腹黒貴族と女スパイが世界を変える話4
第4章 海賊との戦い
〜第4章〜
15年前――――。
早朝。バーニャ島のゴミ山から一筋の煙が立ち上っていた。
不思議に思ったキャロルが煙の方へ近づいて行くと、何かを取り囲むようにして人混みが出来ていた。
「何燃やしてんだ、あのガキ」
「臭くてしょうがねぇ」
「ったく……他所でやれよ」
ひそひそと噂する大人達を掻き分けていくと、其処には炎をじっと見つめたまま膝を抱えてうずくまる子供の姿があった。布にくるまれた何か大きなゴミを燃やしているようだ。
年齢はキャロルと同じくらいだろうか。肩につく位の長さのふわふわした薄い小麦色の髪が俯いた顔を覆うように隠している。
頭から被っている刺繍の付いた優美な緋色の羽織が、ゴミ山の中でその存在の異質さを一層際立たせていた。
「見たことない子ね……どこの子かしら…………」
何処からか、そんな女性の声が聞こえてくる。明らかに『訳あり』だろう。厄介事に巻き込まれたくない大人達は、誰も子供に声をかける気配はなく遠巻きに眺めているだけだ。
しかし、彼らの心配を余所にキャロルは興味津々な様子で、謎めいた子供の姿に目を輝かせていた。もしや何者かに追われて逃げてきた異国の姫様ではないだろうかと、幼い彼女の想像は膨らむばかりだった。
程なくして煙の色が白くなり始め、炎はみるみる小さくなって消えていった。
その頃には野次馬はすっかり関心を失ってしまったようで周りにはほとんど人はいなかった。
(あっ、動いた……!)
子供がゆっくりと腰を上げるのを見て、キャロルは話しかけようと近づいていったが、すれ違い様にその表情を見て立ち止まり思わず息を飲んだ。
(人形、みたい)
それが、キャロルがその子に抱いた最初の印象だった。作り物のように綺麗に整った顔。そこからは一切の表情が抜け落ち、何の感情も見つけられない。彼女は一瞬、この世の生き物ではない者に遭遇したかのような不思議な錯覚に陥った。
呆気に取られて動けないでいる間に、子供は市街の方へと歩いていってしまう。建物の角でその子の姿が見えなくなった頃、キャロルの体は途端、金縛りが解けたかのように動けるようになり、慌てて子供の後を追いかけていった。
こっそりと後をつけながら様子をうかがっていると、子供は海に面した高架橋で足を止めた。レンガ造りの古びた高架橋で、隣の島まで見える見晴らしが良い所だった。このような場所に一体何の用事があるのだろう。不思議に思って見ていると、子供は徐に欄干の上に立って、空へと手を伸ばし始めた。それは空の雲を掴もうとしているようにも、天に救いを求めているかのようにも見えた。
「あっ」
途端、海風に煽られてふらりと子供が体のバランスを崩す。
(危ない―――!)
それを見たキャロルは思わず飛び出していた。
「ちょっとっ!!」
キャロルは子供の服を掴み、思い切り道路側に引き寄せる。
「―――?!」
子供は振り返り、驚きに目を見開いていた。羽織は風に攫われて飛んでいき、キャロルの上に覆いかぶさるようにして子供が倒れ込んで来る。
「いたた……」
「う……痛、った……何…………?」
キャロルは尻餅をついたお尻をさすり、子供は体を打ちつけた痛みに顔をしかめた。突然の事に状況が呑み込めていない様子だ。
「危ないでしょ、死にたいの?!」
「……別に死にたいわけじゃないけど……」
キャロルに怒鳴られて、子供は決まりが悪そうに目線を逸らした。
「………生きようが死のうが大して変わらないから、執着しないだけ………」
思いもよらない返答にキャロルは呆気に取られた。
「何言ってんの、アンタ……。そんなの、生きている方がいいに決まってるでしょ」
「どうして?」と、子供はこちらを真っ直ぐ見て問う。
射貫かれるような視線にキャロルは少しばかり戸惑った。
「どうしてって……死んじゃったら何も無いけど、生きてればいい事があるかもしれないじゃない」
「…………そう、じゃあ君は………」
ふっとため息を吐き、子供は嘲るように唇に笑みを浮かべる。
「生きていて何かいい事あった?」
「……え……」
その表情に少し触れれば壊れてしまいそうな脆さを、キャロルは見た気がした。
(生きていて、いい事……)
突然の問いにすぐに回答を見つけることができない。
「……」
「……」
考え込み何も答えられないキャロルを見て、子供は一切の興味を失ったように、また人形の様な無表情に戻ってしまう。ふと、キャロルは思いついたように「あっ」と口を開き、ポケットをごそごそとまさぐり始めた。
「はい、あげる」
「……?」
「あげるって言ってんの!」
突き出されたキャロルの手にはグシャグシャの紙袋が握られている。
「何これ……」
紙袋を開いてみると中には手のひら位の大きさの小さなパンの欠片が入っていた。
「パン……?」
「ふふん。ほら!いい事あったじゃない!」
「…………」
得意気に胸を反らすキャロルを見て、子供は目を丸くしぽかんと口を開けていたが、その内、俯いてぷるぷると肩を震わせ始めた。
「…………ぷっ」
「ふふっ、パン……ね……パン1個か…………くく……っ」
「えっ、私、何かそんなにおかしいことした?」
「おかしいよ。だってこれじゃ、僕の無くしたものと、全然釣り合わないもの」
そう言って彼はぎこちなく笑った。
「チッ、面倒臭いヤツねえ。折角人が譲ってやってんだからこれで我慢しなさいよ!」
悪態をつきつつもキャロルは彼に子供らしい部分を見られたことに少し安堵していた。
「というか僕ってことはアンタ男? ナヨナヨしてるし、顔も女みたいだから勘違いしちゃったじゃないの、紛らわしい。大体、男が無くし物したくらいでメソメソと泣くんもんじゃないわよ、泣き虫!」
「泣いてない」
キャロルの勝手な言い様に、少年は不満気に眉をひそめた。
「そうだ。アンタさー、良かったら一緒に来ない?子供だけで暮らしている隠れ家があるんだけど」
「…………」
「どーせ、その様子じゃ行くとこないんでしょ?」
「…………」
「じゃ、決まりね」
否定しないということは同意と受け取っていいだろうと考えて、キャロルは強引に話を進めていく。
「そういえば、男の子は初めてか……ま、アンタ女みたいな見た目だし良いわよね」
「…………」
「ほら、早く」
キャロルはその場から動こうとしない少年の手を引いて、ゴミ山の方へ下って行った。
海沿いに歩きながら、キャロルは俯きがちな少年を振り返った。
「ねー。そう言えばアンタさー、今朝何燃やしてたの?」
「…………」
思いついたように尋ねた事だったが、少年の表情が一瞬にして強張る。
「……僕の、片割れ……」
「片割れ……?」
「うん」
少年は小さく頷いた。自嘲的な笑みを浮かべる唇は微かに震え、目が不自然に泳いでいる。
「変なヤツ……」
少年の不可解な様子にキャロルは顔をしかめた。
「ま、何でも良いけど、これを機に死のうなんて考えんのやめなさいよ?頑張っていればいつか報われることだってある」
「………」
「死んじゃったら何の意味もないんだから、ねっ?」
「………………」
キャロルは励ますつもりで少年の肩を叩いたが、彼が腹の中に黒い感情を渦巻かせ、敵意を秘めた目で彼女を睨みつけている事に全く気が付いていなかった。
「え?」
少年はキャロルの手を振り払うと、岸壁の方へと進んでいく。
「ちょっと!そっちは――」
突然の事態にキャロルは目を白黒とさせた。崖の下は海だがそれなりに高さがあるため、下手に落ちれば怪我をしてしまうかもしれない。
「待ちなさい!」
キャロルは制止しようと手を伸ばすが、少年はそれをすり抜けていってしまう。
「君は僕の事、助けてくれるの?」
少年はキャロルを振り返って首を傾げた。
「助けるから!それ以上、動かないでじっとしていて……!」
もう少し。キャロルが少年の手を掴もうとした時、彼は彼女の腕を取り、強い力で引き寄せた。
「なら……君も落ちてよ」
耳元でそう囁かれて、キャロルは目を見張った。
「はあっ、何?!きゃああっ!」
嘲笑うように少年は、彼女諸共道連れにして、海に身を投げた。
※
そして、15年後――――現代。
その日は、スティックス商会の幹部会が開かれていた。議題は数か月前に発生したミックレイスの研究所襲撃事件についてである。
「研究所襲撃の件、誰が黒幕かが判明しましたよ。アーノ国、共産党員のフォンデュ議員です」
情報調査部のカリフが調査結果を報告すると、話を聞いていた一同が唸る。
「これは随分大物が出てきましたな」
副会頭のキクイがゆっくりと顎髭を撫でた。
「まず国ぐるみで動いていると考えて間違いないでしょうね。彼らがミックレイスの技術を手に入れようと躍起になるのもわかります。ミックレイスで強化された人間が戦力として投入されるようなことになれば、他国にとっては大きな脅威になりますから」
と、カリフが話を続ける。
「情報が外部に漏れてしまった以上、あらゆる勢力がミックレイスの技術を狙ってくることが予想されます。そうなれば、うちの警備部隊だけで研究所を守るのは難しい……防衛力強化のためにも、身体強化用ミックレイスの実用化を急ぐべきです」
警備部隊のカブラがミックレイスでの戦力強化を提案するが、
「それでは対応に時間がかかり過ぎます……身体強化用のミックレイスはまだまだ実用化のレベルには達していません。医療用に比べて未だに不安定な要素が多いですし……」
気難しそうな技術部のカルドがカブラに反対意見を述べる。
「ふむ……」
彼らの話を静かに聞いていたペペローニは、ちらりと視線をやると
「バケット、お前はどう思う」
つまらなそうにペンを回していたバケットに意見を求めた。
「そうですね……、僕ならいっそミックレイスの技術を研究機関ごと、政府に売り渡してしまいますかね」
「……はあー?!」
ケロっと突拍子もない事を言いだすバケットに、カブラ、カルドが思わず大声を上げる。
「列強諸国を相手に一組織が戦争をするなど、リスクが大き過ぎて割に合いませんよ。そんなことに金と労力を割くくらいなら、いかに良い条件で自国に売りつけるかを考えた方がずっと有益だと思います」
「それはつまり……国を隠れ蓑にしようということですか?」
カリフの問いに、バケットがにこりと微笑む。
「研究所が国の管轄となれば敵方も下手に仕掛けてこられなくなるでしょう。有難いことに、政府はミックレイスの研究に前のめりのご様子ですから、今こそが売り時だと思われます」
「なるほど……」
カリフはうんうんと頷き、バケットの意見に納得という様子だ。
「し、しかし。利益を独占出来るかもしれない事業をみすみす手放すのは……」
技術部のカルドは相変わらず渋い顔をしている。
「ですから、安易な考えで目の前の利益に飛びついて、生きる道を捨てるのは本末転倒だと言っているのです。ミックレイスはあくまで資金集めのための一手段に過ぎません。目的と手段を取り違えてはいけませんよ」
「う、うむ…………」
バケットに言いくるめられ、カルドは言い返すことが出来なくなる。
「良いだろう」
「ペペローニ様……」
ペペローニの一言でざわついていた幹部が一斉に静まり返る。
「交渉は任せる。お前の好きなようにしろ、バケット」
はいと頷き、バケットは微笑みを浮かべる。全ては彼自身の目的のため、ミックレイスも商会がそこから得る利益も彼にはどうでも良い事だった。
※
翌日。キャロルとスパイスはフランセ邸の執務室に呼び出された。
「来月、バーニャ・カウダ社がプロデュースする客船が就航する予定でね。その就航記念パーティで急遽、政府要人との交渉の場を設けることになった。
会談は船内にあるシークレットルームで極秘に行われる予定だ。
君達には事前に搭乗客の中に敵対勢力に通ずるような人物が居ないか、洗い出しておいて欲しい」
バケットに促されてソルトは搭乗者リストの入った茶封筒をスパイスに手渡す。
「こちらです」
受け取った封筒からリストを取り出して見たスパイスが顔を歪める。
「ゲッ、280人……」
「ま〜た、こんな面倒くさそうな仕事を……」
キャロルがため息を漏らしながら愚痴る。
「頭使ってよ、ゴリラチンパンジー。何も2人でやれと言っている訳じゃない。必要ならウチのスタッフを使えばいい」
「ち、チンパ……」
バケットから初めてチンパンジー扱いを受けたスパイスは、内心ショックを受け、この呼び名を定着してなるものかと心に誓った。
「潜入捜査と情報収集は君達の得意分野だ。できるでしょう?」
「…………やるわよ」
バケットが挑発するように言うと、口を膨れさせながらキャロルが答える。
「ふふ、頼んだよ。当日は会談が終わるまで、乗客に不審な動きがないか見張っておいて。何かあったら僕に報告してくれ」
「本当に人使いの荒い上司だこと」
満足気なバケットに対し、キャロルは呆れた顔をして大袈裟に肩をすくめてみせた。
※
そして、パーティ当日。
12階建ての巨大な客船がバーニャ島の港を出港した。
客船の中はロイヤルスイート、スイート、スタンダードからなる450室のキャビンに、コンサートやショーを楽しめる劇場、多彩な食とお酒を楽しめるレストラン&バー、カジノやスポーツルーム、エステサロンまで完備されている。
今日はこの客船の就航をお祝いするため、様々な顔ぶれの客が招かれ、豪華なディナーショーが行われる予定だ。キャロルは赤いパーティドレスに身を包み、スパイスは髪をまとめてウェイターに扮して船内に潜入した。
「きゃぁぁぁっ!」
「フランセ様ぁ!」
「フランセ様――っ!」
ホールの壇上にバケット……もといフランセが登場すると、女性陣から黄色い悲鳴が飛び交う。まるでスターのような扱いを受けるバケットを見てキャロルは辟易した。メディアで頻繁に取り上げられたせいか、最近ますますフランセの人気が高まっているような気がする。
上品で清潔感のある美男。女性に対して優しい紳士。人情味の溢れる善人……そんな世間のイメージとは異なる面を知っているだけに、無性にフランセはこんな人間ではないのだと言いふらしてやりたい衝動にかられる。
「本日はお忙しい中お越しいただきありがとうございます。このバーニャ・カウダフェリープロジェクトは観光客の皆様にバーニャ島までの道中を楽しんで頂きたいという想いから立ち上がりました。支援してくださったスポンサーの皆様への感謝を込めて、今宵だけの特別なディナーショーをご用意いたしました。どうぞごゆっくりお楽しみ下さいませ」
バケットの言葉に合わせて、ジャズ・オーケストラの演奏が鳴り響きステージが開幕する。演目は誰もが知るアップテンポなスタンダード・ナンバーだ。ステージを降りたバケットは、その足で1つ1つのテーブルに挨拶に回る。
「いやぁ、素晴らしい船だね、フランセ殿。まるで一流ホテルのようだ」
「ありがとうございます。これもスクウォッシュ銀行のご支援あってのことです」
スクウォッシュ伯爵に握手を求められてバケットは快くそれに応じる。
「君はいつも面白いものを見せてくれるからねえ。私が力になれることならいつでも声をかけてくれたまえよ」
スクウォッシュ伯爵への挨拶を終えたバケットの前に、次に現れたのは紫のドレスを着た小柄な女性だった。
「フランセさん、こんにちは〜アイドルのトモちんだよ♪」
ピースサインを作ってウインクするアイドル・トモの調子に、バケットは一瞬、真顔になるがすぐににこやかな笑顔に戻る。
「トモさん、初めまして。ご活躍ぶりいつも拝見しています。今日のステージ楽しみにしていますね」
「えへへ、うれし〜!ありがとねっ♪ フランセさんはとってもイケメンですね〜!モデルとかやらないんですか〜?」
「モデルですか……僕はそういうのは苦手で。また機会がありましたらご一緒にお仕事させてくださいね」
そう言ってバケットはトモと握手を交わした。どんな相手にもポーカーフェイスを崩さないのは恐れ入る。貴族、政治家、社長、芸能人…バケットを取り囲むのは、一度は名前を聞いたことのある有名な人物ばかり。煌びやかなパーティの中心に彼はいた。
(こうして見ていると何だか遠い世界の人みたい……)
自分がよく知っているはずのバケットが知らない人に思えたことに、唐突に寂しさを覚えてキャロルは小さくため息をついた。
※
パーティの演目が中盤に差し掛かったころ、バケットは秘書として控えていたソルトと顔を見合わせて席から立ちあがった。
「少しだけ、席を外しますね」
「えーっ、フランセ様。行ってしまわれるの??」
貴族の若い女性がバケットの手を掴む。
「すみません、急な仕事の連絡が入りまして……すぐに戻ります」
「フランセ様……」
バケットが女性の手をそっと握り返すと、彼女の顔はほんのり赤く染まり、離れていく手を名残惜しそうに見つめた。
(あっちいったり、こっちいったり……あいつも大変ねぇ)
パーティ会場を足早に後にするバケット達を横目で見ながら、キャロルは苦笑いをした。
※
船内には限られた関係者しか知らないシークレットルームがある。11階で昇降機に特定の番号を入力することで通常とは逆側の壁が開く。それがシークレットルームの入り口だ。今まさにその場所では政府関係者とスティックス商会との重要な会談が始まろうとしていた。
「お待たせいたしました」
会談の会場にバケットの姿が見えると、椅子に腰かけていた商会幹部、政府要人が一斉に立ち上がって彼を迎える。
「さて、揃ったことですし、早速交渉を始めましょうか」
ペペローニは両腕を広げて、にこやかに笑った。
※
それから2時間後。無事に会談を終えてパーティ会場に戻ろうと廊下を通りかかったバケットとソルトを、キャロルとスパイスが待ち受けた。
「交渉の方はどうでしたか?」
「予定通り。政府と商会の間で密約が交わされたよ。ミックレイスの技術とそれに連なる研究施設を有償譲渡……但し、技術の使用権はスティックス商会に残り、利益の恩恵を受け続けることができる」
「へえ……で、いくら入ってくるんです?」
「たくさん」
「たくさん」
にっこり笑って言うバケットを見て、スパイスもにっこり笑って繰り返す。
「君達の仕事はこれで終わりだから上がっていいよ。到着まで豪華客船の旅を楽しんで」
「あざーす」
バケットのお許しが出たところで、スパイスは大きく伸びをすると客室の方へと足を向けた。しかし、キャロルはというとバケットをじっと見たままその場から立ち去ろうとしない。
「………………」
「何?」
「…………べ、別に」
バケットが訝しそうにしていると、キャロルは慌てて顔を背けた。
(馬鹿じゃないの……私)
もっと構ってほしい―――なんて。寂しさを感じたせいか子供みたいなことを考えてしまって、キャロルは激しい自己嫌悪に陥った。
※
ディナーショーも終わり、日もすっかり沈んでしまった頃。3階、スタンダードの客室でキャロル達は休息をとっていた。
「今日は随分と楽な仕事でしたねえ。搭乗者の中に工作員らしき人間も見当たらなかったですし」
「うん……」
「ま、何も起こらないに越した事はないですけど」
「そうねえ……」
ベッドに突っ伏したキャロルは、スパイスの呼びかけに生返事をする。客船の案内本に目を通していたスパイスは何かを見つけて「お!」と声を上げた。
「ねえさん、ねえさん!」
「折角ですし、豪華客船を見て回りません?水槽のあるお洒落なバーがあるらしいですよ!」
スパイスが開いて見せてきた本のページにはバーの写真が載せられていた。
「へえ……バーか……」
どことなくいきつけのバーに雰囲気が似ているような気がして、心なしかキャロルの気持ちが上向きになる。
(パーティはもう終わっているし、もしかするとバケットもそこにいるかも……って、いやいやいや……これじゃアイツに会いたいみたいじゃん……!!)
「あああああああ!!」
キャロルは再び自己嫌悪に陥り、頭を抱えてベッドの上を転がり回った。
「嬉しそうな顔したり、しかめっ面になったり、百面相ですね、ねえさん」
奇声を発するキャロルをスパイスは暖かい目で見守った。
キャロル達が昇降機に乗って、10階のバーに向かっていた時。
「あっ」
廊下に見覚えのある銀色の髪の女性を見つけて、スパイスが指を差した。
「あれって、ソルトじゃないですか……?」
「本当だ、スーツ姿以外のソルト新鮮……」
ソルトは束ねた長い髪を下ろして、紺色のワンピースに身を包んでいた。
「ソルト~!」
「!」
駆け寄ってきた2人にソルトはぎょっとする。
「一緒に飲みましょうよー!」
「結構です、明日も仕事がありますので」
「うわ、相変わらず堅物……」
スパイスの誘いはバッサリと切って捨てられたが、断られるのは想定内だ。
「そんなつれないこと言わないで、ね!」
「ちょっとだけ!ちょっとだけですから!」
「ちょ、ちょっと……」
キャロルとスパイスは強引にソルトの両脇をがっちりと固めると、そのまま彼女をバーへと連行してしまった。
バーの中は海中をイメージした暗めの内装で、クラゲの浮かぶアクアリウムがライトアップされている。高級なお酒がずらりと並ぶカウンターに、ゆったりとしたソファのテーブル席がいくつかあって落ち着ける空間になっている。
到着するや否や、キャロル達はカウンターの中央にソルトを座らせ、自分達はその両側に腰かけた。
「あ、ジントニック3つで」
ソルトがお酒以外を頼む前に、すかさずスパイスがオーダーする。
「ソルトさ、どうして私達に余所余所しくするの?」
頑なに態度を崩そうとしないソルトに、キャロルは不満気に口を尖らせる。
「キャロルとスパイスは仕事の相手ですから。仕事とプライベートの切り替えは徹底しなさいと社長に言われているので」
キッパリと言い切られ、まるで取り付く島もない。
「仕事の相手って言ったって、一緒に暮らした家族じゃないですかぁ~」
「な、何年前の話をしているんですか……まだ私、小さかったですし、あの頃のままだと思われても困ります」
ベタベタとすり寄ってくるスパイスにソルトは若干引き気味だ。
「今更、家族だと簡単に受け入れられる程、単純でもない……私にとって家族は……バケットだけです」
「ソルト…………」
ソルトの口から零れた本音が、胸にグサグサと突き刺さってくる。今更ではあるが、ソルトをバーニャ島に置いて行ってしまったことをキャロルは一度も謝っていなかった。警察の手から逃れるためとはいえ、何も言わずに姿を消し、そのまま10年間もほったらかして……それでもまだ、図々しく家族だなんて言えるだろうか。
「ごめん……やっぱり置いてったこと根に持ってるよね……」
「それは……」
キャロルの謝罪の言葉を聞いて、ソルトは言葉に詰まり、それから小さく首を振った。
「もういいです……沢山泣いた記憶はありますけど、今は仕方が無い事だったって理解していますから」
「そっか…………ありがとね」
「べ、別にお礼を言われる事では……」
困ったように笑うキャロルを見て、ソルトはバツが悪そうに視線を逸らし、「私はただ……2人との距離感が掴めなくて……どう接すればいいのか、よく分からなかっただけです……本当はいつも助けてくれる2人には、感謝して……ます……」
と小さな声で言った。
「…………」
キャロル達が押し黙ってしまったので、不安になってちらりと表情をうかがうと、2人が嬉しそうにニンマリと笑っていて、ソルトは気恥ずかしくなって顔を赤らめた。
「もう……何ですか?ニヤニヤして……」
「いや〜、初めてソルトの本音が聞けて何だか嬉しくなっちゃって……」
スパイスは嬉しそうに笑いながら、人差し指で鼻の頭を掻いた。
「あのさ。ソルトが嫌なら家族じゃなくてもいい……だから、改めて友達から始めない?」
「友達……」
「そ、飲み友達。お酒を静かに飲むだけの間柄」
キャロルが飲み物のグラスを掲げ、軽くウインクをする。
「それくらい、なら……」
ソルトもつられるように受け取った飲み物を両手に持つ。
「乾杯」
「乾杯!」
「か……乾杯……」
3人のグラスがカランと、軽い音を立てた。
それから3人は、幼い頃の思い出話に花を咲かせた。キャロルがバケットとの喧嘩中に、ソルトの気に入っていた人形を破壊して大泣きさせ、人形を修理しよう試みたが不器用過ぎて失敗。人形が怖すぎるとまた大泣きされたこと。スパイスが風邪をひいて熱を出している時に、枕元で看病の方法についてキャロルとバケットの口喧嘩が始まって、温厚なスパイスがついにキレて2人を家から叩き出したこと。キャロルがバケットに腹を立てて家を飛び出しそのまま迷子になってしまい、スパイスとソルトが必死に探し回ったが、バケットだけは全く探そうとしなかったこと。
今となってはいい思い出だ。
「なんか、喧嘩した話ばっかりじゃない……?」
「だって、しょっちゅう喧嘩ばかりしていましたもん」
「はい。ホントに昔から変わらないですよねぇ。バケットがからかって、ねえさんが怒っての繰り返し。例えて言うなら、バケットは何もない所から火種を生み出す天才で、ねえさんは煽り耐性0のよく燃える燃料ですかね!」
ソルトとスパイスは、クスクスと可笑しそうに笑った。
「う、五月蠅いわねー……」
キャロルは恥ずかしそうに顔を赤くした。思い返せばバケットとの喧嘩は一方的にこちらが怒る事ばかりで、あのポーカーフェイスを崩せたことは一度も無い気がする。それは良い様に弄ばれているようで、とても悔しい事に思えた。
「ねえ、ソルト……」
キャロルはソルトに向き直ると、彼女の両肩を掴み真剣な表情になる。
「バケットの弱みを教えてくれないかな?」
「な、何ですか、いきなり……」
妙に力の籠った物言いにソルトはたじろぐ。
「あ、それ私も聞きたいです!」
「スパイスまで……!」
2人が卑劣な手を使ってバケットを陥れようとしていると思って、ソルトはムッと眉をひそめる。
「2人はバケットのことを勘違いしてます!バケットは元々、物静かで穏やかな性格なんです。それに優しい所だって沢山……!」
「はは、またまたそんなこと言って~。ソルトだってバケットに不満の一つくらいあるんじゃないの??」
ソルトは必死にバケットを擁護するが、キャロルは全く取り合おうとしない。
「そんな、不満だなんて全然……!」
「例えば、女癖の悪さとか」
さらりとスパイスが言う。
「……………………う……っ」
ソルトは突然よろめき、頭を押さえて俯いた。
「ほほう、これは身に覚えがありそうですねぇ」
予想が的中し、スパイスはしたり顔をする。
「……確かにバケットが執務室で女性と、その……そういう事をしていたのを目撃した時はどうかと思いましたけど……」
「「…………」」
聞き出した情報が思ったより酷い内容であったので、スパイスとキャロルは絶句した。
「サイテーですね……」
「あんの女誑しの腹黒悪魔、よくもソルトの前で……」
呆れ顔のスパイスと、わなわなと怒りに震えるキャロルを見て、ソルトは慌てふためく。
「そんな風に悪く言わないでください、バケットだって……その……仕事に疲れてハメを外したくなる事があるんですッ!」
「必死に庇って健気……っ……」
ソルトが必死にバケットを庇おうとするのを見て、スパイスがそっと涙をぬぐうフリをする。
「騙されてるわよ、ソルト……あんなの顔がブサイクだったらタダのスケベ野郎なのよ!?」
キャロルがそう言ってバケットを罵倒した、その時。
「いらっしゃいませ、オーナー」
「!?」
スタッフの声がして振り返った先には、1人の女性を連れてバーに入って来たバケットの姿があった。
「ば、バケッ……」
キャロルの頭が一瞬、真っ白になる。
「知り合い……?」
じっとこちらを見ているキャロルを不審に思った連れの女性が、バケットに尋ねる。
「さあ? 知らない人ですね」
バケットはさらっとそう答えた。
(し、……知らない……人………)
バケットの一言でキャロルの頭の中の糸がプツンと切れた。
(ふ……、知らない人、ねえ……。知らない人か〜ぁ)
(ああ、そう。そうでしょうよ。そりゃあ、私達との繋がりを隠さなくちゃいけないことはわかる。けどさぁ……何かもうちょっと……声くらい、かけてくれてもいいじゃない……、何なの……すごくもやもやする……何で? 何でこんなに腹が立つの……!!?)
などと、キャロルが悶々と頭の中で考えているうちに、いつの間にか隣の席にバケットが腰かけていた。
(って、お前、隣に座るんか〜い!?!?)
キャロルは驚愕して心の中でツッコみを入れた。驚きすぎてさっきまでの憤りが全て吹っ飛んだ。
「何、飲みます?」
「私はマティーニで」
「では、僕も同じものを」
バケットは女性と顔を見合わせて笑い合う。
(何、考えてんの!? 気まずいでしょうが!なんの嫌がらせよー!?)
何故、隣で身内のナンパ現場を見せられなければならないのだ。そもそも普通の人間の感覚ならば、見られる方も嫌だろう。一体、どれ程の図太い神経の持ち主ならばこうなるのだろうか。彼女には全く理解が追いつかなかった。
「フランセ様って、本当にお付き合いされている方、居ないんですか?こんなに完璧な方なのに勿体無い」
「完璧だなんて、そんな。あまり恋人と過ごす時間を作ることができなくて、いつも愛想を尽かされてしまうんです」
女性の言葉にバケットは謙遜し、困ったような表情を浮かべた。
「あら、そうなんですか?」
それを聞いた女性は、意外そうな顔する。
「仕事柄、海外へ行くことも多いですからね。僕の仕事を理解して、隣で支えてくれるような女性がどこかに居ると良いなと思うのですが……」
そう言ってバケットは女性の手に、そっと手を重ねた。
「…………まあ」
女性の目がバケットの顔を見てうっとりとする。
「……」
良い雰囲気になってきた2人を横目に、キャロルはというと一指し指でトン、トン、トン、トンとカウンターの天板を鳴らし、明らかに苛立っている様子だ。
「ねえさん、イライラするのやめてくださいよ……」
「はあっ?別にイライラしてないし…………」
バケットはちらりとキャロルの様子を盗み見て、ふっと唇を綻ばせた。
「良かったらこの後、部屋でゆっくり飲みませんか?」
ビキィ!!
「ひっ!」
キャロルの持っているグラスにヒビが入ったのを見て、ソルトが引きつった声を上げる。
「いやっ、絶対イライラしてるじゃないですか―――!」
パァン、パァン――!
唐突に乾いた音が2つ、空気をふるわせた。同時に覆面を被り、銃を手にした2人組の男女がバーの中に押し掛けてきた。
「動くな。全員、手を挙げて地面に膝をつけ!」
覆面の男が銃を向けて、客を脅しにかかる。
「な……」
「何?」
「早くしろ!!」
乗客は突然の事に戸惑いながらも大人しく彼らの指示に従い、地面に膝をつく。
「私達は海賊アマルーン。この船は私達が占拠した。大人しくしていれば危害は加えない!」
覆面の女が名乗りを上げる。
「なぁにアレ、事前に乗客の身元はチェックしたんじゃなかっけ?」
まるで最初から一緒に店に来ていたかのような馴れ馴れしい態度で、バケットがキャロルに話しかけてくる。
「チェックしたわよ。でもその時はあんな奴ら居なかったはず……」
「ふぅーん……」
バケットは面倒臭そうにため息をつき、カウンターに向き直って酒をすすり始めた。
(本当に図太いな、コイツ……)
椅子から立ち上がる素振りすら見せない彼の態度に肝を冷やしていると、
「何をこそこそしている!」と、海賊の女がこちらに近づいてきた。
(言わんこっちゃない。目つけられてんじゃないのっ!)
キャロルは舌打ちし、恨めしそうにバケットを睨みつける。
「おい。お前、こっちを見………!?」
肩を掴んで振り向かせたバケットの顔を見て、女は驚き目を見張った。
「きっ!?」
「き……?」
海賊の女が引きつったような声を上げたので、キャロルは怪訝な顔をする。
「きれ――っ!!こんな綺麗な殿方、見たことないっ!」
彼女は興奮した様子でそう叫んだ。
((えぇっ……))
意外な展開にキャロル達は呆気に取られている。
「ちょっと、どきなさいよ!!」
「やん!」
海賊の女はバケットと一緒に飲んでいた女性を突き飛ばして隣の席に陣取る。
「お名前何ていうの、貴族様?」
「名前、ですか……? フランセです……」
体を密着させ顔を近づけてくる女から、バケットは息苦しそうに視線を逸らす。
「フランセ様?お上品なお名前ねぇ。こそこそお喋りなんていけないんだ~」
女はバケットの顔に指を這わせて、視線を自分に向けさせる。
「……」
ここでやっとやる気のなかったバケットにスイッチが入ったらしい。
「す、すみません………僕、怖くて動けなくて……だから、命だけは許してください……!」
彼は今更ながら肩をガタガタと震わせて、怯えるフリをし始めた。
((いや、お前が怖いわ))
彼の性格を知っている者から見れば酷い違和感しかない。
「いやーん!震えちゃって可愛い~!戦利品にこのイケメン持って帰っちゃおっかなぁ?」
「アホな事言ってないで、ちゃんと見張ってろよ!」
緊張感のない女の発言に仲間の男が注意を促す。
「冗談だって……ば……?!」
女が言い返そうと男を振り返ったその隙に、バケットはすかさず背後から拳銃を奪いとると、腕を巻きつけて彼女の首をきつく締め上げた。
「動くな」
先程までのフランセとは異なる、全く感情の伴っていない声。
「!ぐ……ちょ、っ、と……」
首を絞められ苦しそうに息をする女の耳元で、「悪いけど君みたいな下品な女はお呼びじゃない」とバケットは囁いた。
「お前……っ」
海賊の男は仲間の女の元へ近寄ろうとするが、バケットに拳銃を突き付けられて体を固まらせる。
「動くなと言っているでしょう。下手な事をすると、この女の首へし折るよ?」
「女にも容赦なし……」
「男女平等ですねえ……」
首をへし折るというバケットの物騒な発言にキャロルとスパイスは遠い目をする。
「キャロル、スパイス」
無駄口を叩くなと言わんばかりに鋭い声でバケットに呼ばれる。
「あー、はいはい」
キャロルはすぐにその意図を察して、海賊の男に近づき手を差し出した。
「さあ、武器をこちらに渡して」
「ぐっ」
渋々男がキャロルに銃を受け渡すと、彼女は男の腕を取り、足を引っ掛けて、床にうつ伏せになるように押し倒した。
「悪いけど拘束させてもらうわよ」
キャロルが男を押さえている間にスパイスが男の手首を手持ちのバンダナで縛り上げる。
「「「おおー!」」」
どっ、とバーの客から歓声と拍手が沸き起こる。
「ねえさん、拍手されてますよ……」
「な、何だか照れるわね……」
スパイスとキャロルは慣れない注目に晒されてどぎまぎしている。
「人目が多い……部屋を移すよ」
バケットは拘束した海賊の女をキャロルに押し付けると、ソルトの方へ歩み寄った。
「君はここに残って。他のテロリストが入れないようにバーの入口を封鎖して、客を全員奥の部屋まで誘導しておいて。いいね?」
優しい口調で言い聞かせると、ソルトは少し不安そうにしつつも「……はい」と静かに頷いた。バケットはすっと息を吸うと、安心させるように明るい表情を作って客の方を向き直った。
「皆様。怖い思いをさせてしまい誠に申し訳ございません。私達がバーニャ・カウダ社の名をかけて、皆様を必ず無事に送り届けますので、今しばらくご辛抱頂けますと幸いです」
「フランセ、様……」
「フランセ様、頑張って!」
バケットの毅然とした態度に乗客から称賛の拍手が送られると、彼は深々と頭を下げた。
「……ほら、行くわよ」
キャロルは捕えた海賊達を連れてバーを出て行こうとするが、バケットが動こうとしないので「ん?」と振り返る。すると、其処には一緒にバーに来ていた女性の手を握る彼の姿があった。
「また、お屋敷までご連絡くださいね?」
「はい……」
懲りずにナンパを続けているのを見て、キャロルは「早く行くわよ!!!!」と声を荒げた。
キャロル達は捕まえた海賊達をオーナーズルームに連れて行き、非常用のロープを使って、彼らの体を椅子にしっかりと縛り付けた。バケットはジャケットを脱ぎ、ベストとシャツの軽装になると、隠された収納スペースから愛用のピストルを取り出し、装填数を確かめてから海賊達の前に立った。
「さてと……君達の目的は何かな?」
「悪いが拷問されても、何も喋らねぇぞ……」
「へえ、そう……」
なおも意地を貫こうとする男を見て、バケットは薄笑いを浮かべると、女の膝に目掛けて容赦なく発砲した。
パアン
「いやぁあああっ!」
女が痛みに悲鳴を上げ、頭を振り乱して泣き叫ぶ。彼女の膝に風穴が空き、血が流れ出るのを見て、男の顔から血の気が引いていく。
「二人いるのだから……最悪一人は殺しても構わないわけだよね?」
「……っ……!」
何でもない事のように言ってのけるこの貴族の青年に、男は信じられないという表情を浮かべた。
「喋る気になった?」
「くそ……悪魔かお前は……」
にこりと上品に笑うバケットを見て、男は苦々しい顔でそう吐き捨てた。
「目的は……スティックス商会のボス、ペペローニを見つけて殺すことだ……」
「なっ」
キャロルとスパイスが一瞬驚くが、バケットは眉ひとつ動かさない。
「それ、誰の命令?」
「ドレスって組織に依頼されて……報酬として大金が貰える契約になっている……!」
「ふぅん」とバケットは顎に指を当てて考え込む。
「ドレスか……数年前までスティックス商会と縄張り争いをしていた組織だね。頭を失ってほぼ壊滅状態だと思っていたけど。それで、仲間はあと何人いる?」
「悪いが、仲間を売るような真似はできねえ……」
「……」
男が渋るような様子を見せると、バケットは無言のまま女の頭に銃口を向ける。
「やぁぁぁぁあ!やめてぇ!お願い……、お願い……ぃ」
顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、女は何度も頭を下げて懇願する。
「待てっ、待て!言うからっ!……仲間はあと17人いる!……本当だ……!」
男は悲痛に顔を歪ませ、必死にそう叫んだ。キャロルは海賊達の持ち物を物色し、煙草の箱の中から一枚の丸まった紙を発見する。
「その男の言っていること……間違いなさそうよ」
彼女が見つけたのは作戦の詳細が書き込まれた船内の地図だった。
「っ……てめぇら……俺達を敵に回したこと、後悔するぞ……キャベージの兄貴は強くて残忍だ……お前なんて簡単にひねり潰され…………」
男は悔しそうに歯ぎしりし、負け惜しみを口にする。
パァン!
「ご忠告どうも」
しかし、全てを言い終えないうちにバケットの手によってあっさりと処理されてしまった。
「ひぃぃぃっ……」
男の無残な最期を目撃した女は、震えあがりそのまま白目を剥いて気を失ってしまった。
「て、手際……」
流石は元暗殺者、こういう仕事には慣れているようだ。どのような状況でも冷静沈着、敵とみなせば一切の容赦はない。バケットの冷酷な一面を垣間見て、つくづく味方で良かったとキャロルは思った。
バケットは受け取った作戦図にさっと目を通すと、キャロルとスパイスの方へ向き直る。
「奴らはペペローニの居場所を掴んでいない。恐らく今頃、血眼になって、探していることだろう。僕はひとまずペペローニに報告へ行くよ。君達は船内の状況を偵察してきてくれる?」
「分かったわ」
「任せてください!」
バケットの指示に従い、キャロルとスパイスはオーナーズルームを後にした。
※
甲板付近を見回っていたキャロルは、海上を見張っていた船員の死体がいくつも転がっているのを見つけて顔をしかめた。
(惨いわね…………見張りはほぼ全滅じゃない……)
船員達は鋭利な刃物で幾重にも切りつけられたように見える。争った痕跡が少ない事から、奇襲を受けて殺されたようだ。状況から見ると海賊は船の中に潜入していたというより、外から侵入してきたという線が濃厚だろう。キャロルは双眼鏡を覗いて、海上に浮かぶ海賊の船を視界に捉えた。
(あれが、奴らの船か………)
遠くに見える大きな船の他にも、小型の潜水艇が6隻。フェリーの傍に着くようにして浮かんでいる。船から船へ、音もなく伝ってくるなど相当な手練でなければできないだろう。
「ねえさん」
偵察を終えたスパイスが物陰からキャロルを呼ぶ。
「スパイス、どうだった?」
「はい。操縦室はすでに奴らに占拠されていました。人質は皆、ホール内に集められているみたいですが、今のところ怪我人は出ていないようです。
こちらで確認できた実行犯は計16名。船内は全て回ったと思うんですけど、あと1人が何処にいるのかは確認できていません」
「潜水艇の中で待機している可能性も考えられなくないわね……」
スパイスの報告にキャロルは腕を組んで唸った。たった1人とはいえ、不確定要素が今後どう働いてくるのかが気掛かりだ。
「しかし、どうしてペペローニを殺すのにハイジャックなんてここまで大掛かりなことをするのでしょうね……?」
スパイスがふと疑問を投げかける。
「理由はいくらでも考えられるわね。商会によって守りが固められているバーニャ島を襲撃するのにはリスクが高いけれど、船の上であればその戦闘力は大幅に削がれるわ。後はペペローニがハイジャック事件に巻き込まれて死んだように見せかけるため、とか。そんなとこじゃない?」
「なるほど……流石ねえさん」
「取り敢えず、一旦バケットに報告に―――」
キャロルは耳の端に妙な音を捉えて口を噤んだ。
(何この音……)
金属で引っ掻く様な音と、コンコンと叩く様な音。
「ねぇ。変な音、しない?」
「?」
「何かを叩くような……」
「うーん??」
スパイスは耳を澄ませながら辺りを見渡していたが、ふと海の方へ視線を落として「うわっ!」と大声を上げて仰け反った。
「ねえさん、ねえさん……!!船の壁面!!」
「なっ、何よ、アレ……!」
震える指でスパイスが差した先には、鉤爪を使って船の壁面をヤモリのようによじ登る大男の姿があった。体中に包帯を巻き付けた不気味な姿。男はこちらに気が付いて、口元にニタリと笑みを浮かべると、勢いをつけて甲板まで飛び上がって来た―――。
※
バケットがシークレットルームに辿り着いた頃には、そこにはもうペペローニの姿は無かった。
「ペペローニ様は今、何処へ?」
「はっ。5分程前、外の景色を見たいとおっしゃられてカブラ様と他数名の護衛と共に6階のテラスへ向かわれました」
ペペローニの部下である商会員がそう答える。
「こんな時に限って、あの徘徊老人……」
「フランセ様……?」
渋い顔をするバケットを見て、商会員の男が不思議そうにしている。
「すぐに、ここにいる皆を集めて」
バケットはシークレットルームにいる商会員を集め、現在この船が置かれている状況を彼らに告げた。
「なんですって……!」
話を聞いた商会員の中にどよめきが起こる。
「は、早くボスにお知らせしなければ……!」
「待って」と、バケットは片手を上げ、彼らを静まらせる。
「無闇に動けば奴らに勘づかれる、なるべく少数で動こう。そこの4人、君達は6階の甲板から左右二手に分かれて船尾のテラスへ向かって。僕が展望デッキから援護し、向かってくる敵を排除する」
「他の者はここに残って武器の準備を。偵察に出している僕の部下が帰ってきた後、フェリーの奪還作戦を立て、ペペローニの安全が確保出来次第、作戦を決行する」
バケットは商会員達に的確に指示を下していく。
「フランセ殿……大丈夫なのかね」
一連のやり取りを見ていた商会の副会頭のキクイが声をかける。
「ご心配には及びません。私共が速やかに対処に当たります。皆様はこのままここを動かないでください。船の中で1番安全な場所ですから」
バケットはそう言って、いつも通りにこやかに笑ってみせた。
※
「な……!!」
4m以上はある高さを軽々と飛び上がってきた大男にキャロル達は目を疑った。
男の鉤爪がギラリと輝き、スパイスの首を狙って真っすぐに飛んでくる。
「スパイス!!」
キャロルは咄嗟にスパイスの体を押し倒した。
「あ……あっぶな……!!」
寸でのところで刃を避けたスパイスは、肝を冷やしてぶるぶると身震いする。
「あー、外したァ……よく避けたなぁ……今度は外さねぇ……」
(何だ……こいつ……)
キャロルはこの気味の悪い包帯男に顔を引きつらせた。その姿はさることながら、大きな肉体、並外れた腕力と跳躍力。何もかもが人間離れしている。
(何かよくわかんないけど、ヤバイ気がする……)
肌が粟立ち冷や汗が流れてくる、こいつは危険だと自身の勘がそう告げている。
(こんなバケモノ相手にしたら……確実に死ぬ……!)
「逃げるよっ!!」
途端、弾かれたようにキャロルとスパイスは走り出していた。
「逃がすかぁ!!!」
男は獲物を狩ることを楽しんでいる様子でげらげらと笑いながら後を追って来る。
「いやああああ!こっちくんなああああ!」
男の猛追にキャロル達は涙目になる。包帯男の足が速すぎて、女の足ではすぐに追いつかれてしまいそうだ。走っている途中で、キャロルの目の端に壁に備えつけられた防火扉が入る。
(ぼ、防火扉……!)
彼女は咄嗟に防火扉に手をかけると、思いっきり横にスライドさせた。
「うりゃあああ!!!」
ガ――――ン
勢いあまって防火扉に突っ込んだ男が激しく頭を打ち付ける。
(や、やった!)
「……っつぅううぅう!」
男が頭を抱えてうずくまり痛がっている内に、キャロルは逃げようとするが、血走った目が彼女を恨めしそうにギロリと睨んだ。
「…………やってくれたなぁ、クソアマああ!?」
「わっ!」
男は逃がすまいとキャロルの片足を掴んで引きずると、
「なぶり殺しだ!!」
そのまま彼女の体を壁に向かって放り投げた。
「ねえさぁん!!!」と、スパイスが悲鳴を上げる。
ガンッ
「……う……っ……」
キャロルは壁に体を強く打ちつけて、意識を失ってしまった。
※
バシュッ!
ライフルから放たれた弾丸が真っ直ぐに海賊の頭を貫く。バケットはスコープから顔を外し、ふっと吐息を吐いた。
(甲板にいる敵はこれで全部、かな……)
難なく6階にいた海賊を打ち倒したバケットは、自らもペペローニの元へ向かおうと、立てかけていたライフルを肩にかけて立ち上がった。
「ん……?」
ふと、視界に奇妙な光景が飛び込んできて、バケットは立ち止まり、じっと食い入るように見つめた。
※
「…………」
意識を失ってからほんの数十秒経った頃。キャロルが目を覚ますと、包帯男の顔がこれでもかという程近い位置にあった。
(な……!)
男はキャロルの体を組み敷いたまま、顔をじろじろと見て、時折匂いを嗅ぐような仕草を見せる。
(なに、なに、なに、なに、この状況……!?)
予想外の状況にキャロルはパニックを起こしていた。助けを求めようと周囲を見渡すが一緒に来ていたスパイスの姿がない。
「可愛い……」
「は??」
ぽつりと男の口から零れた言葉にキャロルは耳を疑う。
「決めた…………アンタ、俺の女にするわ!」
「はーぁ!??」
ニタリと上機嫌に歯を見せた男に対し、キャロルの眉間には深いしわが刻まれた。
「い、意味わかんない……!」
キャロルが慌てて体を起こし後ずさりすると、男は逃げないようにがっちりと両腕を掴んできた。
「……ちょっと……離してよ!」
「逃げんな、よっ!」
「やっ……!」
男は抵抗するキャロルを手すりに乱暴に押し付ける。背中を大きく反らされ、海に落ちそうな不安定な体制になってしまい、恐怖を覚えて「ヒッ」と喉が引きつる。
「はっは、強気だなぁ……そういう女を力で押さえつけるのも悪くない……」
男によってドレスの肩紐がずらされ、少しずつ肌が晒されていくのを見たキャロルは驚愕に目を見開いた。
(ウッソ。今日に限って私、防御力低すぎない……?!)
焦って腕を振りほどこうとするも力が強すぎて敵わず、男が胸の中に顔をうずめようとしているのを止めることが出来ない。
「いや!……やめ……っ……」
キャロルは涙目になり、ぎゅっと目をつぶる。
「君、こんな所で、何してるの?」
その時。聞きなれた声がして、キャロルは目を開き声の主を振り返った。
「!……ば、バケット…………」
その姿が視界に入った時には、思わず涙が出そうだった。
(助けに来てくれた……)
キャロルは唇をきゅっと結んで、体をわずかに震わせた。バケットはキャロルと包帯男の姿を見比べてしばらく目を丸くしていたが、「あ!」と思い至ったようにポンと手を叩いて笑顔になった。
「おめでとうゴリラ、ようやく嫁に貰ってくれる相手のゴリラが見つかったんだね!」
「いや、どう見ても襲われてるでしょー!?」
信じられない最低発言にキャロルは目玉が飛び出るくらい驚いた。
「?ゴリラがじゃれ合っているようにしか……?」
バケットはわざとらしく首を傾げる。
「ふざけてないで、さっさと助けろ、馬鹿バケット――!」
必死に訴えるキャロルを見て、バケットがにっこりと笑う。
「ヤダ」
「はあー?!」
「どうして僕が君を助けなくちゃいけないの?そんなの自分でなんとかしてよ」
「ハァァァァァ――?」
「いちいち君に構っていられる程、僕も暇じゃないんでね。じゃ」
そういってあっさりと自分を見捨てようとするバケットに、キャロルの怒りは一気に頂点まで達した。
「マジで死ねこの人でなしーッ!!目の前で仲間が捕まっているのを見たらフツー助けようと思うでしょー!?」
「生憎、君が敵に捕まっているのを見ても、超マヌケ(笑)としか思わないね」
「ムッカー!!!」
「お、おい……」
場所もわきまえず唐突に始まった男女の口喧嘩に呆気に取られ、包帯男も戸惑いを隠せない様子だ。
「大体、助けを求める人質なんて役、君には似合わないんだよ。ゴリラが猫かぶってか弱い女の子アピールのつもり? ぜんっ、ぜん、可愛くないからやめた方がいいと思うよ、それ!」
「……黙って聞いてりゃ好き放題言いやがって……この……」
ヘラヘラと笑うバケットに、キャロルの怒りは爆発し、体の震えが止まらない。
「おい、てめぇら!!俺の事、無視して話をしてんじゃ―――」
包帯男は堪らず声を荒げて両者を怒鳴りつけたが――――その際、キャロルの拘束の手を緩めてしまった。
「こんの、デリカシー皆無の最低クズ男が――!!」
一瞬の隙を見逃さなかったキャロルがすかさず、男の胸倉を掴み、股間を思い切り蹴り上げる。
「ギャアアアアア――――!」
男はあまりの痛みにひっくり返り、頭から真っ逆さまに海へと落ちていく。
「……きゃあ!」
巻き込まれたキャロルもバランスを崩して手すりから落ちそうになるが――伸ばされたバケットの手が、しっかりと彼女の腕を掴んでいた。
「ほら、やっぱり自力で抜け出せたじゃない」
と嫌味たっぷりに笑うバケットに、
「うるさいわね!さっさと引き上げなさいよ!」
と言って、キャロルは苛立ちをぶつける。
「よっ、と」
「わっ!」
ぐっと力強く引き寄せられた勢いで、キャロルはバケットに抱きついてしまう。よくよく見てみると横抱きにされたまま、首に手を回すという大変恥ずかしい恰好になってしまっていて、キャロルは顔をみるみる真っ赤にした。
「ご、ごめん…………」
すぐに手を離して、キャロルは気まずそうに謝る。しかし、バケットはそんなことを気にする様子は一切なく、
「おっも、やっぱりゴリラは重量感あるねぇ」
と女性に対してあるまじき暴言を吐いた。
すぐに顔面を目がけてキャロルのグーパンチが飛んでくるが、バケットは寸でのところでそれを交わす。
「避けるな、1発殴らせろ……」
「ヤダ」
バケットは抱き上げていたキャロルを腕から降ろすと、ちらっと海の方を見て押し黙った。
「……………………」
「どうしたの?」
「ねえ。何、あのキモイ虫人間……壁伝いに上がってきてるんだけど」
「ひいい。またあ?!」
それを聞いたキャロルが恐怖に震えあがる。包帯男は船の壁にぶら下がって海への落下を逃れ、また甲板へとよじ登ろうとしていた。バケットは回転式拳銃を胸ポケットから取り出し、包帯男に向けて発砲する。
パァン!パァン!
しかし、男は素早く左右に体を移動させて、弾を避けてしまう。
「チッ……無駄に反応が速いな」
バケットは不服そうに唇を尖らせた。彼の銃弾が当たらないことは滅多にない。それだけ包帯男が人間離れした動きをしているという事だった。
「ちょっと、来てるわよ!!」
近づいてくる包帯男にキャロルが焦るが、バケットは男の動きを注意深く観察し、ぎりぎりまで引きつけようとしていた。そして、包帯男が高く飛び上がった瞬間。
パアン!
パアン!
男の額に2発、バケットが正確に弾を撃ち込んだ。ドスンと包帯男の遺体が甲板の上に音を立てて転がる。
「倒した……!」
とキャロルが拳を握る。
「……」
しかし、バケットは男に拳銃を向けたまま警戒を解こうとしない。
「いってぇええ!あっぶねぇな、また落ちるとこだったわー!」
次の瞬間、死んだと思われた包帯男が、何事も無かったかのように起き上がる。
「あ……頭に当たったのに……普通に動いてる…………」
キャロルの顔がゾッと青ざめた。なんと包帯男の額の傷がみるみる塞がっていくではないか。包帯男はポリポリと頭をかいた。
「ふぅん……なるほど……通りで俺の動きについてこられるわけだぁ ……テメェ、混ざってやがんなァ……? 分かるぜ、オレも同じだからよ……」
男はそう言いながら、腕の辺りの包帯をずらして見せた。見ると肌に幾重にも赤い筋が浮き出してびくびくと蠢いている。
「うっ、何アレ……」
グロテスクな見た目にキャロルは口を抑えたが、バケットは表情一つ変えず相手を見据えている。
「確かアンタ、バーニャ・カウダ社のフランセだったか?」
「何だ、知っているの?」
「もちろん、有名人だからなぁ!」
男がケラケラと陽気に笑った。
バケットは背中に左手を回して、キャロルに合図を送る。
(僕がなるべく時間を稼ぐ。先に行ってテラスにいるペペローニを安全な場所まで逃がして)
「分かった……こいつは任せるわよ」
キャロルはバケットと顔を見合わせて頷くと、背中を向けてテラスの方へ駆け出した。
「君の力は再生能力か……まるでゾンビだね」
バケットは男の前に立ちはだかるようにして立ち、リボルバーの弾丸を補充する。
「は、そういうお前は予知能力ってとこか……?」
「さあ、どうだろうね」
涼しい顔でバケットは笑い、包帯男に銃口を向ける。
「へっ、バケモノ同士、仲良くしようぜ…………!!」
男は鉤爪をギラギラと光らせてニタリと笑った。
※
「ねえさぁあん!」
テラスを目指して甲板を走っていたキャロルが声に振り向くと、そこにはこちらに向かってくるスパイスの姿があった。
「スパイス……!」
「ねえさん、無事、だったんですね……良かった!」
スパイスはキャロルを見た途端、腰を抜かしてへたり込み、土下座の姿勢をとる。
「な、何……?」
「すみません……私の力ではアイツをどうしようもできなくて……助けを呼びに行ったんですけど……結果的にねえさんを置き去りにする形に………」
「あー、もういいって!話は後!ペペローニを探すよ!」
泣きべそをかきながら謝罪するスパイスを無理矢理立たせて、キャロルは先を急いだ。
※
パアン!
「ぐわっ」
バケットの撃った弾丸が包帯男のこめかみを貫通する。
「いてっ!!」
パン!パアン!
間髪入れず、額にまた2発。しかし、いくら弾を撃ち込んだところで男の傷はすぐに修復されてしまう。
「この野郎、バカスカ頭撃ちやがって!!」
男がゼイゼイと息を荒らげる。
「おらぁ!!」
男の大振りな攻撃を難無く避けながら、バケットはこの男を倒す作戦を考えていた。頭を吹き飛ばすくらいの威力がないと効果が無いか……それならば回転式拳銃よりもっと強力な武器が必要になる。何にせよ。早めに決着を付けなければ消耗戦に持ち込まれこちらが不利になる。
「がーっ、全然、当たんねぇー!どうなってやがんだ!」
男は悔しそうに腕を無茶苦茶に振り回す。
「決着をつけたいところだが、お前を相手にしていると、夜が明けちまいそうだぜ……」
「同感だね。こちらもそう思っていたところだよ」
「は!気が合うな。悪いが先に行かせてもらうぜ!」
男はニンマリと笑うと、手すりを飛び越え、壁を伝って逃げていく。
パアン!
バケットの攻撃が男の腕を掠めるのもお構い無しだ。
「ち、あの速さじゃ、追いつけないか……」
男の逃走を見送るほかなく、バケットは舌打ちした。
※
「何だか騒がしいなぁ。折角、夜空を見ながら静かに過ごそうと思ったのに……ねぇ?」
その頃、ペペローニは船尾のテラスでサマーベッドに腰掛けながらワインを嗜んでいた。彼の両脇を護衛の2人が囲み、入口の傍ではカブラが部下と話をしている。
「何、海賊だと……?」
カブラが部下の報告に驚き、深刻そうに眉間にしわを寄せる。
「はい、フランセ様の指示でボスを急ぎ部屋までお連れするようにと……」
「君も飲む?」
ペペローニにはその会話は聞こえていない様で、護衛の1人にワインのボトルを見せて笑いかけている。護衛の男は額に汗を滲ませ、「い、いえ、自分は護衛中ですので……」と気まずそうに断った。
「つれないねぇ……」
ペペローニはワインのグラスを詰まらなそうにひと回しする。どうもカブラの部下は彼に似て、融通の利かない堅苦しさがある。
「仕方ない。カブラ、ここにバケットを呼―――」
そう言って、ペペローニが人差し指を立てカブラを振り向いた時。ドサリと音を立てて護衛の男2人が床の上に崩れ落ちた。
「みーつけたァー……」
突如、ペペローニの眼前に現れたのは、両手に鉤爪をつけた包帯の大男。
「ボス――っ!!」
「動くんじゃねぇよ、ボスの首が飛ぶぞ」
血相を変えたカブラが駆け寄ろうとするが、包帯男がペペローニの首に刃を突きつけるのを見て、その場から動けなくなってしまう。包帯男はヘラヘラと嬉しそうに笑いながらペペローニの顔を覗き込む。
「お久しぶりですねぇ、ボス、13年ぶりかなぁ」
「君は……何処かで会ったかな?」
怯える様子一つ見せず、ペペローニは静かに尋ねる。
「は……下っ端の構成員は一々覚えちゃいられないですか……?俺は1度もアンタの事を忘れたことは無かったですよ」
男は包帯を捲って赤い筋が幾重にも入った醜い顔を見せた。
「君は確か……ミックレイスの被験者だった……」
「嬉しいですね、覚えていてくれて」
ペペローニが頭を捻って記憶を思い起こそうとすると男は満足気に笑った。
「ミックレイスの実験体に利用され、要済みだとガス室送りにされたキャベージですよ。記録上死んだことになっていますが、鬼の生命力で命を繋ぎましてねぇ。
海賊に拾ってもらって、この10年、アンタに復讐する機会を伺っていたわけですよ。見てください……この体。鬼の細胞に食い散らかされてすっかりダメになっちまった……!」
饒舌に語りながら、キャベージは次第に興奮し語気を強めていく。
「それは悪いことをした。中途半端に生かされて苦しかったろう。ちゃんと殺してやるべきだったなぁ」
それでもペペローニは表情を変えることは無く、そう冷たく言い捨てるだけだった。
「はは、本当ですよ。ちゃんとあの時殺してくれれば、あなたはここで無惨な死に方をすることはなかったでしょうに……!」
怒りに燃えるキャベージは、鉤爪の腕を大きく振りかぶる。
「……殺す前にひとつだけ聞いていいですか? あの片目の半端者を随分と買っていらっしゃるみたいですが……同じ鬼の力を持つ被験者同士、一体何が違ったんです?」
キャベージの問いにペペローニはふーっと長い息を吐いた。
「君を処分したのは、商会にとって危険分子になりうると判断したからだよ。野心が強く反抗的……頭まで悪いときた。そんな人間が強すぎる力を手にしたら何を仕出かすか分かったものではない……」
「へえ…………?」
淡々と答えるペペローニに、キャベージは額に血管を浮き上がらせ苛立ちを隠せない様子だ。
「それと、君は大きな勘違いをしているようだがバケットの真価はミックレイスにはない。アレは私の…………」
ペペローニは空を仰ぎみると、微かな星の光を見て目を細めた。
「希望なんだ」
ド――ン!!!
突如、上階からワイヤーに繋がれたキャロルが姿を現し、キャベージの横っ面を思い切り蹴り飛ばした。
「ぎゃあっ!」
キャベージはなぎ倒され、床をゴロゴロと転がる。
「掴まれぇっ!」
差し出されたキャロルの手をペペローニが掴む。キャロルはペペローニの身体をワイヤーに繋げると上の階にいるスパイスに引き上げるように合図を送った。シュルシュルと勢いよくワイヤーが巻き取られ、2人の体が上昇していく。
「何ぃっ?!」
キャベージは慌ててペペローニの足を掴もうとするが間に合わない。
「……君に助けられるとはな」
ワイヤーに引き上げられながらペペローニがしみじみと言うと、キャロルは「ふん!」と鼻を鳴らした。
「後で多額の請求書送り付けとくからね!」
「それは怖い」とペペローニが苦笑する。
「待ちやがれッ!!」
視線を下に戻すと、キャベージが壁を登ってキャロル達を追ってこようとしていた。身軽な身のこなしで駆け上がるキャベージにあっという間に距離を詰められてしまう。
「やばっ!追いつかれる……!」
ドォン!
その時。一直線に弾丸が飛び、キャベージの頭が派手に撃ち抜かれる。それはテラスに駆けつけたバケットのライフルによる一撃だった。
「バケット……!」
キャロルが思わず名前を叫ぶ。キャベージの体はふらりと力を失い、テラスの床上に叩き落とされた。
キャロル達はワイヤーを使ってどうにか7階のフロアへ逃れることに成功した。
「ふー……どうにかなった……」
キャロルは冷や汗を拭うとペペローニの方を向き直る。
「で? アイツ、何者なのよ。アンタの知り合い??」
「……」
ペペローニは少し押し黙ってから、ゆっくり口を開いた。
「奴の名前はキャベージ……身体強化用ミックレイスの開発初期に実験体となった男だよ」
彼の答えにキャロルとスパイスが驚愕する。
「あいつもミックレイスの被験者……?!」
「あんなの……もう人間じゃないじゃないですか……!」
ペペローニはやれやれと肩を落としてため息を漏らした。
「…………身体強化用のミックレイスの開発が進まない理由がアレだよ。
鬼の魔力を極限まで省き人の体に馴染ませたものが医療用ミックレイスなのに対し、身体強化用のミックレイスは鬼の魔力を効果的に引き出さなければならない分、人体に与えるリスクは倍増する。
あれはその中でも最も危険な施術のうちの1つ。全身の筋力と回復力を極限まで引き上げさせた戦闘特化型、正真正銘のバケモノだ……」
「…………」
キャベージの不気味な姿を思い出して、ゴクリとスパイスが息を呑む。
「…………バケット」
キャロルはテラスの方を振り向き小さく呟く。
(大丈夫、よね……)
バケットとキャベージが対峙することに、彼女は胸がざわつくのを感じていた。
※
ライフルを手に構え、バケットは倒れているキャベージに近づいていく。
「てて……流石に死ぬかと思った……」
脳に相当な損傷を与えたはずだったが、キャベージはゆるゆると立ち上がるとバケットの方を睨みつけた。
「なるほど、テメェはペペローニに忠実な犬って訳か……俺もかつてはペペローニの部下だった……ゴミのように棄てられたがな!」
「それで復讐って訳、ご苦労な事だね」
バケットは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「憎まねぇって方が無理な話さ……しかし、お前は随分と奴に気に入られているみてぇじゃねーか。テメェの首を土産にでもすりゃ少しはアイツの表情を歪ませることは出来るかもしれねぇなあ……!」
キャベージは鉤爪をギラつかせ下衆な笑いを浮かべる。
「僕の首とは随分と安い土産を選んだものだ」
バケットはライフルを地面に投げ捨てると、自動式拳銃を2丁両手に構え直した。
※
「ペペローニ様、ご無事でしたか!」
先にシークレットルームへと戻っていたカブラがペペローニの無事な姿を見てホッと胸を撫で下ろす。
「ひとまずアンタ達はここに居て頂戴!」
ペペローニを送り届けるや否や、キャロルが一人で部屋から出ていこうとするとスパイスが慌ててそれを引き留める。
「ねえさん!どうする気ですか?」
「操縦室を奪還するわ。海難信号を送って海上警察に助けを求めるのよ。もし人質が死んじゃうようなことになればフランセの……バーニャ・カウダの名前に傷がつくもの!」
バケットが動けない今、自分がこの状況を何とかしなければという思いが彼女を動かしていた。
「待ちたまえ。政治家と商会が密会していたことが公になれば厄介なことになる。なるべく穏便に事を収束したい」
「そんな悠長なことを言っている場合ですか?! バケットもいないのに私達だけじゃ……」
ペペローニの言葉に、スパイスは不安そうな顔をする。
「……」
キャロルは押し黙り胸に手を当てて考え始めた。こんな時、アイツならどうするだろう。バケットはいつだって冷静で、最善の選択ができる人間だ。
(アイツならきっと―――)
考えた末、1つの結論にたどり着く。
(やるしかない……)
正しいかは分からないが思いつく限り彼女にできることはそれしか無かった。
「私が奪還作戦の指揮を執るわ」
「へぇっ!?」
キャロルの想わぬ発言にスパイスが驚いて目を白黒させる。
「船内の状況は私達が1番分かっているのよ?警察も呼べないならやるしかないじゃない!」
「ねえさん……」
「大丈夫、私に考えがある。全て穏便に済ませたいというのなら、貴方達も私の指示に従って欲しい……!」
スパイスを安心させるように肩を叩き、キャロルはペペローニとカブラの方を向き直った。スパイスも覚悟を決めたように顔を引き締める。
「ぺ、ペペローニ様、如何なされますか?」
カブラは突然の提案に戸惑いつつ、ペペローニに指示を求める。
「……面白い……やってみたまえよ。カブラ、協力してやれ」
ペペローニは顎髭を撫でながら、愉快そうに笑った。
キャロルは船内図をテーブルの上に広げた。
「バケッ……フランセが海賊を拷問して吐かせた情報によれば、グループの人数は計19名。捕らえた2名の他、ホールに8名の見張りがいて、人質のほとんどがここに集められているわ。後は操縦室に3名。甲板に5名の配置よ。ただし、甲板にいる5名に関しては既にフランセが処理済み。残る1名……キャベージについても、フランセが対処中よ」
「つまり……我々は操縦室とホールを奪還すれば良いということか?」
カブラが尋ねるとキャロルは首を振った。
「そう簡単な話でもないわ。作戦によれば彼等は10人体制でホールに全ての人質を集める手筈でいた」
「1箇所に集めてしまった方が人質を監視しやすいから、ですね」
スパイスの指摘にキャロルが頷く。
「ええ。だから今頃、バーに向かわせた仲間2人が人質を連れてホールに戻って来ていないことを不審に思っているはず。彼らの内、何名かが船内の偵察に向かっている可能性が考えられるわ。よってホールへの強行突入は不確定要素が多くリスクが高い。挟み撃ちになる可能性もあるし、乱戦になれば乗客が犠牲になる可能性もある……」
キャロルの一連の状況説明を聞いて、カブラが腕を組んで唸る。
「状況は理解した。それで?君の作戦を聞かせてもらおうか」
「……なるほど、展望デッキから、このBブロックを狙うわけか……確かにこの配置なら行けそうだ」
キャロルの提案した作戦にカブラが感心する。
「この中で狙撃が上手いのは?」
「バジル、パセリ、タイム、セージ!」
「はっ」
カブラに名前を呼ばれた部下が前に出る。
「貴方達4人は武器を持って展望デッキへ」
「スパイス。アンタは護衛を3人連れて操縦室へ」
「残りの隊員は転がっている海賊の死体を片付けて!血痕1つ残しちゃだめよ!海賊には作戦が上手くいっているように思いこませるの!」
キャロルが指示すると隊員達は一斉に散らばって行った。
※
客船の操縦室。窓から見える海を眺めながら3人の海賊達が駄弁っていた。
「おっせぇなぁ、ジジイ1人見つけて殺るだけにまだかかってんのかよ。キャベージの奴、まさかしくじったんじゃねだろうな?」
「アイツがいて失敗するなんてことあるかよ」
「そりゃそうだけどよ……はあ。早く仕事済ませて帰りてぇ……」
長時間の見張りに彼らの緊張感はすっかり無くなってしまっていた。
シュ―――
「んー?」
頭上から空気が漏れるような音がして、見上げてみると排気口から白い煙が溢れ出ていた。
「なんだよ、この煙!」
外へ逃げる間もなく、部屋の中がみるみる煙に覆われていく。
「けほっ けほっ」
海賊は外へ逃げようと慌てて出口へと向かうが…………
パン パン パン!
扉から出た途端、銃声が3発響き海賊達は床に崩れ落ちた。操縦室の外にはスパイスとスティックス商会の警備部隊の隊員達が待ち構えていたのだ。スパイスは操縦室に入るなり機械を物色し始める。
「あった、これこれ」
複数のスイッチと受話器のようなものがついている機械を彼女が見つけると、「それは?」と隊員の男がスパイスの手にした機械を指さして尋ねる。
「船内と連絡を取り合うための通信機器です。私達1度、船の中にスパイとして潜入した事がありますからこういうモノの使い方は詳しいんですよ」
慣れた手つきでスパイスは機械のスイッチを弄っていく。
「これとー、これとー、これはオフで。ん、ん、ん、あー、あー、あー。ねえさーん、聞こえますかぁ~」
『バッチリ聞こえてるわよ、こちら機関室』
受話器の片側からキャロルの声が聞こえてくる。
『海賊の女から聞き出したわ、コイツらが連絡の際に使う暗号よ。私の言う通りに読み上げてね』
「はぁい」
『ゴェイピー ウーシャン フェン ホアジャオ 任務は完了だ!海上警察がすぐ側まで近づいている!全員、直ちに甲板Bデッキに集合!離脱するぞ!』
女性の声とは思えない野太い声が船内に響き、隊員の男がギョッと目を見開く。
「こ、声真似……?!」
「私達、潜入のプロなんで!このくらいはお手の物です。さあ、これで甲板に海賊達を炙り出せるはずですよ!」
スパイスは得意気に鼻の頭を掻いた。
※
一方その頃、6階のテラスではバケットとキャベージの戦闘が続いていた。
パン! パアン! パン!
「がっ!」
バケットはキャベージの心臓、頭を続けて撃つ。彼はキャベージの動きを完全に読み切っていてもはや弾を外すことはなかった。しかし、幾度傷つけられようと、回復力に特化しているキャベージには消耗が見られない。
一方で、バケットは長引く戦闘に息が上がりつつあった。いくらミックレイスの力で次の攻撃が予測出来ても、それ以外は普通の人間だ。キャベージの速さに、疲れた体は思うように反応できない。
「どうしたどうした!逃げ回るだけかぁ!!」
キャベージもバケットの状態を分かっていてわざと焦らすような動きを繰り返す。
「……!」
その時、キャベージの攻撃を避けようとしてバケットの足がもつれる。
「そこだァ!!」
体勢を立て直そうとするが間に合わず、キャベージの鉤爪がバケットの横腹にくい込んだ。
「………ん……っ……」
鋭い痛みにバケットは目を見開く。
「はは、やっと入ったぁ!」
手ごたえを覚えたキャベージは嬉々とした表情を浮かべた。皮膚が切り裂かれ、血が飛び散る。倒れそうになるのを堪え、バケットはすれ違いざまにキャベージの頭に弾丸を叩き込む。
パン、パァン!
「ぐあ!」
キャベージが膝をつき動けなくなっている内に距離をとり、バケットは傷を押さえて壁にもたれかかった。
「……う……」
思ったよりも傷が深い。押さえても次から次へ血が溢れて出てくる。もう少し深く食い込んで入れば、内臓を抉られていたかもしれない。
「しかし、わかんねぇなぁ……」
キャベージが首を捻りながら、ゆっくりと立ち上がる。
「そこまでの力を持って、てめぇは何故、ペペローニなんかに尽くす?
その鬼の力を使えば、何だってできるだろう?それこそ国を取ることだって……!」
ふ、と小馬鹿にしたようにバケットは薄笑う。
「……国を取る、ねえ……」
「ああ、そうだよ。テメーには世界を手に入れたいという欲望はねぇのか?」
「……」
バケットはため息を漏らし、キャベージを真っ直ぐに見て口を開いた。
「壊す事は簡単だ。けれどその末に訪れる地獄のような貧苦を僕は知っている」
「あ?」
「君達のように壊す事しか知らない人間は、一から生み出すことにどれだけの時間と労力がかかるかを知らない……」
「何、言ってやがる……」
「分からなければいいよ」
静かに抑揚の無い声で言うバケットを見て、キャベージは不可解な表情を浮かべている。
「特別な力も、莫大な富も、社会的地位も、国家権力だって、僕にとってはどうだっていい。全ては目的を果たすための手段だ。その点に置いてペペローニとは一致している」
そう言いながらバケットは銃口をキャベージに向ける。
「お前達は………一体、何をしようとしている……?」
キャベージは目を細めた。
「君達には一生。死んでも理解できないこと……」
バケットの手に握られている銃が七色の光を帯びて光り出す。
「な、なんだそれは……魔法……?!」
危険を感じたキャベージが驚いて仰け反る。
「おいおいマジかよ。ミックレイスの被験者が、そんなモン使えるなんて聞いてねぇ――――」
バシュ――――!
光が一直線にキャベージの胸を貫いたかと思うと、胸の傷から亀裂が全身に広がっていく。
「うおぉおおぉあああっ!!」
キャベージの身体は内側から破壊され、バラバラになって崩れ落ちた。
「いっ……こんなの、使わせないでよ……」
バケットは俯き、痛む右目を押さえた。
散り散りになったキャベージの体は少しずつ寄り集まって、また再生を始めようとしている。しかし、辛うじて人の形になったという所で修復がぴたりと止まり、端々が徐々に腐っていく。
「く……そ……」
「再生能力も限界があるみたいだね……」
キャベージは立ち上がることも出来ず、首をもたげてバケットを睨みつけた。
「はっ……分かってんのかよ。このまま……ペペローニに従っていても、俺達みたいなのには……未来はねぇんだぞ……」
「……」
バケットは無言のまま、キャベージにトドメを刺そうと近づいてゆく。
「テメェだって薄々気がついているんだろう……?!身体強化用のミックレイスの実験体になった人間がいずれどうなっていくのか――……!?」
バケットが銃口を向けた時、彼の前髪に隠れていた右目が見えて、キャベージは言葉を失った。
「…………お前…………」
パァーン!!
弾丸がキャベージの頭を突き抜ける。
「あ………あが………あが、が……………」
頭の形が歪に崩れ、もはやキャベージは言葉すらまともに発することができない。
「あは……ついに脳みそぶっ壊れちゃった……?」
バケットは目を細めて、可笑しそうに笑う。
「そんな姿になっても、まだ生きているなんて……本当、気持ち悪いね……」
バケットは鉤爪の刃を1本拾い上げると、勢いまかせに振り抜いてキャベージの頭を切り落とした。吹き飛ばされた頭が、ドポンと音を立てて海へと落ちていく。
「……は………」
キャベージの体がボロボロになって跡形もなく朽ちていくのを確認した後、一気に力が抜けてしまってバケットはその場に座り込む。
(……だから、接近戦は苦手だというのに………)
あくまでバケットは暗殺専門のスナイパーである。身体能力の高い相手と面と向かって戦うのは専門外だ。このような体力の浪費が激しい戦いは二度と勘弁して欲しいと、彼は心底思うのだった。
「……」
しばらく立ち上がれずにいると、複数人の足音が甲板の方へ近づいてくるのが聞こえてきた。
(誰か来る……味方じゃあ無さそうだな………)
バケットは体を引き摺りながら、近くにあった貯水用のパイプスペースの隙間に潜り込んで息をひそめた。
「……」
その直後、数人の海賊達が走って通り過ぎていく。
(行った、かな…………)
足音が遠ざかっていったのを確認し、「はぁっ」と押さえていた息を一気に吐き出す。
(早くペペローニの所へ戻らなきゃ……)
そう思って体を起こそうとするが手足に力が入らず立ち上がることが出来ない。視界は薄くぼやけて、瞼も重くなっていく。
(意識、飛びそう……)
どうやら血を失いすぎたらしい。鉤爪で切りつけられた傷からの出血が一向に止まらない。
(こんな所で気を失うと、誰も見つけてくれないまま死んじゃうかも……)
ふふ、とバケットは可笑しそうに笑った。
(とんだマヌケだなぁ……)
自分の事なのにまるで他人事のように感じられた。死を目の前にして驚くほど何の感慨も湧いてこない。
(まあ……別に…………いっか…………このまま、終わってしまっても………)
本来、失われていたはずのこの命で、何かを遺せたのであればそれでいい。望む形には届かなかったけれど、君は少しは報われただろうか。バケットは穏やかな気持ちで、眠りの中へ落ちていった。
※
その頃、船頭のBデッキには続々と海賊達が集まりつつあった。彼らは集結した仲間の人数を確認し合っているようだ。
「遅いな……」
「キャベージも来ていないし……6階にいた奴らは何してんだ?」
操縦室から双眼鏡で船頭の様子を覗いていたスパイスがキャロルに呼びかける。
「ねえさん、これで残りの海賊が全員甲板に出てきましたよ」
『了解。各自配置について、対象に狙いを定めて』
キャロルの声を聞き、展望デッキに待機していた警備部隊の隊員達がライフルを構え、ガトリングガンの発砲準備をする。
『アンタ達、ここまでお膳立てしてあげたんだから、しっかり仕留めなさい!
ブレーカー、落とすわよ!』
ドウン
甲板の電気が全て落とされ、Bデッキだけがスポットライトで照らし出される。
「何――!?」
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドド
狼狽える海賊達の上に、逃げる間も反撃する間も与えず、無慈悲に銃弾の雨が降り注いでくる。
「うわあ、ああっ」
「ああ――――!!」
火薬音に交じって、海賊達の断末魔が響く。
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド
銃撃は海賊の最後の1人が倒れるまで、しばらく止むことが無かった。
ゴクリとキャロルは息を飲む。
『殲滅完了、です』
「……!」
「ふぅ…………」
通信機から聞こえてきた報告に、緊張の糸が解けたキャロルは、額に噴き出た汗をぬぐった。
「お疲れ様でした!」
パチパチパチパチ
警備部隊の隊員達から惜しみない拍手が沸き起こる。
「フランセのことは嫌いだが……君達2人には感謝しきれない程の借りを作ってしまったな。ボスを守ってくれて本当にありがとう」
隊長のカブラがキャロルの前へ進み握手を求める。
「いいのよ。私は私の仕事をしただけ。それに……」
キャロルもカブラの手をがっちり握る。
「?」
「私もアイツの事は嫌いよ」
苦笑いをするキャロル見て、カブラは驚いたように目を丸くしていたが、「ははは、そうか、そうか」と可笑しそうに笑っていた。キャロルは通信機を手に取ると、スパイスに話しかける。
「スパイス、お疲れ様。段取り完璧だったわよ!」
『えへへ、あざーっす!』
スパイスはキャロルに褒められて嬉しそうに声を弾ませる。
「……それで、バケットの方ってどうなってる?」
『それが……』
声色を変えたキャロルの質問に、スパイスが言いよどむ。
『キャベージの残骸……らしきものはあるようなのですがバケットの姿はどこにも見当たらなくて……』
「…………え?」
キャロルの心臓がドクリと大きく脈打った。キャベージを倒したのであればきっとバケットは無事でいるはずだ。だが、すぐにシークレットルームに戻ってこないのはどういう事だろう。
(まさか、何かあったの―――?)
「分かった……私も探してみるわ」
キャロルは通信機を切るなり、足早に部屋から出ていった。
※
いつも あの日の夢を見る
僕の 世界で最も大切な 唯一無二の宝物が ゴミとして捨てられた日
あの日は 星がすごく 綺麗だった
夜の街を 裸足で 歩き回って 必死に ■を探した
迎えに来てって 泣いていたから
一緒にいなければ 駄目だって 泣いていたから
やっと ゴミと一緒に ダストボックスに 捨てられていた ■を見つけて
ああ 良かった 見つけてあげられた って 縋りついて 泣いた
こんなところに いちゃ 駄目じゃない ゴミ じゃないんだから
そう 言って 一つ 一つ ■を 拾い集めて 布に包んであげた
全部は 見つけて あげられなかった けれど
ぎゅっと 腕の中に 抱きかかえたら
僕のもとに 戻ってきてくれた って 思って また 涙が出た
でも こんなに 軽かったっけ それに 何だか とても つめたいね
返事を しないから ねえ おきて って 呼びかけてみると
布にくるまれて いるのは 僕と 同じ顔 だった
あれ おかしいな 僕が 死んでいる
? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?
―――――――――――――気持ち 悪い――――――――――――――――死んでいるのに どうして 僕 まだ 息 しているの―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――バキッ
※
「バケット!」
「バケット……!!」
バケットが薄っすらと目を開くと、心配そうな顔がこちらを覗き込んでいる。
「しっかりしなさい、このバカ!」
ジンジンと左の頬が痛むのを感じて、バケットはすぐこの女に殴られたのだと悟る。
「……っ、痛いよ、馬鹿ゴリラ…………」
「うるさいわ、起きて第一声がそれかい」
バケットの物言いに機嫌を悪くしたキャロルは、憎まれ口を叩いた。
「何で、いるの……?」
「助けに来たに決まってるでしょ。本当、探し出すのに苦労したわよ」
「…………」
「血だらけでこんな所に隠れてるんだもの、アンタは野良猫かってのッ」
「の、野良猫……ふふっ……はは、ははっ………っつ………はあ…っ……」
小動物に例えられたことが可笑しくて、バケットは思わず笑ってしまったが、腹の傷が痛くてすぐに苦しそうに顔を歪めた。
「笑うな、傷に響くでしょ。手当するから大人しくしてて」
「ん……」
バケットは小さく頷く。
「………………」
「ふふ……ふ……」
「いや、何でまだ笑ってんのよ」
堪え切れず、また肩を震わせて笑い出すバケットに、キャロルの目が据わる。
「君の必死な顔が、可笑しくって……ふ、ふ」
「はあー?」
「く……ふ」
「もう、なんでもいいわよ…………」
なおも笑い続けるバケットを見て、キャロルは呆れたように肩をすくめた。死にかけていたというのに何がそんなにおかしいのか、この男、理解不能である。
「………ぁ……」
キャロルが止血をしようと脇腹を押さえると、バケットは小さくうめき声を上げる。
「痛む……?」
「う……ん……」
バケットは痛みに眉をひそめ、ぎこちなく答える。そっと額の汗を拭ってやると、少し熱を持っているようだった。
「スパイスが人を呼んでる。すぐ助けが来るから、もう少し我慢して」
キャロルは綺麗な布で傷口押さえると、上から紐で縛った。手当をされている最中、バケットは穏やかな笑みを浮かべながら、眠たそうな目でぼんやりとこちらを見つめていて、キャロルは少し恥ずかしくなった。
「いつも、君は……こういう時に限って…………何の因果だろうねぇ……」
「え?」
「………運命なんて信じていないけど、こんなの、出来すぎているよ………ふふ」
バケットが弱ったような顔で笑うものだから、キャロルは困惑した。
「……バケット……?」
言葉の意図を汲み取ろうとバケットの表情をうかがっていたが、意識が朦朧としてきたのか彼の瞼は少しずつ落ちてゆく。
「ねえ、キャロル…………楽しいね……生きる……のは…………」
途切れる声でそう言って、バケットはゆっくりと目を閉じた。
「バケット………バケット?」
反応が無くなったことに動揺したキャロルはバケットの肩を揺り動かす。すると、すぐに規則的な寝息が聞こえてきた。
「何だ、寝てるだけか…………脅かさないでよ、紛らわしい」
キャロルはホッと胸を撫で下ろした。
(あんな強敵と戦った後だもんね……)
疲れ切ってぐっすり眠っているバケットの顔を眺めていると労いたくなってキャロルは「お疲れ様」と彼の頭を優しく撫でた。
※
1ヵ月後。傷がすっかり癒えて退院の日を迎えたバケットの元を、ペペローニが訪れた。個室の広々した病室の中、バケットはいつものスーツに身を包んで彼を迎え入れた。
「ドレスの残党はこちらで処理した。今回、お前の部下には本当に助けられたよ。中々に面白い子達だ、お前が気にかけるのも分かる。私からも何かお礼がしたいと言っておいてくれ」
来客用のソファに腰掛けてコーヒーを飲みながら、ペペローニはご機嫌な様子で言った。
「ありがとうございます、2人にもそう伝えておきますね」
バケットもにこりと愛想よく笑って礼を言う。ペペローニはコーヒーに砂糖を入れてかき回し、ちらりと荷物を整理しているソルトの方へ視線をやる。
「…………」
「ソルト、タバコ1箱買ってきてくれる?」
バケットはすぐにその意図を汲み取ると、ソルトにお使いを頼んだ。
「はい」
ソルトはペペローニに軽く頭を下げて、病室から出ていく。それを見送ってから、ペペローニの表情は重々しいものに一変した。
「……それで?いつからだ」
「…………。半年位前から兆候はありましたかね。はっきりと自覚したのはついここ2ヵ月です」
「そうか……」
ペペローニは長く息を吐き、頭を垂れた。
「リカバリーも考えましたが、少しばかり弊害がありまして」
「…………」
「バーニャ島が特別行政区に正式に決定した際は後の事は全て貴方にお任せします。本当ならもっと丁寧に事を進めたかったのですが、こうなった以上、計画を大幅に変更せざるを得ませんね」
「バケット」
淡々と話を続けるバケットの言葉を遮るように、ペペローニが顔を上げ、真っ直ぐにバケットの方を見る。
「もっとゆっくり話がしたい。どうにかならないのか?」
「……」
バケットは小さく首を振った。
「今日は駄目です。ちなみに明日はセサミ議員と会食、明後日は出張です。その後なら……」
「働き詰めだな……少しは休んだらどうなんだ」
「これからが正念場ですよ。今働かなくて、いつ働くんです?」
「……」
にっこりと笑うバケットに対し、ペペローニは複雑な表情を浮かべている。
「全て片付いた後、お前はどうするつもりだ?」
「そうですね……孤島に家でも買いましょうか……」
「孤島、なぁ………」
冗談じみたバケットの答えにペペローニはため息をつく。
「今日はこれで失礼するよ、また今度話そう」
彼はゆっくりソファから立ち上がると、出口へと向かおうとバケットに背を向けた。
「なあ、バケット」
「はい」
「どうせなら、ここで死んでくれないか?」
「…………」
ペペローニの言葉にバケットは少し驚いていたが、柔らかく微笑むと
「いいですよ」と優しい声で答えた。
「あっさりしてるなぁ……お前」
ペペローニは肩をすかしてバケットの方を振り返る。
「それくらいの事が出来るくらいには、貴方のことを信頼していますから」
「……そうか……」とペペローニは天井を仰ぎ見る。
「ふふ。代わりに何をしてもらおうかなぁ〜」
「はは、怖いなあ……」
悪戯めいた笑みを浮かべるバケットにペペローニは苦笑いをした。
※
ペペローニが帰ってからすぐ、バケットが病院から出ていくと待ち構えていた報道陣が一斉に取り囲んできた。
「フランセ様、ご退院おめでとうございます!ハイジャック事件についてのお話を聞かせてください!」
「乗客だけで犯人に立ち向かった奇跡の奪還劇と言われていますが……!」
「被害を最小限に抑えられた理由は何だと思われていますか?」
「乗り合わせた乗客のお話ではフランセ様が犯人のうちの2人を見事拘束なさったとか!」
「どうか、お一言だけでも!」
矢継ぎ早に記者達から質問が投げかけられる。バケットは送迎に来ていた車の前まで歩いていくと彼らを振り返った。
「詳細については警察から発表があった通りです。今回の事件では我社の8名のスタッフの尊い命が失われました。このような犯罪集団の傍若無人な行為を許してはいけません。我々、バーニャ・カウダ社は政府と協力して海上警備を強化してまいります」
病院の傍に駐車していた車の窓から、ペペローニはその様子を密かに見つめていた。
「アイツにはそれ相応の舞台を用意してやらんとなぁ……」
ペペローニがぽつりと呟く。
「出してくれ」とペペローニが運転手に指示すると車は発進し、病院から離れていった。
※
「フェリー奇跡の奪還劇、か……」
フランセ邸の近辺にある小さな公園のベンチで、キャロルは独り新聞を広げてハイジャック事件についての記事を読んでいた。あの後、フランセは身を呈して乗客を守ったヒーローとして注目された。彼の人徳からか事件の被害者のために、バーニャ・カウダ社には膨大な額の寄付金が集まったらしい。その出資者の中には今回の事件に巻き込まれた貴族達も居たとか……。
宣伝効果は抜群。こうして逆境をもチャンスに変換してしまうのだからフランセには恐れ入る。
「…………もう大丈夫なの?」
つい先刻、隣に座った相手をじろりと横目で見てキャロルが言う。
「まーね」
バケットはベンチに足を組んで座り、機嫌が良さそうに鼻歌なんて歌っている。
「そうだ。今日飲みに行く?復帰祝い」
バケットは手でグラスの形を作るが、キャロルは渋い顔をする。
「病み上がりが何言ってんのよ。大体そういうのは自分から言い出すものじゃないわよ」
「小さい事は良いじゃない。ね。今日は特別に美味しいお酒奢ってあげるから」
バケットが首を傾けて強請るように言う。
「しょうがないわね……少しだけよ」
キャロルは少し顔を赤くして唇を尖らせた。
いつものバーの貸し切りのVIPルームに着くなり、バケットはショーケースの下の金庫から木箱を取り出してカウンターの上に置いた。
「何、その箱?」
「ふふ。シャンパン、ボトル開けちゃおうかと思って」
箱の中にはダイヤのマークがついた真っ黒のボトルが入っていた。
「うっわ……ヤッバ……いくらすんのそれ…………」
キャロルは口を押さえて身震いをする。
「ひみつ。言ったでしょ、今日は特別……」
そう言ってバケットはキャロルにグラスを持たせるとシャンパンを注いだ。グラスに流れ込む黄金色がキラキラと輝いて眩しい。
「…………!」
シャンパングラス越しに目が合うと、無邪気な笑顔をバケットに向けられてキャロルは思わずぼーっとしてしまった。
カラン コロン
静寂を破るように、バーのドアが音を立てて開く。
「あーっ!ずるい!もう始まっているじゃないですか!」
声を上げながら店に入ってきたのはスパイスとその後ろにはソルトの姿もあった。
「今、始まったところよ。ほらグラス持って!」
キャロルはシャンパングラスを、彼女達に押し付けるように渡した。お酒が全員の手に渡ったところでバケットがグラスを掲げる。
「バーニャ・カウダに」とバケットが言い、
「バーニャ島に!」とスパイスが答えるように言う。
「「「「カンパーイ」」」」
カーンとグラスが派手に音を立てる。
喉に流し込んだシャンパンの深みのある芳醇な味わいに、キャロルはハアと息を漏らす。
「んー、最っ高……」
「……」
ソルトがシャンパンに口をつけているのを見てバケットが尋ねる。
「珍しいね、今日は飲むの?」
「はい………」
照れくさそうに笑うソルトにバケットは優しく微笑む。
「ソルトは私達の飲み友達になったから、ねーっ?」
「飲み友達?」
「ええ!女子限定の、飲み友達ですっ!」
ソルトを囲んでフフーンと鼻高々に自慢をするキャロルとスパイスをバケットは「ふぅーん??」と不思議そうに見ている。
「ま、何でもいいや」
「…………(´•ω•`)」
すぐに興味を失ったバケットにさらりと流されて、スパイスは寂しい気持ちになった。
「少しは興味を持ちなさいよ、冷徹人間……」
「ソルトも子供ではないのだし、プライベートについて僕がとやかく言う事じゃないよ」
白々しいバケットの態度にキャロルは鼻を鳴らす。
「ふん、そういうアンタは仕事とプライベートの区別がついてないんじゃない?ソルトに聞いたわよ。執務室に女連れ込んでたって」
格好のエサを得たキャロルはここぞとばかりにバケットを責めたてる。
「ホント、ソルトに不潔なもの見せるのやめてよね!」
責められている当人は身に覚えが無いのかとポカンとしていたが、考え込んでようやく思い出し「ああ」と口を開く。
「あれは仕事だよ」
「…………し…………」
あっさりと衝撃的な発言をするバケットに、キャロル達は表情を固まらせた。
「相手から好意を寄せられているのは分かっていたから交渉の道具として使っただけ」
「アンタ……仕事で……いつも、そんなことを……?」
「何その反応」
「いや……闇が深過ぎて……何も言えませんわ…………」
あからさまに引いている様子のキャロル達にバケットは怪訝な表情を浮かべる。
「君達さぁ、たかがキスくらいで大袈裟過ぎない?」
「…………」
「はっ?? キ……キス?」
真顔で言葉を繰り返すキャロルに、ポッとソルトの顔が赤くなる。
「!?ええーっ、もしかして………そっち?!ソルトがあんなこと言うから、私てっきり…………!!」
「わっ、私、何も言ってません……!」
キャロルが頭を抱えるとソルトがわたわたと弁解し始める。
「へぇ、そう」
(……ぎく)
ニタリと笑うバケットを見て、キャロルは嫌な予感を覚えた。
「どうやら何か勘違いをしていたみたいだねえ?」
「う……ぐ……」
「それで?」
「君は一体、僕がどんな事をしていたと思ったのかな〜??」
「うるせー!セクハラ男――!!」
わざとらしく首を傾げて尋ねるバケットを、キャロルは罵倒する。
「人聞きが悪いなぁ。妙な事を思い浮かべたのは君の方でしょう、エロゴリラ」
「エロゴリラ言うな」
バケットが挑発するようにキャロルの頬をつんと軽くつつく。
「もー、ねえさんったら。いつもやらしいこと考えてるんだから~」
「考えとらんわッ!」
(というか、絶対アンタもこっち側の人間だったでしょうが!何故素知らぬ顔をしてそちら側にいる?!)
いつの間にかしれっと寝返っているスパイスの裏切りにキャロルはわなわなと震える。
「そもそもソルトが……紛らわしいこと言うからっ……」
「…………」
キャロルがバッとソルトの方を向くと、すぐにプイと赤い顔を逸らされる。
「ねぇ、知ってる? ゴリラって年中発情期らしいよ?」
「……罠だ……これは罠だ……」
バケットにポンと肩に手を置かれ、キャロルはがっくりと項垂れる。
「だ、大体ねぇ!誰彼構わず女の子口説いている節操無しの軽率男に発情期とか言われたくないのよー!」
「心外だなぁ、僕だってちゃんと好みは有る。もちろん君のようなゴリラはまず人ですらないからお断りだけどね」
「……あんたって奴は……口を開けばゴリラ、ゴリラと……っ……どうして、いちいち他人の神経を逆撫でするような事しか言えないのー?!」
言葉の応酬を繰り広げ始めたキャロルとバケットを他所にスパイスとソルトは静かにシャンパンをすする。
「ま〜た、いつものが始まった」
「本当に飽きないですね」
ふふっとスパイスとソルトは顔を見合わせて笑った。
全8〜9話予定。感想など頂けると励みになります!
次回投稿は2/13 17時予定です。