05.新しい物語
レオンハルトから告げられた言葉が、決して一時的な感情や同情からくるものではないと分かってから、私の日々は驚くほど穏やかに、そして確実に変わっていった。
彼は公務の合間にも時間を作り、私を食事や散歩に誘ってくれる。それはもはや、護衛の延長のようだったこれまでの行動とは明らかに違っていた。彼の視線、言葉、そして不器用な優しさの一つひとつが、私との未来を真剣に考えていることを示していた。以前の私は、彼の視線の奥に、エリスの影を探して不安になっていた。だが、今はもうそんなことはない。彼の視線は、私という人間そのものに向けられていた。その事実に、私は大きな安堵を感じていた。
そして、その日は突然に、しかし、必然的に訪れた。
侯爵家の応接室に現れたレオンハルトは、いつもより正装に近い、紺色のベルベットのジャケットを身につけていた。その姿は、北方の公爵という威厳に加え、特別な緊張感を纏っていた。父と母が座るテーブルを挟んで、彼は私と向き合う。父は無表情のまま、母は少し不安そうに、私たちを見守っていた。レオンハルトは深呼吸を一つすると、真っ直ぐな声音で告げた。
「ローザリン・ヴェルディ侯爵令嬢を、私の妻として迎えたい。正式に、婚約を申し込ませていただきたい」
短く、しかし揺るぎない言葉。彼の言葉には、一切の迷いがなかった。父は一瞬だけ目を見開き、それから静かに笑った。
「……公爵、あなたは変わった。かつては王太子殿下を追いかけ、現王妃を守っていた男が、今や私の娘を妻に迎えたいとはな」
父の言葉に、レオンハルトは少しだけ視線を伏せた。
「はい。不本意ながら、かつての私は、私の心に従うことができませんでした。しかし今は、私の心が、ローザリン嬢を求めています」
その言葉は、私にしか聞こえないほどの小さな声だった。だが、その言葉に、父は満足そうに頷いた。
「……あの婚約破棄以来、ローザリンは社交界で孤立していた。だが、グレイシア公爵の名があれば、誰も私の娘を軽んじはしないだろう」
父はそう言って、私に視線を向けた。
「ローザリン。お前の意思次第だ」
全ての視線が私に向く。私は胸の奥に溜まっていた、この数か月間の迷いや不安を、全て吐き出すように、はっきりと答えた。
「……私でよければ、喜んで」
その瞬間、レオンハルトの表情がわずかに緩んだ。
それは、彼が見せた中で一番穏やかで、優しい笑みだった。彼の表情が緩むと、場の空気も一気に和らいだ。母は目に涙を浮かべ、父は満足そうに頷いていた。
「グレイシア公爵。娘を、頼んだぞ」
「はい、お任せください」
レオンハルトはそう言って、深く頭を下げた。私は彼の言葉とその姿に、心の底から安堵し、そして、幸せを感じていた。婚約発表は、王都の社交界に小さな嵐を巻き起こした。
「悪役令嬢」が「公爵夫人」として、社交界に復活する──その話題は、あっという間に広まった。かつて私を嘲笑していた貴族たちは、手のひらを返したように私に媚びへつらい、賞賛の言葉を並べた。昼餐会で私を侮辱したクラウディアも、その噂を耳にして青ざめたらしい。けれど私は、彼女に何も言わなかった。もう過去にしがみつく必要はない。私の隣には、揺るぎない味方がいるのだから。
そして、その過去もまた、今の私を形作った大切な時間だったのだと、私は思えるようになっていた。婚約披露の夜、私はレオンハルトに誘われ、庭園に出た。満開の白薔薇が月明かりに照らされ、幻想的な光景を作り出している。
「……君と出会ってから、俺は自分が思っていたよりずっと、不器用な男だと知った」
レオンハルトは、そう言って、少しだけ苦笑した。
「そんなことはありません。あなたは……とても真っ直ぐです」
私がそう言うと、彼は私の手を取った。
「ローザリン、俺はもう二度と……君を一人にはしない」
その声は、約束というより、誓いのように響いた。私は頷き、彼の手を強く握り返した。
あの日、王太子殿下に婚約を破棄された玉座の間で、私は一人だった。だが、今はもう、一人ではない。
あの“ゲーム”の中で、私たちは決して交わらなかった。でも、物語が終わった後──現実で、私たちの物語が始まったのだ。
数日後、王太子妃エリスから手紙が届いた。美しい便箋に、彼女らしい、丸みを帯びた可愛らしい文字で、短くこう書かれていた。
『ローザリン様へ
この度は、ご婚約お祝い申し上げます。
新しい道を歩み始められたこと、心から嬉しく思います。
あの時とは違う、心からの笑顔で過ごせますように。
いつか、お二人揃ってお茶会にいらしてくださいね。
エリスより』
その文字を見たとき、私は初めて心からエリスを祝福できた。もう、私たちは互いの“敵役”ではない。過去のしがらみや、ゲームの役割から解放された私たちに、残されたのは、ただの友情だった。──これからは、ただの友人として会えるかもしれない。私は、そう思えるようになっていた。
春の終わり、私とレオンハルトは正式に婚姻届を出した。新しい公爵夫人としての務めは多いが、隣に彼がいるだけで、不思議と怖くはなかった。
ある夜、執務室で書類の山に向かっていた私に、彼が後ろから声をかけてきた。
「おい、また無理をしているな」
振り返ると、あの日と同じ灰色の瞳が、まっすぐ私を見ていた。
「……少し、考え事をしていただけです」
「無理はするな。お前は、一人で抱え込みすぎる」
彼はそう言って、私の肩に優しく手を置いた。かつて“あぶれたヒーロー”だった彼と、“悪役令嬢”だった私。ゲームのシナリオから外れた二人が、こうして並んでいる。
私たちの物語は、誰も予想しなかった形で始まった。だがそれは、私たち二人だけの、かけがえのない物語だった。──私たちのハッピーエンドは、これからずっと続いていく。