天下一悲しき過去発表会
「この勝負ッ、もらったぁあああッ!!」
相手の右フックが唸りを上げて俺の目の前を横切る。鼻先一寸で辛うじてその攻撃を避け、俺は渾身のアッパーを繰り出した。
決まった……!
世界中のボクシングファンが注目するタイトルマッチ。
怒号と大歓声でスタジアムが揺れる。今、その中心に俺は立っていた。
第9ラウンド。
体勢を崩されながらも、クリーンヒットした拳を見届けて、コンマ一秒、俺は勝利の歓喜に酔いしれた。
試合に勝った時はいつもこうなる。
アドレナリンがドバドバと、血管が破裂しそうなほど頭の中で脳内薬物が暴れ回って、次の瞬間、真っ白な……勝者のみが味わえる、一点の翳りもない正真正銘の白星だ……真っ白な愉悦で、体が芯からブルブル震え出す。
勝った、勝った、勝った……ッ!
純白の歓喜に包まれるのを感じ、俺は思わず笑みを溢した。
だが次の瞬間……思いもよらないことが起こった。
「……なんだ?」
突然目の前がフッと真っ暗になって、俺は目を丸くした。勝利の白ではなく……まるで時が止まったみたいに、辺り一面墨を溢したように真っ黒な、無明の闇が何処までも広がっているではないか。対戦相手の姿も、いつの間にか消えていた。
何だ?
何が起こっている?
まさか、殴られたのか!? 俺が!?
いや! そんな、あり得ねえ。
俺は確かに、さっき対戦相手をノックアウトした。俺は勝った。いつもなら勝利の白星に包まれるはずなのに……。
「体が……動かない……!?」
異変を感じ、俺はサッと血の気が引くのを感じた。ヤバイ。俺の本能がヤバイと告げている。何か来る。何か……これは……!?
『ママ〜!』
「はっ!?」
すると、一面真っ暗闇の中に、突然ぼわ〜んと幼い子供の幻が現れて、俺は息を飲んだ。
『ママ、あいつらが、またぼくのこといじめるんだ……』
『強くなりんしゃい、ケンジ』
「なッ!? 何だぁ〜ッ!?」
今度は母親らしき人物も現れて、泣きじゃくる子供の頭を優しく撫で、慰めている。
何だ!?
何が始まったんだ!? 俺は何を見せられている!?
『うんと強くなって……いつか世界一の男になりんしゃい、ケンジ』
『……うん、ママ!』
何なんだこの寸劇は!?
ケンジ? ケンジと言うのは、確か対戦相手の名前だったはずだが……。
「【悲しき過去】じゃよ」
「うわぁッ!?」
まただ。今度は右上の隅に、「説明しよう!」の謎解説者みたいな奴が現れて、俺はひっくり返りそうになった。だが、相変わらず体は動かない。よろけた体勢で拳を突き上げたまま、俺は彫刻のように固まってしまっていた。周囲は依然真っ暗だった。競技中には感じたことのない、得体の知れない恐怖に苛まれ、俺は玉のような汗をボタボタと溢した。
「何が起きてる!? 爺さん、アンタ誰だ!? 俺は……俺は殴られすぎて幻覚を見ちまってるのかぁ〜ッ!?」
「そうではない。お主は今、対戦相手の過去を覗き込んでおるのじゃ」
「過去ッ!?」
……意味が分からない。
「……アンタは」
「ワシか? なぁに、名乗るほどの者でもない。ワシはこの『天下一悲しき過去発表会』の主催者じゃ」
「天下一……何だって?」
「『天下一悲しき過去発表会』じゃよ」
……ダメだ。余計に頭が混乱してきた。
俺はそんな大会にエントリーした覚えはない。
俺がやっていたのは、ボクシングだ。拳と拳の殴り合い、意地と意地がぶつかり合う格闘技だ。
悲しき過去!? そんなものを見に来た覚えはない! だが、体は動かないままだ。どうやら俺は、タイトルマッチの途中、妙な空間に迷い込んじまったようだ……。
「……どうして体が動かないんだ?」
「今は相手が悲しき過去を語っている番じゃからの」
「……分からねぇが。その悲しき過去って奴ァ、いつ終わるんだ?」
「さぁのう……せいぜい一ヶ月か、二ヶ月くらいじゃないか?」
「一ヶ月!?」
俺はぶっ飛びそうになった。
一ヶ月もこの体勢のままだってのか!?
飲み食いも出来ず!? 寝ることもままならず!?
目の前では中坊になったケンジが、ガラスに顔を押し付けてボクシンググローブを眺めるシーンが始まっていた。俺は焦った。一体どれほどの過去を遡るつもりなんだ。このままじゃ一ヶ月どころか、二ヶ月三ヶ月……いや下手すりゃ、半年か一年は悲しき過去が語られることだろう! 何だこの……がっつりステーキを食いに来たのに、延々とオニオンスープを飲まされているような違和感は!?
「冗談じゃねえ! 今すぐ俺を解放しろッ! 俺は試合に勝ったんだ! こんなお遊戯会に付き合ってる暇はねえ!」
「まぁまぁ……お主も対戦相手の悲しき過去、気になるじゃろ? きっと悲しいぞぉ」
「ふざけんなよ!? 次の瞬間は、俺の見開きだろうが! 何だよこのお涙頂戴のグダグダは!?」
「『過去を制するものは未来を制す』!」
「は!?」
さっきからコイツは一体何を言ってるんだ?
「良いか? 人々が未来に希望と平和を求める今の時代、殴り合うなんてナンセンス! 血が出るのはもってのほかじゃッ!」
「はぁ?」
「痛い思いをして拳で語り合うのではなく、話し合いで……言葉で語り合う。それがこの『天下一悲しき過去発表会』じゃ。強い者とは、それは悲しき過去を持つ者。悲しき過去を背負って、なお戦うことをやめない者ッ! これは如何に悲しき過去を持っているかで競い合う、コンプライアンス時代の新しい格闘技じゃ!」
俺は渾身の力を込めてジジイをぶん殴った。プロの格闘家は素人に手を出すべきじゃないが……しかし状況が状況だけに致し方がない。こんな亜空間にいつまでも閉じ込められていられるか。
「悲しき現在進行形が出来ちまったようだなぁ〜ッ、ジジイッ!」
さっきまでぴくりとも動かなかったのに、これが火事場の馬鹿力という奴だろうか? ともかくジジイは潰れたカエルみたいな鳴き声を上げて、派手な音を立てて「説明しよう!」の円の向こう側に転がり落ちていった。
「はッ!?」
……と気がつくと、俺は眩い光の中に、リングの上に戻っていた。
手応えはあった。
しかし次の瞬間、倒れていたのは俺の方だった。
俺の渾身のアッパーを、すんでのところで踏ん張ったケンジが、素早くステップを踏み距離を測り、返す刀で左フックを俺の耳元に叩きつけた。
その間、ほんの数秒。
三半規管がぐわんぐわんと波打ち、途端に腰から力が抜けて、気がつくと俺は尻餅をついていた。ジジイも、真っ暗な空間の【悲しき過去】も、まるで夢を見ていたかのように消え去っていた。夢……!?
「ぐ……!」
「お前の弱点は研究済みだ!」
青コーナーで、ケンジが勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
「どうだったかな? 俺の【悲しき過去】は……」
「テメェ……!」
俺はマウスピースを噛み砕かんばかりに歯軋りした。
「よくも試合中に、あんな茶番見せやがって……!」
「フン。これが今のこの業界の流行だよ。俺はファンの声援に応えただけだ。観客が求めているのは、血湧き肉踊るバトルじゃない。多角的な視点からストーリーに深みを与える人間ドラマ、すなわち【悲しき過去】なのさ」
「ちくしょう……!」
まさかコイツがこんな奥の手を隠し持っていたなんて……しかし俺も、このまま引き下がる訳にはいかなかった。輝く白星は、栄光の勝利はもう目前なのだ。
「……ねえんだよ」
「ん?」
「ここで俺が負けたら……ページ数が足りなくてッ、単行本が出せねえんだよぉッ! これじゃ目標の売上に届かねぇッ!」
「何だと……売上!?」
ケンジが戸惑いの表情を浮かべた。俺はよろよろと立ち上がり、ファイティングポーズを取った。
「まだダウンしねえぞ……! 仲間が俺を信じている限り……アンケートが取れている限り! 俺は何度でも立ち上がるッ!」
「バカなッ!? あれだけのダメージを負ってなお……許されるのか!? そんな遅延行為が!」
「ククク……来週も、そのまた来週も……ページ数の関係で、俺は未来永劫立ち上がり続けるさ」
「それはそれで怖い!」
狼狽するケンジに向かって、俺は唇からツウ……と溢れる血を拭い、ニヤリと笑い返した。
「良いだろう……!」
するとケンジもまた、闘志を剥き出しにして、拳を顔の前で掲げた。よく見ると彼もまたフラフラとたたらを踏んでいる。互いに間合いを図りながら、俺たちはしばらく睨み合った。ピリピリと空気が張り詰めて行く。
「俺の悲しき【過去】と、お前の来週という名の【未来】……どっちが強いか! いざ尋常に勝負ッ!」
「上等だコラッ! 一番強え奴を決めようかッ!」
「うぉぉぉッ! 行くぞッ! 俺の過去がッ、世界で一番悲しいんだァーッ!」
「おぉぉぉおッ! 金だ金だ金だッ、ファイトマネーを、印税を俺に寄越せぇえッ!」
怒号と大歓声でスタジアムが揺れる。リングの上でお互いの拳が交錯し、コンマ数秒、目も眩むような火花が散った。俺たちの戦いは、まだ始まったばかりである。
来週へ続くッ!!