償い。
「ねえ、君も推理小説が好きなのかい?」
ふと顔を上げると、目の前に白い縁の眼鏡をした男が嬉しそうにして立っている。彼の言葉が静寂な教室の壁にそっと反射する。教室に残っているのはこのときたった二人だけ、僕はその事実にようやく今気がついたところである。左腕にした時計を見るともう時刻は午後六時を回っていた。
「突然ごめんね。僕、つい先日この学校に転校してきた山田っていうんだけどわかるかな? ほら、C組の……」
周囲の変化になど興味がない僕は、転校生の存在など全く知らなかったが、その場の雰囲気で知ったかぶりをすることにした。嫌な汗が脇の下に滲むのがわかる。
「ああ、君が山田君。初めまして。大野です」
そう言って僕は寝不足で少し重たい頭を一度こっくりと下げて挨拶をした。すると眼鏡の彼は、真っ白で少し青ざめた腕を伸ばし、僕が読んでいる本をそっと指さした。
「それ、アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』でしょ? ちょうどそこ通りかかったときに君がそれ読んでるから、何となく気になってさ」
眼鏡の彼は教室のドアを指さし、満足そうにこちらを向き返した。
「君も好きなのかい? アガサ・クリスティー」
優しそうな彼の目線に向かって僕はそう聞いてみた。
「ああ、好きだよ。特にお気に入りはそれ、『そして誰もいなくなった』かな。だって人が全員いなくなるって普通のミステリー小説じゃあり得ないでしょ? ねえ、少し話をしてもいいかな? ミステリーに関してさ。僕この学校に転校してきてから間もないからまだ友達もいなくて退屈だったんだ。君なら話が合いそうな気がするんだ」
この時僕は昨日の寝不足がたたってわずかに頭痛がしていたが、彼の好奇心にあふれる笑顔に、その痛みを忘れ、右手でそっと隣の席へと彼を招いた。隣に座る彼の顔がこちらを向く。
「君さ、ミステリー小説を読んでどんなこと思った?」
彼の息が僕の右耳へと触れ、体がわずかに震える。突然の質問に僕は一瞬たじろいだ。彼が何を意図してその質問をしてきたのか僕にはさっぱりわからなかった。
とりあえず率直に思っていることを口にすることにした。
「そうだね……わくわくするかな。僕はミステリー小説を読んでるとわくわくするんだ。誰が犯人なんだろう、トリックはどんなのだろうって」
彼の反応は驚くほど早かった。
「うん、僕もそう思うよ。じゃあさ、実際にしようとかって思ったことはない?」
眼鏡の彼の顔が僕のそれに急に近づく。彼の表情からあふれ出るエネルギーを真正面で感じ、僕はまぶしそうに顔を背けた。彼は先ほどから静かに笑っている。
「どういうこと?」
「言ったとおり、僕、小説を読んでるときに実際にしたらどうなるだろうって思ったりもするんだ」
「それってつまり、人を殺すってこと……だよね?」
眼鏡の奥の茶色い瞳が鋭く光る。いつの間にか彼の優しそうだった目は暗闇をまとっていた。
「そういうことになるね」
目の前にいる彼はその場に石像のように立ちつくす。彼の考えが僕には全くわからず、仕方なくこう答えることにした。
「僕は小説は好きだけど、実際にそういった事件は好きじゃない。だって人が殺されるなんてこと、僕には考えられないよ」
僕の言葉に鋭く食いつく彼の冷たい視線が僕の体全体に覆い被さる。
「けど君はそうやってミステリーを好んで読んでいるんだろう? それってつまり、人が殺されるとか、死ぬとかいったことに興奮している、それを楽しんでいるっていう証拠なんじゃないかな? 実際君はミステリー小説を読んで興奮しているって言っただろ?」
彼の言うことは事実であった。確かにその通りで、ミステリーを読んで興奮している僕がいる。ただそれが、彼の論にはっきりと当てはまるのかどうか、僕にはそこまで考える余裕などなかった。
「それはそうだけど……。読んでいてわくわくするから読むんだと思うよ」
必死に抵抗したつもりだった。しかし自分の言葉が彼の勢いを助長していることに、僕は言ってからすぐに気がついた。
「そうそれなんだよ。君にはつまり、人が殺されるとか死ぬとかいったことに対して少しでも『楽しい』とか『わくわくする』とかいった感情が付随しているんだよ。つまり君はわかっていないかもしれないが、実際にそういった事件が起こってほしい、起こしたいとも心の奥底では思っているはずなんだ。今の君にはよくわからないかもしれないけど」
彼の目は先ほどから僕のそれをつかんで離さない。僕は一秒たりともその場から動いてはいけないような、そんな不思議な力を感じていた。
「ああ、きっとそうなんだよ。君は事実、心に狂気の感情を持っている。僕にはわかるんだ。さっきこの教室の前を通ったときからもう。君は僕と一緒だ」
「君と一緒?」
僕は今、目の前にいる一人の存在に恐怖を感じているのかもしれない。語尾がわずかばかり震えていた。
「ああ。さっきも言ったが僕は事実、狂気の感情を持っていると思うんだ。なあ、ちょっと一緒に来てくれないか?」
そう言って彼は、膝の上に静かに置かれていた僕の右腕をつかみ、僕らは教室を出た。
僕らが向かった先は、教室からわずか五十メートル先の職員室だった。ドアをしずかに開けた彼は室内を素早く見回し、僕のほうを振り向いて指でOKサインを出した。室内にはいると、そこはただ静かな空間であり、先生は一人も見あたらない。所狭しと置かれた机の上には山積みになった書類が無造作に置かれている。
「ちょっとそこに立っていてくれないか? 誰かが来たら困る」
彼が指さしたのは、職員室と教室の間の階段であった。僕はその指示に従って階段と階段の間のスペースに立つ。
彼が戻ってくるまでそう時間はかからなかった。戻ってきた彼の額にはわずかばかりの汗が光っている。
「これで大丈夫だ」
一言彼はそう言った。空っぽの無表情のままで。
「君……何をしたの?」
「すぐにわかるよ」
そうして彼はそのまま無言でその場を立ち去った。僕はその場に立ちつくすしかなかった。
翌日、僕はいつものように自転車で学校へと向かう。昨日はよく眠れなかった。二日連続の寝不足が、僕の頭をぐらぐらと曖昧にさせる。
校門近くまでやってきたところで、なんだかいつもと違う光景に気がついた。辺りには数十人にも及ぶ人だかりと、それを必死で押さえる青い服の男で、その場はごった返していた。
僕は即座に彼の言葉を思い出していた。「すぐにわかるよ」
乗っていた自転車をその場に倒し、僕は彼を捜した。彼は校門の脇、ごった返しの場所から数メートル離れて静かに立っていた。
僕は彼のもとへと駆け寄っていく。
「ああ大野君、おはよう」
彼の言葉はいかにも涼しげで、表情には笑顔があった。
「君……」
「どう? 少しは興奮したかい?」
笑顔が少しも歪むことはない。歪む気配すらしない。
「君、いったい何をしたの?」
気づいたら自身の額から汗がしたたり落ちていた。
「何って、昨日君に言ったとおりのことをしただけだよ。机の上に置かれたマグカップにちょこっと毒を塗ってあげただけなんだ。どうせならどうでもいいやつを選んだ方がいいだろ? そこであいつを狙ったってわけなんだ。あの先生だけは気に入らなくてさ。君もこれを望んでいたんだろ? なあ、なんだかわくわくしないか?」
彼の冷たく無機質な言葉が僕の耳に吸い込まれる。
「君さ、僕がすることわかっていたんだろ? それなのにどうして僕を止めなかったんだい? そう、その答えは君が一番よくわかっているはずだろ?」
眼鏡の奥から現れる彼の悪魔のような視線が、僕の胸に今静かに突き刺さる。
「僕はこうやって起こる現実のほうが小説なんかよりもずっとおもしろくってわくわくするものだって思うんだ。実際こうやって今起こってしまった事件を前にして、僕はどうしようもないほど今興奮しているんだから。今の僕にならどんなことだってできそうな気がするんだ」
ごった返す周囲に視線を一度向けた後、彼は先ほどの表情から一変して優しい顔でこう言った。
「ねえ、今日はもう学校休みだろ。よかったら僕の家にこないか? どうせ暇なんでしょ?」
彼の表情の変化に僕は一瞬戸惑ったが、彼に対する好奇心から誘いに乗ることにした。
そうやって僕と彼はその場から静かに立ち去った。
彼の住むマンションは学校からわずか徒歩五分の場所にある閑静な住宅街の一角にあった。真っ白で塗り固められたそれは、最近できたばかりであろうと思わせるほど鮮やかに日光を反射している。小鳥が鳴く音だけが辺りに響く。
エレベーターに乗り込み、着いた先は五階の一番端の部屋であった。彼の開けた重そうなドアから涼しい風が流れ込む。
彼の部屋はごくいたってシンプルだった。部屋の隅に置かれた黒いベッド、机、そしてテレビ。それを囲む白い壁。
「君はここに一人で住んでいるのかい?」
キッチンから彼がジュースの入ったコップを二つ運んでくる。
「ああ、僕は昔から両親が大嫌いでさ。それでこうやって一人で暮らしてるってわけ」
持ってきたジュースをテレビの前に置き、そのまま腰を下ろした。
「こうやって一人で暮らすのも楽だよ。全部自分で決められるし自分のことさえ気にしていればいいんだからね」
左腕を伸ばし、テレビの上に置かれたリモコンを取り上げ、電源をつける。画面上に現れたのは間違いなく僕らの学校であった。マイクを持ったレポーターらしき人がなにやら事件に関してスタジオの人々と会話しているようである。僕には彼らが有名人であるのかどうかさえわからなかった。
突然横にいた彼が飲んでいたジュースを吹き出す。あまりに突然のことに僕は戸惑う。
「どうかしたのかい?」
「おかしいな」
彼の表情が徐々に曇り始める。
「おかしいって……何が?」
「おかしいんだ……。あいつ……死んでなんかないんだ……死んだのはあいつじゃないんだ……ほら……」
彼が指さす先に、僕の担任の先生がいた。画面上で一ミリたりとも動かない僕の担任の先生がいた。
「高橋先生……」
「僕はあいつのマグカップに毒を塗ったんだ……なのにどうして……」
彼のたじろいだ顔は初めてだった。鋭く茶色に光る恍惚とした目は今、満月のように見開かれ、小刻みに揺れているのがわかる。これほどまでに動揺した彼の姿を見て、僕はとっさにこう言った。
「君が毒を塗ったマグカップは彼のなんかじゃなくて高橋先生のだったんだろう。間違えたんじゃないの……?」
その事実を目の前にした僕は、もうそれ以上発する言葉をなくしてしまった。
横で静かに座っていた彼は突然ゆっくりと笑い出した。彼の表情に先ほどまで宿っていた動揺は果たしてどこへ向かったのであろうか。
「はは、いいんだ別に、たいしたことじゃない。僕がしたかったのは人を殺すってことだけだから別に誰が死んだってかまわなかったんだ」
そのとき突然ドアのベルの音が室内に響いた。僕らはその場でそっと顔を見合わせる。彼は表情を歪めることなく、すっと立ち上がると僕の後ろを通りドアへと向かっていった。その足並みはどこか不自然であった。彼らしくない、そう思った。
彼が開けたドアから現れたのは、黒いスーツを身にまとった五十代らしき白髪交じりの男であった。
「君が山田君かな?」
喉仏が響かせる低いトーンだけが聞こえる。
「はい。そうですけど」
「少し話を聞かせてもらえないかな。実はある生徒が昨日、君が職員室にいたのを目撃したっていうんだ。その辺のことを少し話してもらいたいんだが」
玄関に立つ彼が一瞬振り向き、僕と視線を重ねた。
「ちょっと行ってくるね」
そうつぶやいたきり、彼はその場から立ち去った。
ドアの閉まる音だけが部屋の中に響き渡る。
事件から一週間後、僕は彼の目の前にいた。ただ二人の間には透明の壁が立ちはだかり、僕らの会話は小さな穴を通してのみ可能であった。ただ静かで薄暗い部屋に、僕と彼、そして青い服の男が向こう側で立っているのが見える。コンクリートのにおいしかしない。目の前の彼の表情は一週間前とは比べものにならないほど老け、そしておとなしかった。
「大丈夫?」
僕は窪んだ目をした彼に、そっとそう尋ねた。
「君は、あの事件のこと、どう思っているんだい? 楽しかったかい?」
わずかに伸びた髭が彼の表情をよりいっそう暗くする。
「あの日僕は君と出会って、そしてあの事件が起こった。僕にとってあれは小説なんかよりもずっと楽しかったんだ。ずっとずっとね。後悔なんてしてない。僕はやってよかったと心の底から思っている。捕まるかどうかなんてそんなの僕の中ではどうだっていいんだ」
そう言う彼の顔には、あのときに見た笑顔が戻っていた。
「正直僕は楽しかったよ。ああやって今まで自分の頭の中だけで渦巻いていた事件がこうして世の中に出て、きっとたくさんの人を楽しませることができたんじゃないかと思う。ただあいつじゃなくて君の担任が死んでしまったのは予定外だったけどね。ごめんね。僕のせいで君の担任の先生が死んでしまって。それとどうしてかな。どうして見つかったんだろう。僕の計画では外の誰からも見えないはずだったのに。はは、そんなことはどうだっていいんだ。それよりごめんね、君に謝らなくちゃいけない」
目の前で謝られるほど、心苦しいことはない。今彼が僕の目の前で頭を下げ、「ごめんね」と再度呟いた。
「いや、いいんだ」
彼に謝られる筋合いなどなかった。そう、僕は知っていた。あいつらが同じ赤いマグカップを使っていることを。
僕はコンクリートで固められた無機質な部屋を出る際、最後にこう彼につぶやいた。
「またいつか会おうね」
帰り道、僕はポケットから取り出した赤いマグカップをじっと見つめる。そしてそれを地面に思い切りたたきつける。
マグカップが粉々に割れる音が辺りに響き渡る。
そこから数歩歩いたところで僕は少しの間だけ立ち止まり、目の前を走る国道に視線を向ける。色鮮やかなトラックと車がそこを忙しそうに駆け抜ける。
もう秋だ。やがてやってくる冬の冷たさが僕を包むことはもうない。
「謝らなくてはいけないのは僕のほうなんだ」
裏切りの償いは僕がしなければならない。
去年書いたものをタイトルを変えて再度掲載しました。
感想をいただければ幸いです。
よろしくお願いします!