10.新しい物語
ローザリンに本心を伝えてから、日々は驚くほど穏やかに変わっていった。護衛という名目で隣にいることはもうない。今は、ただ「共に過ごしたいから」時間を作る。公務の合間に、彼女が好む場所へ足を運んだ。市場へ、図書館へ、そして時には、人目のない静かな庭園へと。食事に誘い、散歩に誘い──彼女が笑う顔を、ただそれだけを見られることが、何よりの喜びになっていた。
彼女といると、私の心は満たされていく。かつて、エリスの隣で感じることのなかった、深い安堵と幸福感があった。
だが、次の段階に進まなければならないと、私は分かっていた。言葉だけでは足りない。彼女を正式に迎え、二度と誰にも傷つけられることのない、確固たる地位を与えること。それが私の責務であり、何よりも強い願いだった。
侯爵家の応接室。ローザリンの両親を前に、私は正装に身を包んで立った。胸の奥が久しくないほど緊張に締めつけられていたが、言葉に迷いはなかった。
「ローザリン・ヴェルディ侯爵令嬢を、私の妻として迎えたい。正式に、婚約を申し込ませていただきたく存じます」
短く、だが揺るぎなく告げる。彼女の父はわずかに目を見開き、それから深く頷いた。
「……あの婚約破棄以来、ローザリンは孤立していた。だが、公爵の名があれば、誰も軽んじはしないだろう。──本人の意思次第だ」
その言葉で、場の空気が彼女へと傾く。私は息を殺して待った。ローザリンの瞳には、ほんのわずかな戸惑いと、それ以上の決意が宿っているのが見えた。
「……私でよければ、喜んで」
ローザリンの声が、はっきりと響いた。胸の奥に熱が込み上げる。思わず表情が緩んだ。今までどれほどの笑みを作ってきただろう。社交界で、騎士団で、領地で、立場を保つために、何度でも笑みを作ってきた。だが、この瞬間の笑みは、間違いなく本物だった。
やがて婚約が発表されると、王都の社交界はざわめいた。「悪役令嬢」と囁かれた彼女が「公爵夫人」となる──その話題は人々の口に上らぬはずがなかった。
かつて彼女を嘲った者たちが青ざめたと聞いても、私は満足しなかった。彼らに後悔させたいのではない。ただ、彼女がもう傷つかずに済む場所を作りたかった。そして何より、彼女の隣に立てることが誇らしかった。ローザリンは、私の愛を公の場で受けるにふさわしい、気高く、美しい女性なのだと、世界に知らしめたかった。
婚約披露の夜。私はローザリンを庭園へと誘った。満開の白薔薇が月光に照らされ、静かな夜気が漂う。
「……君と出会ってから、俺は自分が思っていたよりずっと、不器用な男だと知った」
本心だった。過去の栄光にすがらず、飾らず、ただ彼女の前では愚直になる。
「そんなことはありません。あなたは……とても真っ直ぐです」
彼女がそう言ってくれる。胸が熱くなるのを感じながら、私は彼女の手を取った。
「ローザリン、俺はもう二度と……君を一人にはしない」
それは約束などという軽いものではない。誓いだ。彼女の手を握る力に、彼女もまた応えてくれた。その瞬間、私は確信した。この人こそ、私の生涯を共に歩む女性だと。
数日後、王太子妃となったエリスから手紙が届いた。短い文面だったが、そこには彼女らしい真心があった。
『新しい道を歩み始められたこと、心から嬉しく思います。──いつかお二人揃ってお茶会に』
かつて、同じ想い人を巡っていた彼女。今はもう敵でもなく、対立する存在でもない。私にとって大切なのはローザリン一人だけ。その事実を、ようやく言葉ではなく心で証明できた気がした。
春の終わり、私とローザリンは正式に夫婦となった。新しい公爵夫人としての務めは多いが、彼女は驚くほど順応が早かった。領地経営から、屋敷の管理まで、すべてを完璧にこなす。
「おい、また無理をしているな」
ある夜、書類の山に向かう彼女の肩に手を置く。
「……大丈夫です。まだこれくらい」
振り向いた彼女は、少し困ったように笑った。
「無理はするな。お前は、一人で抱え込みすぎる」
私の言葉に、彼女は驚いたように目を丸くし、そして、安心して笑った。その顔に、孤独の影はもうなかった。私の手の温かさが、彼女の心を癒しているのだと、私は確信した。
かつて「あぶれたヒーロー」と呼ばれた男と、「悪役令嬢」と呼ばれた女。物語から外れた二人が並び立つ今こそ、私たちの真の始まりだ。私たちの物語は、誰も予想しなかった形で始まった。だが、それは、私たち二人だけの、かけがえのない物語だった。──ハッピーエンドは、ここから続いていく。