04.衝突と気付き
その日、私は気が進まないまま、とある伯爵夫人の主催する昼餐会へ出席していた。社交界の中でも大きな影響力を持つ人物で、その誘いを断れば、侯爵家としての立場にさらに傷がつく。父からの厳命だった。レオンハルトは北方の政務で不在。護衛騎士団の中から選ばれた数名を連れて、私は重い足取りで会場に足を踏み入れた。案の定、というべきか。会場に入った瞬間から、私に向けられる視線は冷ややかで、中には明らかに嘲笑を含んだものもあった。
「まあまあ……あの方、まだ王都にいるのね」
「本当に図太いわ。殿下に婚約破棄されても、まだ笑っていられるなんて」
背後で、抑えたつもりのひそひそ声が、耳に刺さる。
振り返らなくても、誰が話しているか分かった。クラウディアとその取り巻きたちだ。
(……また、あなたたち)
私は何も聞こえないふりをして、与えられた席へと向かった。ここで言い返せば、彼女たちの思う壺だ。悪役令嬢として騒がれ、また周囲の憐憫と好奇心を煽るだけ。私はただ、静かに、この場をやり過ごしたかった。だが、彼女たちは私を放ってはくれなかった。
「それにしても、ドレスも宝石も地味になったわね。もう贅沢はできないのかしら」
「まあ、殿下のお情けで侯爵家に居座っているだけですものね。仕方ないわ」
笑い声が、さらに耳に深く突き刺さる。私は呼吸を整え、震える手でグラスを口に運んだ。その瞬間、私の心の中で、何かが崩れ落ちる音がした。もう、耐えられそうになかった。この屈辱に、どうして私はいつも耐えなければならないのだろう。そう思い始めた時だった。
「……不愉快だ」
低く、氷のように冷たい声が、会場を震わせた。振り向くと、そこには──不在のはずのレオンハルトが立っていた。彼の灰色の瞳は、鋭く光り、クラウディアたちを射抜いていた。
「グレイシア公爵様……!」
クラウディアは顔色を失い、持っていた扇子を落とした。レオンハルトはゆっくりと歩み寄り、私を囲んでいたクラウディアたちを見下ろした。彼の背後には、彼が連れてきたであろう、無表情の護衛たちが控えている。その威圧感は、会場のすべての人間を黙らせるには十分だった。
「侯爵令嬢に対する無礼は、私への無礼でもある。覚えておけ」
その一言で、会場の空気が凍りつく。クラウディアは震えながら謝罪し、取り巻きたちと共にそそくさと立ち去った。
レオンハルトは、彼女たちの背中を冷たく見送ると、今度は私の方へ向き直った。私は呆然と立ち尽くしていたが、彼は私の手首を掴み、人目につかないよう、人気のない廊下へと連れ出した。
「……どうしてここに?」
私の質問に、彼は怒りに満ちた表情で答える。
「急ぎの用が片付いた。……それより、君はどうして黙って耐えていた」
彼の声には、私を心配する感情と、自分を責めるような感情が混じり合っていた。
「言い返せば、また『悪役令嬢』だと騒がれますから。そうやって、周りの人たちに、嫌な噂を広められるのが……嫌だったんです」
私の言葉は、震えていた。
「馬鹿な……そんなことを気にする必要はない!」
彼は私の手首を掴む力を強めた。
「君が何を言われようと、俺は……君がそんな人間ではないと知っている。それを、なぜ君は理解しないんだ」
灰色の瞳が、怒りに揺れていた。その視線は、社交界で私が向けられてきた、どの視線とも違う。憐憫でもなく、好奇でもない。私を否定する色も、見下す色も、どこにもなかった。ただただ、私を守ろうとする色。その視線に、私は涙が出そうになった。
「……どうして、そこまでしてくれるんですか」
私は震える声で尋ねた。
「俺は……ただの護衛騎士でも、あなたの同情を買う相手でもない。あなたは……」
言葉が詰まる。
「私は、エリス様の代わりじゃ……ないんですか?」
その言葉を口にした瞬間、私の心臓が凍りついた。ずっと聞きたかったこと。ずっと怖くて聞けなかったこと。彼の瞳の奥に、もしもヒロインの面影を見つけたら、私はきっと立ち直れない。そう思ったのに、私は彼から目を離すことができなかった。レオンハルトは、一瞬言葉を失った。そして、深いため息をつくと、私の手をそっと離した。
「……違う」
彼は静かに、しかし、はっきりと答えた。
「俺は、エリスの代わりを求めているわけじゃない」
彼は私の両肩に手を置き、まっすぐに私を見つめた。
「俺は……君じゃなきゃ嫌だと気づいた」
その瞬間、私の胸の奥が熱くなった。ずっと心のどこかで疑っていたこと──彼がヒロインの影を追っているのではないかという不安──が、音を立てて崩れていく。
私が彼と過ごした、穏やかな日々。市場で笑い合ったこと。村の子供たちと触れ合う彼の姿。川辺で語り合った夕暮れ。それは、決してエリスとの思い出の代替などではなかった。
「ローザリン、君は強い。誰に何を言われても、決して屈しない芯の強さがある。賢くて、誰よりも周りを見て、そして……それでいて、本当は一人で泣きたい夜もあるんだろう」
彼の言葉は、私の心を優しく撫でた。
「俺は、その全部を知って、全部守りたい」
言葉が出なかった。ただ、彼の手が私の頬に触れ、優しく撫でる感触だけが、はっきりと残った。彼の指先は、ひどく冷たかった。だが、その手から伝わる熱は、私の心を溶かしていくようだった。
「……信じられない」
私の言葉に、彼は少しだけ笑った。
「それでいい。俺は、君が信じてくれるまで、何度でも言う。君は、俺の唯一だ」
その言葉は、かつて玉座の間で、王太子殿下がエリスに告げた言葉と、同じだった。だが、その響きは、まったく違っていた。彼の声は、私の心に、真実として深く刻まれた。昼餐会の後、私たちの距離は決定的に変わった。
以前のような、護衛と依頼人、という関係ではもうなかった。レオンハルトは、公的な場でも私を隣に置くようになり、私たちの関係は社交界の新たな噂の的となった。
彼は時折、真剣すぎる視線を向けてくる。その熱に、私は心臓が跳ねる。そして私は、その視線が私だけに向けられていることを、初めて信じることができた。それは、かつて「悪役令嬢」と呼ばれた私にとって、初めて手に入れた「幸せ」だった。
──しかしこれはまだ、物語の始まりに過ぎなかった。この関係を公のものとするには、まだいくつもの障壁がある。そして、私たちの物語は、まだ始まったばかりなのだ。