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Project: Aigis  作者: 遅めの果物
『AETHER Nexus Open』編
17/20

第17話:鈍色の刃

 2035年、11月9日。オンライン予選敗退から二日が経過した。

 Leonから下された「三週間の活動停止」という宣告は、祐介にとって、静かな拷問のような時間を意味していた。


 自室の空気は、あの日以来、重く澱んでいる。PCの電源を入れれば、そこにはまだ『Aether Link』の残像があり、昨夜まで命を懸けて守っていたはずのラインや、奪い合っていたエリアの感触が、指先に熱を持って残っていた。

 だが、その指先は今、奇妙なほどに「なまって」いた。


 活動停止といっても、個人でランクマッチ(ソロランク)に潜ることまで禁じられているわけではない。祐介は、LeonやRikuのいない戦場で、失った自信を取り戻そうとマウスを握った。

 しかし、そこで彼を待っていたのは、かつての「ランクマ無双」の姿ではなかった。


「……遅い。なんで今、俺は引かなかったんだ」


 暗転するモニター。味方の怒声がボイスチャットから漏れる。

 以前の祐介なら、何も考えずに野生の勘で突っ込み、相手が予測もしない角度から三人をなぎ倒していただろう。要領よく、効率よく、相手の隙を突く。それが彼の「Kurosuke」としてのアイデンティティだった。


 だが、今の彼は違う。

 Leonに叩き込まれた論理。Rikuという絶対的な指標。Ignis戦で突きつけられた、プロとしての「正解」。それらの断片が、彼がトリガーを引く瞬間に、コンマ数秒のブレーキをかける。


(ここはカバーを待つべきだ。ここで死ぬと人数不利になる。Rikuならこの角度は無視するはずだ……)


 脳内を駆け巡る「論理」が、彼の最大の武器であった「野生」を飼い殺していく。

 論理を優先すれば、かつての奔放さが消え、凡庸な平均点プレイヤーに成り下がる。かといって野生に戻ろうとすれば、学んでしまった「正解」がそれを邪魔する。

 結果として、彼は野良の無秩序な動きに翻弄され、格下の相手にさえ撃ち負けるようになっていた。


 かつては一人で40キルを叩き出し、チームを強引に勝たせていた「怪物」の影はどこにもない。

 スコアボードの下位に沈む自分の名前を見て、祐介はデバイスを握りしめた。

 手が震えていた。

 知識を得たことが、これほどまでに自分を脆くさせるとは思ってもみなかった。


          *


 翌日。学校の日常は、さらに耐え難いものとなっていた。

 昼休み、教室内では相変わらずNexus Openの話題で持ちきりだ。


「ちょっと前のIgnisの試合、見たかよ。やっぱりプロは違うな」

「Blue Cometも惜しかったけどな。あのKurosukeって奴、最後は失速してたし、結局プロには通用しなかったってことだろ」


 その言葉が、背中に刺さる。

 自分がその「Kurosuke」であり、今まさにその敗北の呪縛の中で溺れていることを、彼らは知らない。


 午後の授業、配られた数学の小テスト。

 祐介は数分でそれを解き終えた。複雑なパズル。論理的な証明。

 以前の彼なら、それを「効率よく片付けた自分」に満足していただろう。だが、今の彼には、この「答えが用意されている問題」があまりにも退屈で、無価値に思えた。


(……こんなものに、何の意味があるんだ)


 戦場には、答えなどなかった。

 自分が信じた0.5秒の隙が、次の瞬間には死への罠に変わる。

 自分が費やした全神経が、たった一発の弾丸で否定される。

 そのヒリつくような「真剣勝負」の世界に比べれば、教科書の文字はただの死んだ情報の羅列にしか見えなかった。


 要領よく生きる。

 それが、黒川祐介という人間の生存戦略だった。

 だが、その戦略は、あのアリーナへの切符をかけた戦いで、粉々に砕け散ったのだ。

 自分がどれほど賢く立ち回ろうと、自分よりも深くその道に潜り、自分よりも重い「意志」を抱えた者には、一歩も及ばない。


 教室の喧騒から逃れるように、祐介は早退を申し出た。

 自分の居場所は、ここではない。

 だが、あのモニターの前にも、今は自分の居場所がない。


          *


 夕方の割烹料理屋『黒川』。

 暖簾をくぐった祐介を、父・良一の鋭い視線が射抜いた。

 良一は、祐介が学校を早退してきた理由も、ゲームで負けて絶望していることも、一切問い詰めることはなかった。ただ、一言だけ命じた。


「……祐介。裏へ行け。包丁を研げ」


 祐介は、戸惑いながらも板場の裏の作業場へと向かった。

 そこには、長年使い込まれた和包丁と、何種類もの砥石といしが並んでいた。


「いいか。包丁の刃は、使うたびに目に見えないほど欠け、丸くなる。それを放っておけば、どんなに腕のある職人でも、素材の味を殺す」


 良一が、祐介の隣に立ち、手本を見せるように砥石に水を打った。


「研ぐっていうのは、ただ削るんじゃない。刃の『芯』を見極めて、余分な迷いを削ぎ落とす作業だ」


 シュッ、シュッ、という一定のリズム。

 良一の腕の動きには、一切の無駄がない。

 祐介は、教えられた通りに包丁を握り、砥石に当てた。

 だが、すぐに良一から声が飛ぶ。


「力が入りすぎだ。……お前の刃は、今、ひどく鈍っている。切れない包丁で無理やり切ろうとすれば、断面が荒れる。今のお前も、そうなっているんじゃないのか」


 祐介は、包丁を握る手が震えた。

 良一は、画面の中の戦いなど見たこともないはずだ。なのに、祐介が今、何に苦しんでいるのかを、その指先の動きだけで見抜いていた。


「……父さん。俺、わかんなくなっちゃったんだ。どうすれば、前みたいに『切れる』ようになるのか」


 良一は、手を止め、祐介の目を見た。


「一度、学んだことを忘れようとするな。……新しきを知ったお前は、もはや昔には戻れん。戻ろうとすれば、それはただの退化だ」


 良一は、研ぎ終えた包丁を光に透かした。


「職人の世界でも同じだ。新入りの頃は勢いだけで通用する。だが、知識を身につけ、型を覚え始めると、誰でも一度は動けなくなる。それは、お前が『型』に飲み込まれているからだ」

「型に……飲み込まれる?」

「型っていうのは、お前を縛るためのもんじゃない。お前の『野生』を、最も効率よく、最も確実に獲物に届けるための『導管くだ』だ。……研げ。刃の芯が出るまで、無駄な力を捨てろ」


 祐介は、再び砥石に包丁を当てた。

 冷たい水。砥石のざらついた感触。

 何度も、何度も、一定のリズムで繰り返す。


 不思議な感覚だった。

 無心で刃を研ぎ続けるうちに、脳内に渦巻いていた「Leonの指示」や「Rikuの残像」が、少しずつ整理されていく。


 それらは、邪魔者ではなかった。

 自分の野生という不確かな炎を、一筋のレーザーのように集束させるための、レンズだったのだ。


 三時間。

 祐介の手は水でふやけ、腰は痛んだ。だが、目の前には、鏡のように磨き上げられた一振りの刃があった。


「……よし。その包丁で、大根を剥いてみろ」


 言われるがままに、祐介は桂剥きに挑んだ。

 驚くほど、刃が吸い込まれる。

 以前のように「要領」で誤魔化すのではない。包丁が、祐介の意志をそのまま素材に伝えている。

 透き通るような大根の皮が、静かにまな板に落ちた。


「……忘れるな。道具を整えるのは、自分自身を整えることだ」


 良一はそれだけ言うと、板場へと戻っていった。


          *


 深夜。自室に戻った祐介は、数日ぶりにPCの電源を入れた。

 だが、すぐにソロランクに潜ることはしなかった。


 彼はまず、自分のデバイスを手に取った。

 AETHER製のマウス。数ヶ月使い込み、ソール(底面の滑り止め)には微細な磨耗がある。

 彼は予備のソールを取り出し、慎重に貼り替えた。

 さらに、マウスパッドの表面を丁寧に清掃する。


 それから、ゲームの設定画面を開いた。

 これまでの彼は、プロの真似をして感度を頻繁に変えたり、設定をリセットしたりすることを繰り返していた。

 だが、今の彼は違う。


(……リセットはしない。今の自分を、少しだけ『芯』に寄せるだけでいい)


 彼はマウスのポーリングレートを見直し、DPIの設定を、ほんのわずかだけ自分の感覚に合うように微調整した。それは他人から見れば、誤差のような変化だった。

 だが、その微細な調整こそが、今の彼に必要な「儀式」だった。


 設定を保存し、練習用のボット撃ちを開始する。


 ――。


 音が、違う。

 画面上のエージェントの動きが、自分の神経と、ほんの少しだけ深く「同期」した感覚。


 論理を捨てるのではない。

 論理という型を、自分の野生という肉体に、完全に馴染ませる。


 ボットの頭が、次々と弾け飛ぶ。

 まだ、かつての爆発力はない。

 だが、その一撃一撃には、昨日までの「迷い」という濁りが消えていた。


 祐介は、モニターに映るチケットのアイコンを見た。

 三週間後。

 横浜のスタジアム。


 自分を拒絶した世界。自分を打ちのめしたプロの論理。

 それらを、もう一度この眼で焼き付ける。


 次に自分がマウスを握る時。

 その刃は、もはや「要領」だけで研がれた脆いものではない。


「……よし」


 短い一言。

 2035年、秋の夜。

 去勢された獣は、暗い部屋の中で、静かに、しかし確実に、新たな牙を研ぎ始めていた。

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