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腹黒貴族と女スパイが世界を変える話8

最終章 Garbage box

〜最終章〜


息を切らし病室に駆けつけたキャロルの目に飛び込んできたのは、空のベッドと黒い服に身を包んだ商会員と思われる3人の男だった。

「バケットは……どこにいるの……?」

「…………」

男達は皆一様に気まずそうに目を逸らし、キャロルの問いかけに答えようとしない。

「……この度は……心中お察しします……」

男の1人が閉ざしていた口を開き、キャロルに歩み寄ると深々と頭を下げた。

「フランセ殿のご遺体は、先刻、商会の方で回収させていただきました……」


「 」


その瞬間、キャロルは息をすることを忘れた。

(今、何て)

「何せ、色々と秘密の多いご遺体なものですから………実験室に回し解剖してお調べした上で、私共が責任をもって弔わせていただきますので、何卒ご理解頂けますようお願いします……」

(遺体…………実験室…………解剖…………)

分からない。この人は一体何を言っているのだろう。キャロルには男の言葉が他人事のように聞こえていた。全てにまるで現実感が無く、脳が理解するのを拒否していたのだ。

「……それでは失礼致します」

呆然と立ち尽くすキャロルを残して、男達は病室から立ち去ろうとする。

その時、男達の背後に隠れていた窓の傍に、買い物袋が無造作に置かれているのが目にとまった。


"ねぇ、また何か植えようか"


"何がいいと思う?"


袋から覗く小さな赤い花が目に留まり、今朝の何気ないやり取りが脳裏に駆け巡る。

(バケッ……ト……)

彼はきっと買い物を済ませて、家に帰る途中だったのだろう。その花の存在が唯一、彼がこの病院に運ばれてきたのだという現実感を突きつけてきて、キャロルの表情が悲痛に歪んだ。

「待ちなさいよ……」

キャロルは男達を振り返った。

「死体も見ていないのに、死んだなんて言われて、納得出来る訳ないじゃない……」

「…………」

「会わせて……」

キャロルは男に詰め寄り、胸倉に掴みかかる。

「バケットに会わせて……!」

傍らに控えていたもう1人の男が彼女を制止しようと肩を掴む。

「落ち着いて下さい……彼はもう」

「だって!今朝まで……っ―――――!」

男の腕を振り払い、キャロルは震える唇を噛んだ。瞳には涙が滲み始めて、視界がみるみる霞んでいく。

だって、まだ鮮明に思い浮かべられるのだ。

ふわふわと揺れる柔らかい髪も、子供のような悪戯めいた笑みも、落ち着いた心地のよい声も、ふいに触れた手の温もりも…………。

「……今朝まで、生きていたのよ………」

耐え切れず零れた涙と共に全身から力が抜けていき、膝から崩れ落ちてしまう。

「…………」

男達は立ち上がることが出来ず項垂れるキャロルを痛ましそうに見つめ、再び頭を下げて病室から出ていった。


いつかこういう日がくると分かっていたはずだった。しかし、実の所は覚悟など全くできていなかったのだ。死ぬなんて何かの間違いで、穏やかな日々がこのまま続いていくのではないか……そんな甘い幻想を抱いてしまう程、彼が隣にいることに慣れ過ぎてしまっていた。

(もっとちゃんと話をしておけば良かった。もっと顔を見ていれば良かった。もっとワガママに付き合ってあげれば良かった。もっと……もっと一緒に………………)

何を後悔しようと、時は二度と元には戻らない。永遠に失われてしまった未来を想い、キャロルは嗚咽を漏らした。



まだ日も昇りきらない早朝。スパイスは海辺のコテージハウスを訪れていた。

鍵のかかっていないテラス窓からリビングに入ると、そこに人の気配は無く、しんと静まり返っている。ただテーブルの上には2人分の食器が並んでいて、キッチンの上には調理途中で投げ出された料理が残されていた。

時間が止まってしまったかのような生活の跡を横目に見ながら、スパイスは階段を上がって2階へと向かう。

すると寝室の扉が少し開いていて―――その隙間から見えた彼女の姿に、スパイスの喉がきゅっと詰まった。

「ねえさん…………」

寝室の中にはバケットのベッドの上で小さく身を縮めるキャロルがいた。

「ねえさん」

スパイスがゆっくりと近づき枕元で呼びかけると、キャロルの肩がビクリと跳ねる。

「バーニャ島へ戻りましょう、バケットを追いかけるんです」

「…………」

キャロルは自身の体をぎゅっと抱き締めて小刻みに震えた。

「ねえさん………どうしちゃったんですか…………」

「……………………」

「ねえさんっ」

「……………………」

「しっかりしてください!まだバケットが死んだと確定した訳じゃない。直接会ってちゃんと自分の目で確かめるんですよ!」

痺れを切らしたスパイスがキャロルの肩を掴んで揺り動かす。だが彼女はそれを振り払う様に首を振った。

「…………無理よ……無理…………でき……ない………」

キャロルはすすり泣くような掠れ声を漏らす。

「私には……アイツが死んだなんて、受け止められない……もし、認めてしまったら……それこそ立ち直れなくなる………だったら、もういっそ……目を背けていた方が…………」

「だからって……このままじゃ………」

かつて見たことがない程に弱りきった彼女の姿を目の当たりにして、スパイスは傷ついたように顔を歪めた。

「バケットが実験室送りになってしまえば、もう一目会うことも叶わないかもしれない、それで本当にいいんですか……?!」

「………っ…」

「…………ねえさんっ!」

キャロルは耳を塞いで肩を震わせた。ボロボロに傷ついてしまった心をこれ以上壊さないよう、彼女は自身の殻の中に閉じこもろうとしているように見えた。

「…………」

きっと今の彼女にはこれ以上何を言っても届かないだろう。

スパイスは小さく息を吐くと、キャロルを1人残してそっと寝室の扉を閉めた。

「……無理、だよ……もう……」

誰も居なくなった部屋で、キャロルはポツリと言葉を漏らす。昨夜からバケットの事を思い出しては涙を流しての繰り返し。楽しかったはずの思い出さえも今は悲しみに染まってしまった。

いつになったら、この悲しくて苦しい気持ちは消えてくれるのだろう。涙は止まってくれるのだろう。



それから数時間経ち、スパイスは食事を載せたトレーを手に寝室へ戻ってきた。それは家に残っていた食材で彼女が作った野菜スープだった。

「ご飯、持ってきました……ねえさん、バケットを探し回って昨日から何も食べてないでしょう?」

「…………」

キャロルは背を向けたままベッドに横たわり、こちらを見向きもしない。だが、スパイスは構わず話を続けた。

「悪いとは思ったんですけど……ずっと、2人のこと見ていましたよ。でもねえさんが悪いんですからね。相棒の私に何も言わずに出ていってしまうから……」

「…………」

スパイスはサイドテーブルにトレーを置くと、徐にキャロルの隣に腰掛ける。

「ねえさんは、どうしてバケットに自分の気持ちを伝えようとしなかったんですか…………」

「…………」

「……ねえさんは意気地無しです」

頑なに沈黙を守るキャロルに、スパイスは目を伏せて拗ねたような顔をする。

「バケットはねえさんがいると、やたら突っかかるし、口実をつけて飲みに誘おうとしてた……傍から見てりゃ、すぐ分かりますよあんなの…………ねえさんと一緒にいたかっただけだって……」

「…………」

「あの人、最低ですよ……ねえさんが自分を好きなこと、もう分かっているんですもん……それで満足して自分の中で完結していたんです。だから、ねえさんの気持ちにも応える気も自分の気持ちを伝える気も最初っからなかったんですよ」

「…………」

静かな口調で語られるスパイスの言葉に、キャロルの目からは静かに涙が流れ落ち、シーツを濡らした。

「もし、ねえさんが踏み込んでいれば、何か変わっていたかもしれない……」

「………………」

ぎゅっとスパイスの握った拳に力が籠る。

「例え、バケットが死ぬのを回避できなくても……ねえさんの後悔は残らなかったかもしれない…………」

「………………」

スパイスは、キャロルの背中を振り返って語気を強めた。

「ねえさん……今ならきっと、まだ間に合います……!だから、ちゃんと向き合ってください……!」

「じゃないと一生、ねえさんはこの後悔を引きずったまま生きることになる…………。そんなの、全然ねえさんらしくないじゃないすか…………!どんな状況でも諦めない…………それがねえさんじゃないですか…………!」

「…………」

「お願いですから、カッコイイねえさんに戻ってください……じゃないと、私…………っ……」

スパイスの喉がヒクッと引き攣る。

「ねえさんのこと、本当に嫌いになっちゃいますからっ……!もう……絶交です…………コンビ、解散……です…………っ!!」

「………スパ……イス…………」

キャロルがゆるゆると体を起こし、スパイスを振り返るとそこには涙でぐしゃぐしゃに濡れた彼女の情けない顔があった。

「ふ、アンタ……何、グズグズになってんの……」

それを見たキャロルは泣き腫らした顔で唇を綻ばせた。

「だって……だって…………」

泣きじゃくるスパイスの頭を抱き締めてキャロルは「ごめん」と謝った。

「ごめん……ごめんね……カッコ悪いとこ……ばっか見せて…………ごめん」

「はい、はい……ぃ……っ……」

「アンタに……そんなことまで言わせて……私、最低……だ………」

「うぇぇ、ぇ……ねえさ……、ねえさぁ、あん……」

2人は抱き合って子供のように泣いた。悲しい事も、辛い事も、互いの気持ちを理解できるのは、世界にたった1人の相棒だけだった。


一頻り泣いた後、キャロルは目を伏せ、ふぅとため息をついた。

「あーあ…私達って、結局、最後の最後まで意地の張り合いばっかり……ホント嫌になっちゃうな……」

キャロルは目を見開き、スパイスを見つめる。

「ケリつけに行く……一緒に来てくれる?」

「はい……」

スパイスは涙を拭って、真っ直ぐにキャロルを向き直った。

「着いてきます。ねえさんの行く所なら何処へでも」



約1年ぶりにキャロル達はバーニャ島へ戻ってきた。この島で生まれて、この島で家族を失った。この島で皆と共に幼少期を過ごし、一緒に夢を追いかけた。キャロルにとって、この島は生涯切り離すことのできない特別な場所だ。


島に降り立ってすぐ、キャロルは街の風景を見渡して違和感を覚える。

「何だかこの街、雰囲気変わった……?」

まだ夕方過ぎだというのに出歩く人もまばらで、あちこちに赤い制服の男が立っている。

「それが……最近、市民の政治活動に反対する貴族が自警団を作り、集会を開かないように監視しているとかいう噂で…………」

「何よそれ……商会は何でそんなことを許してんのよ?」

ふと、講堂の前に十数名程の人が集まっているのがキャロル達の目に飛び込んでくる。

「……あれは?」

「何でしょう、人集りができていますね…………」

近づいて行くと取り囲む人々の中央には、横に長い大きな石碑のようなものが立っているのが見えた。島を離れる前にはこのようなものは無かったはずだ。

「あの、ここで何かあったんですか……?」

石碑の前から立ち去ろうとする女性にキャロルが声をかける。

「あら……観光の方ですか?」

女性は愛想よくニコリと微笑む。

「これはフランセ様がお亡くなりになられてから、市民の寄付で立てられた慰霊碑なんです。もうすぐ1周忌なので献花に訪れる方が後を絶たなくて」

「そう、なんですか……」

そう言えばフランセは1年前に死んだことになっていたのだった。キャロルは不思議な気持ちで慰霊碑を見つめた。

「あの方のおかげで貧しかったバーニャ島での暮らしは嘘みたいに様変わりしましたから……」

女性はそう言って目を細めた。

「…………」

跪き手を合わせて献花をする人々の様子からは、フランセがどれだけ市民に慕われていたかが伺える。

「私、思うんです……もしかしたら、フランセ様は神様だったんじゃないかって」

「…………神、様」

思わぬ女性の言葉にキャロルは息を飲んだ。

「ふふ、そんなはずないのに可笑しいですよね」

「……いいえ」

「この街も随分窮屈になってしまって……フランセ様が生きていてくれたら、どんなに良かっただろうと思います……」

女性はそう言って軽く会釈すると、その場を立ち去って行った。キャロルは苦笑いをしながら小さくため息をついた。

(全く……貴族、政治家の次は神様になっちゃうなんてね……)

彼はいつも自分の手の届かない遠い所へ行ってしまう、今だってそうだ。ずっと先を歩いて、追いつかせてはくれない……。

キャロルは徐に雲を掴むようにして、空に手を伸ばした。

(そう言えば、バケットもいつかこうしていたっけ……)

ぼんやりと幼い頃の記憶が蘇る。思い浮かべたのは、風に攫われてしまいそうな弱く小さな背中―――――。

きっと傷ついた彼の姿を知らない者から見れば、フランセは救いを与える神様のように見えていたのだろう。故郷を救う事で救われたかったのはきっと彼自身だったのに。

「ねぇ、バケット……アンタは救われたのかな……?」

「………………」

虚ろな目でそう呟くキャロルに、スパイスは何も言葉をかけることができなかった。

「おい貴様ら、こんな場所に固まっていないで、さっさと散れ!」

現実に引き戻すように、自警団の男の罵声が響く。

「………………」

献花に訪れていた人々は恨めしそうに男を睨むと、渋々その場から離れていく。

「何だよ……偉そうに」

「早く、行きましょ……」

彼らの口からはブツブツと文句が零れている。一連の様子を見ていたキャロルの胸の中には釈然としないモヤっとした気持ちが残る。フランセがいた頃の街には人々の活気と熱量があったのに、今は息苦しい閉塞感を覚える。この短期間での街の変貌ぶりを、憂慮せずにはいられなかった。



スティックス商会の本部。業務を終え、帰宅の途に就こうとしたカブラの前に見覚えのある2人組が立ちはだかった。

「カブラ、ちょっといい?」

「お前達…………こんな所で何をしている?」

キャロルとスパイスの顔を交互に見たカブラは眉をひそめる。

「聞きたいことがあって……商会にフランセが戻ってきたって話聞いてない?」

「いや、聞いていないな……奴は1年前に行方を眩ませたはずだ……」

「隠し事、してないわよね……?」

「隠し事などしていない、本当に知らないんだ。フランセの逃亡先もごく僅かな者しか知らない機密事項だった」

カブラの真面目な性格と態度からして、十中八九彼の言っていることは本当の事だろう。

「……知っているとしたらペペローニか……」

キャロルは腕を組んで唸った。

「ペペローニ様は数日前からしばらく休暇を取って、商会内には居らっしゃらない」

「数日前……?」

カブラの言葉にスパイスが反応する。

「もしかしてバケットと一緒にいる可能性もあるんじゃ……!」

バケットの訃報とタイミングを合わせたように、ペペローニが長期休暇を取っているということは全く関係がないとは考えにくい。

「そこまでは分からないが……その可能性が無いとは言えない。ペペローニ様の療養先は伏せられているからな……」

「そう……分かったわ、ありがとう……」

有力な情報が得られ、キャロルは安堵したように深く息をついた。

「ところで、1つ聞きたいんだけど………あの街の様子は何なの?」

「……自警団のことか……」

鋭い視線と共に投げかけられた問いに、カブラは眉間に深い皺を寄せる。

「実はバーニャ・カウダ新社長のセロリとペペローニ様の関係が上手くいっていなくてな……」

「どうしてですか?」

スパイスがカブラに尋ねる。

「セロリはフランセ家の遠い親戚に当たる弱小貴族の次男坊で、ペペローニ様が間に合わせでバーニャ・カウダの社長の座に就かせたのだが……自分を思いのままに操ろうとする商会に反発し、あろう事か保守派の貴族院の議員連中に抱き込まれてしまったのだ」

カブラの話によれば、セロリは貴族院の議員をバーニャ・カウダ社の役員に引き入れ、彼らの後ろ盾を得たのを良い事に、ペペローニをはじめとする商会のメンバーを役員から追い出してしまったらしい。それ以来、セロリはバーニャ・カウダ社の名を振りかざしてやりたい放題。政治サロンを廃止に追い込み、市民の一切の政治活動を禁じたばかりか、バーニャ島の治安維持を名目に自警団を結成して自分に反発する市民を片端から捕らえているという。さらにバーニャ島で新しく商売を始める業者には莫大な手数料をかけて、特区を頓挫させようとしているという話もある。どうやら彼らはフランセの遺したものを一片も残らずこの世から消し去りたいようだった。

「…………酷いわね」

キャロルは腹の中をぐちゃぐちゃと掻き回されるような嫌な気持ちになった。

それにしても、元々フランセの跡継ぎを用意するつもりなかったとはいえ、ぽっと出の貴族にここまでの暴挙を許してしまうなんて脇が甘すぎるのではないだろうか。あまりにお粗末な話にキャロルは怒りを通り越して呆れた。

「そんな馬鹿に……バーニャ・カウダを任せるなんて……アンタら何やってんのよ…………」

ほとほと呆れた様子で頭を抱えたキャロルを見て、申し訳無さそうにカブラは目を伏せた。

「ペペローニ様は……フランセが消えてから人が変わられたように塞ぎ込まれてしまった…………すまない、私がペペローニ様を支える事が出来ていれば………」

「…………」

カブラを責めた所でどうしようもない。けれど、指を咥えてこの事態を見ているつもりもない。キャロルはきゅっと唇を結んだ。

「……私達がセロリをバーニャ・カウダのトップから引きずり下ろすわ」

「なに……?」

キャロルの発言にカブラが目を見張る。

「このままじゃ、フランセが築き上げてきたモノが無茶苦茶にされかねないもの。スパイス、行くわよ!」

「はいっ!」

キャロルが身を翻し、スパイスもその後に続いて商会本部を出て行く。

「おい!あまり無茶はするんじゃないぞ!」

2人の背中に向かってカブラはそう呼びかけるが聞いている様子はない。カブラはため息をついて「…………調べてみるか」と静かに呟いた。



翌日から、彼女達は二手に分かれて情報を集め始めた。

キャロルはバケットの行方を追うためにペペローニの目撃情報について街で聞き込みを行い、スパイスはセロリを社長の座から引きずり下ろすためのネタを得るため、使用人に扮して彼の住まう元フランセ家の屋敷に潜入した。


「失礼します。お部屋のお掃除に参りました」

スパイスはゴミを回収するフリをしながら、横目でセロリを観察していた。セロリは社長室の椅子に腰かけ、念入りに眼鏡のレンズを拭いている。

「ピクルス社の社長が会いたいとおっしゃられているのですが……お繋ぎいたしますか?」

秘書が伺うとセロリは小さく首を振ってメガネをかけた。

「いい。今後、奴らとの取引は大幅に減らすことにした」

「宜しいのですか……? 先代社長が懇意にされてきた取引先ですが……」

「ふん、そこの社長は庶民の出だろう。庶民は大金を手に入れるとすぐに調子に乗る。浅ましいことだ」

秘書の意見をセロリはバッサリと切って捨てた。スパイスが分析するに、セロリは典型的な貴族主義に加え、劣等感からくる虚栄心の塊のような男だった。田舎の弱小貴族、次男坊、フランセの後釜。いずれを取っても彼の人格を作り上げるには十分すぎた。

(とどのつまり、ペペローニにバケットと比べられて反発したと……)

セロリの振る舞いから商会を裏切った子供じみた理由が透けて見えて、スパイスは残念な気持ちになった。



数日後、キャロルとスパイスは自宅にこもり、お互いの得た情報を持ち寄って話し合った。

「バケットの行方は依然掴めないままですね……ペペローニの療養先も分かっていないですし…………」

「……………………」

スパイスの言葉にキャロルは押し黙る。バケットが死んだと聞いてすでに1週間が経過していた。彼が死んでいるのであれば、既にどこかに埋葬されている可能性が高い。下手をすれば遺体に対面する事すら出来ないかもしれないし、これ以上探しても無意味なのかもしれない。それでも、少しでも可能性があるなら。その僅かな希望に縋りたいという想いが彼女を突き動かしていた。

「…………今は出来ることをするしかない…………そうでしょ?」

「ねえさん……」

「ほら、切り替える!」

「はいっ」

パンと手を叩き気丈に振舞うキャロルに、スパイスは背筋をピシッと伸ばして返事をする。

「セロリが取引先として懇意にしている会社のリストです。賄賂や接待の証拠も揃えました」

スパイスは集めたリストを机の上に並べていく。キャロルはそれを吟味するようにしばらく見てから首を横に振った。

「これだけじゃセロリを辞任に追いやる理由としては弱いわね、マスコミに持ち込んだところで貴族の権力で揉み消されかねない」

「確かにそうですよね……セロリの後ろには貴族院の議員がいる……一体どうすれば……」

キャロルの指摘にスパイスが唸る。

「セロリを追い出すことに関して、一応作戦は考えてあるわ……ちょっと地味だけど」

「何です?」

スパイスが首を捻ると、キャロルは意地悪な表情でニッと笑う。

「単純な事よ。とことん嫌がらせするの。セロリがバーニャ島にいるのが嫌になるまでね」



翌日。バーニャ島の市街のあちこちの壁に、黒い紙に青い文字が印刷されたチラシが貼られていた。


『セロリは社長を辞めろ バーニャ島をフランセの手に取り戻せ』


そのチラシの文言は街中で瞬く間に話題になり、セロリに不満を抱いていた市民達は湧き上がった。もちろんこれはキャロルとスパイスの仕業であった。

夜の闇に紛れ、自警団の目を掻い潜って、チラシを張るなど彼女達には朝飯前だった。

これを知ったセロリは今朝からずっと苛立ちを隠せない様子だった。

「あの紙は何だ!今日中に全て剥がしておけ!!」

彼は怒り任せに周囲の人間に当たり散らし、自警団へチラシの撤去を命じた。


そして、その日の午後。

パリーン!

セロリが執務室の中に入って仕事をしていると、突然窓ガラスが粉々に割れた。

「ギャッ!!」とセロリは驚いて悲鳴を上げる。

窓の傍を見ると白い紙に包まれたこぶし大の石が、外から投げ込まれたようだった。セロリは足元に転がった石を拾い、紙に書かれている文字を見て、ギリっと奥歯を噛みしめる。

「貼紙の次は……脅迫状か………野蛮人共め…………!」

紙には『バーニャ・カウダ社の社長を辞任し、自警団を解体すること。要求が呑まれない限り、嫌がらせ行為は永遠に続く』と書かれていた。

もちろんこれはキャロルとスパイスの仕業であった。執務室にセロリがいる事を確認したスパイスが合図を送り、キャロルがその強靭な肩で隣の建物から、執務室を目がけて石を投げ込んだのである。バケットから散々ゴリラ扱いを受けている彼女とって、このような事は朝飯間だった。



翌日の朝。セロリは鼻につくような悪臭に耐え切れず目を覚ました。

「臭ッ……おい!何の匂いだ、これは!」

「申し訳ございません。社長。屋敷の中に大量の動物の糞が不法投棄されていまして」

スパイスはセロリの寝室の窓を開け放ち、室内に風を送りながら言う。

「くそっ………臭くてかなわん、さっさと片づけておけ!」

もちろんこれはキャロルとスパイスの仕業であった。最近、バーニャ島では飼い犬の糞の不始末が大変深刻な問題となっている。キャロルとスパイスは清掃のボランティアと称して街の人々と一緒に島中の犬の糞を集めて回り、屋敷の中にばら撒いたのだ。街の美しさを保つため、ボランティアに参加するなど彼女達にとって朝飯間だった。



屋敷の休憩室にて。

「あーあ、セロリ様、嫌だなぁ〜、最近、ずっとイライラしているし!」

嫌がらせの毎に怒鳴りつけてくるセロリに、使用人達にもストレスを感じ始めていた。

「フランセ様はもっと愛想が良くって……使用人にも優しくて……」

「うん、うん」

「そもそも顔が全然違うわよ。フランセ様は見ているだけで癒しだったのにっ!」

積もり積もった不満に、彼女達の愚痴は留まることを知らない。

「ああ、フランセ様……どうして死んでしまったの…………」

使用人の女性達はそう言って、アンニュイなため息を漏らす。

「ちょっといいですか?」

スパイスは彼女達の元へ行くと、にっこりと笑いかけた。



翌日。セロリが目を覚ますと屋敷から使用人の姿が忽然と消えていた。

「何故、屋敷に誰もいない……!」

「申し訳ございません、社長。どうやら全員依願退職をしたようです」

唯一、屋敷に残っていた使用人のスパイスが事情を説明する。執務室の机の上には秘書から使用人まで、きっちり人数分の退職願が並べられていた。

「た、退職……!?」

セロリは開いた口が塞がらない様子だ。

「どうやら、嫌がらせ行為に耐えきれないとのことで……」

「はああ?!一体、誰の許可を得て……」

もちろんこれはキャロルとスパイスの仕業であった。キャロルが条件の良い就職先を事前に用意し、スパイスが彼女らに甘い言葉を囁いたのだ。情報屋と繋がりを持つ彼女達にとっては就職先の斡旋など朝飯前だった。



その日の午後。セロリが外出しようと屋敷を出た時の事。

「今日のディナーはハンバーグが良―――――うぉおぉっ!」

外に一歩踏み出したセロリの体が突如2M程下に落下した。

「だ、誰だ、こんな所に穴を掘ったやつは!!」

「申し訳ございません、社長。おそらく屋敷に侵入した何者かの悪戯によるものかと」

「さっさと引き上げろ……バカ!!」

セロリはスパイスを怒鳴りつける。もちろんこれはキャロルとスパイスの仕業であった。

キャロルが水道管の工事業者になりすまして屋敷に潜入し、地面に落とし穴を掘っていたのだ。怪盗時代、遺跡からお宝を掘り出していた彼女達にとって穴を掘るなど朝飯前だ。


スパイスの力を借りて何とか穴から這い上がったセロリは足を押さえて地面に倒れ込んだ。

「大丈夫ですか、社長」

「う、足が痛い……折れているかも……!」

「いやぁ、これはただの捻挫かと……」

大袈裟なセロリの反応に対し、スパイスが冷静に分析する。

「病院に行くぞ、車を出せ!!」

「申し訳ございません。社長!!」

セロリの命令に、即座にスパイスが謝る。

「今度は何だ!?」

「何者かの悪戯により、車が無茶苦茶に破壊されておりまして」

見るとセロリの愛車は、ボンネットがベコベコに凹んでおり、窓という窓が全て割られて、タイヤがパンクさせられていた。

「こっ、この、役立たずが…ッ……!!」

セロリは苛立ち、頭をガシガシと掻いて叫んだ。もちろんこれはキャロルとスパイスの仕業であった。セロリが穴から出られないでいる隙に、鉄パイプを持って屋敷にスタンバイしていたキャロルが車を破壊していたのだった。ゴリラにとって短時間で車を破壊するなど朝飯前だった。



次の日も、その次の日も、キャロル達による嫌がらせ行為は続いた。

或る日は、街を歩いていると上から泥水が降ってきた。或る日は、屋敷中の水道から水が出なくなった。或る日は、バナナの皮で滑って派手に転んだ。

或る日は寝室のベッドの中にゴキブリが大量投入された。

「寝室に、虫……虫が……!!」

寝ている間にゴキブリに気が付き飛び起きたセロリが使用人の部屋に駆け込んでくる。

「申し訳ございません、社長。使用人が居なくなり、掃除が隅々まで行き届いていないようで……」

「さっさと新しい使用人を用意しろ!」

セロリは申し訳なさそうに謝るスパイスを頭ごなしに怒鳴りつけた。しかし、いくら経っても使用人は増えなかった。それもそのはず、嫌がらせ行為の続くセロリの屋敷に進んで勤めたい者など何処にもいなかったのだ。



或る日。セロリが外出から戻ると、机の上には小包が置かれていた。

「何だ、この小包は…………」

徐に小包を開くと、その中には『お前もこうなる』という文字と共に、人間の血塗られた手首が入っていた。

「うわぁぁぁっ!!」

セロリは思わず仰け反って、椅子毎後ろにひっくり返った。

「ひっ、ひぃ、手、人の手が…………!」

彼は部屋の隅で小さくなって震え上がっている。

「……よく出来ていますが、これはおもちゃのようですね」

悲鳴を聞いて駆けつけたスパイスがヒョイと玩具を拾いあげる。

「悪質な……は、早く捨てておけ……!」

セロリは顔を引きつらせて、シッシとスパイスを追い払った。



「車を用意しろ……」

その夜、食堂でディナーをとっていたセロリがポツリと呟いた。心身ともに疲れ切っていた彼は、食事もソコソコに椅子から立ち上がる。

「どちらに行かれるのですか?」

「しばらくは別荘に泊まる………」

そう言うなり、セロリは屋敷から出て行った。



セロリの別荘はバーニャ島の街外れにある一軒家だった。彼は屋敷で眠ることに恐怖を覚えて、この別荘に逃げてきたのだ。

その日の深夜。囁く様な声が聞こえてきてセロリは目を覚ました。

「社長……、社長……」

セロリの枕元に立っていたのはメイドに扮したスパイスだった。

「なんだ……夜遅くに起こすんじゃない……」

「申し訳ございません、社長」

セロリは眠たげに言うと、寝返りをうって頭から布団を被ってしまう。

「……………………」

「あの、社長」

「うるさい……なんだ!」

しつこく呼びかけるスパイスにセロリが声を荒げる。

「別荘が火事になったようで。早く逃げないと丸焦げになってしまいますがよろしいでしょうか?」

「早く言え!!!」

セロリはカッと目を見開き、布団を蹴飛ばしてベッドから飛び起きた。すぐに逃げおおせたためセロリに怪我は無かったが、別荘の中は黒焦げになってしまった。こうして別荘に避難してから一晩も立たないうちにセロリは再び屋敷へ戻ってくる羽目になった。



嫌がらせ行為が始まってから1週間。

「まだ、犯人が捕まらないというのか……警官は何をしている………!」

未だに犯人が特定されないことにセロリは焦っていた。もちろん嫌がらせ行為は全てキャロルとスパイスによる犯行だったが、彼女達が証拠を残すようなミスをするはずがなかった。

「くそっ!」

セロリは怒りに任せて、ゴミ箱を蹴り飛ばした。

「………………」

スパイスはそれを冷めた目で見つめた後、せっせとゴミを片づけ始めた。

「こんな事が永遠に続くのでしょうか……」

スパイスがぽつりと呟く。

「ば、馬鹿馬鹿しい、首謀者が捕まればこんなことはすぐ終わる……!」

「そうでしょうか……。恐れながら社長はバーニャ島の市民全員を敵に回しておられますから……」

「何、だと……」

スパイスの言葉にセロリの目の端がピクリと動く。それは彼女がセロリの不安を煽るためにわざと放った言葉だった。

「出過ぎたことを言って、申し訳ございません」

「…………」

セロリの中で沸々と怒りが沸き起こってくる。

「くそぉ………ペペローニも……街のヤツらも……皆で僕を馬鹿にしやがって……!何がフランセだ!!あんなの奴隷の成り上がりだろう!!

僕は……僕は本物の貴族なんだぞ――――」

ドォン!!

「へ」

ビリビリと耳元をかすめて行った音に、セロリは何が起こったか分からず目を白黒とさせた。執務室の壁にはライフルの銃痕が残る。

「銃、弾…………?」

セロリは腰を抜かしてその場にへたり込んだ。

「や……」

「辞める……」

セロリはぷるぷると唇を震わせ、小さな声で言う。

「……今なんと?」

スパイスが思わず聞き返す。

「こんな会社の社長……辞めてやる……命がいくらあっても足りん……!!」

そう言ってセロリは立ち上がるなり、執務室を出て行こうとした。

「社長、どちらへ行かれるのですかー??」

「田舎に戻る……ここにいると頭がおかしくなりそうだ……!」

セロリはスパイスの制止を振り切り、屋敷から逃げるように出て行った。その背を見送った後、スパイスはベッと舌を出した。


「ねえさん!」

執務室に現れたキャロルの姿を見て、スパイスが跳ねるように喜ぶ。

「やりましたね、ねえさん!セロリをバーニャ・カウダ社から追い出しましたよ!」

「……まだよ。こんなのはその場しのぎで、根本的な問題は何も解決していない」

「何故、です??」

キャロルの冷めた反応にスパイスは不可解な顔をする。

「セロリが引き入れた保守派議員達が、バーニャ・カウダの役員の権限を持っているからよ……今のバーニャ・カウダじゃ、新しい社長が就任しても頭のすげ替えになりかねない……セロリがいなくなってもこの状態が続く可能性が高いわ」

「そんなぁ…………」

スパイスはがっくりと肩を落とした。役員に居座る貴族達を追い出すためにはそれを上回る権力と財力が必要になる。

「それって……私達にはどうしようも無くないですか……」

キャロルは考え込むと「………少し、時間を頂戴。必ず良い方法を考えるから」と口を開いた。



その日の夜。キャロルは打開策を見つけるため部屋で本を読み漁っていたが、その途中でうつらうつらと船をこぎ始めてしまった。

「いけない、いけない」

目をこすりつつ、首をもたげるとそこは自分の部屋ではなく。

彼女はバーのカウンターに座っていた。見渡すとそこは落ち着きのあるアンティーク調の、どこか懐かしい店内で―――――――


「珍しく塩らしいじゃない、いつもの勢いはどうしたの?」


声がした方を、振り返るとそこにはバケットの姿があった。

「………………」

キャロルは目を丸くして固まっていたが、途端泣きそうに顔を歪めた。

「?」

それを見たバケットは不思議そうに目を瞬かせた。

「ごめん、私……何だか……悪い夢を見ていたみたい…………」

キャロルは取り繕うように、目じりをサッと拭う。

「ふふ……」

それを見たバケットは可笑しそうに微笑んだ。

「やめなよ、気持ち悪い。センチメンタルなゴリラとか、どこにも需要ないからね?」

優しい表情から想像もつかないくらい辛辣な言葉が飛んできて、いきなり頭をゴンと殴られたような気分になる。

「アンタって男は、相変わらず口の減らない…………」

(でも懐かしいな……このやり取り……)

キャロルは切なげに目を細めた。これが現実ではない事は分かっているけれど、もう少しだけ身を委ねていてもいいだろうか。

穏やかな気持ちで彼女はぼんやりとバケットの横顔を眺めた。

「しかし、起きながら夢を見るなんて、君にしては中々器用なことするねぇ」

「…………」

「ああ、わかった。さては、故郷のジャングルを離れて動物園かサーカスに売り飛ばされる夢でも見てたんでしょ?」

「違うわ」

バケットのふざけた冗談に、キャロルは反射的につっこむ。

「…………、アンタのことよ…………」

「僕??」

「アンタが死んじゃう夢、見てたの……」

少し声が震えてしまった。

「フーン……」

バケットはというと驚くどころか、ニヤニヤと面白そうに笑っている。

「自分のことなのに、ちょっとは動揺しなさいよ……」

「はは、何それ面白い冗談だね」

「あのねぇ、笑い事じゃ無いから。アンタのせいで私、どれだけ…………

………………」

言葉にしようとすると、こみ上げてくるものがあって目頭が熱くなった。キャロルは熱を逃がす様に顔を逸らす。

「アンタってホント性格悪いわよね…………私の心の中なんて見透かしているくせに……」

「キャロル?」

「………………」

「君、本当にどうしちゃったの」

俯いて黙り込んでしまったキャロルを、バケットが心配そうにのぞき込む。

「バケット、あのね」

「私、多分ね………いや、ずっとアンタの事…………………………」

「ん…?」

バケットは静かにキャロルの言葉を待っている。

「………………」

止めよう。ここで言ってしまえば、何かが終わってしまう―――そんな気がした。



「ねえさん、ねえさん」

体を揺り動かされ、キャロルは薄っすらと目を開く。

「…………ねえさん、疲れているでしょう、ちゃんとベッドで寝ないと」

スパイスが労わる様にキャロルの背中をさするが、キャロルは片手をあげてそれを断った。

「うん…………でも、あとちょっと……」

そう言ってキャロルはまた机に噛り付いた。


バケットが居なくなってから2週間、未だ消息はつかめていない。



3日後。自宅で本や新聞を読み漁り、バーニャ・カウダ社奪還のヒントを探していたキャロルは唐突に経済新聞を手に立ち上がって声を張り上げた。

「これだ……!公開会社よ!!!」

「こ、こうかい?」

意味が理解できず首を傾げていたスパイスは、キャロルから新聞を受け取ると、「これは……」と記事の内容を見て目を輝かせた。

「成程……良いかもしれませんね……!いや……寧ろこれしかありませんよ!」

「早速、フランセと繋がりのあった貴族と、連絡取れないかしら!」

「連絡先……探してみます!」

キャロルの指示にスパイスはビシッと敬礼をする。

「あとは街の人達が協力をしてくれるかね……この作戦には求心力を持つリーダーが必要だわ……」

「求心力を持つリーダー…………いますかね……?」

「……それ、なのよね……」

キャロルとスパイスは「うーん……」と考え込んでしまった。街を1つにまとめるには圧倒的なカリスマ性があり、人々に鮮烈な夢を見せてくれる――――『フランセ』のような指導者が必要不可欠だった。


(…………バケットさえいれば…………)


こんな時、無理だと分かっていてもそう考えられずにはいられない。

「……そう……か……」

キャロルはハッと気が付く。

「誰の言葉なら、街の人達が耳を貸すのかなんて簡単なことじゃない……!」

「!」

スパイスはごくりと息を飲む。

「フランセ……ですか?」

「そうね……やり方によってはいけるかもしれない!」

キャロルは壁に掛けてあるカレンダーを振り返った。

「来週がフランセの一周忌……」

ここからが正念場だと、キャロルはぐっと拳を握り込んだ。



「海の上とは……また考えたな」

「豪華客船を1日貸し切り……これでバーニャ島を見張っている自警団も私たちの邪魔をすることはできないわ、表向きは貴族のパーティだしね」

豪華客船の甲板上で、カブラとキャロルは言葉を交わした。

今日はこの場でフランセの1周忌会と称した催しが開催される。貴族だけでなく、一般からも応募を募って参加者は1,000人を超える。もちろん万全を期して、事前に参加者の身辺調査は済ませてあり、入場時には手荷物検査も行われている。


「カブラ……ありがと、警備手配してくれて」

「構わん、これはスティックス商会の意志だ……」

キャロルがお礼を言うと、カブラはぶっきらぼうに言ってその場を後にする。

彼の武骨な振舞いを見て、キャロルは苦笑いをした。

「しかしこれ、どれだけお金がかかっているんですかね……客船から一般参加者の衣装の手配まで……」

甲板の手すりから身を乗り出し、乗船客の長い列を見たスパイスが、ポカンと口を開ける。

「ホント……スクウォッシュ伯爵様々よ……」

バケットが名だたる企業家達との繋がりを作ってくれていて本当に助かったと、キャロルは安堵のため息を漏らした。

「ご夫人!」

「セサミさん……」

手を振ってキャロル達に近づいてきたのは、バケットと共に政治サロンを立ち上げて政治活動を行っていたセサミ議員だ。清潔感のある優男でフランセと並んで女性の人気も高い。

「この度はご協力いただきありがとうございます」

キャロルはそう言って頭を下げる。

「いえ、政治サロンは僕とフランセとの夢でもありましたので……お力になれるのであればいくらでも協力させていただきますよ……ではご夫人、今日はよろしくお願いしますね」

セサミはキャロルに軽くウインクを送ると、船内へと戻って行った。

「ねえさん……」

スパイスが怪訝な顔をしてこちらをじっと見ている。

「ご夫人ってなんです?」

「…………………………」

キャロルの顔がピシリと固まる。

「……ふ、フランセの……内縁の妻って設定……なのよ……」

「うわ、まじすか、ねえさん。ついに自分の願望を仕事に持ち込ん……」

「ちっ、がうわよ!! 作、戦!そうでも言わないと皆集まってくれないでしょうが!」

目が据わったスパイスを見て、だから彼女にだけは黙っていたのだと、キャロルは顔を真っ赤にして弁明した。



1,000名以上もの乗客が甲板に集い、いよいよ1周忌会の幕開けの時間となった。

人々の期待と共に、特設されたステージに注目が集まる。まずはこの会の主催者としてセサミ議員がステージへと上がった。

「主催者のセサミです。この度はフランセの1周忌の会にお集まり頂き、誠にありがとうございます。こんなに多くの人に集まって頂いて、親友のフランセもきっと喜んでいると思います……」

セサミは優しい表情で会場を見渡した後、すっと表情を引き締めた。

「本日は皆様にお伝えしなければならない重要なお知らせがあり、この場を設けさせていただきました。昨日、我々はスクウォッシュ銀行様を筆頭にフランセと親交のあった6社で企業組合を結成し、バーニャ・カウダ社を合同買収させていただきました」

「買収……!?」

「……買収って、どういうこと…………?」

セサミの予想外の発表に人々からどよめきが起こる。

「そして、これよりバーニャ・カウダ社は公開会社へと生まれ変わり、株式制度を導入します」

「こうかい、がいしゃ……?」

「かぶ……何それ……?」

聞き馴染みのない言葉に参加者は顔を見合わせて首を捻る。

「現在、バーニャ・カウダ社は役員権限を持つ貴族家の出資によって運営されており、それ故に彼らの意思決定に従わなければならないという問題点があります。一方、公開会社とは株主となった一般市民の皆様より少額から出資を募り、その資金でバーニャ・カウダ社を運営するという仕組みです。これはただ出資を募るだけではなく、バーニャ・カウダ社が利益を上げることで皆様にその利益を公平に配分するという画期的な仕組みで海外ではすでに成功例もございます。ご存知の通り、今のバーニャ・カウダ社はセロリ社長になって以降、保守派の議員達の言いなりで、バーニャ島での自由な商売や言論までもが制限される事態となっています。バーニャ島を皆様の手に取り戻す為にも、バーニャ・カウダ社の運営に皆様のお力を貸して頂きたいのです」

セサミ議員の言葉に熱がこもる。人々は皆、彼の熱心な説明に聞き入っている様子だった。

「この提案を頂いたのは、フランセと深い親交のあった女性からでした。

彼女はフランセの意志を継ぎ、バーニャ島の未来を誰よりも憂いておられます。

彼女の話を聞いて共感いただけたのであれば、どうかバーニャ・カウダの株主となっていただけますようご協力をお願いいたします」

セサミ議員はそう言ってキャロルを振り返ると、彼女の手を取ってステージへと導いた。

(出番だ―――)

キャロルは意気込み、ステージ上へと進む。

しかし、彼女はステージの中央に立った途端、緊張からか心臓が激しく脈打ち、足がガタガタと震え出してしまった。

(う、嘘……私ってこんなに緊張しいだっけ……?)

顔を上げて会場を見渡すと、まるで1,000人の視線に串刺しにされるような心地がして、今すぐに逃げだしたい恐怖に駆られた。

(……ぁ……)

キャロルは動揺で目を泳がせる。

(どうしよう……声、出ない……)

喉が引きつって、声が全く出てこない。キャロルは生まれて初めて人の前に立つ恐怖を味わうと同時に、バケットがこんな場所で戦っていたのだと知った。

(バケット……、バケット、助けて―――)

キャロルは目をつむり咄嗟に心の中で彼に助けを求めていた。しかし―――。


“へぇ、馬鹿でも緊張ってするんだ??”


キャロルの頭には、ニヘラと笑ってバカにしてくるバケットの顔が浮かんだ。

(ちょ、何でこんな時にそんなの思い浮かべるかなぁ!!)

思わず吹き出しそうになって、キャロルの緊張が一気に吹き飛んだ。

「皆様、この度はフランセのためにお集まり頂き有難うございます。

ご紹介に預かりました、キャロットと申します」

固さは残るものの、何とか初めの挨拶を声にすることが出来た。

「私はフランセと内縁の関係にございました。平民の出故、フランセは私との関係を公にはいたしませんでしたが……」

「ブフッ」

前方から小さな笑い声が聞こえて、キャロルはジロッとそちらを睨む。

(ひっ、ごめんなさぃい!)

そこには両手をすり合わせて謝るスパイスの姿があって、キャロルは「ふっ」と唇を綻ばせた。

(……ありがとね、スパイス)

身内が傍にいると認識できただけで心持は全く違っていた。足の震えも止まった、もう大丈夫だ。キャロルは深く息を吸いこみ、真っ直ぐに前を見据えた。

「私はフランセと共に過ごし、誰よりも彼の事を深く理解していると自負をしています」

「私はバーニャ島で生まれ育ちました。幼い頃、この島はゴミ捨て場でした。戦後の復興が遅れ、世界から見離された牢獄のような場所でした。そんな暗闇の中で私はフランセと出会いました。彼は夢を持っていました。バーニャ島を復興させ、世界の中心に変えるという大きな夢です。それはまるで私達を閉じ込めていた闇を打ち破る一筋の光でした。フランセの語る夢を聞いた時、私は強い高揚感を覚え、彼を支える事を決意しました。私だけではありません。バーニャ島を愛する沢山の人が彼の夢に共感し、この島の復興に立ち上がったのです。バーニャ島の人々が一体となったあの熱を、皆様もお忘れではないはずです。だから」

「……フランセを失った時、皆様はどれ程の絶望を抱いたことでしょう」

「…………」

キャロルのその言葉に、会場の何処からかすすり泣く様な声が聞こえてくる。

「しかし、フランセの死後も、まだ皆様の中には彼の夢が生きて続けています。

だからこそ今日、多くの皆様に集まっていただけたのだと思います。

私から皆様にお願いしたいことは1つだけです。この夢を決してここで終わらせないでください。

今、私達の夢は特権にしがみつく貴族達の手によって断たれようとしています。

フランセが命を賭し、私達が血と汗と涙を流して積み上げてきたものを壊し、バーニャ島の発展を阻む行為を、このまま許して良いのでしょうか?

今こそ私達1人1人が再び立ち上がる時なのです。ここは私達のバーニャ島だと、島の利益を食い物にする余所者は出て行けと声を上げるのです」

キャロルは拳を強く握り、前に突き出してみせた。

「私達は強い……ゴミ捨て場から蘇った私達には誰にも負けない底力がある……どんな暴力にも権力にも屈さない誇りがある……!それをここで証明し、ヤツらに見せつけてやるのです。力を合わせれば私達は何処までも行ける筈です……共に手を取りこの世界を変えましょう!」

「…………」

「こ、これが私からフランセに送る弔いの言葉です……ご清聴、ありがとうございました」

呆気に取られて、シンと静まり返った会場の様子に居たたまれなくなって、

キャロルは頭を深々と下げた。


次の瞬間。ワッと歓声が上がり、人々がキャロルに拍手を送った。

「「「フランセ!フランセ!フランセ!フランセ!フランセ!」」」

フランセを呼ぶコールが海風の中に響き渡る。全身を貫く様な声援の衝撃に、キャロルは顔を上げられずにいた。


(熱い……)


一度は絶望していたのに、自分の中にはこんなに熱い思いが残っていた。この熱は確かにバケットがくれたものだった。


(ああ……、私、本当に………アイツのこと…………)


(どうしようもなく……こんなに心の奥深くまで想っている……)


キャロルは奥歯を噛みしめ、改めて自身の気持ちを自覚した。


「ねえさん!」

演説を終えて船内の控室に戻っていたキャロルに、スパイスが駆け寄ってくる。

「良かったです……素晴らしい演説でしたよ……!」

「……」

スパイスの呼びかけに応えることが出来ず、キャロルは静かに涙を拭っていた。

「ねえ……さん…………?」

「スパイス…………」

キャロルは涙に濡れた目でスパイスを見上げて微笑んだ。

「私やっぱり……、この街でまだ夢を見続けていたい…………。

夢を追っている限り、ここにアイツが生き続けているような気がするから……」

「ねえさん……」

キャロルの健気な言葉を聞いたスパイスの目がウルウルと潤み始める。

「お疲れ様」

「「ぎゃ」」

そこににこやかな笑顔をたたえたセサミ議員が現れ、2人は急いで顔を整えた。

「流石はフランセを支えた女性と言うべきか……度胸があるよ、まるでフランセの話を聞いているみたいだった」

「よしてください、アイツに聞かれていたら鼻で笑われていましたよ」

セサミ議員の過ぎた称賛の言葉に、キャロルは恥ずかしそうに赤面する。

「私のやるべき事は終わりました。後は貴方が計画を進め……―――」

「君が社長を継ぐ気はないのかい?」

「………………」

鋭いセサミ議員の視線に射貫かれ、キャロルは真顔になった。

「私には……荷が重いです」

「そうかな?」

「貴族でもありませんし……」

「我々の力ならば君を社長に押し上げ、全面的にバックアップすることは充分に可能だと思うよ?」

「…………」

キャロルは言葉を失い、俯いて押し黙る。

「一応……考えていてくれるかな」

セサミ議員はキャロルの肩に触れて耳打ちすると、部屋を出て行ってしまった。

彼と入れ替わるようにして、部屋の前で待機していたカブラがキャロルの元を訪れる。

「ほら」

カブラは徐に白い封筒を胸ポケットから取り出すと、彼女の前に突き出した。

「ペペローニ様の療養先だ。行ってこい」

キャロルの目が大きく見開かれる。

「……いいの?こんな事、して……」

「……フランセが居なくなって、あの方は変わられてしまった……君にならあの方の心を…………」

何かを言いかけて止めると、カブラは首を振った。

「いや、これ以上は私の勝手な願望だ………忘れてくれ」

「ありがと……」

「……別に、借りを返しただけだ」

唖然と礼を言うキャロルに、カブラはひらひらと手を振って、身を翻した。



その日の夕刻。キャロルはカブラに手渡された地図を頼りに、ペペローニの隠れ家とされる場所を訪れた。その建物は一見、誰も住んでいない古い空き家のようであった。どこかに隠された部屋への入り口があるのではないかと踏んだキャロルは、部屋の中に怪しい所がないか隅々まで調べてみることにした。


(やっぱり……あった)

すると、彼女はものの10分で不自然に盛り上がっている寝室の床板の下に、地下室の入り口を見つけることができた。

地下室の中は薄暗く、下に続く階段からはヒンヤリとした空気が立ち上っている。不気味な雰囲気にごくりと息を飲みつつも、キャロルは階段を下って行く。

(何なの、ここ……?)

そこは病院、もしくは研究施設のように見えた。その設備はかつて潜入したミックレイスの研究施設に酷似しているように思える。手術室、薬品保管庫を通り過ぎていくと、ミックレイス用の鬼の義体がカプセルの中に入っているのを見つけ、キャロルは確信する。やはりここはミックレイスの研究施設の一部なのだ。

そう思って、キャロルが通路の先へ視線を移した時だった―――――。

「え」

その奥のガラス張りの部屋の中で、彼女はベッドに横たわる「彼」の姿を見つけた。口、喉、腕、胸、頭から、色々なチューブが挿入されており、その体が生きているのか、死んでいるのか、それすら判別がつかない。

「………バケット………?」

キャロルが眉をひそめ、呆然と呟いた瞬間。

「動くな、手を挙げてゆっくりこちらを向け」

油断していたところに、背後から銃を突き付けられる。

(しまった……!)

キャロルは応戦しようとするが、奥の部屋から現れたその男が戦いを制止した。

「いい……下がりなさい」

声をかけられた護衛の男は指示通りに銃を下げて、男――――ペペローニの傍らに控えるようにして立った。

「ペペローニ……」

キャロルは奥歯を噛み、ペペローニを睨みつけた。この男には聞きたいことも、言いたいことも山ほどある。

「まだ体は、辛うじて生きているよ……。脳死……というのかな、機械につないで心臓を動かし、この世に繋ぎとめている状態だ……」

ペペローニはため息交じりに言う。

「アンタ、一体何のつもりで…………」

キャロルが食ってかかろうとすると、ペペローニがファイルを投げて寄越す。

「これって………」

パラパラとファイルを読み進めると其処には思いもしないことが書いてあった。

「医療用ミックレイスでのリカバリー……??」

「そこに書かれているのは暴走した鬼の細胞を切除し、失われた部分を医療用のミックレイスでカバーする手術方法だよ。脳の殆どを失うことにはなるが……最低限、体だけでも蘇らせることはできるかもしれない……」

キャロルはペペローニの真意が全く理解できなかった。

(それは一体、何のために―――?)

「……そんな事をしてまで……アンタはこれ以上バケットを何に利用するつもりなのよ?」

「ふ……」

「何がおかしい!」

笑みを零したペペローニに、キャロルは怒りを露わにする。

「セロリを追い詰めたのは君か……礼を言わねばならんな」

「勘違いしないで。アンタのためじゃない。私達が作ったものを壊そうとする奴が気に食わなかっただけよ……!」

「はは……だろうね。セロリは野心が強すぎた……バケットの代わりになる人間等、この世に居るはずがないな……」

「…………」

人を食ったようなその態度がキャロルにはいちいち癇に障った。ソルトの延命を引き換えに、バケットにミックレイスの施術を強いたのはこの男だ。コイツさえいなければと、彼女は思わずにはいられなかったのだ。

「お嬢さん、少し、話をしないか………」

ペペローニはキャロルを落ち着かせるため、ソファに腰かけるように促した。



「スティック商会は元々、バーニャ島にゴミとして運ばれてくる、使われなくなった武器を解体する業者でね。その内、解体をやめて武器を溜め込むようになった。戦後の混沌の中、我々は大切なものを守るために暴力という手段を取らざるを得なかったんだ。そうして、気がつけばもう引き返せない所まで来ていた……」

ペペローニは昔を懐かしむようにゆっくりと語り始めた。

「生き残るために権力に迎合し、どんな不条理な命令にも従った。そこにはもはや何の感情も無かった。いつしか腐った世界で自らも腐りきり、何もかも仕方が無いことだと諦めていたんだ………そんな私の前にふと現れた一筋の希望の光、それがあの子だった………」

ペペローニはふっと唇を綻ばせる。

「君は私によく似ているよ。私もバケットに夢を見せられた1人なんだ」

「…………!」

キャロルはハッと息を飲んだ。

そう言って笑ったペペローニの顔は、あまりに平凡な、優しい老人の顔だった。

「バーニャ島を流通の拠点として資金を集め、企業の集まる経済の中心地へと発展させる。

そうなれば、ここは言わば1つの国のようなものだ。国内外で大きな影響力を持つ我々を政府も無視することは出来ない。市民を中心とした政治勢力は、国会での発言力を得て、いずれこの国の貴族社会を崩壊させる要となる」

「バケット…………」

ペペローニの語る姿に、バケットの姿が重なって見える。

「貴族制の廃止と、民主主義国家の誕生。それがバケットの描いていたシナリオだ」

「………貴族制……廃止………民主主義国家…………」

途方もない夢に思わずキャロルは口元を押さえて震えた。バケットが目指していた場所にはまだ先があったのだ。

「道半ば……だった……」

ペペローニは悔しそうに目頭を押さえた。

「…………」

「彼を死なせたことは私の人生において最大の失敗だよ。長期的に見た時のミックレイスの危険性を熟知していなかったこともそうだが、まさかあんな子供が私にとってここまで大きな存在になるとは、当時考えもしなかったのだから…………」

ペペローニは長いため息を吐いた。

「私は取り返しのつかないことをした。いくら後悔しようがもう遅い………

だからせめて………例え、もうそこに彼の魂が残っていなかったとしても……どうしても新しい世界を見せてやりたかった。一緒にその時を迎えたかったんだ………」

放心したように項垂れるペペローニの様子をキャロルは呆然と見つめていた。

「アンタは……ただ、それだけのために……バケットに延命治療をしようと……?」

あまりに単純な願いに、彼はこんなにも弱い人だったのかと衝撃を受けずにはいられなかった。

(そうか、この人は私と同じなんだ……)

その時、初めてキャロルはペペローニという人間を理解した。この街では誰もが傷つき、救いを求めていた。それはペペローニも例外ではなかったのだ。絶望の中にいた彼はバケットに希望を見出した。そしてバケットを失ったことで、彼はまた絶望の底へ沈もうとしているのだ。

しかし、だからといって、ここで彼が諦めていいはずがない。彼には任された者として最後まで力を尽くす責任があるはずだ。

「それで、アンタはバケットに後を託されていながら、こんな所で足踏みしているって訳……? ふざけないでよ………」

キャロルは静かに怒りを燃やす。

「アイツはね……バケットは欲しいものは必ず手に入れるの、どんな手段を使っても……!そんなアイツがこんなところで終わるわけがない……いや、私が絶対に終わらせないわ!バケットの意志を継ぐ者がいないというなら私が継ぐ!私が世界を変えてやるわよ!」

決意を胸に息を巻くキャロルに、ペペローニは目を見開いて驚いた。

「…………それは君が、彼の役を継ぐということか……?」

「ええ、そうよ」

「どんな困難が待ち受けているのか、分かっているのか……?」

「覚悟は出来ているわ。見くびらないで、私だってバケットを近くで見てきたのよ……!」

「……」

「私はバケットじゃない。アイツみたいにならないこともあるかもしれない……それでも、誰よりもバケットのことを理解している自信はあるわ!

アイツの描いた未来を見るためなら何だってしてやるわよ……だから…っ…!」

キャロルは真っ直ぐにペペローニを見据える。

「お願い……もう一度、立ち上がって…………バケットに、私達にアンタの力を貸してよ…っ…!!」

「……」

キャロルの叫ぶような訴えに圧倒され、ペペローニはしばらく言葉を失っていた。

だが「驚いたなぁ……」と言葉を漏らすと随分と嬉しそうに笑ったのだった。

「何故だか、君を見ているとバケットと出会った頃のことを思い出すよ。愚直で……驚くほど、厚かましい………」

「……それは……私の中でバケットが生きているからよ……きっと、アンタの中でも……」

「………そうか…………そうだな……」

キャロルの言葉にペペローニは頷き、少し救われたような顔をしていた。



病室の中でキャロルは改めてバケットに対面した。ベッドの傍に行くと小さな息遣いが伝わってきて少し安心する。

 彼の顔をまじまじと見つめてから、キャロルはくすりと笑みを零した。


「ふ、少しはやつれてるかと思えば……相変わらずムカつくほど綺麗な顔してるわね、アンタ……。コタツで寝てた時の顔と大して変わらないじゃないの……」


バケットの触り心地のよい髪を愛おしそうに指先で撫でながら、キャロルは語りかける。


「髪……少し伸びたね。そりゃ、体だけは生きてるんだもんね、当たり前かぁ……。

昔はこれ位の長さだったっけ? 小さい頃、女の子によく間違えられてたもんね。


そういえばその頃から私達どうでもいい事でよく喧嘩してたなあ……。

喧嘩って言っても、私が一方的に怒ってただけで、アンタはいつもヘラヘラしてたけど……。


仲直りなんて1度もしたこと無かったね。時間が経ったら2人ともすっかり忘れてさ……。何だかんだ、そういうの、心地良かったんだよね」


一つ一つ、バケットを思い出すようにキャロルは言葉を重ねた。


「街を出ていった時……、私は結構さみしかったんだけど……アンタはどうだった?」


「…………」


返答はなかった。沈黙の中、呼吸音と機械音だけが虚しく聞こえてきて、鼻の奥がつんと痛くなった。


「…………火事があったって聞いた時はさ、もう二度と会えないと思ってたから、再会した時は本当にびっくりしたよ。でも、サプライズにしてはちょっと悪趣味だったわよ、あれ。ま、アンタらしいけどさ。


飲みに行ったら行ったで、また口喧嘩ばっかり。馬鹿とかゴリラとか失礼にも程があるわよ。……私だって傷つくことはあるんだからね?

本当は……可愛い、とか言われたら人並みには喜ぶんだからね……?」


キャロルはふふと自嘲めいた笑みを漏らす。


「実は服を選んでもらった時が、1番嬉しかったりして。

あの時、アンタに初めて女の子扱いされた気がしたんだよね。

喫茶店でもカップルに間違えられて、デート……してるみたい、なんて考えたりして……バカみたい、でしょ……?」


 声が震え唇が歪んでしまいそうになっても、キャロルは精一杯笑顔を崩すまいとした。


「というか、アンタさぁ……。

おつかい頼んだんだから、ちゃんと家に帰ってこなきゃダメじゃないの……。

せっかくリクエスト通り、オムライス作ってやろうと思って待ってたってのに。


庭の花だって、何買ってくるのか楽しみだったし、いつも買ってくるお酒のつまみも楽しみにしてたんだから。


こんな所まで迎えに来てあげたんだから、ちゃんと感謝してよね……?」


「ね……、バケット……」


キャロルの目から一筋の涙が零れ落ちた。


「私さ。アンタが好きなんだけど……どうすればいい…………?」


その答えが返ってくることは二度とないと分かっていた。キャロルは天を仰いで、止めどなく溢れ出してくる想いを、どうしようもなく報われない恋心を胸の内に封印した。

とても苦しい恋だった。だが、思い出される日々の全ては美しい宝物のようだった。



16年前、初めてキャロルとバケットが出会った日―――。


「もう、何、すんのよッ!バカ!!」

バケットに道連れにされて海に落ちてしまったキャロルは、海から這い出し、ペッペと塩水を吐き出した。

「うえー、ぐしゃぐしゃー」

キャロルの髪の毛には海藻類が絡みつき、それはもうお化けのような見た目になってしまっている。バケットはその有様に目を真ん丸にして驚いていたが、

耐え切れず「ぷぷっ」と吹き出した。

「…………?!」

「あは、あはは、ははは!」

バケットはお腹を抱えて、ケラケラと笑い始めた。

「ちょっとアンタねぇ!!!」

キャロルは拳を上げて憤慨するが、バケットにはそれすら可笑しくてたまらないのか笑い続けていた。

夕日が辺りを金色に照らし出す。


(おかしいな……。


暗闇の中にいたはずなのに……どうしてこんなに眩しいのだろう)


彼女を通してバケットの世界はキラキラと光り輝いて見えていた。


〜エピローグ〜


冬が過ぎ、春らしい風が吹き始めた頃。

病院から出てしばらく丘を下っていくと、バス停のベンチに赤い花束を膝に置いて腰かけている1人の女性の姿があった。

(バスを待っているのか、はたまた、病院へ行くのか……)

ナンパのように思われるのは嫌だなと躊躇いつつも、気になったので声をかけてみることにした。

「御見舞ですか?」

「え?」

「お花、持ってるから……病院はあちらですよ?」

そう言って病院の方角を指差す。

「……いえ、いいんです。もう行く必要がなくなったので」

「そう、なんですか?」

「…………」

女性はそれっきり、黙り込んでしまった。どうやら訳ありらしい。これ以上聞くことはやめておいた方が良さそうだと、ベンチに腰掛け、持っていた文庫本へと視線を移す。

「貴方も御見舞に?」

今度は女性の方から話題を振ってきた。どうやら話をしたくないという訳ではないようだ。

「いいえ。今日で退院なんですよ」

「それは……おめでとうございます」

「ありがとうございます」

杓子定規にお祝いの言葉をかけられるが、素直に笑ってお礼を言っておいた。

「お身体悪かったんですか?」

「それが交通事故で頭を打って、色々と忘れてしまいまして……ただ日常生活に支障は無いそうなので退院になりました」

「そうですか……それは大変ですね」

「ええ、まあ。でも、きっとなるようになりますよ」

深刻な口調で話すときっと気を遣わせてしまうと思って、軽くおどけたような口ぶりで話した。実際、自分自身でもそれほど深刻に受け止めてはいないのだ。

「……」

女性は少し考えてから、膝に置いていた花束を手渡してきた。

「じゃあこれ、差し上げます」

「え……いいんですか?」

「折角なので退院祝いに。捨てるのも勿体ないですしね」

「…………」

突然のことに少し戸惑ったが、折角用意した花束なのだから誰かに受け取ってもらった方が彼女の心も晴れるのではないか。そう考えて、その花束を受け取った。

「……ありがとうございます」

ニコリと微笑みかけると、女性も少し照れくさそうに笑った。そうこうしているうちに目的のバスが来てしまう。

彼女は次のバスに乗るからと言い、「じゃあ」と言ってそこで別れた。


バスに揺られながら花を見つめる。

丸く小さな花が幾つもついていて、大きな葉っぱがある。この花は何だろう。見たことのない花だけど後で調べてみようかな。なんて考えながら花束を見ていると、先程の女性の顔が脳裏にちらついて、ふっと笑みがこぼれた。

「可愛いらしい人だったな……」

新しい出会いの始まり。きっとこの先には、素敵な未来があるに違いない。そんな予感がした。


最後までお付き合いいただきありがとうございました。


拙い文章で伝わるかどうか毎回ドキドキしながら投稿しておりますが、

本作があなたの心に残る作品となれたなら何よりの喜びです。

感想など頂けると非常に励みになります。


少しですが続きの話なども考えておりますので

需要があるようでしたら投稿を考えたいと思っております。


またお会いできる日まで。

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