01.婚約破棄と終焉と、そしてその後
あの日、玉座の間で起きたことは、今も夢のように思える。王太子殿下が、一人の可憐な令嬢に向かって「君こそ、私の唯一だ」と、神聖な誓いの言葉を口にした瞬間。私の世界は、音を立てて大きく軌道を外れていった。
私は、ローザリン・ヴェルディ。ヴェルディ侯爵家の令嬢として、そして未来の王妃として、生まれてからずっと完璧な自分を演じてきた。与えられた役割は「悪役令嬢」。王太子の婚約者として、彼の隣に立つ“ヒロイン”を妬み、陥れようと画策する。それが、この世界の“台本”だった。
しかし、現実は少し違った。婚約破棄は確かに宣言された。王太子の愛がヒロインに向けられたことで、私の立場は失われた。だが、本来なら待っているはずだった国外追放も、爵位剥奪もなかった。父は厳格な面持ちで私に告げた。「ローザリン、お前は無実だ。王太子殿下も、公の場での醜聞を望んではいない。だが、代償は払わねばなるまい」と。
その代償とは、王都の社交界での立場を、永遠に失うことだった。社交界は、貴族社会の縮図だ。そこで評価を失うことは、存在価値を失うに等しい。私の周りから人が遠ざかり、お茶会の招待状は来なくなり、舞踏会では挨拶を交わす相手さえいなくなった。代わりに向けられるのは、侮蔑と好奇心に満ちた視線。そして、聞こえてくるのは、陰口という名の刃だった。
「あら、ヴェルディ侯爵令嬢。今日も懲りずにいらしたのね」
「殿下に捨てられた女が、まだのうのうと社交界に顔を出しているなんて」
「可哀想な人。本当に殿下を愛していたというのに……」
最後の言葉だけは、真実から大きく外れていた。私は王太子殿下を愛してなどいなかった。私にとって、それは与えられた役割であり、義務だった。社交界を生き抜くための、完璧な演技。ただそれだけ。
だから、彼の愛がヒロイン──エリス・ローレンス嬢に向けられた時、私は内心で安堵した。これで、この息苦しい役目から解放される。そう思ったのだ。
だが、私の世界は、役目を終えたからといって、解放されるわけではなかった。私は依然として、ローザリン・ヴェルディとして生き続けなければならない。そして、その名前には、常に「王太子殿下に捨てられた女」というレッテルが貼り付いていた。
社交界での私は、幽霊のような存在だった。誰も私と関わろうとしない。関われば、自分もまた|ローザリン・ヴェルディ《あの女》と同じように扱われるかもしれないからだ。
「……また、だわ」
馬車の窓から、煌びやかなシャンデリアの光が漏れ出る社交場の建物を、ぼんやりと眺める。侯爵家の威光はまだ健在だ。しかし、私が足を踏み入れれば、あの冷たい視線が突き刺さるのは明らかだった。だから、私は舞踏会にもお茶会にも、形式的な時間だけ顔を出しては、すぐに帰る。それが、ここ数か月の私の日常となっていた。
今日向かうのは、とある公爵家が主催する晩餐会。社交界の重鎮が集まる重要な催しだ。父から「侯爵家としての威信を保つため、必ず顔を出すように」と厳命されていた。馬車を降り、会場へと続く階段を上る。一歩進むごとに、私の心は鉛のように重くなっていく。私は、ただの飾り物。侯爵家の看板。この場にいること自体が、私にとって苦痛だった。
会場の扉が開け放たれ、華やかな音楽と人々のざわめきが耳に飛び込んでくる。私はいつものように、隅の席にひっそりと座り、誰も私に気づかないことを願った。だが、その願いはすぐに打ち砕かれる。
「……ローザリン・ヴェルディ侯爵令嬢」
低い、落ち着いた声が、私の名を呼んだ。驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは、一人の男。灰色の瞳が、まっすぐこちらを射抜いてくる。
彼の名は、レオンハルト・グレイシア公爵。王国の北方を治める若き公爵であり、剣術にも外交にも優れた才人。ゲームの中では、ヒロインが王太子ルートを選ばなかった場合に攻略可能な、もう一人の“王子様”のような存在だった。
「え、ええ……そうですが」
私はぎこちなく返事をしながら、彼を観察した。噂以上に冷静で隙のない男。その整った顔立ちには、感情の起伏がほとんど見られない。──少なくとも、エリス・ローレンスを見つめる時以外は。
「お元気そうで何よりです」
彼はそれだけを言うと、一礼して去っていった。一瞬の出来事だった。私は、彼の背中を呆然と見送った。彼の言葉は、社交辞令だったのだろうか。それとも、何か意図があったのだろうか。
分からない。
ただ、彼の灰色の瞳の奥に、得体の知れない虚無感が宿っているように見えた。その時の私は、まさかこの冷静な公爵が、後に私を溺愛するようになるなんて、夢にも思っていなかった。
一方その頃、レオンハルト・グレイシア公爵は、晩餐会の喧騒の中に立ち尽くしていた。彼の視線は、人々の輪の中で微笑む、一人の女性の姿を捉えていた。王太子殿下の隣で、楽しそうに談笑するエリス・ローレンス。彼女は今、この国の王太子妃だ。あの日、王太子殿下が彼女に「唯一だ」と誓った瞬間、レオンハルトの心の中に、ぽっかりと穴が開いた。
彼は、彼女を愛していた。
そう、ゲームのシナリオ通りに。
王国北方の凍てつく大地で育った彼は、冷徹で感情を表に出さない男として知られていた。だが、エリスと出会ってからの彼は、彼女を守るためならば、どんな犠牲も厭わないとさえ思っていた。彼女の純粋さに、誰よりも早く気づき、彼女の健気な努力を、誰よりも近くで見守ってきた。彼女が困っていれば手を差し伸べ、彼女が危険に晒されれば、迷わずその身を挺した。それは、ゲームの中で、彼に与えられた役割だった。だが、彼女が選んだのは、王太子殿下だった。彼にとって、それは仕方のないことだった。ゲームのシナリオ通り、当然の結末。
しかし、彼の胸の内に残されたのは、どうしようもない虚無感だった。愛する人を、ただ見ていることしかできない。その想いを、彼はどこへやればいいのか分からなかった。彼は、自分の感情がゲームのシナリオに操られたものだと、薄々気づいていた。だが、その感情が、彼の中であまりにも強烈な現実として存在していた。だから、彼はその感情を捨てることができない。「彼女の幸せを願うこと」──それが、彼に残された、唯一の道だった。そんな彼が、ふと視線を向けた先に、一人の女性が立っているのを見つけた。
ローザリン・ヴェルディ侯爵令嬢。王太子殿下に婚約破棄を言い渡された、哀れな「悪役令嬢」。
彼女は、会場の隅で、まるで透明人間のように佇んでいた。その姿は、かつての彼女を知る者から見れば、信じられないほどに覇気がなかった。レオンハルトは、彼女の存在を知っていた。ゲームの中では、彼女は悪役として、エリスを苛める憎むべき存在だった。だが、現実の彼女は、ゲームのキャラクターとは少し違っていた。彼女は、誰かを苛めるような振る舞いは見せず、ただ静かに、自分の役割を演じているようだった。
「……君は、どうしてそんなに虚ろな目をしているのだ」
彼の心の中で、問いが生まれた。彼女の瞳には、かつての自分と同じ、行き場のない虚無感が宿っているように見えた。その虚ろな瞳が、なぜか彼の心をざわつかせた。彼女に声をかけるつもりはなかった。だが、足は勝手に彼女の元へと向かっていた。
「ローザリン・ヴェルディ侯爵令嬢」
彼女は驚いたように顔を上げた。警戒と、微かな恐怖。そんな感情が、彼女の瞳に一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。
「え、ええ……そうですが」
その声は、か細く、今にも消え入りそうだった。
「お元気そうで何よりです」
社交辞令。それ以上の意味はなかった。だが、その言葉は、レオンハルトの心の中では、別の意味を持っていた。
「君も、私と同じなのだろうか」
「君も、行き場のない虚無感を抱えているのだろうか」
彼の問いは、言葉になることなく、胸の内に留まった。彼は、彼女の背後に、過去の自分の影を見た。だが、その影は、彼の心をかき乱すものではなかった。それは、まるで鏡に映った自分を見ているような、不思議な感覚だった。彼は、彼女に興味を持ったわけではない。ただ、ほんの一瞬、彼女の瞳に映った「自分」に、戸惑いを覚えただけだ。その時の彼は、自分の心が、すでに新しい「物語」を求めていることに、まだ気づいていなかった。
そして、その物語の相手が、かつての「悪役令嬢」であるローザリン・ヴェルディであることなど、想像すらしていなかったのだ。