07.出会う理由
私は、偶然というものをあまり信じていない。人の出会いには必ずどこかに理由がある。それは、たとえ小さな偶発に見えても、積み重ねれば必然に変わるのだ。だが、彼女──ローザリン・ヴェルディ侯爵令嬢との再会については、私自身も少し訝しく思っていた。
最初はほんのすれ違いだった。王宮の廊下、王太子妃誕生の祝宴の余韻がまだ残るあの日。緋色のドレスを纏った侯爵令嬢が俯いて歩いていた。
彼女に声をかけ、交わした短い会話。その言葉のやり取り自体はごくありふれたものだった。だが、彼女の瞳の奥に宿っていた、私と同じ孤独の影が、なぜか私の心に強く残った。それから数日のうちに、私は何度も彼女と顔を合わせることになる。
王宮の庭園で、偶然出会った。木陰のベンチで静かに読書をする彼女の姿を、私は遠くから見つめていた。そして、彼女が立ち去ろうとするとき、私は自然と彼女の横に立っていた。
街へ出た際にも、王都一の蔵書を誇る本屋で、同じ棚に並び、同じ本へと手を伸ばした。互いの指先が触れ合った瞬間、彼女は慌てて手を引き、私を睨んだ。その視線には、警戒と、少しの困惑が混じっていた。
(……まるで、私がつきまとっているようだな)
内心で苦笑する。だが、そんな軽薄な真似をするつもりは毛頭なかった。私はそんな男ではない。それでも彼女に出会う頻度があまりに多く、神の悪戯を疑いたくなるほどだった。私は自分に問いかける。
──なぜ、これほどまでに彼女に目が行くのか。
答えは簡単だった。彼女もまた、“選ばれなかった者”だからだ。光の中心から外れ、社交界の冷たい視線に晒される存在。エリスを王太子に奪われた私と、エリスに王太子を奪われ婚約破棄された彼女。立場も境遇も異なるが、孤独を抱えている点では似ていた。
だから、放っておけなかった。彼女の姿を見るたびに、私自身の心の奥にある、未だ消えない虚無感が揺さぶられるのを感じていた。彼女が抱える孤独が、私の孤独と共鳴しているかのようだった。
事件が起こったのは、初夏の午後のことだった。私は王都の巡回を終えた帰りに、偶然、目に留まった小さな喫茶店へと足を向けた。北方の領地では滅多に味わえぬ、香り高い茶葉を扱うと聞いたからだ。
扉を押し開け、室内に入ったとき──視界の端に、見覚えのある栗色の髪が映った。ローザリンだ。窓際の席で、静かにカップを口に運んでいる。ドレスは簡素だが上品で、彼女の気品を損なうことはなかった。だが、その肩はどこか力なく見えた。思わず視線を向けたが、声をかける前に、別の声が彼女に降りかかった。
「……あら、ローザリン様じゃない?」
甘さを含ませた声音。それはクラウディア伯爵令嬢だった。彼女は取り巻きを従えて立っていた。彼女の名は知っている。かつて王太子妃候補の一人として、何度か顔を合わせたこともある。──人を値踏みする眼差しは、昔から変わらない。
「まあまあ、こんなところでお茶なんて。ご一緒してもよろしいかしら?」
その響きは“誘い”ではなく“侮蔑”だった。ローザリンは即座に断ったが、クラウディアは引かない。
わざとらしく彼女のドレスに視線を落とし、取り巻きと共に笑い声を上げた。
「相変わらず冷たいのね。──あら、そのドレス、去年の流行じゃなくて?」
くだらない。だが、くだらないからこそ始末が悪い。そういう些細な言葉が、彼女のように噂の渦中にいる人間をさらに追い詰める。ローザリンは毅然とした態度を取っていた。
「流行は追うものではなく、選ぶものですわ」と、背筋を伸ばして返したその姿は、誇り高く、美しかった。彼女は、まるでこの世界が与えた「悪役」という役割に、必死に抗っているようだった。──だが、黙って見過ごすわけにはいかなかった。
彼女が受ける侮辱は、私自身の過去の痛みを呼び起こした。私は、彼女を守るという、本能的な衝動に突き動かされていた。
「……下品な真似はおやめなさい」
低く響いた自分の声に、クラウディアが振り返る。その顔から血の気が引いている。
「グ、グレイシア公爵……」
「侯爵令嬢に無礼を働くとは、伯爵家の教育も落ちたものだな」
静かに告げただけだった。それでも彼女と取り巻きは青ざめ、慌てて店を飛び出していった。残されたのは、呆然と立ち尽くすローザリンと、私。彼女はやがて小さく息を吐き、私を見上げた。
「……助けていただいて、ありがとうございます」
礼儀正しい声。だがその奥に、わずかな警戒が滲んでいた。私は首を横に振った。
「礼はいらない。ただ……君は、もっと自分を守るべきだ」
そう口にしながらも、私は怒りを抑えきれなかった。彼女に浴びせられた嘲笑は、まるで自分自身に向けられたもののように感じられたのだ。私は彼女の前に腰を下ろし、紅茶を注文した。彼女の目がわずかに見開かれる。
「一人で出歩くのは、今の君には危険だ。君の立場は、まだ完全には回復していない」
「……分かっています。でも、家にいても息が詰まりますから」
小さく漏らしたその声には、孤独と諦めが混ざっていた。それを聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。彼女の孤独が、私の心の虚無感を埋めてくれるような、不思議な感覚に襲われた。
「なら、護衛をつけろ。──もしくは、俺が付き添う」
自分でも唐突だと思う。だが言葉は止められなかった。彼女は驚いたように瞬きをし、問い返す。
「……どうして、そんなことを?」
「君は……放っておくと、また何かやらかしそうだ」
真実だった。彼女の気丈さと危うさ、その両方を見てしまったからこそ、放置できなかった。ローザリンは思わず笑った。それは自嘲か、呆れか、それともほんの少しの安堵か──私には分からない。
だが、彼女が笑った瞬間、胸の奥が不意に温かくなった。その笑みは、エリスの眩しい笑顔とは全く違う、私の心だけに響く、特別なものだった。
それから、私は本当に彼女の外出に付き添うようになった。不本意な縁。そう呼ぶのが正しいのかもしれない。彼女と交わす何気ない会話が、不思議なほど心を和らげてくれるのだった。気づけば、私は自問していた。
(この感情は……エリスに抱いたものと同じなのか?)
答えは否だった。彼女を見つめるとき、私は決して過去の影を追っていない。
灰色の瞳が映すのは、ただ目の前のローザリンだけだ。そしてその視線を、私はもう逸らせなくなっていた。