第15話:彼方に響く咆哮
2035年、11月7日。午後3時。
日本のデジタル空間を駆け抜ける通信ログは、もはや一つの生命体のような熱を帯びていた。
『AETHER Nexus Open』オンライン予選、Day3。
本選への最後の一枠を懸けた、Blue Comet対Ignis EsportsのBO5。
スコアは0対2。
崖っぷちに立たされたアマチュアの彗星が放った最後の一撃――「ジョーカー」黒川祐介の投入は、50万人超の観客の動悸を限界まで加速させていた。
配信者ジンのスタジオでは、もはや言葉が追いつかないほどの熱狂が渦巻いていた。
「――歴史の証人になれ、お前ら! 今、サーバーが『Caelum』に切り替わった! 見ろ、KurosukeとRikuのバイタルデータを! 二人とも心拍数が150を超えながら、脳波のシンクロ率が異常な数値を叩き出している! 0-2からの逆転劇……伝説のリバーススウィープが始まるのか、それともプロの鉄槌が下るのか! 全人類、瞬き禁止だ!!」
*
暗転した部屋で、祐介はマウスのクリック一つに、自分の全人生を乗せるような感覚に陥っていた。
ヘッドセットの向こう側、Leonの、Rikuの、Kaiの、Rinの「呼吸」が聞こえる。
そして何より、隣の席(仮想空間上)で、牙を剥き出しにしているRikuの冷徹な殺気が、皮膚を焦がすように伝わってきた。
「――Leonさん、ピストルラウンド。僕に任せてください」
祐介の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「……あいつら、僕が『野生』で突っ込んでくるのを待ってる。だから、逆を行きます。Riku、サイトのど真ん中に立っていてくれ。一歩も動かなくていい」
「……随分と大胆な指示ですね。標的になれ、と?」
「いいえ。僕が、あいつらの『視線』を全部奪います。Rikuは、ただ引き金を引くだけでいい」
試合開始のブザー。
祐介のキャラクターが、目にも止まらぬ速度でAメインへと躍り出た。
Ignisの五人は、当然のように祐介を狙う。昨日のVortex戦のデータから、Kurosukeというプレイヤーが「予期せぬ場所から現れる」ことを知っているからだ。
だが、祐介は撃ち合わなかった。
彼はサイトの障害物を利用し、敵の射線を「弄んだ」。右へ行くと見せかけ、左へ。スモークの端を一瞬だけ掠め、敵のレティクル(照準)を自分へと吸い寄せる。
――今だ!
祐介が、心の中で叫んだ。
Ignisの五人の視線が、コンマ数秒、祐介という「囮」に固定された瞬間。
サイト中央、何の遮蔽物もない場所で仁王立ちしていたRikuの銃口が、火を噴いた。
バキュン、バキュン、バキュン。
乾いた三連射。
視線を奪われていたIgnisのストライカーが、一歩も動けずに頭を抜かれた。
「――なっ、なんだ今の!?」
ジンの絶叫が響く。
「Kurosukeがダンスを踊って、その隙にRikuがすべてを刈り取った! 見ろ、Rikuのキルログを! 完璧だ、完璧すぎる連携だ!!」
第1ラウンド、Blue Cometが圧倒的な速度で奪取。
それは、祐介の「野生の読み」が、Rikuの「論理的な暴力」を120%までブーストさせた瞬間だった。
祐介自身のスコアは伸びない。彼は敵を倒すのではなく、敵の「心」を揺さぶり、Rikuに最高のご馳走を差し出す。
これまでにない快感。
自分の言葉一つで、世界屈指のストライカーが、神のごときキルを量産していく。
第5ラウンド、第8ラウンド。
Blue Cometは、Ignisを圧倒していた。
「――次はBです。敵のガーディアン、センサーを置き直す余裕を失ってる。……そこ、穴が開いてる」
「了解。……不愉快ですが、あなたの言う通りですね」
Rikuのエイムは、もはやゾーンに入っていた。
祐介が「澱み」を指摘するたびに、Rikuはその澱みを浄化するように弾丸を叩き込む。
スコアは8対4。
0対2から始まった絶望の淵で、Blue Cometは初めて「勝利」の光を掴みかけていた。
*
だが、その光は、Ignisという組織の「真の底力」によって、徐々に侵食され始めた。
ハーフタイム。
Ignisのボイスチャットには、焦燥もパニックもなかった。あるのは、ただ一つの「修正」に向けた冷徹な議論。
「Kurosukeの行動指針が判明した。彼は自分で撃ち合わない。我々の視線を誘導し、Rikuにフリーで撃たせる『情報の囮』だ」
リーダーのVoltaが、淡々と告げる。
「対策は一つ。Kurosukeを無視しろ。……彼がどれほど不規則な動きを見せようと、我々はRikuの射線だけを、二人、あるいは三人で同時に潰す。囮に騙されるな。システムの中心を叩け」
後半戦。
祐介は、異変に気づいた。
自分がどれほど派手なフェイクを見せても、どれほど心理的な隙を突こうとしても、Ignisの面々が「釣られない」。
彼らは祐介の動きをノイズとして処理し、Rikuの潜伏場所、Rikuの得意な角度だけを、執拗に、暴力的なまでの物量で制圧しに来た。
「――っ、Leonさん! 囮が効かない! あいつら、僕を無視してRikuさんだけを狙ってる!」
「……修正されたか。Kurosuke、お前の存在を『無』として定義したんだな、奴らは」
プロの怖ろしさは、ここにあった。
彼らは一時の驚異に屈しない。その驚異の正体を解剖し、自分たちのシステムから「無害化」する術を、試合中に作り上げてしまうのだ。
第15ラウンド。
祐介が強引に一人を仕留めようと前に出た。だが、Ignisの選手は祐介に背中を向けたまま、正面のRikuとの撃ち合いに集中した。
祐介が一人を倒す。だが、その間にRikuは二人の射線に晒され、崩れ落ちた。
残されたのは、決定打を持たない祐介と、残りのメンバー。
一人、また一人と、Ignisの「正しい暴力」に飲み込まれていく。
スコアは10対10。
11対11。
12対12。
試合は、運命のオーバータイム(延長戦)へと突入した。
*
最終ラウンド。
負ければ、すべてが終わる。
祐介の視界は、汗と熱で歪んでいた。
心臓が、耳のすぐそばで太鼓のように鳴り響いている。
自室の空気は、もはや酸素が足りないように感じられた。
画面越しのRikuのキャラクターも、これまでの激闘で満身創痍に見えた。
「……Kurosukeさん。最後のコールを」
Rikuの声が、震えていた。
それは恐怖ではなく、極限の集中から来る武者震いだ。
「――Leonさん。Aサイト、センター……全戦力を投入しましょう。……あいつら、僕たちが『変化』を付けるのを待ってる。……だから、最後は、真っ直ぐ。一番馬鹿正直な『正解』で、正面から殴り合いましょう」
祐介の、最後の賭け。
心理戦を捨てた、純粋なフィジカルの衝突。
「了解だ。全員、突入準備! Blue Comet、全軍前進!!」
Leonの号令とともに、五人がAサイトへとなだれ込む。
Ignisも、それを予期していた。
空を埋め尽くすスモーク。視界を焼くフラッシュ。
その嵐の中で、祐介は必死に声を張り上げた。
「左! 木箱の裏! Riku、あいつの足首が見える! 撃て!」
「――あああああ!!」
Rikuが叫び、引き金を引いた。
一撃。敵のガードを撃ち抜く。
二撃。カバーに来た敵の頭を、閃光の中で捉えた。
Rikuのスコアは、この試合だけで35キル。アマチュアの公式戦としては、異常なまでのスタッツ。
祐介のコールが、Rikuの才能を「神」の領域へと押し上げていた。
だが。
Ignisのリーダー、Voltaは、その嵐の真ん中で冷徹に笑っていた。
「――よくやった。だが、そこまでだ」
Ignisの隠し持っていた最後のアビリティ――戦場を完全に分断する巨大な壁が、祐介とRikuの間を切り裂いた。
「……っ!?」
孤立。
Riku以外のメンバーが孤立し、先に倒される。
Rikuが一人、敵の三人に包囲された。
Rikuは一瞬で三人中二人を道連れにした。驚異的なキル。観客は絶叫した。
だが、最後の一人――Voltaの放った弾丸が、Rikuの眉間を貫いた。
――静寂。
リザルト画面に表示されたのは。
14対16。
Ignis Esportsの勝利。
*
オンライン予選、Day3、終了。
自室の椅子に崩れ落ちたまま、祐介はただ、暗転したモニターを見つめていた。
ヘッドセットからは、誰の呼吸音も聞こえない。
負けた。
自分の野生も、Rikuの論理も、Leonの指示も。
プロという名の、盤石な、揺るぎない「本物」の壁に、あと一歩のところで跳ね返された。
「……お疲れ様」
長い沈黙の後、Leonがポツリと言った。
その声には、敗北の悔しさよりも、何かを成し遂げた後のような、清々しい疲労が混じっていた。
「Kurosuke。お前のスコアは、決して良くはなかった。だが、お前が居なければ、Rikuはあそこまで輝けなかった。……お前たちの『双璧』は、確かにIgnisを震わせた。それは、数字には残らない事実だ」
祐介は、何も言い返せなかった。
タブレットのリザルト画面。
Riku:37キル。
Kurosuke:12キル。
自分がどれだけ情報を落としても、どれだけ敵を揺さぶっても、最後の一発を当てる「強さ」が自分には足りなかった。
Rikuをブーストさせたのは自分だという自負はある。だが、そのRikuが倒れた時、自分にはチームを勝たせる力がなかった。
配信サイトのジンは、珍しく静かな口調で語りかけていた。
「……皆さん、見ましたか。これが、プロの意地です。そして、これがBlue Cometという、名もなきアマチュアたちが残した傷跡です。……Kurosuke。君の『野生』、僕は忘れない。本選で見たかった……。本当に、あと一歩だったんだ」
チャット欄は、これまでにないスピードで流れていた。
《泣いた》
《BC、ありがとう》
《Kurosuke、お前が最強のジョーカーだ》
《Ignis、強すぎた……》
だが、祐介にとっては、それらの称賛もすべて、遠くの波音のようにしか聞こえなかった。
「……悔しい、な」
ポツリと、言葉が漏れた。
喉が、胸が、焼けるように熱い。
要領よく生きて、適当に勝って終わるはずだった。
なのに、今の自分は、人生のすべてを失ったかのような喪失感に苛まれている。
ふと、階下から出汁の香りが漂ってきた。
父が、明日も同じように提供する料理の仕込みをしている。
変わらない日常。
予選敗退という、残酷な日常の再開。
祐介は、震える手でマウスの電源を落とした。
2035年、11月7日。
黒川祐介、高校2年生。
本選スタジアムへの夢は、ここで一度、潰えた。
だが。
暗転したモニターに映る彼の瞳は、まだ死んでいなかった。
敗北という名の猛毒を全身に浴びて、なお。
「……次は、絶対に。……絶対に、あいつらを、超えてやる」
その咆哮は、誰に届くこともなく、17歳の少年の心臓を、これまで以上に激しく、鋭く、打ち抜いていた。




