第18話:修練の残響
2035年、11月の中旬。横浜で開催される決勝トーナメント本選まで、あと二週間を切った。
黒川祐介の生活は、あの日を境に劇的に一変していた。朝四時、まだ街が深い藍色に沈んでいる時刻。以前の彼なら、深夜までランクマッチに明け暮れ、泥のような眠りに落ちていたであろうその時間に、彼は自室の冷たい床で静かに目を覚ます。
立ち上がり、まず行うのはスマートフォンの電源を入れることではない。窓を全開にし、冬の足音を孕んだ鋭い冷気を肺の奥まで吸い込む。それから、身体の強張りを解くための十五分間の入念なストレッチ。肩甲骨の可動域、手首の柔軟性、そして視線の焦点を合わせるための眼球運動。
要領よく生きることを信条としていた頃の彼は、自分の身体を「画面の中の自分」を操るための単なるコントローラーの延長だと考えていた。しかし、今の彼は違う。
(……身体が鈍れば、判断が濁る。判断が濁れば、野生はただの無謀になる)
Leonに叩き込まれた論理は、ただ頭で理解するものではなく、指先の末端、細胞の一つひとつまで浸透させて初めて武器になる。祐介は三週間の「活動停止」期間を、単なる休息ではなく、自分という刃を研ぎ澄ますための「下ごしらえ」の時間として定義していた。
板場での包丁研ぎから始まったその「研磨」は、いつしか彼の日常生活すべてを侵食し始めていた。睡眠時間は正確に七時間半。食事は父・良一が用意する、内臓に負担をかけず、脳のパフォーマンスを最大化させるための和食。かつて貪るように飲んでいたエナジードリンクは、白湯や冷水へと変わった。
それらのストイックな習慣は、彼から「要領の良さ」という名の余分な脂肪を削ぎ落としていった。鏡に映る自分の瞳は、三週間前よりも鋭く、そして静かだった。
*
ある日の早朝、祐介は良一に連れられ、築地の跡地を受け継いだ巨大な中央魚河岸市場を訪れていた。
広大な場内には、冷たい霧状の蒸気と、独特の磯の香りが立ち込めている。ターレットトラックが縦横無尽に走り抜け、威勢の良い掛け声が飛び交うその場所は、まさに「目利き」たちの戦場だった。
「……遅れるなよ。迷っている暇はないからな」
長靴を履き、慣れた足取りで進む良一の背中は、いつになく大きく見えた。
祐介が最も圧倒されたのは、マグロのセリ場だった。
巨大な冷凍マグロが何百本と並び、その断面を凝視する買い付け人たちの視線は、もはや殺気と言っても過言ではない。
カネの音が鳴り、セリが始まる。祐介には理解できない独特の符号と指の動き。数秒、あるいは数コンマの間に、数百万円という大金が動いていく。
「……見ていろ、祐介」
良一が低い声で言った。
「あいつらは、魚を見ているんじゃない。一瞬の『勝機』を見ているんだ」
セリ人の独特なコールが、ヘッドセットから流れるIGLの号令のように祐介の耳に響く。
ある買い付け人が、迷わず指を突き出した。その瞬間の、周囲の空気が一気に収束する感覚。
迷った者は、その一瞬で置いていかれる。どれほど知識があっても、引き金を引く「意志」の太さが足りなければ、最高の一匹を手にすることはできない。
「あそこには、論理を超えた『意志』があるだろう」
セリが終わり、少し静かになった通路で良一が口を開いた。
「でもな、その意志を支えているのは、セリが始まる数時間前からの『目利き』なんだ」
良一はある一本のマグロの前に立ち、切り取られた尾の断面を指差した。
「良い魚か、そうでないか。素人は色や大きさで決める。だが、プロは脂の乗り、身の締まり、そして『これからどう熟成するか』という情報の断片を繋ぎ合わせて、その魚の『本質』を見抜く。……お前の言うゲームでも同じじゃないのか。何が重要で、何がノイズか。それを選別できなきゃ、ただの博打だ」
祐介は、息を呑んだ。
自分はこれまで、戦場に溢れる情報のすべてを「野生の勘」で処理しようとしていた。あるいは、Leonに教えられた「論理」を、ただのチェックリストとしてなぞっていた。
だが、良一の言う目利きとは違う。
膨大な情報の中から、勝利に直結する「一ピクセルの違和感」だけを抽出し、それ以外のノイズを切り捨てる。その選別が完璧に行われているからこそ、コンマ数秒のセリの瞬間に、迷わず全財産を賭けるような「意志」が生まれるのだ。
「……何を見ないか、を決めること」
「そうだ。全部見ようとする奴は、結局何も見えていないのと同じだ」
良一はそれだけ言うと、馴染みの仲卸の元へと向かった。
祐介は、凍てつく市場の空気の中で、自分のマウスを握る右手の感覚を確かめた。
これまでの自分は、情報の洪水に溺れていた。だが、これからは違う。
研ぎ澄まされた目利き。そして、その裏打ちされた確信から放たれる一撃。
父の背中が語る「職人の極意」が、祐介の中でFPSの戦術論と、音を立てて噛み合っていくのを感じていた。
*
市場から戻り、学校へ行くまでのわずかな時間。祐介は毎朝のルーティンとして、スマートフォンの『Aether Link』を開く。
チームのチャットルームは、Leonの指示通り静まり返っている。だが、ランキングボードという名の「無言の対話」は、二十四時間止まることがなかった。
(……また、上がってるな)
日本サーバーのトップランキング。そこには、『BC_Riku』という名前が、不動の輝きを持って居座っていた。
現在の順位は日本七位。
活動停止期間中、Rikuは文字通り狂ったようにランクマッチに潜り続けているようだった。そのスタッツを見れば、彼が「論理」をさらに研ぎ澄ませ、もはやアマチュアの域を完全に逸脱した怪物へと変貌しつつあるのが分かった。
祐介自身のランキングも、少しずつ上昇していた。現在は日本四十二位。
だが、今の祐介にとって、順位という数字はもはや重要ではなかった。
一試合ごとに、自分の内側で「野生」と「論理」が混ざり合い、結晶化していく感覚。
以前は、敵を倒した後に「なぜ勝てたのか」が分からなかった。あるいは、敗北した後に「どうすれば良かったのか」という後悔だけが残った。
だが、今は違う。
接敵する前、マップ上の微かな音を聞いた瞬間に、敵の心理状態が見える。
相手のスキルの使い方の「澱み」から、そのチームの連携の綻びを嗅ぎ取れる。
そして、引き金を引く瞬間には、すでに「勝利」の確信が身体の中にある。
Rikuが、完璧な「正解」を積み上げることで頂点へ登っているのだとすれば。
祐介は、正解の裏側にある「真実」を直接掴み取るために、深淵へと潜っていた。
二人は会話をしない。だが、順位が更新されるたびに、祐介にはRikuの「待っていますよ」という声が聞こえるような気がした。
*
活動停止期間、最後の日。
祐介は自室のデスクを、かつてないほど入念に清掃していた。
モニターの表面、マウスパッドの繊維、そして愛用しているAETHER製のマウス。
市場で見た良一の包丁と同じように、道具を整えることは、自分の精神を整えることそのものだった。
彼はマウスのソールを指先でなぞった。三週間の修練で、それはごく僅かに、だが確実に「自分の癖」に合わせて馴染んでいる。
設定画面を開く。DPI、感度、キー配置。
三週間前とは、いくつかの数値が異なっている。それは、かつての「要領のいい自分」を捨て、泥臭い修練の末に辿り着いた、今の自分の身体感覚に最も適した「解」だった。
(……答えは、まだ見えていない)
Leonに突きつけられた課題。「本物のプロが何を懸けて戦っているのか」。
自分なりに、市場のセリ人や、板場の父の姿を通して、いくつかの仮説は立てていた。
だが、それはあくまで「日常」というフィルターを通した推測に過ぎない。
明日の横浜。
あの数万人が詰めかけるスタジアム。
そこで繰り広げられる「本物」の衝突を目の当たりにした時、自分の仮説は容易く打ち砕かれるのかもしれない。
それでも、今の祐介に、以前のような恐怖はなかった。
三週間前、自分は去勢された獣だった。
牙を折られ、論理に怯え、自分の居場所を見失っていた。
だが、今は違う。
彼はゆっくりと、PCの電源を切った。
暗転したモニターに映る自分の顔。
そこには、要領よくパズルを解いていた少年の面影はなかった。
自分の足で、自分の意志で、地獄の先にある光を掴み取ろうとする、一人の「求道者」の顔があった。
翌朝。祐介は、良一が用意した早朝の朝食を完食し、静かに立ち上がった。
「……行ってくる、父さん」
「……ああ。……忘れ物はするなよ」
良一は、新聞から目を離さずに答えた。
それが彼なりの、最大限の激励であることを、今の祐介はよく知っていた。
家を出ると、冷たい朝の空気が頬を刺した。
横浜へと向かう電車の中。祐介は鞄の中に、Leonから送られたチケットがあることを確認した。
三週間という長い「澱」の時間を経て。
黒川祐介、17歳。
彼は今、かつて自分を拒絶し、自分に絶望を与えた「頂点」へと、その瞳に静かな咆哮を宿して向かおうとしていた。
2035年、11月28日。
『AETHER Nexus Open』決勝トーナメント・最終日。
少年の物語は、ここから真の「覚醒」へと加速していく。




