15.君こそ私の唯一
夜の庭園は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。騎士団の詰所から聞こえるわずかな物音さえも、この場所には届かない。私は、木々のざわめきと、遠くで囁くような風の音だけが響く空間で、ただ一人の女性を待っていた。
クラリッサをこの場所に呼び出した。彼女との縁談が、すでに貴族の間で囁かれていると知ったからだ。もう、猶予はなかった。このまま時が過ぎれば、彼女は私の手の届かない場所へ行ってしまう。王太子殿下が、エリス嬢を「唯一」と定めたように、私もまた、己の唯一を選ぶ決意を固めたのだ。
やがて、月明かりに照らされて、彼女は庭園の入り口に現れた。長い金の髪が、夜の闇の中で月光を反射してきらめく。淡い青のドレスの裾を揺らしながら、ゆっくりと、私のいる場所へと歩み寄ってくる。その姿は、まるで月の女神のようだった。
「エルンスト……どうしたの? こんな時間に」
私の姿を見つけた彼女は、不思議そうに問いかけた。その穏やかな声を聞いた瞬間、喉が詰まる。昼間はあれほど流暢に喋れたはずの言葉が、ひとつも出てこなかった。胸の鼓動が、自分の意思とは関係なく激しく脈打つ。だが、ここで逃げてはならない。私は己の決意を、今こそ言葉にしなければならない。
「クラリッサ。お前の縁談の話が進んでいると聞いた」
私の言葉に、彼女の表情にわずかな緊張が走った。
「……ええ。父が乗り気でね。相手は、噂通り以前の舞踏会で会った方よ」
彼女は淡々と答える。その声は、感情を一切含まないように聞こえた。
「私はまだ……答えを出してないけれど」
その言葉の裏で、彼女は何を考えているのか。もし本当に、他の男に心を傾けているのだとしたら――。考えただけで、胸の奥がひどく締めつけられた。
私は、焦燥に駆られるまま、彼女に詰め寄った。
「……それは、受けるつもりなのか」
問いかける声は、予想以上に低く、そして切迫していた。
クラリッサは少し驚いたように目を見開く。その瞳には、困惑と、ほんの少しの期待が入り混じっているように見えた。
「どうして、そんなことを聞くの? あなたには、関係のないことでしょう?」
彼女の言葉は、まるで氷のように冷たかった。それは、私への問いかけではなく、彼女自身が私にかけた、最後の期待を断ち切ろうとしているように感じられた。
「……それが、許せないからだ」
胸の奥から溢れ出す言葉を、もう抑えきれなかった。それは、騎士としてではなく、一人の男としての、私自身の本心だった。
「私は……ようやく気づいた。お前が他の誰かのものになると考えただけで、胸が痛む。その痛みが、私をこれほどまでに乱すのだと」
私は、ただひたすらに、ありのままの感情を言葉にした。
「エリス嬢への想いは、憧れだった。だが、お前への感情は違う。それは、私が生きていく上で、なくてはならないものだ。お前を失うくらいなら、騎士団長の地位も、侯爵家の名誉も、何もかも捨てても構わないと、そう思えるほどに……」
クラリッサの瞳が、大きく揺れる。月光を受けてきらめくその瞳に、私は真っ直ぐに、ありったけの想いを込めて告げた。
「クラリッサ。お前こそ、私の唯一だ」
沈黙。
その瞬間、世界からすべての音が消え去ったようだった。ただ、夜風が木々を揺らす、かすかな音だけが響く。私の言葉が、彼女の心に届いたのか、それともただの戯言として響いているのか。不安と、しかし確かな覚悟が、私の心を支配した。次の瞬間、クラリッサの頬に、一筋の涙が伝った。
「……遅いのよ、いつも」
彼女はそう呟くと、微笑んだ。泣きながら、笑っていた。その笑顔には、長年の苦悩と、そしてようやく報われた喜びが混じり合っていた。
「あなたが剣ばかり追いかけてる間に、私は、あなたに届くように何度も手を伸ばそうとしたのに。何度も言おうとしたのに。“私を見て”って。……でも、やっと言ってくれた」
彼女は一歩、私に近づく。たった一歩、しかしそれは、二人を隔てていた長年の隔たりを飛び越える、大きな一歩だった。そして、私の目の前で、彼女はそっと囁いた。
「――私も、あなただけよ。私の唯一は、ずっとあなただった」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあったすべての緊張が一気にほどけた。世界が、色を取り戻したかのように鮮やかに見えた。気づけば私は、無意識に彼女の手を取っていた。幼き日から、何度も、何度も触れたはずの手。だが今は、そのぬくもりが、何よりも大切なものとして感じられた。
「……すまない。不器用な私を、ずっと待たせてしまった。だが、もう二度と手放さない。私の唯一は、私自身が、この手で守り抜くと誓う」
私の言葉に、クラリッサは、涙を拭いながら微笑んだ。
「ええ、期待してるわ。私の、不器用な騎士様」
二人の間に、ようやく本当の想いが交わされた。王太子殿下が選んだ「唯一」がエリスならば――。私の「唯一」は、クラリッサ。それは、誰にも代えることのできない、私だけの光だった。
これから先、侯爵家の当主として、騎士団長として、そして一人の男として、どれほどの困難が待っていようとも、彼女となら乗り越えていける。夜空の星々が、まるで二人の結びつきを祝福するように、瞬いていた。




