13.すれ違う想い
クラリッサが私を訪ねてきてから、数日が経った。王都の喧騒に、多忙な騎士団長の職務。それらは、心を麻痺させるには十分なものだった。しかし、あのときの彼女の表情が、どうにも脳裏から離れない。
(……何を言おうとしていたのだ?)
「私――」と、今にも心の奥底をさらけ出そうとして、言葉を呑み込んだ彼女。そして、それを私は、無意識に、あまりにも無意識に遮ってしまった。彼女が発しようとした言葉の断片は、私の心に、まるで取り除けない棘のように刺さったままだった。
幼馴染みとしての、ただの心配だとばかり思っていた。彼女が私のことを気にかけてくれるのは、これまでの長い付き合いの中で当たり前のことだったからだ。だが……果たして、本当にそうだったのだろうか。あの瞳に宿っていた、ほんの一瞬の、痛みを伴う光。それは、心配だけではない、もっと深い何かを物語っていたように思えた。
忙しさにかまけ、それ以上深く考えないように、私は自らの心を固く閉ざした。しかし、別の出来事が、その閉ざした心の扉を揺さぶり、ざわめきを呼び起こす。それは、騎士団の詰所でのことだった。
「――リーデル伯爵令嬢に、求婚者が現れたらしい」
同僚の騎士の一人が、何気ない口調で言った。
「ああ、あのクラリッサ嬢か? 噂は聞いた。なんでも、若い侯爵家の三男が、舞踏会で熱心に口説いていたそうだ」
「リーデル家も、そろそろ良縁を探していた時期だろう。噂では、近いうちに正式な婚約の話が進むとか……」
その言葉が、耳に入った瞬間、私の胸は、不意に重く、そして冷たい石を落とされたかのように感じた。
(クラリッサに……求婚者?)
当然のことだ。彼女ほどの家柄と美貌、そして聡明さを兼ね備えた令嬢なら、縁談の一つや二つ、あって然るべき。むしろこれまで、大きな話が決まらなかったことの方が不思議なくらいだ。私という不器用な存在に縛られることなく、彼女が幸せになるのならば、喜ばしいことではないか。そう、頭では理解している。だが――なぜか、安堵どころか、苛立ちに似た、わけのわからない感情が込み上げてくる。
「……話が済んだのなら、持ち場に戻れ」
私は、自分でも驚くほど、不機嫌で、冷たい声で同僚を追い払った。
その夜。執務を終え、書類の山から解放されても、心は一向に落ち着かなかった。私は、何かから逃れるように、ふらりと庭園へと足を運んでいた。騎士団の詰所から少し離れた、人影もまばらな場所。
そこに、月光を浴びて佇むクラリッサの姿があった。彼女の金の髪は、月明かりを反射して銀色に輝き、白いドレスは夜の闇に溶け込みそうだった。まるで、精霊か、月の女神のようだ。彼女は、まるで私が来ることを知っていたかのように、静かに私を待っていた。
「……エルンスト」
彼女の声が、夜の静けさに優しく響く。
「夜風に当たりに来たのか?」
私は、自分の心の動揺を隠すように、努めて平静を装った。彼女はゆっくりと振り返り、柔らかく微笑んだ。その笑みは、幼い頃から見てきたどの笑顔よりも、どこか大人びて、そして諦めのような影を帯びていた。
「そう。舞踏会で、少し疲れてしまって」
「……舞踏会」
無意識に、声が低くなる。彼女はそれに気づいたのだろうか、小さく笑って肩を竦めた。
「噂になっているのね。ええ、確かに誘われたわ。でも……」
彼女はそこで言葉を切り、じっと私を見上げてきた。その瞳は、まるで、何かを問いかけているようだった。
(……どうして? なぜ、あなたは何も言わないの?)
そんな言葉を、その瞳は雄弁に語っているように見えた。けれど、私は、その意味を正しく掴むことができなかった。
「……そうか。良縁ならば、喜ばしいことだ」
自分でも驚くほど、冷たい、他人事のような声が出た。クラリッサの表情が、ほんの一瞬だけ、陰る。
「……ええ、そうね。喜ばしいこと」
彼女は微笑んだ。その笑みは、どこか遠く、私には決して届かぬもののように見えた。私は、胸のざわめきを持て余しながら、ただ彼女の隣に立つことしかできなかった。月明かりの下、二人の間に、重苦しい沈黙が落ちる。夜風が、私の頬を冷たく撫でた。
――なぜこんなにも落ち着かないのだろう。彼女に求婚者が現れるのは当然。それが良縁ならば、祝福すべきことだ。それなのに、彼女が他の誰かの隣に立つことを想像しただけで、胸の奥がひどく締めつけられる。エリスへの想いとは違う。これは、もっと身近で、もっと鋭い痛みだ。
(私は、クラリッサを……どう思っている?)
問いかけても、答えはすぐには見つからなかった。ただ一つ、はっきりと胸の中に残ったのは――彼女が、私の手の届かない場所へ行ってしまうと思っただけで、こんなにも胸が痛むということだった。それは、私にとっての、新たな「唯一」が、静かに、しかし確実に、私の心の奥底で芽生え始めている証拠だったのかもしれない。