第九回 梧空 虞美人に化けて古代三大美女に会い、戯れで侍女を打ち殺す
<西 遊 補>
第九回 梧空 虞美人に化けて古代三大美女に会い、戯れで侍女を打ち殺す
梧空はすぐさま鏡を見てみました。 鏡の中では科挙の合格発表をやっています。
あっというまにたちまち多くの人が掲示を見に来ます。最初はただ喧噪の声だけでしたが、次いで号泣の声、続いて怒声、しばらくして一群の人々がそれぞれ散って行きます。
なかには掲示に名がった連中ばかりは、あるいは新品の衣装履物に替え、あるいは強いて笑わぬ顔を作り、あるいは壁に文字を書きつけ、いくらも経たないうちにもうはやばやと誰かが一番の答案を写し、居酒屋で頭を振りながら念誦している。
そばから若者が尋ねる。「この文章は何故短いのですか?」
その文章を読み上げている者が言う。
「文章は長いんだが、わしは中のいい文句だけを選んで写してきた、さあ一緒に読んで、作り方を勉強しろ。来年はまんまと合格だよ」
二人はまたすぐに朗々と読み上げます。
これを聞いて梧空はカラカラと笑い
、
『俺様は五百年前、八卦炉の中で太上老君が玉史仙人に文章の気運を話しているのを聞いた。『堯舜から孔子までは、純天運で大盛と称する。孟子から李斯までは純地運で中盛と称する。このあと五百年は水雷運に当たり、文章は気が短小で、体ばかり長大、小衰と称する。さらに八百年は山水運のところまで来ればもうだめだ』
そのとき玉史仙人は尋ねました。
『どうひどいのでしょう』
『悲しいかな、一群の欠如した人間を名付けて秀士という。作る文章はまったく訳が分からず、混沌が死んで何万年も経つのにまだかれを放っとかず、堯舜が黄庭に安坐しているのに、それでも引っ張り出そうとしている。呼吸は清浄虚無の物だが、それを大切にせず、かえって引掻き廻す。精神は一身の宝だが、それを静めず、かえって動かす。この文章は。何と呼ぶと思う?
実は『紗帽文章』即ち、『こけおどしの文章』という。何句か作れたら、それがその男の福運で、だれかがすぐに持ちあげてくれ、愛想笑いを言ってくれ、すぐこわもてにしてくれる』
太上老君が話し終えたそのとき、玉史仙人は涙ぐみながら立ち去るのが見えた。思い出してみりゃ、あの一番の文章はまさしく山水運に属する文章だ。やつらに構うこともない。さて次の鏡に行って見よう」
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さて、梧空が次の彫金細工の古鏡の中をのぞくと見れば、紫柏の大樹の下に石碑が一つ立ち「古人世界 もっとも頭痛世界のとなりにあたる」と十二の文字が刻みこまれております。
梧空は、「古人世界であるからにゃ 秦の始皇帝もそこにいる。おとつい新唐のそうじの老宮人がやつは『駆山鐸』を持っていると言っていた。始皇帝のやつをぎゅっとばかりねじふせ、その駆山鐸を奪いとったあと、西天の道中の千山万谷を綺麗にとりのけ、妖怪も強盗も。隠れ家も行き場もなしにして追っ払ってやる」
梧空はただちに一匹の銅喰い虫に変身し、鏡面へと這い上がり、ガブッと一口。鏡に食いつき穴をあけました。と、突然ある高殿に転がり落ち、下の方で何人かの話し声が聞こえます。梧空は正体を現すことを避け、依然として一匹の銅喰い虫のまま、緑色の紋様の窓の隙間に隠れて様子をうかがっています。
実は古人世界のなかに、大富豪石祟の愛妾 緑珠姫さまと呼ばれる美人がひとり、終日お客を招いて宴会ばかり、飲めや歌えの大騒ぎ。そのころあれやこれやと頭をひねり百尺の楼台を建て、「握香台」と名をつけました。
ちょうどその日、越の国の美女 西施夫人が糸々嬢さまを同件して新楼台を祝いに来て、緑珠姫さまは大喜び、すぐ握香台に酒宴の支度、そして姉妹の縁を固めます。正面中央に糸々嬢様が坐り。右に緑珠姫さま、左に西施夫人が坐り
宮女がお酌する者、花を摘んでくる者等が一団となってひきしめます。
梧空は隙間に早速、奸計(悪だくみ)を思いつき。即座に宮女風に変身しその中にまじります。
宮女たちは皆笑い出し
「うちのところは握香台なこと(香は美女を指す)。こんなに素敵な女の子がおうちにいないで、駆けつけるんだから」
さらに、一人の宮女が梧空に向かって「ねえさん、あんた緑様にまだお目もじしてない?」
梧空は言います、「姉様、あたしは新米ですので。連れてってもらってお目もしできたら嬉しい」そこで宮女はニコニコ笑いながら緑珠姫さまにお目見えにつれて行きました。
緑珠姫さまはとてもびっくりして、ハラハラ涙をこぼして、梧空にむかって
「虞美人、すいぶんお目にかかりませんでした。玉のお顔に憂いが走るのは、どういうわけ?」
梧空胸中で
『ハテおかしいな?俺様は石の中から生まれて以来。今日まで男や女の輪廻などにはまったことはなく、花柳界に仲間入りなんか一度もしなかった。
俺がいつ緑珠姫さまとやらと知り合ったかい。いつ泥美人等になりましたかい。でも緑珠姫さまがそう言うのだから、俺は虞美人だろう。まあ虞美人でなかろうとかまうことたぁない。
ここは、ひとつなぶってやったら、とてつもなく面白いだろうな。
ただ一つ問題がある。確かに虞美人だから、ほかに虞美人の相方がいる。もし尋ねられたらすぐにも正体が現してしまいそうだ。まずは、探りを入れてみて、相方を一人見つけたあとで、その上で席につこう」
緑珠姫さまはさらに「美人さま」と呼びかけ「さっさと席におつきなさい。飲み物は良くないけど、結構気分直しになりますわ」
梧空はそのとき冷たく風雨に打たれるような顔つきをして、緑珠姫さまに向かい
「ねえさん、酒の楽しみは腸までしみる、というけど、あたしは夫と会えなくて、雨につけ
風につけ、断腸の思いなの。どうして酒がのどを通せましょう」
緑珠姫さまは顔色を変えて
「虞美人さま、何ということを言われて、貴女の夫は即ち西楚の覇王項羽。いま現に一緒にいながら、なぜ会えないの?」
梧空は西楚の覇王項羽という六文字をもらって、すぐに口から出まかせに答えます。
「ねえさん、貴女はまだ、今の項羽が以前の項羽と違うのをご存じない。楚騒という、宮中に美人が一人いて、ありとあらゆるしなを作り、夫を誘惑し、私たち夫婦の仲を裂きます。あるとき、新しいお酒の支度などさせていないのに、あの女ったら部屋から氷裂紋の酒つぼを大事そうに持ち出し、中の紫花玉露をすすめながら「長寿千年の大王様」と舌先三寸、別れ際には目を潤ませ、夫も色目を使ってあの女を見送ります。
あたしは隙間のない深い愛情で、夫となればどこまでもと思っているのに、あっち二人はあたしを置き物あつかい。どうして泣いたり、わめいたりせずにはおれますか。
すると夫は『お前はあの子を踏みつけにして』と言ったり。『楚騒がかわいそうだ』と言ったり、そばにあった剣をおろし、横ざまに背負い、御供もつれず、さっさと出て行き、どこに行ったのやらわからないの。二十日前に出て行って、半月以上もまだ音沙汰無しです」話し終えて大泣きします緑珠姫さまは見て薄絹の衣の片袖を涙で濡らし、西施夫人や糸々嬢さまも一緒に秋嘆しました。
梧空は宴席に長居してしまい、予定が狂うのを恐れ、酔ったふりをして吐きそうなかっこうをします。西施夫人はお月見をしようと誘い宴席はかたづけられます。四人は高殿を歩み下り、ぶらぶらと草花を踏み分け、水草をもてあそびます。
梧空は秦の始皇帝を探したい一心で遁走の計を用い「胸が痛くて」と叫び
たまらない、帰らしてちょうだいなとわめきます。
緑珠姫さま「胸の痛みは私たち毎度のことだわ。まあ心配しなさんな。誰か名医の岐伯先生を呼んで来さして、虞美人様の脈を診てもらうわ」
梧空「いけないは、近頃の医者は何よりちかよせたらダメ、生きている人間なぶって死なせ。軽い病気もなぶって重くする。治療のときにはまた手っ取り早く効き目がでることを考え、人の生命はどうでもよく、脾臓がまだ回復していないのに高価な人参を飲ませ、おかげで一生体調が悪かったり。やはり帰るわ」
緑珠姫さまはさらに「虞美人様、帰って覇王に会わなければ、また気うつになり、楚騒に会ったらまた恨めしがる。胸の痛みは気うつ怨根が一番の毒だわ」
姉妹たちは一緒に梧空を引き留めますが、梧空は断固として承知しません。緑珠姫さまは病気が切迫していることを見て、もう引き留められず、やむなくそば仕えの侍女四人に命じ、虞美人を屋敷まで送らせます。
梧空は胸を抱き、まぶたがくっきそうな顔をして、姉妹と別れました。
四人の侍女が梧空を支え、百尺の握香台をずんずん下り、一本の大道に沿って進みます。
梧空「お前たち四人はもう帰ったらよいわ。あたしの為に宜しくお礼を言って、それから夫人やお嬢さまに、明日会いましょう、と伝えなさい」
「今出かけに、緑珠姫さまからそのまま楚府までお送りしなさいとお言いつけになりました」
「やはり帰ろうとしないか……では棒でも喰らえ!」如意棒が早くも手の中で抜かれており。えいと一振り、侍女四人は打ちくだれ、周囲は紅おしろいの粉々になりました。
梧空は即座に正体を現し、ひょいっと上を見ますと、実はちょうど神話時代の女帝、女媧の門前でした。
梧空は大いに喜び
「我が家は小月王が派遣した踏空使者の一隊にずぼずぼと穴が開けられ、昨日あべこべにわが身に罪名を着せられた。太上老君は憎いやつだし、玉帝はものの道理が分からない人だけれども、俺様にも一つ悪いところがある、しなきゃよかったのに五百年前に話の種を作った。
もうこれで自分から動かなくても女媧は前から天の補修に慣れているそうだから、今日は棚から牡丹餅で女媧頼み込んで、代わりにちゃんと補修してもらい、それから霊霄宝殿に泣きつきにのぼり、白黒つけてもらおう。こりゃとてもいい機会だ」
門口に近づき、よく見ますと、黒塗りの門扉が二枚ぴったりと閉まっており門に張り紙が一枚、「二十日軒猿(黄帝)の家にて至り閑談し、十日頃には帰るでしょう。尊客をおろそかにすること。まずここに謝罪をいたします」
梧空は読み終わり、きびすを返してすぐ出発しますと、耳には鶏の鳴き声が三度聞こえ、もう未明の空です。数百万里来たのに、秦の始皇帝全然みつかりませんでした。