イカにもな話
A男はこの世界で海を見たことがある数少ない人間の一人だった。
地球の海はとうの昔に枯れ果て、最寄りの海があるのは本の中か200光年離れたZ星のみだ。
そこには全身灰色で足と思われるものが10本生えた、地球でいう烏賊のような生物が平和に暮らしていた。
Z星の海は、その巨大な星にしては小さく浅いものであったが、地球人の数倍の知能をもつZ星人ですらその全体像が掴めずにいた。
そんなZ星に、A男はたどり着いたのだ。
事故で宇宙船の機能が停止し、15人の船員は緊急用の未だ技術が確立していないコールドスリープに賭けた。
生き残ったのはA男ただ一人だった。
A男は明るく乾燥した部屋で目が覚めた。
覚め切らない頭をゆっくりと持ち上げると、ガラス越しに烏賊の丸く大きな瞳と目が合う。
その烏賊はゆっくりと声を作りながら言った。
「あなたは地球からきましたね?私たちに敵と思うのは違うことです。協力しましょう」
A男は黙って烏賊の言葉を胃に収めた。
寝起きの回らない頭では、キンキンした声と不自然な文法を処理するのには時間がかかった。
烏賊の表情は何一つ読み取れなかったが、どうやら笑顔を作ったようで、頭についたヒレのようなものを震わせながら言った。
「私はBです。仲間からはイカと呼ばれています。あなたの体を見せてもらいました。元の情報と同じく、ニンゲンの体と一致しています。ニンゲンは水に耐性のある生物です」
A男はなんとか意味を理解すると、恐る恐る尋ねた。
「ここはどこだ?地球じゃないのか?」
「Z星です。ここの生き物はみな健康で平和的です。言葉がわかりますか?あなたはこの星に来る初めてのニンゲンです」
「地球に返してくれ! 俺に変なことをしなかっただろうな。いくら弄ってもイカ墨は出ないぞ」
「落ち着いてください。我々に協力していただければ嬉しいです。その後返します」
A男は黙り込んだ。
イカから敵意は感じなかったが、彼の言うことは脅迫に近かった。
おかしな実験に参加して無事でいられれば地球に返すと言うのだ。
A男は地球で見た宇宙人への虐待を思い出し、身を震わせた。
その様子を見ていたイカは、なにやら仲間に指示を出すと、滑らかにヒレを揺らし始めた。
すると、彼の体に薄いピンク色の模様が浮かび上がってきた。
その時、A男は確かになにかを”聞いた”。
その場で声を出したものはいない。
だが、なにかがA男の鼓膜を震わせた気がしたのだ。
ふとイカの目を見た。
A男には優しさに溢れた美しい瞳に見えた。
イカは地球の言語に慣れてきたのか、さらに穏やかに、なだめるような声で言った。
「不安なのもわかります。ですが、あなたに危険な目に合わせないことを約束します。これは脅迫ではなくお願いです。もしどうしてもというのでしたら、断っていただいても構いません」
A男は少し考えてから、幾分か落ち着いた態度で言った。
「思えば、イカさんは命の恩人です。取り乱してすいませんでした。私はA男。まず、何をすればいいか聞かせていただけませんか?」
イカは少し体を膨らませると、足の数本を動かした。
A男は、それが感謝の印であると直感した。
「我々は数万年の時を経て、あらゆる毒や病気に打ち勝ち、不老不死の体さえ手に入れました。ただ、どうしても克服できない物資があるのです。それは”水”です。あなた方地球人には理解できないかもしれませんが、我々は触れるだけで命を失うような猛毒なのです。ここには地球ほど水分はありませんが、それでも海があります。そこを調査して欲しいのです」
「そんなはずはない。水は全ての生物の基礎です。あなた方の体内に少しも水分が存在していないのですか?それに、海があるなら雨が降るはずです。空気中にだって少しは水分を含んでいるはずだ」
「あなたが困惑するのも無理はありません。ですが、現にそういう生物が存在しているのです。我々が認識できている宇宙には、そのような生物が住む星が5000程度確認されています。それと、我々の体内にも血は通っています。不思議に思われるかもしれませんが、我々は一生この水分を循環させて生きているのです。不老不死の技術が確立する前は、死体の水分に相当苦労させられたそうです」
A男は呆然と天井を見た。
あまりにも地球と違う条件下で、正常な判断ができるはずもなく、質問すら出てこなかった。
A男は笑った。
「烏賊なのに水がだめなんですね」
イカは目をきょろきょろさせるだけだった。
「いえ、すいません。この部屋はどうするんですか?私の息や汗にも水分が含まれています」
「その程度なら問題はありませんが、念のためあなたが出た後焼却処分します。少し考える時間が必要ですか?」
A男は笑って言った。
「その必要はありません。今すぐにでも出発しましょう。それと、喉が渇いたので一杯水をいただけませんか?」
ーーーーーー
A男は防護服のような厳つい服を着せられ、施設の中を案内された。
海は埋め立てられ、厳重に管理されていた。
イカの話によれば、海の底に新たなエネルギー資源がある可能性が浮上し、調査を依頼したとのことだ。
A男は5、6匹のZ星人に囲まれながら廊下を進み、厳重な扉の前に立たされた。
そこには武装したZ星人が2匹、A男を睨んで立っていた。
おそらくこの先が海だ。
Z星人たちは合図をすると、ゆっくりと扉を開けた。
その瞬間、遺伝子に刻み込まれたあの波の音が聞こえた。
そこは、確かに海だった。
それまでの無機質な部屋や廊下からは想像できないほど、大きく雄大な母なる海の姿だった。
砂浜まである。
A男も、写真でしか見たことのない、本物の海だ。
A男は、イカ達の制止する声を無視して、ふらふらと海に近寄って行った。
頭を覆う金魚鉢を外し、砂浜に崩れ落ちる。
少し海水を口に含むと、強烈な塩の味が口の中に広がった。
海の水がしょっぱかったというのは本当だったのだ。
よく見ると、小さな魚が海面の近くを悠々と泳いでいる。
A男は自分が泣いていることに気づいた。
人間の愚かさのせいで、地球から姿を消した海。
それを200光年離れたこの星で、初めて目にすることになったのだ。
A男は涙を拭い、イカ達の元へと戻った。
蒸発した水分を恐れているのか、あの分厚い扉は閉まり、イカ達もあまり長居はしたくないように見えた。
「あまり勝手な行動をしてもらっては困ります。先程説明したように、水は我々には猛毒なのです。では、これから調査の説明を……」
イカがいい終わらないうちに、A男は口に含んだ海水を護衛の一匹に吹きかけた。
Z星人は苦しみながら倒れ、落とした銃をA男はイカに向けた。
「動くな」
困惑したZ星人達を、A男は次々と撃ち殺していった。
残されたイカは、怯えきった様子で言った。
「なぜ、こんなことを……我々に失礼があったなら謝ります。」
A男は黙って首を振った。
そう、水が存在しないこの星でA男が生きていくには、長くて3日かそこらしか持たないのだ。
その間に深海へ潜り、仮に有益な情報を得られたとしても、その後は?
地球へ帰るまでの水や食料は?
そもそも帰ることができるのだろうか。
考えれば考えるほど、A男には自分が生きていけるという希望が持てなかった。
海の水は、飲めたものではなかった。
水を求めてもイカ達から貰えなかったのは検証済みだ。
そうなると、生き残る術はただ一つ……。
A男は、黒い血の流れるZ星人の死体を見やって言った。
「喉が渇いたんだ」
イカはしばらく黙ってA男をみつめていると、観念したように言った。
「私は人質ですか?」
「それもある。だが、それ以前に殺したくなかった」
A男は荘厳な海を見た。
どこかで魚が跳ねる音がする。
食料はなんとかなるだろう。
A男はゆっくりとイカに近づき、顔に触れかけて、やめた。
「さっき俺を従わせるために何かしたんだろうが、今となってはそんなことどうでもいい。イカ、お前が好きだ」
波の音が二人を包み込む。
海を前に2人の男女が結ばれる。
A男が昔観た、映画のワンシーンのようだった。