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エンディングの向こう側で  作者: 宮野夏樹
case3.攻略対象、エルンスト・シュヴァルツァー
14/15

14.唯一の意味


 あの夜、クラリッサが去っていった後、私は庭園に一人残された。月明かりの下、夜風は冷たく、私の心をさらに凍てつかせるようだった。クラリッサが別の男に求婚された――ただそれだけの噂なのに、その事実が私をこれほどまでに揺さぶるとは、自分でも信じがたいことだった。


(なぜだ……なぜこれほど、心が乱される?)


 翌日から、私は執務に没頭しようと努めた。騎士団の書類を片付け、訓練の計画を立て、部下の指導にあたる。本来ならば、そうした日々の務めが、私の心を平穏な状態に保つはずだった。しかし、思考はたびたび、彼女の笑顔や、月明かりの下で見たどこか寂しげな瞳に引き戻されてしまう。


 彼女が、とある若い侯爵家の三男と舞踏会で踊る姿を想像するだけで、落ち着きを失った。軽やかにステップを踏み、楽しげに微笑む彼女の姿。その隣にいるのが、私ではない別の男だというだけで、胸の中に燃え上がるような、苛立ちと焦りが湧き上がってくる。彼女が誰かの妻になる未来を考える。彼の名を呼び、彼のために微笑み、彼の隣に立つ。そんな光景を想像すれば、胸の奥がひどく締めつけられ、言いようのない痛みに襲われた。


(私は、あれほど冷静を保てるはずの私が……なぜこれほど、彼女に執着する?)


 エリス嬢への淡い感情とは、また違った種類の痛みだった。それは、もっと身近で、もっと深く、そして私自身の存在の根幹を揺るがすような、鋭い痛みだった。


 そのとき、不意に私の脳裏に、数日前の王宮での出来事が鮮やかに蘇った。王太子殿下が、エリス嬢に向かって放った、あの揺るぎない言葉。


「――君は私の唯一だ」


 あの宣言。一切の迷いもなく、エリス嬢だけを見つめる、揺るぎない眼差し。私は胸を刺されるような思いでそれを聞いた。自分には決して辿り着けない、特別な領域だと、そう思っていた。だが、今なら少しだけ、分かる気がした。


(唯一……それは、誰にも代えられぬ存在のことか)


 もしクラリッサを失ったなら。彼女が、私の人生から、完全にいなくなってしまったなら。私の日常は、どうなるのか。


 幼き日、剣の稽古に没頭する私に、「エルンスト、休むことも覚えて」と声をかけてくれた彼女。初めて任務で傷を負い、落ち込んでいる私に、何も言わずに温かい紅茶を淹れてくれた彼女。侯爵家の当主となった私に、誰よりも厳しい言葉をかけながらも、誰よりも深い愛情を注いでくれた彼女。気づけば、私の人生の節目には、いつも彼女の姿があった。彼女は、まるで当たり前のように、私の隣にいた。空気のように、水のように、存在するのが当然のようだった。


 だからこそ、私はその存在の大きさに、気づこうとしなかった。いや、気づかなかったのだ。想像しただけで、言いようのない空虚さに襲われる。まるで、自分の片腕がもぎ取られたかのように。私は剣を支えに生きてきた。忠義を支えに生きてきた。だが、その傍らには、いつも彼女がいた。気づかなかっただけだ。私にとって、クラリッサこそが――唯一。


「……今さら、気づくとはな」


 思わず、自嘲気味な苦笑が漏れる。あまりにも愚かだ。あまりにも不器用だ。己の心を理解できず、他者の幸福を祝福することもできず、ただ苛立ちと焦燥に駆られていた。だが、気づいた以上、もう見過ごすことはできない。このまま黙っていれば、彼女は他の誰かのものになる。


 私が、彼女が大切だということを自覚したその瞬間から、その未来は、私にとって耐えがたいものに変わった。そんな未来を、私は決して受け入れられない。胸の奥で、騎士としての覚悟とは異なる、もっと個人的で、もっと熱い感情が燃え上がる。それは、騎士としてではなく、一人の男としての、守るべきものを見つけた熱だった。


(今度こそ、言わなければならない)


 王太子がエリス嬢に告げたように。私は、私の唯一を、はっきりと選び、言葉にしなければならない。どれほど不器用でも、どれほど遠回しでも、もう誤魔化すわけにはいかない。クラリッサを失わぬために。彼女の、あの日の震える声に応えるために。私は、執務机の上で握りしめた拳をゆっくりと開き、決意を胸に立ち上がった。夜の帳はまだ深い。だが、私の心には、夜明けの光が差し込もうとしていた。


 私の人生は、今日から始まる。真の騎士として、そして一人の男として。

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