08.心地よさを感じる相手
ローザリン・ヴェルディ侯爵令嬢の外出に付き添うようになって、三週間ほどが経った。
最初は、この役目を面倒だとすら思っていたはずだ。彼女は気丈に見えて、どこか危なっかしい。周囲の好奇の目や、悪意を真正面から受け止めてしまう。だからこそ、私のような存在が傍にいて、彼女を守る必要がある、と自分に言い聞かせていた。
だが、気づけば。彼女の隣に立つことが、日常の一部になりつつあった。それは、まるで季節が移り変わるように、自然な変化だった。
ある日のこと、彼女が侯爵家の侍女たちに黙って屋敷を抜け出そうとした。行き先は市場。侯爵令嬢が行く場所ではない。私は馬車に乗り込む前に、彼女の前に立ちはだかった。
「また抜け駆けしようとしていたな」
背後から声をかけると、振り返った彼女の顔は、子供のようにいたずらを見つかった時のそれだった。
「……抜け駆けじゃありません。ただの散歩です」
言い訳するように、彼女は少しだけ唇を尖らせた。その表情は、普段の彼女からは想像もつかないほど幼く、無防備に見えた。
「市場は混雑する。危険だ」
事実を告げただけなのに、彼女は不満げな表情を隠そうとしない。
「危険な人間は、あなたの方が追い払ってしまうでしょう?」
からかうような声音。普段、誰に対しても毅然としている彼女が、こうして気軽に冗談を口にするのは珍しい。思わず口元が緩んだ。その瞬間、彼女の瞳が驚いたように瞬いた。
──まるで、自分だけがその微笑みを受け取ったかのように。私は、彼女を笑わせたいわけではなかった。ただ、彼女の言葉に、素直に反応しただけだ。だが、彼女のその反応が、私の心を温かくした。
後日、侯爵領内の小さな村で祝祭があると聞き、彼女は「どうしても行きたい」と言った。子供の頃に母とよく訪れた場所だという。当然、私は同行を申し出た。
村に着くと、そこは活気に満ちていた。色とりどりの旗が風に揺れ、屋台からは香ばしい匂いが広がっている。子供たちが走り回り、大人たちの笑い声が響く。そんな中、私はなぜか子供たちに囲まれていた。彼らは、私の剣に興味津々だった。
「おじさん、剣の稽古してくれる?」
一人の少年が、無邪気にそう尋ねた。
「おじさんじゃない、公爵だ」
訂正しながらも、私は腰を落とし、木剣を構える小さな手を取ってやる。子供たちが笑う声に混じって、彼女の小さな笑い声が聞こえた。
「……何だ」
私は振り返り、彼女に尋ねた。
「いえ、公爵が子供好きだなんて、意外で」
彼女はそう言って、楽しそうに笑った。
「好きというわけではない。ただ……守るべきものは、大人だけではない」
それは本心だった。彼女を笑わせるつもりはなかったのに、なぜか胸の奥が温かくなる。彼女の視線が、私の行動の裏側にあるものを理解してくれたように感じたからだろうか。
祭りの帰り道、少し遠回りをして、川辺で休むことにした。
夕暮れの茜色が水面に揺れ、彼女の横顔を照らしていた。私は、ただその景色を眺めていた。ふと、胸に引っかかっていた問いを口にする。
「君は、どうしてあの日……泣かなかったんだ」
彼女が視線をこちらに向ける。
「泣く……?」
「王太子殿下に婚約破棄を告げられたときだ。普通なら、取り乱すだろう」
「ああ……」
彼女は小さく息を吐いた。
「泣いたって、何も変わらないと思ったからです」
その声は驚くほど淡々としていた。あの日、彼女が毅然と立っていた理由。泣けば「悪役令嬢」として、その醜態が人々の記憶に刻まれる。それを拒んだからだと。私は言葉を失い、やがて小さく呟いた。
「……君は、強いな」
彼女は首を横に振った。
「強くなんてありません。ただ……見下されたまま終わるのが嫌なだけです」
川の流れを見つめながら語る彼女の横顔は、弱さと誇り高さを併せ持っていた。それが胸に刺さり、目が離せなかった。
彼女は、自らの人生を他人に決められることを拒否し、必死に自分の尊厳を守っていた。その姿に、私は深い感銘を受けた。それからも、彼女と会う機会は増えていった。王宮の茶会に同席したり、領地の案件で協力したり。気づけば、彼女が笑えば私も口元を緩め、彼女が困れば自然と手を差し伸べていた。
──心地よさ。
その言葉がしっくりくる。彼女の隣にいると、冷え切っていたはずの私の心が、少しずつ溶けていくような気がした。彼女と交わす何気ない会話が、日々の喧騒を忘れさせてくれた。ただ、その心地よさの正体がまだ掴めない。彼女を見ていると、確かに温かさを感じる。だが一方で、私は時折、自分に問いかけていた。
(本当に彼女を見ているのか? それとも、かつての“ヒロイン”の影を、彼女の中に探しているのか……?)
私はまだ、自分の感情に確信を持てずにいた。しかし、少なくとも今この瞬間、私の灰色の瞳に映っているのは──ローザリン・ヴェルディという一人の女性だけだった。
それは、物語から外れた私にとって、初めて見つけた「真実」なのかもしれない。