第1話:残響の底で
2035年、10月。
深夜の静寂を切り裂くように、実況者の絶叫がスピーカーから溢れ出していた。
黒川祐介は、暗い自室の中で、ただ一点――ディスプレイの光だけを見つめていた。
画面に写っている配信では、タクティカルFPS『Project: Aigis』の世界大会、『World Championship Final』グループステージの最終戦が、無慈悲な終焉へと向かっていた。
「……またしても、エリアを明け渡します。日本代表『Fenrir』、動けません! メイン通路にスキルが一つ投げ込まれるたびに、彼らのラインが1メートルずつ、確実に後退していく。世界との距離が、物理的な距離として突きつけられています!」
画面上のスコアは3対12。
日本国内において、Fenrirは文字通り「王」だった。国内リーグでの無敗記録。練り上げられた連携と、他を寄せ付けない圧倒的なフィジカル。彼らが敗北する姿など、日本のファンは想像すらできなかった。
しかし、一歩世界へ踏み出せば、その「王」はただの「獲物」に成り下がっていた。
だが、その絶望的な状況下で、唯一、抗い続けている男がいた。
Fenrirのエース、ハンドルネーム『Takeru』。
彼は一人、崩壊する防衛ラインの最前線で、北米王者『Apex Orion』の猛攻を正面から受け止めていた。一瞬の隙を突き、完璧なリコイル制御で二人を抜き去る。その動きだけは、世界のトップランカーと比べても遜色ない。
解説者が「Takeruだけが戦っている! 彼一人だけが、別の時間軸を生きているようだ!」と叫ぶ。
しかし、一人の英雄がどれだけ孤軍奮闘しようとも、チームとしてのシステムが崩壊していれば、それはただの「無駄な抵抗」に過ぎない。
Takeruが一人を倒す間に、他のメンバーは世界の合理的なアビリティの波に呑まれ、一歩も動けずに落とされていく。
祐介は、視線を右側のチャット欄へ移した。
『知ってた。国内でイキってるだけ。井の中の蛙』
『Takeruが可哀想すぎる。こいつだけ海外チームに移籍した方がいいわ』
『もういいよ、JPのプロシーンとか解散で。期待した自分が馬鹿だった』
そんな罵詈雑言の嵐の中に、数えるほどではあるが、切実なファンの叫びが混じっていた。
『頑張れFenrir……! まだ終わってない!』
『Takeru、頼む、一矢報いてくれ!』
その必死な応援も、加速する敗北のログに一瞬で押し流されていく。絶望とは、可能性がゼロになることではない。微かな希望が、巨大な暴力によって踏みにじられる瞬間のことを言うのだと、祐介は冷めた頭で考えていた。
「……勝負を降りたな」
最後の一人となったTakeruが、遮蔽物に追い詰められ、四方から投げ込まれたフラッシュとグレネードの嵐の中で散った。
画面に映し出されたFenrirの選手たちの表情は、悔しさよりも先に「恐怖」に支配されていた。一度の撃ち合いの負けは仕方ない。だが、彼らは負け続けるうちに、自分たちのプレイを信じられなくなり、引き金を引くことさえ怖がっていた。
祐介は、マウスをクリックして配信画面を閉じた。
静寂が戻る。
彼は椅子の背もたれに深く体重を預けた。
彼が握っているのは、世界シェアの80%を独占するテックジャイアント『AETHER』社の最新型マウスだ。
2020年代後半、ゲーミングデバイス市場に彗星のごとく現れたAETHER社は、かつての老舗メーカーを次々と買収し、今やeスポーツ業界の神として君臨していた。「人間の神経伝達速度に限りなく近づける」という社是のもと開発された彼らのデバイスは、もはや単なる道具ではなく、プロにとっての「臓器」に近い。
祐介が使うこのモデルも、数万回の微細な調整を経て、彼の右手の神経と完全に同調していた。
祐介にとって、このゲームも、この最高級のデバイスも、熱狂の対象ではなかった。
彼の家は、駅前で古くから続く割烹料理屋『黒川』を営んでいる。一人息子である祐介は、特にやりたいこともなく、卒業後はそこを継げばいいと考えていた。
成績は学年で常にトップ5に入るほど優秀だったが、それは彼が努力した結果ではなく、ただ「要領が良かった」だけだ。授業を一度聴けば理解でき、試験の傾向を読めば満点が取れる。
人生に対して、何も期待していない。
自分が何かになれるとも思っていないし、なりたいとも思わない。
そんな彼にとって、『Project: Aigis』のランクマッチは、その余りある脳のリソースを消費するための「効率的な暇つぶし」に過ぎなかった。
「AIコーチ、起動。バックグラウンドでリプレイ記録開始」
OSに標準搭載された指導AIが、「準備完了です、Kurosukeさん。今日の勝率は推定64%です。頑張りましょう!」と能気な合成音声で応じる。
祐介はそれを無視し、最上位ランク『Grand Master』の待機列に入った。
*
試合が始まると、祐介の意識はモニターの中へと溶け込んでいく。
彼のプレイスタイルは、観戦している者からすれば「異様」の一言に尽きた。
プロが教典とするような、教科書通りのアビリティ配置やセットプレイを、彼は平気で無視する。かと言って、無謀な突っ込みをするわけでもない。
例えば、あるラウンド。
敵の五人が、完璧なタイミングでBサイトへのセットを仕掛けてきた。味方の四人がその猛攻にパニックになり、アビリティを乱射して無駄死にしていく中、祐介一人だけが、全く関係のないAサイトの隅にいた。
「何やってんだよ!」「戻れ!」という味方の怒号がボイスチャットに飛ぶ。
しかし、祐介は動かない。敵が設置を完了し、味方が全滅したその瞬間、彼はようやく動き出した。
彼は最短ルートを通らなかった。
敵が「ここに居るはずがない」と決めつけている、入り組んだ通路を、まるで見えない糸に導かれるように音もなく抜けていく。
敵の一人が、裏を警戒するために一瞬だけ視線を外したその0.5秒。
祐介の『AETHER』製マウスが、ミリ単位の狂いもなく動き、クリック音を響かせる。
ヘッドショット。
さらに、カバーに来た二人目も、祐介が投げた「適当に見えた」グレネードの爆風に煽られ、狙いが逸れたところを抜かれる。
「……そこか」
祐介は呟く。
彼には、戦場の空気が「震える」のがわかるのだ。
敵の焦り、慢心、次に何をしたいかという欲望。それらがノイズとして画面から伝わってくる。そのノイズが一番小さい「空白地帯」を突く。
結局、そのラウンドを祐介は一人で五人をなぎ倒すことで終結させた。
画面上に『Wipe Out』とログが流れる。それは、たった一人で敵戦力全員を殲滅したときのみに用いられる用語であり、祐介にとっては何度も見た日常の光景だった。
味方のチャットは「WTF!?」「Cheat?」「Lucky Guy...」と困惑と称賛で溢れかえったが、祐介は眉ひとつ動かさない。
「運が良かっただけだろ」
自分自身にそう言い聞かせる。
実際、彼は理論的に説明できるプレイをしていない。ただ、なんとなく「ここだ」と思ったところへ行き、なんとなく「今だ」と思った時に撃っただけだ。
そんな曖昧なものが、プロの世界で通用するはずがない。さっきのFenrirの敗北が、それを証明している。どれだけ個の力があろうとも、世界の緻密な論理の前には無力なのだ。
試合が終わり、リザルト画面が表示される。
獲得ポイントにより、彼のランキングは国内65位まで上昇していた。
しかし、その数字を見ても、祐介の胸に湧き上がるのは達成感ではなく、一日のタスクを終えた後のような、砂を噛むような虚無感だった。
マウスから手を離そうとした、その時だ。
画面右上に、一通のダイレクトメッセージの通知がポップアップした。
送り主の名を確認し、祐介の手が止まる。
『Leon』
その名は、日本のeスポーツ界において、特殊な意味を持っていた。
元プロであり、現在は国内最強のアマチュアチーム『Blue Comet』を率いる男。プロを凌駕する戦術眼を持ちながら、あえて特定の組織に属さず、独自の哲学で「世界へ通じる若手」を探しているという噂の人物だ。
メッセージを開くと、簡潔だが重みのある言葉が並んでいた。
『Kurosukeさん、今の試合、リプレイを観戦させてもらいました。驚くべき嗅覚だ。あなたのプレイには、今の日本のプロシーンに欠けている「野生」がある』
祐介は、鼻で笑った。野生。そんな抽象的な言葉で自分を評価する男に、興味はなかった。
『明日21時、私たちのスクリムに一人欠員が出ました。スタンドインとして参加してみませんか? 対戦相手は、国内プロリーグ2部のチームです。あなたのその「嗅覚」が、本物の連携の中でどう機能するのか、確かめさせてほしい』
スクリム。練習試合。
遊びの延長であるランクマッチとは違う、チーム同士の衝突。
祐介は、返信画面をじっと見つめた。
断る理由は、山ほどある。
明日は学校があるし、実家の手伝いも少しはあるだろう。何より、わざわざ知らない人間と連携を取るなんて、面倒くさいことこの上ない。
だが、彼の脳裏には、さっき見たFenrirのTakeruの姿が焼き付いていた。
一人で世界に立ち向かい、そして膝を屈した、あの孤独なエース。
「……確かめさせてほしい、か」
自分に何ができるのか。そんな高尚な問いに興味はない。
ただ、自分のこの「暇つぶし」が、プロと呼ばれる連中の理論とぶつかった時、どんな音がするのか。それだけは、ほんの少しだけ、興味があった。
祐介は、感情を排した指つきで、キーボードを叩いた。
『分かりました。明日、21時ですね。参加します』
エンターキーを押す音。
それが、ただの高校生であった黒川祐介の日常が、終わりのない勝負の世界へと滑り出していく合図だった。
2035年の深夜。
冷たい青白い光の中で、新しい物語の鼓動が、静かに、だが確実に刻まれ始めた。




