02.不本意な縁の始まり
レオンハルト・グレイシア公爵との再会は、本当に偶然だったはずだ。そう、初めのうちは。晩餐会での短い会話以来、私の生活の中に彼が現れる頻度は、日に日に増していった。それはもう、運命のいたずらとでも言いたくなるほどに。
最初は、社交場で偶然すれ違うだけだった。次に、王宮の庭園を散歩しているときに、向こうからやってきては、短い挨拶を交わす。そして、数日後には、王都一の蔵書を誇る図書館で、同じ歴史書の棚を挟んで手を伸ばし、互いの指先が触れ合うという、まるで物語のような出来事まで起きた。世間では、こういうのを「運命」と呼ぶのかもしれない。しかし、当時の私の心は、うんざりとした感情に支配されていた。
(……何なの、この頻度。わざとじゃないでしょうね)
そう疑わずにはいられなかった。私は「悪役令嬢」として、社交界で完全に孤立している。にもかかわらず、公爵という地位を持つ彼が、なぜ私とこれほどまでに接触を繰り返すのか。もし、私がエリスに似ていたなら、まだ理解できたかもしれない。だが、私の漆黒の髪と、深い青の瞳は、エリスの蜂蜜色の髪と、柔らかな茶色の瞳とは、あまりにもかけ離れていた。彼の態度は、あくまで自然だった。私にわざとらしく話しかけるでもなく、常に冷静で、そしてどこか物悲しげな空気を纏っていた。まるで、彼自身もこの偶然の連続に戸惑っているかのように。
「また、お会いしましたね」
「本当に偶然だ」
そう言って、彼はいつも、言葉少なに私と少しの時間を共有する。その短い時間の中で、私は彼の内に秘められた、行き場のない虚無感を感じ取っていた。そして、それは、かつて私が抱いていた「台本に縛られた」虚無感とは、また少し違う種類のものだと感じていた。彼は、エリスを失った悲しみを、私に重ねているのだろうか? そう思うたびに、私の心はざわついた。だが、彼の視線は、エリスの影を追っているようには見えなかった。ただ、まっすぐに、私という存在を見つめている。その視線から、私は逃れられなくなっていた。
そんなある日、思わぬ事件が起こった。初夏の午後。私は、賑わう街の中心部から少し離れた、小さな喫茶店を訪れていた。侯爵令嬢が一人で出歩くのは、この国では珍しいことだ。父には固く禁じられていたが、どうしても家から離れたかった。社交界での息苦しさから逃れたかった。窓際の席に座り、お気に入りの紅茶を一口含み、静かな時間を楽しんでいると──。
「……あら、ローザリン様じゃない?」
背後から、聞き覚えのある甘ったるい声が降ってきた。振り返ると、そこにはクラウディア・マルキオ伯爵令嬢と、その取り巻きたち。彼女はかつて、王太子妃候補の一人として、私をあからさまに敵視していた女だ。エリスの登場により、彼女もまた王太子の関心を失った一人だった。
「まあまあ、こんなところで一人きりでお茶なんて。ご一緒してもよろしいかしら?」
その言葉には、親切心など微塵も含まれていない。私を嘲笑うための、ただの口実だった。
「……お断りします」
私は、即答した。すると、クラウディアは口元に手を当てて、嫌らしい笑みを浮かべた。
「相変わらず、冷たいのね。ご自分のお立場を、まだ分かってらっしゃらないのかしら?」
取り巻きたちが、くすくすと下品に笑う。クラウディアは、さらに私の身なりを品定めするように視線を向けた。
「あら、そのドレス、去年の流行じゃなくて? 侯爵家も、ずいぶん大変なのね」
その言葉は、私の心をチクチクと刺した。流行を追うことに意味はない。それは、父が私に教えた貴族の矜持だ。私は背筋を伸ばし、彼女たちを見下ろすように視線を上げた。
「流行は追うものではなく、選ぶものですわ。私が気に入っているものを、とやかく言われる筋合いはありません」
そう言って席を立とうとした、その時。
「……下品な真似はおやめなさい」
背後から、低く、しかし鋭い声が響き、店内の空気が凍った。振り返ると、入口に立っていたのは、レオンハルト・グレイシア公爵、その人だった。彼の灰色の瞳は、氷のように冷たく、クラウディアたちを射抜いていた。クラウディアの顔色が変わる。彼女は、まさかこの場で公爵に出くわすとは思っていなかったのだろう。
「グ、グレイシア公爵……」
「侯爵令嬢に無礼を働くとは、伯爵家の教育も落ちたものだな。それとも、よほど暇を持て余しているのか?」
彼の、感情を乗せない淡々とした言葉が、かえって威圧感をもってクラウディアにのしかかる。彼女は真っ青になり、何も言い返せないまま、そそくさと店を出て行った。取り巻きたちも、慌てて後を追う。私は呆然と立ち尽くし、やがて彼を見上げた。
「……助けていただいて、ありがとうございます」
「礼はいらない」
彼はそう言って、私の前に座り、店員に「いつものものを」と、勝手に紅茶を注文した。
「ただ……君は、もっと自分を守るべきだ」
淡々とした口調だった。しかし、彼の灰色の瞳の奥には、確かに怒りの炎が燃えているように見えた。
「一人で出歩くのは、今の君には危険だ。君の立場は、まだ完全には回復していない」
彼の言葉は、正論だった。だが、私には家にいることも苦痛だった。
「……分かっています。でも、家にいても息が詰まりますから」
そう吐き出すと、彼は静かに私を観察した。そして、まるで何かを決意したかのように、まっすぐな視線で私を見つめ返した。
「なら、護衛をつけろ。──もしくは、俺が付き添う」
その言葉に、私は思わず瞬きをした。
「……どうして、そんなことを?」
「君は……放っておくと、また何かやらかしそうだ」
あまりにも直球すぎて、思わず笑ってしまった。レオンハルトは、眉をひそめたが、私の笑みを否定はしなかった。そして、彼は続けて言った。
「それに……君は、放っておけない。まるで、昔の自分を見ているようだ」
その言葉の真意は分からなかった。だが、その日から、彼は本当に私の外出に付き添うようになった。侯爵令嬢と公爵が連れ立って街を歩けば、当然、注目の的となる。だが、不思議と彼といるときは、社交界での冷たい視線も、陰口も、弱まる気がした。公爵の威光は、やはり絶大だった。しかし、その安堵感と同時に、私は妙な違和感を抱き始めていた。
(この人……本当にエリスの影を追っているわけじゃないの?)
彼の視線は、常にまっすぐ私に向けられている。ヒロインの面影を重ねているような曖昧さはない。彼は私の言葉に耳を傾け、私の表情を観察し、私の話に反応する。それは、私という人間そのものに関心を持っている視線だった。
ある日、私が「ゲーム」の話を、うっかり口に出してしまったことがあった。
「……まるで、この世界にいる誰もが、それぞれの役割を演じているみたいですね」
そう言った私に、彼は真剣な眼差しで問いかけた。
「役割、だと? 君は、自分の人生を、何かの物語の登場人物だとでも思っているのか?」
私は咄嗟に言葉を濁したが、彼の問いかけは、私の心の奥深くにある秘密に、初めて触れたようだった。彼の視線は、私を「悪役令嬢」としてではなく、「ローザリン・ヴェルディ」として見つめている。そして、私は、その視線から、もう逃れることができなくなっていた。
レオンハルトは、いつしか私の苦手な人ではなくなっていた。彼の不器用な優しさに触れるたび、私は心の奥に閉じ込めていた何かが、少しずつ解き放たれていくのを感じていた。
それは、ゲームのシナリオには存在しない、新しい物語の始まりだった。