09.気付いた想いと疑いの言葉
その日の昼餐会に、私は出席するつもりはなかった。北方の政務を片付け、急ぎ王都へ戻ることになっただけだ。執務室で次の予定を確認していた、その時だった。近衛兵の一人が慌てた様子で報告に来た。
「グレイシア公爵、昼餐会にて、ヴェルディ侯爵令嬢が……」
詳しい話は聞かなかった。その先は、聞かずとも想像がついた。
「クラウディア伯爵令嬢とその取り巻きが、侯爵令嬢を嘲笑している」
嫌な予感がした。私の胸の奥が、冷たい怒りで満たされていく。彼女が、あの場所で一人で耐えている姿を想像しただけで、どうしようもない焦燥感が私を襲った。私は執務室を出ると、すぐに馬車を呼び、会場へと向かった。案の定だった。会場に足を踏み入れた瞬間、聞こえてきたのは嘲笑まじりの声。
「まあまあ……あの方、まだ王都にいるのね」
「本当に図太いわ。殿下に婚約破棄されても、まだ笑っていられるなんて」
背を向け、グラスを持ち上げる彼女の姿が見えた。毅然としているように見えるが、その肩はわずかに強張っている。あのクラウディアと取り巻きたちが、わざわざ近くを通って、刃のような言葉を突きつけていた。
──胸の奥に、冷たい怒りが広がる。
彼女が抱える孤独を、私はこの数週間で知った。彼女の強さも、脆さも、不器用さも。それらすべてを知っている私にとって、彼女に浴びせられる言葉は、まるで私自身に向けられているかのようだった。私は、彼女を守らなければならない。その衝動が、理性を上回った。
「……不愉快だ」
低い声が、自分の喉から洩れていた。その瞬間、場の空気が凍りついた。クラウディアが蒼白な顔で振り返り、震える声をあげる。
「グ、グレイシア公爵……!」
私はゆっくりと歩み寄り、彼女たちを見下ろした。取り繕う笑顔も、私の視線の前では意味を成さない。
「侯爵令嬢に対する無礼は、私への無礼でもある。覚えておけ」
そう告げれば、十分だった。クラウディアは唇を震わせ、取り巻きと共に逃げるように退散した。彼女たちの背中を見送りながら、私の怒りは収まらなかった。場のざわめきが戻る前に、私はローザリンの手首を取り、会場を抜け出した。誰もいない静かな廊下で、ようやく彼女の瞳を正面から覗き込む。
「……どうしてここに?」
私の質問に、彼女は驚いたように瞬きをした。
「急ぎの用が片付いた。──それより、君はどうして黙って耐えていた」
問い詰めると、彼女は静かに答えた。
「言い返せば、また『悪役令嬢』だと騒がれますから。そうやって、周りの人たちに、嫌な噂を広められるのが……嫌だったんです」
その一言に、思わず奥歯を噛みしめた。社交界の理不尽な視線に、彼女はずっと一人で耐えてきたのだろう。強く見せながら、孤独に立って。怒りが込み上げると同時に、胸が痛んだ。彼女の痛みが、まるで自分のもののように感じられた。
「馬鹿な……そんなことを気にする必要はない!」
私は彼女の手首を掴む力を強めた。
「君が何を言われようと、俺は……君がそんな人間ではないと知っている。それを、なぜ君は理解しないんだ」
「……どうして、そこまで」
彼女の問いは、私の心を突いた。自分でも、はっきりと答えを持てずにいたのかもしれない。この感情は、一体何なのだろうか。
エリスへの未練か?
いや、違う。彼女を見つめる私の心は、エリスの笑顔を追っていた時とは全く違う感情で満たされている。この感情は、ローザリンという存在そのものから生まれているのだ。この時、初めて私は、その答えをはっきりと口にすることができた。
「君だからだ」
気づけば、言葉が口をついて出ていた。彼女の瞳が揺れる。
「……エリス様の代わりじゃなくて?」
胸が痛む。まだ彼女は疑っている。私は灰色の瞳を逸らさず、強く言い切った。
「違う。俺は……君じゃなきゃ嫌だと気づいた」
それが真実だった。エリスではない。彼女の気高さも、脆さも、誇り高さも──すべてを知ったうえで、惹かれてしまったのはローザリンただ一人。
「ローザリン」
彼女の名を呼ぶ。その名前を口にした瞬間、まるで世界に光が灯ったようだった。
「君は強くて、賢くて……それでいて、本当は一人で泣きたい夜もあるんだろう。俺は、その全部を知って、全部守りたい」
言葉が出なかった。ただ、私の手が彼女の頬に触れたとき、彼女は驚いたように瞬きしたが、拒まなかった。その温もりが、確かに彼女のものだと伝えてくる。この手を、二度と離すまい。そう誓った。
昼餐会の後、私たちの距離は決定的に変わった。護衛や付き添いなどという建前ではなく、自然と隣にいる。笑えば、心臓が跳ねる。目が合えば、言葉を交わす前に心が揺れる。彼女が笑うたびに、私の心は満たされていく。それは、かつて私が求めていた「幸せ」とは全く違う、新しい感情だった。私は、彼女と出会うことで、初めて自分自身の心を知ることができたのだ。
──だが、これはまだ始まりにすぎない。彼女を守ると決めた以上、私はこの想いを逃さない。そして、この愛を、彼女に信じさせ、二度と孤独にさせない。それが、私の新しい物語の始まりだった。