12.幼馴染みの告白未遂
王太子アルベルトとエリス嬢の婚約が正式に発表されてから、数日が過ぎた。王都は、祝福と、この劇的な出来事を巡る噂話で満ちていた。私、エルンスト・シュヴァルツァーは、侯爵家の当主にして騎士団長として、その警護や式典の準備に追われる日々を送っていた。休む間もなく続く職務は、ある意味、私にとっては好都合だった。……いや、正確には、心を休められないのは職務のせいだけではない。
静かになった執務室で、書類に目を通すふりをして、私は何度も、あの日の光景を反芻していた。王太子がエリスを「唯一」と呼んだ瞬間。エリスが幸福の涙を流して微笑んだ瞬間。その光景が、私の中に潜んでいた感情を、否応なく暴き出した。
(あのとき、私は……確かに胸を衝かれた)
長年、騎士道精神と義務感で固められてきたはずの心が、たった一つの言葉と、一つの微笑みによって、ひどく揺さぶられたのだ。その想いは、もう口にすることも、誰に告げることもない。王太子の「唯一」となった女性に、騎士団長が淡い感情を抱いていたなど、あってはならないことだ。この感情は、胸の奥深くに封じ込めるしかないのだと、何度も己に言い聞かせていた。
そんなある日のことだった。騎士団の訓練を終え、城の中庭で休憩をとっていると、聞き慣れた声が背後から私を呼んだ。
「……エルンスト」
振り返ると、長い金の髪を、太陽の光を反射してきらめかせた令嬢が立っていた。クラリッサ・リーデル――私の幼馴染み。伯爵家のご令嬢でありながら、いつも飾らず、誰よりも私をよく知る女性。
「クラリッサ?」
私は驚きを隠せずに名を呼んだ。彼女が王宮を訪れるのは、珍しいことではなかったが、こうして偶然顔を合わせるのは久しぶりだった。
「久しぶりね。相変わらず、甲冑の中でしか生きてない顔をしてるわ」
言葉こそ皮肉めいているが、その瞳は、心配と不安に揺れていた。幼いころから変わらない、私を気遣うその眼差しに、私は思わず苦笑する。
「騎士団長の顔をしているだけだ」
「そうやって自分を誤魔化すの、もうやめたら?」
彼女はまっすぐに私を見つめ、少しばかり困ったように眉をひそめた。クラリッサは、ゆっくりと私の傍に歩み寄った。私は彼女の意図がわからず、ただ見守っていた。
「エルンスト、最近顔色が良くないわ。ちゃんと眠れている?」
「ああ。問題ない」
「嘘。あなたの目の下には、疲労が色濃く出ている。騎士団長として多忙なのはわかるけれど、無理はしないで」
彼女は私の返事を待たず、ぐっと私を見上げてきた。近い。思わず息を呑むほどの距離。彼女の瞳には、私の姿がはっきりと映っていた。
「殿下が“唯一”を見つけたって、皆が噂してるわ。……あなたは?」
その問いかけに、私の胸はわずかに、しかし確実に揺れた。
(私は……)
答えに詰まり、私は咄嗟に言葉を避けてしまった。
「……私には務めがある。王太子の支えとなるのが、私の使命だ」
「また、それ」
クラリッサは小さく肩をすくめた。その仕草に、深い諦めと、ほんの少しの悲しみが混じっているように見えた。
「エルンストは、いつもそうね。自分の心を騎士団の務めの奥に隠してしまう」
彼女はそう呟くと、再び、私をまっすぐに見つめた。そして、小さく息を吸い込み、何かを決意したように唇を噛みしめる。
「ねえ、エルンスト。私――」
彼女の声が震えていた。その声は、今にも、心の奥底に秘めた想いを、すべてさらけ出そうとしているかのようだった。私は、彼女の決意を、その声の震えの意味を、理解できなかった。騎士としての務め、侯爵としての責任、そして何より、エリスへの叶わぬ感情に心を占められていた私は、彼女の真意に思い至るより早く、無意識に言葉を遮ってしまった。
「……お前まで心配する必要はない。私は、大丈夫だ」
彼女の瞳が見開かれた。一瞬、その光が揺らぎ、まるで深い湖に石を投げ入れたかのように波紋が広がった。その波紋の先に、私は気づきもしなかった。いや、気づこうとしなかった。
「……そう。なら、いいの」
クラリッサは、私の言葉を受け入れるように微笑んだ。
けれど、その笑みは、どこか寂しげで、遠い光を宿していた。彼女はそれ以上、何も言葉を紡がず、静かに、そっと視線を逸らした。
(これでよかったのだ)
私はそう、胸の奥で思った。彼女をこれ以上、私という不器用な存在に巻き込むわけにはいかない。騎士として、侯爵として、私は己の心に責任を持たねばならない。
だが、彼女が去っていった後、私は中庭に残された一人になった。心地よいはずの風が、やけに冷たく感じられた。先ほどまで感じていた、彼女の優しさ、そして瞳の奥に宿っていた見慣れない光。
私はただ、彼女を幼馴染みとしか思っていないつもりでいた。だが、あのとき――確かに胸の奥に残った違和感があった。私は、あの揺らぎの意味を知ろうとせず、ただひたすらに、己の感情を封じ込めることに努めていた。
それが何を意味するのか、私はまだ理解できていなかった。しかし、その小さな違和感こそが、私とクラリッサの関係に、新たな一歩を踏み出すきっかけとなることを、当時の私はまだ知らなかった。