似非エッセイ
パソコンの画面に、真っ白な余白が広がっています。エッセイを書こうと思ったのですが、キーボードに指を置いたまま、一向に言葉が出てきません。
エッセイとは、自己の見聞・体験・感想などを自由に書いた文章なのだそうです。あったこと、思ったことをそのまま書けばいいだけだから、書きやすいという人もいます。けれど、その自由が重荷になることがあります。
フィクションではないから、「これは作り話です」と逃げることができません。自分の書いたことで、気を悪くする人がいるかもしれません。
プライバシーという問題もあります。直接的な個人情報を書くわけではありませんが、エピソードの断片から、知人が「あれ?この話、もしかして……」と気づくかもしれません。そんな不安が、キーボードを押す指をためらわせます。
ま、これらはちょっと気をつければいいことですが、厄介なのは、自意識の問題かもしれません。
「私って、センスいいでしょ?」という自惚れや、「皆は知らないだろうけど」という上から目線っぽいものが混じることがあります。『枕草子』や『徒然草』のような名作でさえ、「御簾を上げて」センスや教養をひけらかす様子や、「努力の大切さ」を説く説教じみた態度が透けて見えなくもありません。でも、こういうことを避けようとすると、今度は必要以上に遠慮したエッセイになり、面白さがなくなってしまいます。さじ加減が難しいというか、そもそもさじ加減なんて考えること自体がすでに気恥ずかしい。
そこで思いつくのが、「私は変わっています」という立ち位置です。一般的ではない独自の視点を強調し、「普通の人はこうだけど、私はこう」と差異化を図る手法。これが上手くいけば面白いんですが、作為が過ぎるとただの厨二病になる気がします。
でも、こんなことばかり考えていても仕方ありません。結局のところ、エッセイは正直に書くしかないんです。読者を楽しませたいとか、何か共有したいとか、そういう思いがあれば、多少の気恥ずかしさは味になるかもしれません。千年もの時を越える名作でも、読み方によっては痛いんですが、それも含めて味があるんです。
……ところで、今書いているこのエッセイも、ちょっと気取った態度で「書こうとしている自分」を書いて、古典文学に言及したり、エッセイについてわかったようなことを言おうとしています。つまり、私もやっちゃってるわけです。
でも、それでいいんじゃないでしょうか。誰にだって、そういう部分はあります。自分の言葉で書いていけば、どこかで誰かに届くかもしれません。
というわけで、あなたも書いてみませんか? 多少は戸惑うかもしれませんが、案外それも楽しいものです。私も、こうやって、もう一度キーボードに向かっています。画面の余白は、もう怖くありません。……なんてね。
コロンさまの『エッセイが過疎ってて悲しいよー』というエッセイに触発されて書きました。
エッセイ投稿のススメ、でもあります。