03.縮まる距離
レオンハルト・グレイシア公爵が、まるで私の専属護衛のように外出に付き添うようになってから、三週間ほどが経った。
最初のうちは、侯爵家の令嬢として行動を常に監視されているようで、窮屈に感じたものだ。しかし、この三週間で、その感覚は徐々に薄れ、今では彼が隣にいることが当たり前になりつつあった。
例えば、市場の視察。侯爵令嬢が市場に赴くなど、貴族社会では考えられないことだった。だが、私は幼い頃から家に出入りしていた古くからの商人の店に、どうしても顔を出したかった。人目に付かないよう、こっそり出かけようとしたのだが、もちろん、うまくいくはずもなかった。
「また抜け駆けしようとしていたな」
背後から、低い、それでいてよく響く声が聞こえた。振り向くと、そこに立っていたのは、いつものように鎧を身につけたレオンハルトだった。彼は腕を組み、私をじっと見つめている。
「……抜け駆けじゃありません。ただの散歩です」
私は、言い訳じみた言葉を口にした。
「市場は混雑する。危険だ」
彼は表情を変えることなく、淡々と告げた。その言葉は、まるで私の安全を最優先に考えているかのように聞こえた。
「危険な人間は、あなたの方が追い払ってしまうでしょう?」
私が少しからかうように言うと、彼の口元が、ほんの一瞬だけ緩んだ。それは、王都の令嬢たちを虜にしてきた、滅多に見せない微笑みだと噂されている。だが、間近で見たそれは、妙に、私だけに向けられている気がした。
その日、彼は私が市場で買い物を終えるまで、ずっと付き添ってくれた。私が知人と楽しそうに話している間も、彼は離れた場所から静かに見守っていた。彼といると、不思議と私は素の自分に戻れる気がした。
そんなある日、思いがけず彼の別の一面を見た。侯爵家の領地にある小さな村で、年に一度の祝祭が開かれるという話を聞き、私はどうしても行きたくなった。母の実家がその近くにあり、幼い頃、よく連れて行ってもらった場所だったからだ。当然のようにレオンハルトが同行を申し出る。
村に着くと、そこは別世界だった。色とりどりの旗が風に揺れ、屋台からは香ばしい香りが漂ってくる。子供たちが走り回り、大人たちは笑い声を響かせている。その賑わいの中で、レオンハルトは意外にも子供たちに囲まれていた。
「おじさん、剣の稽古してくれる?」
一人の男の子が、木剣を構えて彼に挑んだ。
「おじさんじゃない、公爵だ」
彼は真面目な顔でそう言いながらも、腰を落とし、子供の持つ木剣に合わせて、ゆっくりと自分の剣を構えてやる。普段は無表情気味な彼が、珍しく柔らかな目をしているのを見て、私は思わず笑ってしまった。
「……何だ」
彼は振り向き、怪訝な顔で私を見た。
「いえ、公爵が子供好きだなんて、意外で」
私がそう言うと、彼は「好きというわけではない」と、どこか不器用な様子で答えた。
「ただ……守るべきものは、大人だけではない」
その言葉は、妙に私の胸に残った。彼は、ただ目の前の子供たちを守ろうとしている。その純粋な眼差しは、ゲームのキャラクターとしての彼ではなく、一人の人間としての彼の姿だった。
祭りの帰り道、少し寄り道をして、村の裏手にある川辺で一休みすることになった。夕暮れが水面に反射し、辺り一面が茜色に染まっている。私は、ただその景色を眺めていた。そんな中、唐突に、彼が口を開いた。
「君は、どうしてあの日……泣かなかったんだ」
「泣く……?」
彼の言葉の意味が分からず、私は聞き返した。
「王太子殿下に婚約破棄を告げられたときだ。普通なら、取り乱すだろう」
私は静かに、あの日を思い出した。玉座の間で、私はただ立っていた。周りからは、憐憫と好奇の視線が向けられていた。
「ああ……泣いたって、何も変わらないと思ったからです」
私の声は、思ったよりもあっさりしていた。あの日、私は泣く代わりに、必死で立っていた。泣けば、きっと「悪役令嬢」の姿として、私の人生の最後が記憶される。それが、何よりも嫌だったのだ。
「……君は、強いな」
彼はそう言って、黙って川の流れを見つめた。
「強くなんてありません。ただ……見下されたまま終わるのが嫌なだけです」
私の言葉に、彼は何も返さなかった。だが、その横顔が、ほんの少しだけ、優しく緩んでいた。このとき、私は初めて、彼が私という人間を、きちんと見てくれているのだと、確信に似た感情を抱いた。
彼の心の中にある虚無感は、まだ消えていないのかもしれない。だが、その虚無感を埋めるように、彼の視線は、私という存在に向けられている。それは、ゲームのシナリオには存在しない、私だけのものだった。
それからも、私たちは何度も会った。王宮の茶会で同席したり、領地の案件で協力したり。
気づけば、私が笑うと彼も口元を緩め、私が困るとすぐに手を差し伸べてくれるようになっていた。まるで、私の感情に寄り添うように。
社交界では、私たち二人の関係が噂になり始めていた。
「ヴェルディ侯爵令嬢が、グレイシア公爵を誑かした」
「いや、公爵は殿下の寵愛を失った令嬢に同情しているだけだ」
冷ややかな視線と、好奇心に満ちた言葉が、私の耳に届く。だが、私はもう、それに怯えなくなっていた。レオンハルトの隣にいると、なぜかどんな噂も、怖くなかった。
ある日の午後、レオンハルトの執務室で、私たちは領地経営についての書類を読んでいた。
「……この部分は、こう修正した方がより効率的だと思います」
私がそう言うと、彼は驚いたように私を見た。
「君は、本当に優秀だな。まさか、そこまで見抜くとは」
「昔は、王太子殿下のため、と無理やり勉強させられましたから。その癖が抜けないだけです」
そう言って自嘲気味に笑った私に、彼は真剣な眼差しを向けた。
「それは違う。君は、誰のためでもなく、自分のために優秀なのだ」
その言葉は、私の心を温かく満たした。彼は、私の過去を知りながらも、私を「悪役令嬢」としてではなく、「ローザリン」として見てくれている。
けれど、その温かさの奥には、まだ何かが引っかかっている。
彼は本当に、私を見ているのか──それとも、彼の心の中にある、かつてのヒロインの影を、私の中に探しているのか。彼の優しい眼差しが、私という人間そのものに向けられているのか、それとも、別の誰かの代替として、私を求めているのか。
その答えは、まだ分からなかった。この穏やかな日々が、いつか崩れてしまうのではないかという、漠然とした不安が、私の胸の内に燻り続けていた。