第16話:残照の器
2035年、11月8日。カーテンの隙間から差し込む朝日が、昨日まで戦場だったデスクを無慈悲に照らしていた。黒川祐介は、重い瞼を持ち上げ、天井をただ見つめていた。
体中が、石のように重い。昨夜のオーバータイム。最後の瞬間。Rikuが倒れ、画面に『DEFEAT』の文字が刻まれたあの静寂が、今も耳の奥にこびりついて離れない。指先を動かしてみる。17歳の少年の手は、昨日数十万人の視線を釘付けにしたはずなのに、今はただの、少し節くれだった高校生の手でしかなかった。
彼は無意識にスマートフォンを手に取った。SNSのトレンドには、依然として『#NexusOpen』の文字が躍っている。
最高同時接続者数は80万人。eスポーツ界隈としては大騒ぎの数字だが、世間一般を動かすブームには程遠い。数億人が熱狂するグローバルなメジャー競技への階段は、まだ遠い先にある。それでも、その80万人の中に、自分たちの「熱」は確かに届いたはずだった。
だが、その事実は、敗北の痛みには何の薬にもならなかった。敗北。その二文字は、彼が想像していたよりも遥かに鋭く、深く、彼の中心を削り取っていた。
学校へ向かう電車の窓に映る自分の顔は、ひどく幽霊じみていた。教室の扉を開けると、そこには昨日までと全く変わらない「日常」が広がっていた。
「おー、黒川。おはよ。お前、今日なんか顔色悪くないか?」
隣の席の友人が、欠伸をしながら声をかけてくる。
「……ああ。ちょっと、夜更かししただけ」
「テスト近いしな。俺も昨日、深夜まで配信見てたわ。あのeスポーツの大会、見た? すげえ熱かったぞ。あのBlue Cometってチーム」
祐介は、心臓が一瞬跳ねるのを感じた。
「……ああ。少しだけ」
「だよな。特にさ、Riku、撃ち合い強すぎ!って感じ。あとKurosukeって奴。あいつマジでヤバかったわ。最後の方、プロ相手に一人でかき回してたし。ネットじゃ正体探しで盛り上がってるぜ」
友人は冗談めかして笑い、別の話題へと移っていった。祐介は、ノートを開いたまま固まっていた。
この教室にいる誰一人として、昨日自分がその「Kurosuke」として、プロの喉元に噛み付いていたことを知らない。
昨夜、コンマ数秒の判断ミスに血を吐くような思いをし、敗北の深淵に叩き落とされたその当事者が、今、平凡な現代文の授業を受けている。
黒板を叩くチョークの音。休み時間に廊下から聞こえる他愛もない笑い声。進路調査票を配る教師の、倦怠感を帯びた声。それらすべてが、今の祐介には耐え難いほどの「異界」に感じられた。
自分は、もう二度とこの場所には戻れない。あの極限の集中、あの神経が焼き切れるような熱狂、そしてあの死ぬほど悔しい敗北。そのすべてを経験してしまった自分にとって、この平和な日常は、まるで色褪せた書き割りのようにしか見えなかった。
(……俺は、ここで何をしてるんだ)
窓の外、どこまでも青い空を見上げながら、祐介は自分の指先を強く握りしめた。Rikuは今、何をしているだろう。Leonは、Shoは。自分を「ジョーカー」と呼び、未来を託してくれた彼らもまた、この無機質な日常のどこかで、昨夜の残照に焼かれているのだろうか。
*
放課後の部活動の喧騒を背に、祐介は逃げるように学校を後にした。誰とも話したくなかった。自分の内側にある、この形にならない咆哮を、安っぽい言葉で薄めたくはなかった。
夕暮れ時。実家の割烹料理屋『黒川』の暖簾をくぐると、いつも通りの静かな活気が祐介を迎えた。板場では、父・良一が黙々と包丁を握っている。
「……ただいま」
「……ああ。早かったな」
良一は、祐介の顔を一瞬だけ見たが、すぐに手元の魚に戻った。
祐介は二階の自室に鞄を放り出すと、しばらくの間、ベッドに横たわっていた。動きたくない。何も考えたくない。だが、一階から聞こえてくる、規則正しい包丁の音と、出汁の香りが、否応なしに彼の生命維持機能を揺り起こす。
一時間ほどして、祐介は一階に降りた。客足が途絶えた店内、カウンターの端に、一人分の食事が用意されていた。
「……飯だ。食え」
良一はそう言うと、自分は洗い場へと向かった。そこに置かれていたのは、華やかな刺身でも、豪華な煮魚でもなかった。丁寧に炊かれた白い粥と、少しの梅干し。そして、琥珀色に透き通った吸い物だけだった。
祐介は、困惑したように良一の背中を見た。
「……父さん。これ、病人食みたいなんだけど」
「内臓が疲れてる面をしてる。派手なもんは毒だ。……いいから、まずその汁を飲め」
祐介は、言われるがままに椀を手に取った。温かい。一口、吸い物を口に含んだ瞬間、全身の力が抜けるような衝撃が走った。
言葉にならないほど、深い。雑味の一切ない、純粋な出汁の旨味。それが、昨夜から張り詰めていた祐介の神経の奥底に、染み渡っていく。
「……あ……」
良一は、祐介が昨夜、eスポーツの大会で負けたことなど知らない。ましてや、彼が「Kurosuke」として世界に名を馳せようとしていたことなど、夢にも思っていないだろう。だが、良一は「職人」として、息子が何か一つのことにすべてを注ぎ込み、そして無残に打ちのめされて帰ってきたことを、その表情と、立ち居振る舞いだけで察していた。
良一は何も聞かなかった。「何があった」とも、「気にするな」とも言わない。ただ、最も弱っている時に、最も体が必要としているものを、完璧な精度で差し出す。それは、良一が一生をかけて磨いてきた、言葉を必要としない「誠実さ」の形だった。
「……美味しいよ、父さん」
「……そうか。粥も全部食え。芯を温めれば、明日の朝には少しはマシになる」
粥を一口ずつ運ぶたびに、祐介の目元が熱くなった。あんなに高い場所を目指して、あんなに鋭い刃を研いできたのに。今の自分を支えてくれているのは、この地味で、温かくて、何の飾りもない一杯の粥だ。
敗北して、すべてを失ったと思っていた。だが、自分の帰る場所には、自分の疲れを理解し、無言で器を満たしてくれる人間がいる。
(……俺は、まだ生きてる)
胃の中から熱が広がり、指先の感覚が戻ってくる。祐介は、一粒の粥も残さずに、その器を空にした。
*
深夜。自室に戻った祐介は、久しぶりに自分のPCの電源を入れた。モニターの光が目に痛い。『Aether Link』を起動すると、未読のメッセージが一件だけ届いていた。
チームのグループチャットではない。Leonからの、個人DMだった。Leonは、馴れ合いを嫌う男だ。練習生に過ぎない祐介に、わざわざ個人で連絡をしてくること自体、異常な事態だった。
From: Leon
Subject: 招待
昨日はお疲れ様。
お前の野生が、システムの壁に弾かれたあの瞬間を、俺は一生忘れない。
だが、敗北をただの「終わり」にするか、次の「糧」にするかは、お前の眼が決めることだ。
添付ファイルを確認しろ。
これは、今のBlue Cometに足りなかった「答え」を観るためのチケットだ。
祐介が添付ファイルを開くと、そこにはデジタル化された一枚のチケットが表示された。
『AETHER Nexus Open - 決勝トーナメント・最終日 観戦チケット』
『開催地:横浜・AETHERアリーナ(オフライン本選スタジアム)』
『日程:11月28日(三週間後)』
祐介は、息を呑んだ。そこは、自分たちが、Rikuと共に行くはずだった場所だ。
Leon:
三週間後、スタジアムへ行け。席はお前のために確保した。
俺たちの夢を奪ったIgnisが。そして、日本最強のFenrirが。
本物の「プロ」たちが、あの光の中で何を懸けて戦っているのか。
画面越しではなく、その肌で感じてこい。
練習生・Kurosukeとしての活動は、今日から三週間、一時停止とする。
その代わり、その日、スタジアムで「答え」を見つけだせ。
返信は不要だ。牙を研ぎ直せ。
メッセージは、そこで終わっていた。祐介は、モニターに映るチケットを、穴が開くほど見つめた。
三週間。それは、敗北の熱を冷ますには十分な時間であり、同時に、新たな渇望を育てるにはあまりにも短い時間だった。
彼は、自室の窓を開けた。冷たい夜風が、火照った頬を撫でる。横浜のスタジアム。数万人の歓声。画面の向こう側の、何十万人もの視線。あそこには、今の自分にはない何かが、確実にある。Leonは、それを見ろと言っているのだ。
祐介は、自分の右手を、強く、痛いほどに握りしめた。
「……待ってろ」
その言葉は、誰に届くこともなかったが、夜の静寂を鋭く切り裂いた。敗北という名の猛毒は、良一の粥で中和され、Leonのチケットによって、新たな「原動力」へと変質していた。
2035年、11月8日。黒川祐介、17歳。
スタメンを外れ、予選で敗れ、すべてを失ったはずの少年は。今、再び、自分を拒絶した「頂点」へと向かうための、最初の一歩を踏み出した。




