11.唯一の宣言
王宮の大広間は、張り詰めた静寂に包まれていた。それは、まるで凍りついた湖面のように、わずかな波紋さえも許さないかのようだった。列席した貴族たちの視線は、一点、玉座の間に立つ王太子アルベルト・フォン・ハインリヒに向けられている。彼の隣には、麗しい容姿で知られる公爵令嬢、ローザリン・ヴェルディが毅然とした面持ちで立っていた。
エルンスト・シュヴァルツァーは、騎士団長の制服に身を包み、広間の隅でその光景を静かに見守っていた。彼の役割は、この場に混乱が生じないよう、万一の事態に備えることだ。アルベルト王太子が、ローザリン嬢との婚約を破棄するだろうという噂は、数日前から貴族の間で囁かれていた。エルンストは、それが王国に新たな火種をもたらすであろうことを、冷静に、そして憂慮しながら理解していた。
「ローザリン・ヴェルディ」
王太子の声が、静寂を切り裂く。それは、響き渡る鐘の音のように、広間の隅々まで届いた。
「お前との婚約は、今このときをもって破棄する」
その言葉に、それまで息をひそめていた貴族たちの間に、ざわめきが広がった。驚愕、失望、そして好奇心。様々な感情が渦巻く中、エルンストの心は、奇妙なほどに凪いでいた。彼はこの結末を予見していた。王太子が、あの一人の少女に心を奪われていることを、彼は知っていたからだ。
アルベルト王太子の視線は、ざわめく貴族たちを意に介さず、まっすぐに、広間の奥の一人の少女を射抜いていた。
その少女、エリスは、普段は目立たない、地味な令嬢だった。しかし、彼女の内に秘められた輝きを、王太子は誰よりも早く見出したのだ。
「エリス――君は私の唯一」
その言葉が放たれた瞬間、エルンストの胸に、かつて感じたことのない激しい衝撃が走った。まるで、長年静かに眠っていた何かが、雷に打たれて目覚めたかのように。
名を呼ばれたエリスは、はっとしたように両手を胸に当て、瞳を潤ませた。彼女の顔には、驚きと戸惑い、そして純粋な喜びが入り混じっていた。
「……殿下」
彼女の掠れた、しかし確かな声が、静けさを取り戻した広間に響く。その瞬間、広間全体が、まるで彼女の放つ光に照らされたかのように思えた。エリスの頬を伝う一筋の涙は、悲しみではなく、幸福の証。王太子の言葉を受け入れた喜びに、彼女の顔は誰よりも眩しく輝いていた。――胸が、締めつけられた。
なぜだろう。自分は、この二人を見守る立場だと思っていたはずなのに。王国の騎士団長として、主君の選んだ未来を支えるのが自分の役目。この関係を祝福すべきだ。そう、頭では理解しているのに、心臓が痛む。あの無垢な涙に、胸が揺さぶられる。
(……なぜだ? なぜ、私は、こんなにも……)
騎士の務めに忠実な男として、自分の感情を理性で抑え込むことに慣れきっていたエルンストは、この唐突な心の痛みにも、すぐにはそれが何であるか理解できなかった。――私は、彼女を想っていたのか。
その事実に気づいてしまった瞬間、どうしようもなく戸惑いが広がった。それは、嵐が過ぎ去った後に残る、静かで深い湖のような、悲しみにも似た感情だった。気づかぬふりをしていたのか、それとも本当に今、初めて心が動いたのか。答えは出ない。ただひとつ分かるのは、彼女はもう王太子の「唯一」となったのだということ。静かに息を吐き、エルンストは視線を逸らした。
代わりに目に入ったのは、当のローザリン・ヴェルディ。
彼女は唇をわずかに噛みしめていた。その表情には、ほんの一瞬、悔しさのようなものが浮かんだように見えた。しかし、その感情はすぐに、彼女の高潔な意志によって打ち消された。ローザリンは、周囲のざわめきを物ともせず、堂々と背筋を伸ばし、優雅に、そして完璧なまでに美しい一礼をした。
「殿下のご決断、確かに承りました」
その声に、震えはなかった。完璧なまでに冷徹で、感情を一切含まない。長いドレスの裾を美しく翻し、彼女は堂々と、その場を後にする。その姿は、決して“敗者”ではなかった。気高さと誇りを失わぬまま、彼女は去っていった。
(……彼女もまた、一人で戦っていたのだ)
エルンストの脳裏に、ローザリン・ヴェルディの孤独な戦いがよみがえる。王太子の婚約者として、どれだけの重圧に耐えてきたか。そして今、全てを失ってもなお、彼女は自らの誇りを守り抜いた。その強さに、エルンストは深く感銘を受け、同時に、自分自身の不甲斐なさを感じていた。――心の奥に、ふたつの痛みが残った。
一つは、ローザリンの誇り高い背中が放つ、孤高の光。
もう一つは、エリスに向けられるはずのなかった、しかし確かに生まれた感情。
私は、シュヴァルツァー侯爵家当主にして、王国騎士団長。己の心を表に出すことなど許されぬ立場だ。この想いは、今日ここで胸の奥深くに封じ込めねばならない。それが正しいはずだった。……だが、その奥底で、別の記憶がよみがえる。
幼き日の春の庭。
「エルンスト、剣ばかりじゃなくて、休むことも覚えて」
剣の稽古に没頭する私に、日差しを浴びて微笑んだ少女。
彼女は、伯爵令嬢、クラリッサ・リーデル。私の幼馴染みだ。幼い頃隣にいた、穏やかで、しかし確かな意志を持った声が、今になってなぜか鮮明によみがえった。
「エルンストは、いつも頑張りすぎるんだから」
そう言って、彼女は私に冷たい水筒を差し出してくれた。
(……なぜ、今、クラリッサのことが……)
私はわずかに眉をひそめる。エリスを「唯一」と言い切った王太子の声が、胸の奥で反響してやまなかった。
(私にとっての“唯一”は……)
答えを見つけられぬまま、大広間の熱気とざわめきだけが、いつまでも耳に残っていた。それは、エルンストの心の奥に、新たな問いを投げかけていた。
彼は、エリスへの叶わぬ想いを抱えながら、自分が本当に大切にすべきものが何なのか、そして本当の「唯一」が誰なのかを、これから見つけ出さなければならない。しかし、その道のりは、彼自身の不器用さと、クラリッサの秘めた想いによって、決して平坦なものではないだろう。
こうして、一つの物語は終わりを告げ、別の物語が、静かに幕を開けたのだった。