第10話:牙の伝承
2035年、11月6日。
『AETHER Nexus Open』オンライン予選、Day2。
午前10時、第7試合のサーバーがオープンした。対戦形式はBO3。二つのマップを先取したチームが、本選出場に王手をかける第8試合へと駒を進める。
対戦相手である『Binary Stars』のリーダー、Dataは、自室のマルチモニターに映し出された数値の羅列を眺め、静かにマウスを合わせた。彼らにとって、戦場とは不確定要素を排除した計算式に過ぎない。
「――第1マップ、『Triad』は我々の計算通りだ。Blue Cometのディレクター、Leonは定石に忠実すぎる。Shoは疲労でエイムの初動がコンマ数秒遅れている。第2マップ、『Caelum』で全てを終わらせる。再現性のない奇跡に頼る彼らに、我々の論理が負けるはずがない」
第1マップを落とし、後がないBlue Comet。
自宅のデスクでマウスを握るShoの掌は、冷たい汗で不快なほど湿っていた。
「……Leonさん。本当に、あのKurosukeの情報を信じていいんですか。第1マップでも、あいつらのアンチメタにボコボコにされた。今さら、ギャンブルみたいな真似……」
Shoの声が微かに震える。スタメンとしての責任、背後に控える「天才」への恐怖。それらが彼の思考を濁らせていた。
「信じろ、とは言わない。だが、Sho、お前は気づいているはずだ。お前の5,000時間の基礎だけでは、あいつらの塗り固めた論理を突破できない。……Kurosukeが見つけたのは、奴らが『完璧な正解』を遂行しようとする瞬間に生じる、構造的な欠陥だ」
第2マップ、Caelum。
前半戦、Binary Starsの攻勢は、まさにBlue Cometの「呼吸」を止めるものだった。
「ミッド、モク抜かれた! クソ、なんでそこに……!」
焦燥がShoの動きをさらに鈍らせる。Rikuの精密な射撃も、相手の徹底的なアンチメタ――こちらの配置を読み切ったアビリティの先出し――によって封じ込められ、スコアはまたたく間に2対8まで引き離された。
第11ラウンド。
Binary StarsがAサイトへ、今日最大規模の「セット」を開始した。
Dataのプランは完璧だった。五人が一糸乱れぬタイミングでアビリティを投げ込み、防衛側の視界と自由を完全に奪ってから、無防備なサイトを蹂躙する。
だが、その瞬間。
Shoの脳裏に、昨夜、Kurosukeが画面越しに指摘したあの「綻び」が蘇った。
『――いいですか、Shoさん。奴らは、自分たちのセットが完璧だと信じてる。だから、フラッシュを投げる瞬間、モクを張る瞬間……五人全員がセットを確実に成功させるために全リソースをスキルに割き、銃を下げてアビリティを構える、無防備な「0.5秒」が必ず発生するんです』
「……今だ!」
Shoは、叫ぶと同時に自ら焚いたスモークの中へと身を躍らせた。
通常、視界を遮断するスモークの中へ、しかも敵のフラッシュが飛び交う中へ飛び込むのは、プロの定石では自殺行為だ。
だが、Shoは目を逸らさなかった。
Kurosukeが示した「0.5秒」。
アビリティが空中で重なり、敵が最も「セットの遂行」に集中し、物理的に引き金を引けなくなるその刹那。
白い閃光が網膜を焼く。音を失う。
だが、Shoのマウスは、昨夜叩き込まれた「敵の座標」へと、吸い込まれるように吸着した。
ドン、ドン、ドン――!
乾いた射撃音が、爆音を切り裂いた。
白い視界の向こう側、Binary Starsの五人は、文字通り「丸腰」だった。
フラッシュの投擲モーション中、あるいはスモークの展開ボタンを押した直後。
自分たちの完璧なセットに敵が抗うはずがないと信じ、アビリティを構えるという「隙」を晒した彼らに、Shoの弾丸が容赦なく突き刺さった。
「――Triple Kill! Sho、そのままB側へ回れ!」
Leonの咆哮が飛ぶ。
サイトを蹂躙されたBinary Starsのボイスチャットには、初めて「困惑」という名のノイズが走った。
「なぜだ!? 今のは完璧なタイミングだったはずだ! なぜあいつは、全アビリティが直撃するコースを真っ直ぐ抜けてこれたんだ!?」
論理が壊された。
計算外の行動一つで、彼らが積み上げてきたデータという名の城壁は、砂上の楼閣のごとく崩れ去った。
そこからのBlue Cometは、もはや止まらなかった。
疑念に支配されたBinary Starsの動きはぎこちなくなり、逆に確信を得たShoは、本来の爆発的なフィジカルを取り戻していった。
第2マップを13対10で奪い返し、その勢いのまま運命の第3マップを13対6で圧倒。
Blue Cometは、BO3の逆転劇によって、第7試合をもぎ取った。
*
自室のベッドでタブレットを見つめていた祐介は、リザルト画面が表示された瞬間、肺の空気をすべて吐き出すように深く息をついた。
「……よしっ!」
小さく拳を握る。
自分の「眼」は、間違っていなかった。
あの怪物のような論理を持つ連中を、自分の見つけた一筋の亀裂が引き裂いた。
かつてこれほどまでに、自分が誰かのために費やした時間が、報われたと感じたことはなかった。
だが、その直後。
高揚感の隙間に、氷のような冷たさが忍び込んできた。
画面の中で、Shoが勝利を祝うチャットを打ち、Rikuが満足げにエージェントを動かしている。
世界中が注目する、オンライン予選の熱き舞台。
熱狂の渦中にいるのは、彼らだ。
自分は今、誰もいない静かな自室で、ただモニターの光を浴びているに過ぎない。
自分の提案した作戦が、自分の言葉が、彼らを勝利に導いた。それは紛れもない事実だ。
だが、実際に引き金を引き、勝利の振動を指先で、喉で、感じているのは、自分ではない。
(……悔しいな、これ)
祐介は、自分の手が微かに震えているのに気づいた。
Shoに感謝されたいわけではない。
ただ、あの真っ白な閃光の中にいたのが、自分でありたかった。
要領よく生きることを信条としていた17歳の少年は、初めて、自分の仕事を完璧にこなしたはずの他人に、耐え難い「嫉妬」と「欠乏感」を抱いた。
*
試合終了後のAether Link、Blue Cometのチャンネル。
そこには、昨日のギクシャクとした空気は微塵もなかった。
「……Kurosuke」
Shoの声が届く。先ほどまでの、重圧に押し潰されそうな声ではない。
「……お前のあのコール、マジで当たったよ。あいつら、本当に銃を持ってなかった。……ありがとうな。お前のおかげで、俺はまだ、ここに立っていられる」
「……何言ってんすか、Shoさん。撃ったのはあんたですよ。俺はただ、見てただけです」
祐介はドライを装って答えた。
本当は、その感謝の言葉さえも、自分の居場所のなさを強調されているようで痛かった。
「驚きましたよ、Kurosukeさん」
Rikuが、少しだけ声音を弾ませて言った。
「あんな野蛮な賭けを、現実のものにしてしまうとは。……あなたのその、人間の淀みを嗅ぎ取る力……認めざるを得ませんね。僕の論理に、あなたの『毒』を混ぜれば、もっと美しい勝利が描けそうだ」
Rikuの言葉は、相変わらずの上から目線だった。
だが、そこには以前のような「拒絶」ではなく、対等な「武器」としての敬意が混じっていた。
KaiもRinも、それぞれの自宅から祐介への称賛の声を投げる。
「――全員、よくやった。だが、まだ第8試合が残っている」
Leonが、チャンネル内の空気を引き締めるように言った。
「Kurosuke、お前の眼は今日、チームを救った。だが、お前が本当にあの場所に立ちたければ……その『眼』で、Shoよりも強いキルを生み出せることを証明しろ。リザーブで終わるか、ジョーカーになるか……お前次第だ」
「……了解です」
祐介は通信を切った。
ディスプレイを消すと、暗闇の中に自分の顔が映る。
少しだけ、不遜に口角が上がっていた。
悔しさは、消えていない。
だが、その悔しさは、かつての無気力な日常とは全く違う熱を持っていた。
2035年。
牙を伝承し、勝利を手繰り寄せた17歳の少年は。
今、世界で最も孤独で、世界で最も熱い「観察者」として。
自分にしか開けない、次の扉の鍵を探し始めていた。




