哀れと言われた伯爵令嬢は歳上の女好き伯爵に溺愛されてます!?
その日、ジョルジーヌは父親から伝えられた言葉に真っ青になった。
「そんな……」
「悪いが決定事項だ。ジョルジーヌ、お前にはメルシエ伯爵に嫁いで貰わねばならん。我がペリン伯爵家の為にな」
「で、ですが…」
口答えしようとしたジョルジーヌを父親のペリン伯爵はギロリと睨み付けた。
それだけでジョルジーヌは竦み上がる。
父は怖い。この屋敷の中で最も偉い人。父の命令は絶対。
結局ジョルジーヌは震えながら父の命令を聞くしかなかった。
以前からジョルジーヌは一つ歳下ではあるが、メルシエ伯爵家の長男と婚約していた。父の命令である。そこにジョルジーヌの意志は介入しない。貴族ならば当然だ。
歳下である事は残念だが、メルシエ伯爵家の令息と会ってみれば、穏やかそうな少年でゆっくり二人は交流を積んでいた。
なのに突然の訃報である。旅行先で一家で事故に遭ったらしく、ジョルジーヌは婚約者の若すぎる死を悼んだ。
問題はその後である。
メルシエ伯爵の爵位が、メルシエ伯爵の父に戻り、そして次期伯爵は次男に移る事になる。次男はジョルジーヌより二十歳も上の男性だ。次男だったので結婚する事もなく数々の浮名を流す独身男性。
ジョルジーヌの父はどうしてもメルシエ伯爵家と縁続きになる必要があるからと、二十歳も上の相手とジョルジーヌを婚約させたのだ。
十五のジョルジーヌが悲嘆に暮れるのも納得である。
ジョルジーヌは泣いた。貴族令嬢だし、物語のように容姿端麗なお金持ちな相手と恋愛結婚できるだなんて思っていなかった。でも少しだけ夢を見ていた。
それなのに…まさか二十歳も歳上で、しかも女好きな男性と結婚だなんて!
ジョルジーヌの婚約は格好のゴシップだった。
親しくしていた令嬢も離れていった。
王立学園に通えば、周りの貴族子女はジョルジーヌを嘲笑った。
「見て、哀れなペリン伯爵令嬢よ」
「慰み者になる運命のペリン伯爵令嬢か」
「慰み者にもならないだろう。メルシエ伯爵とは白い結婚になり、社交界から消えるさ」
「あらあら、じゃあ哀れな伯爵令嬢に会えるのは卒業パーティーが最後かしら?」
周りは全て敵だった。
「いつも暗いお顔をされてますが、どうかしましたの?」
それなのに、しくしくと毎日泣き暮らしていたジョルジーヌに一人の貴族令嬢が声を掛けてきた。
顔を上げたジョルジーヌはそこにいた令嬢に目を見張った。
アデール・ミュレー侯爵令嬢だ。
侯爵令嬢を名乗っているが、現侯爵の兄とは腹違いの庶子だと聞いている。前侯爵が戯れに手を付けたメイドの娘。
皆が卑しい平民の娘と嘲笑している令嬢。
以前のジョルジーヌなら、アデールに声を掛けられても最低限の会話で彼女を避けていただろう。庶子、それも平民の娘なぞ、貴族社会に迎え入れてはいけない。貴族とは平民とは一線を引く高貴な人間なのだ。
けれどこの時のジョルジーヌは周りの悪意に酷く傷付き、誰にでもいいから優しくされたかった。
弱りきっていたジョルジーヌは軽蔑していたアデールに自分の事情を泣きながら訴えた。
「メルシエ伯爵とですか」
「わたくし、結婚なんか無理です…!だってお母様と同じ歳の殿方に嫁ぐんですよ?何で…何でわたくしが……」
ぼろぼろ泣きながら我が身の不幸を嘆くジョルジーヌの話をアデールは親身になって聞いてくれた。
そしてジョルジーヌが婚約者としてメルシエ伯爵に手紙も送った事がないと知ると、一度送ってみたらどうか、と言い出した。
「メルシエ伯爵は確かに浮名が多いですが…女性を蔑ろにしているような噂は聞きませんわ。きっと手紙を書けばお返事が来ると思います」
「ええ!?」
「ジョルジーヌ様、わたくしもですが貴族の娘に結婚の自由などありません。でしたら少しでも後の結婚が良いものになるよう努力しませんと。でなければ今貴方が蔑まされている事が現実になります」
「…でも……」
思わず尻込みする。だって相手は好色な伯爵。自分に素晴らしい未来がくるとは思えない。
やはりこんな庶子の侯爵令嬢なんかに話すのではなかったーーー。
「わたくしも同じですわ。前ミュレー侯爵が見つけてきた縁談に縛られております」
「え?………あ」
ジョルジーヌは思い出した。目の前のアデールの婚約者を。
同じ学年の公爵家三男。率先してアデールを馬鹿にして、周りに別の令嬢を侍らせている。
それをジョルジーヌは当然だと思っていた。確か家の事業の為に結ばれた婚約で、平民の娘を充てがわれた彼は本来ならもっと別の婚約を結べたはずだから、高位貴族の間では彼は悲劇のヒーローなのだ。
故に彼の周りに別の令嬢がいるのは当然だった。悲劇のヒーローを支える美しい令嬢、きっと白い結婚をアデールと数年してその令嬢と結ばれるのだ。
ーーー目の前のアデールがそんな婚約者を見てどんな気持ちでいるのかなんて考えた事が無かった。
「ふふ、お気づきになりました?……わたくし、婚約者として月に一度は手紙を出したり、お茶会にお誘いしたりしてますけど、返事なんて一度としてありませんわね。当然、お花の一輪でさえも贈られた事もありませんわ。今彼の隣りにいるアンリ伯爵令嬢には色々贈られているようですけれど」
こてん、と可愛らしく首を傾げるアデールは言葉と裏腹に婚約者の事などどうでもよさそうだ。
それがジョルジーヌには不思議だった。
結婚が全てだと思っていたジョルジーヌには確実に女として幸せな結婚ではないアデールが全く未来を悲観していない事が不思議でしょうがなかった。
「今後どうなるか分かりませんし、どうなってもいいように色々準備しているところですわ」
ジョルジーヌが疑問をぶつけるとそう返事が返ってきた。
もし結婚しても恥をかかないように女主人として奥向きの仕事を義母に教わっている事。
もし婚家を追い出されたりしても生活に困らないように礼儀作法は完璧にしたし、執事に頼んで簡単な計算仕事をさせてもらっている事。(運が良ければ礼儀作法の家庭教師、悪くてもどこかで働けるようにだそうだ)
もし平民になっても暮らしていけるように、侍女やメイドなどにこっそり平民の家事を教えてもらったりしている事。(結構楽しいらしい)
目から鱗とはまさにこの事だった。
「だからジョルジーヌ様、婚約に前向きになれない気持ちは痛いほど分かりますが、まずはお手紙を送ってみて相手の人となりを探ってみてはいかがでしょうか?悪くなる事が分かっていながら何もしないのは愚策でしかありませんわ」
ジョルジーヌはアデールに説得されて嫌っていた婚約者に手紙をしたためてみる事にした。
ジョルジーヌが手紙を出すと、意外にもメルシエ伯爵から返事が返ってきた。
婚約を結んでから礼儀を失していた事を謝る手紙に帰って来た手紙には、貴女も突然親子ほども歳の離れた男を婚約者にされて混乱しただろうから気にしない、とジョルジーヌを慮る言葉と許しの言葉が書かれていた。
それにホッとする。根っからの悪人ではないみたいだ。
それからはアデールを見習ってジョルジーヌは細々とメルシエ伯爵と手紙を送った。
伯爵からの返事は初回以降はそっけなかったが、アデールによれば返事が来るだけマシとのこと。
「苦痛ですわよ?毎月来ないと分かっている手紙を礼儀とはいえ出し続けるのは」
ジョルジーヌはアデールの手紙の文面を見せてもらったが、品のある嫋やかな字で書かれたごく普通の手紙だった。こんな手紙が来ればジョルジーヌなら間違いなく返事を書こうと思えるような手紙だ。
それなのに一度も返事がないなんて…。
婚約者に呆れているのに、礼儀だからと来ないと分かっている手紙を毎月書いているアデールを尊敬した。
それにアデールはフルールという貧しい令嬢に食事のマナーを教えているし、最近はオデットという振興貴族の男爵令嬢や数名の学園で蔑まれている他の令嬢にもカーテシーからお茶会の催し方まで様々に教えている。
数ヶ月もすればすっかりジョルジーヌはアデールを尊敬し、嫌な婚約も(たまに落ち込む事もあるが)前向きに頑張ろうと思えるようになっていた。
相変わらずメルシエ伯爵からの返事は素っ気無いが、ジョルジーヌは毎月手紙を出し続けた。
嫌でも噂は入ってくる。学園生達が面白がってジョルジーヌのそばで噂をするからだ。
曰く、メルシエ伯爵はどこぞの歌姫に入れ込んでいる。
曰く、メルシエ伯爵はどこぞの未亡人の所に通っている。
曰く、メルシエ伯爵はどこぞの公爵夫人の夫公認の愛人だ。
「くだらない」
ジョルジーヌはそう言えるようになっていた。
考えてみれば、メルシエ伯爵だってジョルジーヌと婚約する事になり困惑ものだったろう。ジョルジーヌが母と同い年の男性と結婚する事に嫌悪を示したように、まともな思考回路の持ち主なら、娘ほど歳の離れた婚約者など困りものだろう。話だって合わないだろうし、特殊な趣味でも無い限り十代の小娘など子供同然だ。しかもジョルジーヌはアデールに出会うまで、この婚約が嫌だからという理由だけで手紙一つ送っていなかったのだから。
だからメルシエ伯爵がジョルジーヌから見れば大人の女性に入れ込むのも当然な気がする。
白い結婚?上等ではないか。
結婚が全てではない。女としての幸せはなくても他の幸せを見つければいい。
哀れな令嬢?
貴方達の婚約者だって明日も元気に笑っているかわからない。
慰み者?
いいえ。結婚したら子どもを産むのは義務。メルシエ伯爵には子供がいない。だから仕方のない事。この結婚はけして慰み者になるわけではないのだ。
ジョルジーヌが毅然としていれば、周りも噂話などしなかった。
どうしても噂に傷ついた時はアデールやフルール達仲間のそばでひっそりと泣いた。彼女達はジョルジーヌを馬鹿にする事はなかった。
ジョルジーヌは学園を卒業した。
卒業すると結婚が本格的になる。
ジョルジーヌは何度かメルシエ伯爵と面会した。
ちゃんと顔を知っておけば、どんな性格かをある程度把握しておけば、結婚への恐怖も薄れる。
メルシエ伯爵は四十近い歳で髭を蓄えているがそれが洒落ている方だった。
やはりジョルジーヌに興味がないのか態度は素っ気無いが、面会時には花を持ってきてくれたりして、やはり根っからの悪人ではないとジョルジーヌは思えた。
そして迎えた結婚式。
アデールやフルール、オデットなどの仲間達は駆け付けてくれた。
そして沢山のエールをくれた。
特にもう嫁いだ仲間達はひっそりと初夜の対策を授けてくれたり、それほど悪い営みではないと教えてくれたので、さすがに今夜は竦みそうになるジョルジーヌも何とか精神的に持ち直した。
ーーー初夜。
寝室にやって来た伯爵に、白い結婚を期待していたジョルジーヌは怖気付いた。
でもーーーこれは義務。
だから怖くて顔を青くしながらもこれからの人生を棒に振らないよう必死に頼み込んだ。
「じ、ジュール様…わ、わたくしが貴方を満足させられるとは思っていません……ですがお願いです……や、優しく、して下さい…お願いします……。こ、子を成す行為…というのはり、理解していますが……こ、怖くて……」
両手を胸の前で組み、態度は完全に怯えているものだったが、何とかジョルジーヌは言い切った。
怯えているだけでは駄目だ。覚悟はあるのだと見せなければ。何に怯えているのかを相手に知ってもらわなければ。
『ただ嫌がるだけはやめた方がいいですわ。わたし、最初は何をされるのか分からなくてつい嫌がってしまったのですが…後から傷ついたと夫に言われましたわ』
『怖い事は怖いと言った方がいいですわ。気持ちを伝える事が肝心ですわよ。でもただ怖いというだけじゃ駄目です。何が怖いのかを伝えなければ』
友人達からの知恵を必死にジョルジーヌなりに噛み砕いた言動の結果ーーー夫となったジュール・メルシエ伯爵は優しくしてくれた。
優しかった、と思う。他の人を知らないから比べようが無いが、ちゃんと一つ一つをゆっくりと進めてくれ、激しい痛みもなかったし、終わった後でただ恐怖だけが残ったという事もなかった。
ジョルジーヌはその日からメルシエ伯爵夫人として動き始めた。
夫を送り迎えして、冷やかしにやってくる客にも丁寧に対応し、お茶会や夜会でゴシップを掴もうとジュールを悪様に言う人にも夫をたてる発言をする。
毅然として夫をたてる発言をすれば、ジョルジーヌを笑おうとしていた人達は面白くなさそうな顔をしたし、冷やかしに来る客も驚いた顔をして帰っていった。
そんな対応に社交界で、メルシエ伯爵夫人はあまり不幸そうではない、と噂になっているとも知らず、ジョルジーヌは伯爵夫人として、淑女として当たり前の事をし続けた。
数ヶ月もすると夫のジュールも変わった。
「これを君に。…すまない、好きな花が分からなかったから薔薇にしたが…」
ある日、ジュールは薔薇の花束を持って帰ってきたのだ。ピンクの薔薇。ピンクより白の薔薇が好きだがジョルジーヌは笑顔で受け取った。単純に贈り物は嬉しい。
またある日は落ち着いた雰囲気のリボンを貰った。ジョルジーヌの好みだったので、仲良くなったメイドと相談して帽子の飾りにして町に出掛けた。
素っ気無かった夫が歩み寄ってきてくれている気がして、アデールの言う通り、いつまでも泣き暮らさず礼儀を弁えた対応をし続けてよかったと思った。
そしてある日、夕食を共にした後の寝室でジョルジーヌはジュールに頭を下げられた。
「ジョルジーヌ、今までの私の行いを許して欲しい」
「え?」
「君は私が思っているよりずっと素晴らしい女性だった。私は自分の行いが恥ずかしい。これからは君に見合う夫となれるよう努力しよう。ーーーこんな歳の離れた男に言われても迷惑かもしれないが……愛している、ジョルジーヌ」
びっくりしてしまったのはジョルジーヌである。まさか夫から愛を告げられるとは。
その日からジョルジーヌが戸惑うほどジュールは彼女に愛を囁くようになる。
さすが浮名を流しただけあってジョルジーヌの好みを把握するのが早く、プレゼントはジョルジーヌの好きなものばかり。いつの間にかジョルジーヌが白い薔薇が好きな事も見抜かれていて、プレゼントに白い薔薇を一輪添えられる事が当たり前になっていた。
毎日毎日、ジュールはジョルジーヌに愛を囁き、態度に示して愛し出した。
人間、毎日好意を示されれば段々とその気になってくるものである。
いつの間にかジョルジーヌもあんなに最初は嫌がっていた相手を愛するようになっていた。
とある貴族の屋敷で開かれた舞踏会に招かれてジョルジーヌは夫と共に参加していた。
溺愛してくるジュールはジョルジーヌのそばから基本的には離れる事がないが、知り合いから声をかけられればそうはいかない。
「すまないね、少し離れる」
「はい。わたくしはアデール様達の所へ行っていますわ」
仕事に向かうジュールを見送り、同じ夜会にたまたま参加していたアデールやオデット達の所へ向かう。
ジョルジーヌはきょろきょろと周りを見渡した。すぐにアデール達は見つけられた。アデールは礼儀作法が完璧なのだ。彼女に礼儀作法を教えてもらったオデット達友人も高位貴族と遜色ない礼儀作法を身につけており、気品に溢れているから目立つ。
彼女達の所へ行こうとしてーーー誰かがジョルジーヌの前に現れた。
進路を塞ぐように現れた男にジョルジーヌは視線を上げる。学園時代にジョルジーヌを馬鹿にした男で今は確か既婚貴族男性だ。
「やあペリン伯爵令嬢」
ジョルジーヌは思わず眉を上げた。
ペリン伯爵令嬢?
結婚している事は知っているはず。なのに何故。
そこで気がつく。数人の貴族男性が興味のないフリをしながらジョルジーヌを観察している事を。
「ごきげんよう。今はペリン家ではなくメルシエ伯爵家の一員ですわ」
「おや、失礼しましたメルシエ伯爵夫人」
男は嫌らしい笑みを浮かべ、ジョルジーヌに近付いた。
「ですがメルシエ伯爵のような方が伴侶だと大変では?」
ジョルジーヌは心の中で眉を顰めた。
これは……。
「いいえ。夫はわたくしを大切にして下さっていますわ。今日着けているネックレスも夫が贈って下さいましたの」
「いやいや無理をなさらずとも良いのですよ。結婚をしてから女性は自由に飛び回るものです」
暗に不倫を示唆され、ジョルジーヌは扇子で口元を隠しながらふ、と吐息を吐き出した。
「そうですわね。わたくしは夫のおかげで自由というものを知りましたわ」
「ほう?では……」
「夫はわたくしに手を挙げる事もなければ、道具のように扱ったりもしませんもの」
男が目を瞬かせて息を止めた。
男の言動に合わせて自由という単語を使ったが、案外的を射てるかもしれない。
ジョルジーヌは自由を知らなかった。
父は絶対、母は父の言いなり。父の権力は強く、実家では暴力が当たり前。父の意に反すれば罵声を浴びせられたし、殴られたり、物を投げられたりした。
ドレスも習い事も教養も婚約も父の意思が絶対だった。
ジョルジーヌの意志など何処にも無い。
でも今は違う。アデールに出会い、彼女に励まされてジュールに婚約者としての礼儀を尽くした。結婚してからは妻としての礼儀を尽くした。
そうして夫の心を射止め、夫から溺愛されている。
ジュールはジョルジーヌを溺愛しているが束縛する事はなく、好きな事を好きなようにさせてくれる。
ドレスは好きなデザインにさせてもらえるし、大衆向けの恋愛小説を読んでも怒らないし、あまり上手ではないピアノでも褒めてくれるし、罵声や拳や物が飛んでくる事もない。ジョルジーヌは伸び伸びと過ごす事ができている。
「今、わたくしが自由なのは夫のおかげですわ。貴方の自由とわたくしの自由では意味に乖離があるようですけれど、ね」
男は顔色を怒りに染め上げ始めた。ジョルジーヌが思うような答えを出さずに苛立っているのだろう。
ちょっと危険かしら。
殴られるのはさすがに無いと思いたいが、何をされるか分からない。
そろそろ助けを求めようとした時、するりとごく自然に背後から腰に手を回された。
「確かに、妻の自由と君の自由の意味には乖離がありそうだ」
「ジュール様」
振り返ればジュールがいた。彼はにこやかに男を睨み付けた。
「君の言う自由は本当に彼女にとって自由なのかは疑問ですな。鳥籠から助けを求める小鳥を別の鳥籠に入れた所で、それは小鳥を助ける事にはならないからな」
貴族令嬢を取り巻く現実を詩的に喩えた夫に、ジョルジーヌは好感を覚えると同時に少しだけ意地悪をしたくなった。
「あら、わたくしは青空を羽ばたいていると?」
「私は鳥籠を用意しても閉じ込めたりはしないよ。ジョルジーヌ」
「まあ」
「だから青空に羽ばたいても、私の鳥籠に帰って来てくれるように毎日努力している所だ」
「その鳥籠は幾つあるのかしら?」
「君に出会うまでは幾つも用意していたが、今は一つだけだ。もちろん、君専用だよ」
至極真面目な顔でジュールが言い切り、思わずジョルジーヌは笑ってしまう。扇子があってよかった。
「まあ。ジョルジーヌ様は噂以上に、本当にご夫君と仲がよろしいのですね」
「オデット様」
そこへ学友だったオデットがやって来た。美しく着飾った彼女は淑やかに微笑してジュールを援護する。
「鳥籠に自由に出入りできるなんて、それこそ信頼関係が成り立っている証拠ですわ」
「ええ。ジュール様がわたくしを妻として尊重してくださるから、ついつい夫の鳥籠に居座ってしまっていますの」
「でしたら、きっと大空に羽ばたいても、恋しくてメルシエ伯爵様の鳥籠に戻ってくるでしょうね」
いつの間にか男達はいなくなっていた。
三人で邪魔にならないよう壁際へ移動すると、ジュールが夫婦としてのスキンシップで許されるギリギリの範囲でジョルジーヌを抱き締めてきた。
「はあ……素晴らしい妻を持つのも考えものだ。心配で敵わん…」
「ジ、ジュール様っ」
友人の前であけすけに愛情を示されて、さすがにジョルジーヌも真っ赤になるが、ジュールは気にしないらしいし、オデットも目を瞬いてからくすくす笑い出した。
「さっきは格好を付けて鳥籠を開け放っておくとか言ったが、許されるなら閉じ込めておきたい」
「まあ伯爵様、それはやめて下さいまし。わたくしがジョルジーヌ様と会えなくなってしまいますわ」
「む、確かに。だが分かるだろう?あんな不埒な輩がいるんだ。私の愛するジョルジーヌが巻き込まれたらと思うと気が気でない。…ああ、愛が重たいなんて言わないでくれ、ジョルジーヌ。たった一人をこんなに愛したのは初めてなんだ」
「わ、分かりましたから…!オデット様の前です!」
愛の言葉と共にキスの雨が降ってきて、居た堪れなくなったジョルジーヌが小さく叫ぶ。
しかしオデットは「お邪魔虫みたいなので去りますわね。ごきげんよう、伯爵様、ジョルジーヌ様。今度のお茶会で会いましょう。アデール様にも伝えておきますわ」と去っていく。
待ってちょうだい!オデット様!!
これまでの経験から予測できる。ジュールは嫉妬すると愛情表現が過剰になるのだ。今はもう真夜中近い。先が予測できてしまうから益々顔に血が昇る。
「オデット嬢は気が利くな。挨拶回りも終えたし、帰ろうかジョルジーヌ」
「え、ええ…」
「はあ……毎日どれだけ愛情を注いでも足りないな。美しいこの髪の毛先まで私の愛で包めたらいいのに。ああ他の男の元へなんて行かないでくれ、ジョルジーヌ」
「い、行きませんから!」
だから人前ですってば!
夫の愛情を真っ赤になってジョルジーヌは受け止める。
自分を馬鹿にしようとしている人達には毅然に対応できるのに、夫の愛情表現だけは毅然に対応できない。振り回されっぱなしである。
でも振り回されるのも嫌いじゃないのだ。
十五の頃にあんなに嫌がっていた婚約者が、今は最愛の人となって隣りにいるなんて……人生どうなるか分からないものだ。
夜会会場を後にしながらオデットはあの頃礼儀を尽くした自分を少しだけ誉めた。
ジョルジーヌのお話でした。
ジョルジーヌの最善の選択は『礼儀を尽くすこと』
そのおかげでジュールは心を入れ替えました。
そりゃあ自分より親子ほど歳の離れた女の子が嫌な事のはずなのに完璧に礼儀を尽くしていたら、まともな人なら自分も見習おうと思うのではないでしょうか。