「守り」に入り、視線がコンマ数ミリ下がる瞬間。

 そのすべてが、Fenrirという巨大な演算機構によって解体され、選手たちのデバイスへとフィードバックされていた。


「――これは、ゲームじゃないな」


 祐介は、熱狂の中に埋没しながら、冷徹にその本質を見つめていた。

 ステージ上の五人は、ただのプレイヤーではなかった。背後に控える数十人のコーチ、データサイエンティスト、そして彼らの「意志」を支える莫大なリソース。


 Fenrirの選手たちは、一発の弾丸を撃つために、どれほどの「下準備」を積み上げてきたのか。


 対するNight Raidも素晴らしい。だが、彼らは「戦場」で勝とうとしていた。

 Fenrirは違った。彼らは、戦場に足を踏み入れる前の「日常」の時点で、すでに勝利を確定させていた。


 13対2。

 第2マップもまた、残酷なスコアで幕を閉じた。


 圧倒的な力の差。それは絶望を通り越し、一つの芸術のようでもあった。

 祐介は、会場の爆音の中に身を委ねながら、父・良一の言葉を思い出していた。


『研ぐっていうのは、刃の芯を見極めて、余分な迷いを削ぎ落とす作業だ』

『同じ味を出すために、毎日違うことをしなきゃならん』


 祐介の脳裏で、魚河岸の市場のセリ、板場の包丁の響き、そして今目の前で行われている殺戮が、一本の線で繋がった。


 Leonは問いかけた。「本物のプロが何を懸けて戦っているのか」と。


 祐介は今、その答えを掴みかけていた。


 プロとは、華やかなステージでスーパープレイを見せる者のことではない。

 プロとは、一瞬の「幸運」を「必然」に変えるために、血の滲むような退屈な準備を、無限に繰り返せる者のことだ。


 Fenrirの選手たちが放つ、あの吸い込まれるようなヘッドショット。

 それは「野生」の直感でも、「論理」の積み重ねでもない。

 それは、数万回の練習と、膨大なデータの裏付け、そして「負けるという選択肢を、物理的にこの世から消去する」という、極限まで研ぎ澄まされた**『職人の執念』**だった。


 父・良一が、客に最高の一杯を出すために、早朝の市場で目を血走らせて魚を選び、数時間かけて出汁を引く。その「下ごしらえ」こそが、本番のすべてを決める。


 今のFenrir。彼らの強さは、ステージの上にあるのではない。

 彼らがこれまで過ごしてきた、人知れぬ「暗闇」の中にこそ、その正体がある。


(……俺は、まだ何もしていなかったんだ)


 祐介は、座席の肘掛けを強く握りしめた。

 自分は「野生の嗅覚」に頼り、Leonの「論理」を少し学んだだけで、自分を特別な存在だと思い込んでいた。

 だが、Fenrirという怪物は、自分の「野生」さえもデータとして取り込み、自分の「論理」を物量で叩き潰してくる。


 彼らを超えるためには、自分もまた「職人」にならなければならない。

 要領よく勝つのではない。

 勝つべくして勝つための、圧倒的な「仕込み」を身体に刻み込まなければならない。


          *


 試合は第4マップを待たずして、Fenrirのストレート勝ちで決着した。

 アリーナは、勝者を讃える光の粒子と、割れんばかりの喝采に包まれていた。


 優勝トロフィーを掲げるFenrirのリーダー。その横顔には、喜びというよりも、当然の仕事を終えた後のような、深い安堵と「誇り」があった。


 祐介は、席を立った。

 三週間前、敗北の翌日に感じていた虚無感は、もうどこにもなかった。


 会場を出ると、冬の夜空に横浜のビル群が冷たく輝いていた。

 人の波に逆らって駅へと向かう道中、祐介はスマートフォンを取り出し、Leonへのメッセージを作成した。


To: Leon


答えを見つけました。


プロは、戦場で戦っているんじゃない。

戦場に来るまでの日常で、すでに勝負を終わらせている。


俺の牙は、まだ『下ごしらえ』すら終わっていませんでした。


明日から、また研がせてください。

誰よりも深く、誰よりも鋭く。


 送信ボタンを押した瞬間、心臓の鼓動が一段と強くなった。


 電車の中、窓に映る自分の顔を見る。

 そこには、三週間前のような迷いも、学校での疎外感もなかった。


 自分は、Blue Cometの練習生だ。

 ジョーカーとして、いつかあのFenrirという怪物の喉元を食い破るための「刃」だ。


 横浜のスタジアムの光は、遠ざかるにつれて小さくなっていく。

 だが、祐介の胸の中に灯った火は、アリーナのどの照明よりも激しく、青白く燃え続けていた。


 2035年、11月28日。

 黒川祐介、17歳。

 彼は今、本当の意味で「プロ」という名の地獄の門を叩こうとしていた。

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