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腹黒貴族と女スパイが世界を変える話2

第2章 テロリストとの戦い

日もすっかり落ちかかった平日の午後、静寂を打ち破るように社長室の電話のベルが鳴った。

「はい、社長室……」

ソルトは受話器を持ち上げて電話に応対する。

「社長ですか?ええ。いらっしゃいますが……今ですか?……しかし、今日は……えっ、もう来てる?!」

電話口の相手にソルトは困惑した様子だ。

「社長、あの……すみません……」

遠慮がちにソルトがバケットに話しかける。

「うん?」

書類に目を通していたバケットが首をもたげてソルトを見る。

「キャロルとスパイスが……――」

「邪魔するよ」

ソルトが話し終えるより前に、キャロルとスパイスが社長室の扉を開いて現れる。

「報告に来るのは明日じゃなかったっけ?」

「ソルトに聞いたら、今いるっていうから、さっさと済ませちゃおうと思って」

バケットの投げかけた疑問にキャロルはそう答えると、長椅子にドカッと勢いよく腰掛けた。バケットは「ふぅん……」と意味深な笑みを唇に浮かべる。

「まあいいや、それで収穫はあったのかな?」

「もちろんです!」

バケットの問いかけに、スパイスが得意気に答える。

「あの会社、偽のブランド品を安い価格で売り捌いていました!証拠もばっちりありますよ!」

スパイスが報告書を手渡すと、バケットはさっとそれに目を通す。

「……思った通りだね。ありがとう、これでライバル会社を蹴落とすためのネタが手に入ったよ」

彼は笑顔で頷くと、小切手にスラスラとペンを滑らせてスパイスに渡す。スパイスは小切手に書かれた金額を見て「ゲヘヘ」と下品に笑った。

「じゃあ、次の任務はまた追って連絡するから」

バケットはそう言って早々に話を打ち切ると、途中だった書類の作成に手をつけ始めた。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

それから1分弱、部屋の中に沈黙が続く。キャロルは長椅子であぐらをかき、天井を仰ぎ見ている。スパイスは小切手を手に立ちつくしている。報告が終わっても、2人はその場から動こうとせず、バケットからの言葉を待っていた。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

さらに1分が経過。スパイスがそわそわし始め、キャロルとバケットを交互に見る。

「……あれっ、飲みに行かないの?!」

ようやく口を開いたキャロルが驚いた様子でバケットを振り返る。

「あのねぇ。いつでも君の予定に合わせられると思わないでよ、今夜は先約があるんだ」

バケットが呆れたように言う。

「あ………、そう……」

キャロルの肩からストンと力が抜ける。

「何、君そんなに僕と飲みに行きたかったの?」

バケットはニヤニヤしながら問う。

「!?はあーっ?誰が…………!?」

キャロルがカッと赤くなり、言い返そうとした時。


カラン、コロン――。


来客を告げるベルが屋敷内に響いた。

「来たね。ソルト客間にお通しして」

「こんな時間にお客さんって……誰なんですか?」

スパイスは首を傾げる。

「スクウォッシュ伯爵だよ」

「えっ!あのスクウォッシュ銀行の?!」

スパイスは仰け反って驚く。スクウォッシュ家は銀行業を営み、政財界にも大きな影響力を持っている有力貴族でこの国にその名を知らない者はいない。確かによく見れば今日のバケットの服装はいつもよりも堅いものだった。

「先月開かれた懇親会ですっかり伯爵夫妻に気に入られてしまって、ぜひとも娘に会って欲しいってせがまれてね。取引先だから無下にもできないし」

「え……それ、って…………?」

キャロルがぽかんと口を開ける。

「お見合いっすか?!」

「有り体に言えばそうだね」

バケットがスパイスの言葉を肯定すると、キャロルは少し眉を寄せる。もしスクウォッシュ家の令嬢と結婚するような事になれば、逆玉の輿は間違いなし、政界にも強い繋がりができるだろう。彼にとってそれはチャンス以外の何物でもない。

「そういう訳で、君達が居ると色々とややこしいから早々にお帰り願いたいんだけど――良いかな?」

バケットはキャロルとスパイスをぞんざいに追い払おうとする。

「………ふん!」

邪険にされたのにムカついたのか、キャロルはムッと頬を膨らませた。

「言われなくてもお邪魔虫は帰りますよ!行くよ、スパイス!」

「は、はい!」

キャロルは乱暴に扉を開けて出ていき、スパイスもその後を追いかける。


キャロル達が部屋から出ていったのを確認し、バケットは「はぁ」と短くため息をついた。

「社長……」

彼女達が報告に訪れる日は彼が夜に予定を入れないようにしていることをソルトは知っていた。内心彼は幼なじみで酒を飲み交わす時間を楽しみにしているのだ。あの瞬間だけはフランセとして取り繕う必要はなく、バケットとして素のままで過ごすことが出来るからだろう。

「いないって言ってくれれば良かったのに……」

ぽつりと小さい声でバケットが非難めいた言葉を漏らす。

(!……)

滅多に見ない彼の子供のように拗ねた反応。思わず「ふっ」と笑みが零れてしまって、咄嗟にソルトは口元を隠した。これが自分以外の他の誰にも見せない表情だと思うと、彼女は特別感を覚えて嬉しくなってしまうのだった。



やや機嫌の悪かったバケットだったが客間に入った途端、すっかり好青年であるフランセの顔に切り替わっていた。

「伯爵。先日は懇親会にお招き頂きありがとうございました。またお会い出来て光栄です」

「いやあ、フランセ殿!突然すまないねえ!今日はよろしく頼むよ!」

この陽気な小太りの髭男は、スクウォッシュ伯爵。その後ろに立っている、ボブカットの優しそうな女性はスクウォッシュ伯爵夫人だ。

「娘のミナミだ。ミナミ、フランセ殿に挨拶を」

「初めまして、フランセ様……ミナミ、と申します」

伯爵が促すとスクウォッシュ家の一人娘のミナミは恥ずかしがりながらも控えめに会釈をした。母親に似たとても聡明そうな娘だった。

「はじめまして。ミナミさん、フランセと申します。お父様からよくお話はうかがっています。都立学校でとても優秀な成績を修められている自慢の娘さんだと聞いて、今日お会いできるのを楽しみにしていました」

「いえ、そんな……」

「ぜひ、ゆっくり学校のお話を聞かせてくださいね」

 バケットがそう言って手を取れば、ミナミは照れ臭そうにほんのり顔を染めた。

バケットの様子が気になって、客間の扉の隙間から覗いていたキャロルはやれやれとため息をつく。

(あの悪魔……一体どこまでタラシ込めば気が済むのやら……)

完全に別人としか思えない人格の変わり様はいつ見たって慣れない。

「ねえさぁん、いつまで覗いているんですかー? 早く御飯食べに行きましょうよー、もうお腹空いちゃっ――」

すっかり飽きてしまったスパイスが駄々をこねる。

「しっ!」

キャロルは人差し指を口の前に立て、スパイスを黙らせる。

「こっちに来る……!」

バケットがスクウォッシュ夫妻を伴って客間から出てくると、キャロルとスパイスは慌てて扉の陰に隠れた。すれ違い様にバケットがチラリとキャロル達の方を見やり小声で呟いた。

「君達ホント邪魔だから、さっさと帰って」

バケットの冷たい視線と態度に、キャロルの中で何かが音を立てて切れた。

(ムカ、つく……)

何だ。この胸のモヤモヤは……無性にバケットのことが気に入らない。

(ムカつく、ムカつく、ムカつく!)

いや、彼が気に入らないのはいつもの事なのだが、何故か今日の態度はより一層癪に障る……!

「ねえさん、もう帰りましょうよ! バケットも、言ってることだし……げっ」

振り向いたキャロルの顔が悪い笑みをたたえていて、スパイスは嫌な予感を覚える。

「スパイス、どうせならアイツの見合いの様子を覗いてやろうよ!」

女を口説くために歯の浮くような恥ずかしい台詞を吐いているバケットを、酒のつまみにでもして笑い飛ばしてやりたい。キャロルはそう考えたのだ。

「ええ?!やめた方が……ちょっと、ねえさん……!」

スパイスの忠告に全く耳を貸す気がないキャロルは、意気揚々とバケット達の後を追いかける。

「もー、しょうがないなぁ……」

スパイスはやれやれとため息をついた。



スクウォッシュ一家はフランセ邸の食堂で夕食を楽しんでいた。絶品の料理の数々に最高級のワイン、ピアニストによる音楽の演奏。全てが完璧に揃えられ、最上級のもてなしが施されている。

一方その頃。キャロルとスパイスは彼らの会話を盗み聞こうと食堂の屋根の上にいた。

「ここからじゃ、よく声が聞こえないですねぇ」とスパイスが言うと「もっと近くへ行こう」とキャロルが提案する。屋根を伝っていくと身を隠すのに丁度良いバルコニーが見える。

「あそこへ移るよ」

キャロルはロープの片方を屋根へ、もう片方をバルコニーの手すりへ引っ掛け、それを伝って滑り降りようとした。しかし――――。

(うわっ!)

ロープが手すりに上手く引っかかっていなかったためか、キャロルは屋根に宙吊りの状態になってしまう。

(あっちゃー……失敗した。もう一回立て直して――)

「……!?」

その時、キャロルは窓の方を見ていたバケットとばっちり目が合ってしまった。

(しまったぁあぁああああ~!)

窓の外でブラブラとロープにぶら下がって揺れているキャロルの間抜けな姿を目撃したバケットは思わず吹き出しそうになって口を押さえる。

「フランセ殿?」

スクウォッシュ伯爵が怪訝な顔をする。スクウォッシュ一家からはキャロルは死角になっており、幸いにも気付かれていない。

「すみません、少しむせただけで……ご心配には及びません」

バケットはキャロルの方を見て、楽しそうにニコニコ笑っている。彼のことだ、どうせ「すご〜い!ゴリラが曲芸してる〜」とでも馬鹿にしているのだろう。今すぐぶん殴ってやりたくなる衝動に駆られながらも、キャロルは何とかロープを伝ってバルコニーに飛び移ることに成功した。


「本当に美味しいお料理でしたわ」

伯爵夫人は満足気にナプキンで口を拭った。

「お気に召して頂けて良かったです。本日の料理は私の行きつけのレストランのシェフにお願いしたのですよ」

「まあ!私も今度行ってみようかしら!」

「ええ、是非」

一通り食事を終え、和やかな雰囲気の中。ミナミだけは一言も話さず、浮かない表情をしていた。

「ミナミ……?」

「はっ、はいっ!」

不意に夫人に呼びかけられたミナミは声が上擦ってしまう。

「すみません、この子緊張しているみたいで……」

「いいんですよ」

夫人が断るとバケットはにこやかに笑ってそれを了承する。

「ミナミさんは何かご趣味はありますか?」

バケットはミナミの気持ちを落ち着けるように優しい声で話しかける。

「あっ、その……、歴史書を読むのが好きです……」

「歴史書ですか。どんな本を読まれるんですか?」

「じ、人鬼大戦の……」

「人鬼大戦 三国記録?」

「そうです!ご存知なんですか!?」

バケットの返した言葉にミナミは勢いよく食いつき、キラキラと目を輝かせる。

(流石。そういうとこは外さないわよね……)

キャロルは感心する一方で、呆れたような気持ちになって苦笑いを零す。バケットは人に話を合わせるのが上手い。もちろん知識量も伴っての事だが、この会話術で数々の女性を手玉に取ってきたのだろう。

ガタッ!

突如、ミナミが椅子から立ちあがる。

「わ、私、歴史書の中であの本が一番好きなのです……!あれほど事細かに大戦の詳細が記録されているのはあの書物だけです!!革命家百田ロウの部下であった兵士が記したものらしいのですが、謎に包まれた最強の戦士、鬼斬の話がとても興味深くて、特に!342ページの彼が戦場料理人として活躍した話や、589ページの雪山の要塞を単独突破した話が大好きで、私……!!」

ミナミは身を乗り出し、本について熱く語りだした。

(滅茶苦茶ペラペラ喋りだした――!?)

ミナミの急上昇したテンションにキャロルとスパイスは吹き出しそうになる。

「こ、こら、ミナミ、はしたないぞ!」

伯爵がミナミを注意する。

「ふふ、ミナミさんは本当に歴史がお好きなのですね」

バケットはそう言って穏やかに微笑む。

「は!すみません私ったら!好きな話になるとすぐに興奮してしまって……お恥ずかしいです……!」

ミナミはしゅんとなって椅子に腰を下ろす。

「いえ、僕も歴史書を読むのは好きです。歴史上の人物でいうのなら鬼斬は好感が持てますね」

「まあっ!私も鬼斬が一番好きです!フランセ様は鬼斬のどのようなところがお好きなのですか?」

「引き際……ですかね」

「引き際、ですか??」

ミナミは不思議そうに首を傾げる。

「はい。戦後、人類解放軍の上階層にいた方々は尽く政治家に転身されました。しかし、彼らの多くは過去の栄光に縋り、悪戯に権力を振りかざすばかり……。一方で鬼斬は革命の功労者であったにも関わらず、権力にしがみつくことなく、人知れず表舞台から姿を消したのです」

「…………」

「真に民衆のために尽くす英雄、そのような生き方ができたら、恰好良いと思いませんか?」

バケットの言葉にミナミは目をパチパチと瞬かせる。

「素晴らしい……そのような視点でお話をされる方は初めてです……!フランセ様は鬼斬のことを尊敬しているんですね!」

「ええ、まあ」

バケットはにこりと笑顔を浮かべる。一方でキャロルはフンと鼻を鳴らす。

(嘘つけ、アンタに尊敬する人間なんていない。要するにアンタは私達を虐げてきたヤツらが憎いってことでしょう)

バケットは自らの目的のためなら簡単に人を切り捨てることができる非情な人間だ。彼がまっとうな理由で人を尊敬しているとは思えなかった。

「中々会話も弾んで、いい雰囲気じゃないか」

スクウォッシュ伯爵夫妻はバケットとミナミのやりとりをにこやかに見守っていた。

「ねえ、あなた。折角ですし2人きりにして差し上げませんこと?」

「そうだなあ」

夫妻は2人で内緒話をすると、バケットの方を向き直る。

「フランセ殿、お庭を拝見しても?」

「ええ、もちろんです。ソルト、ご案内して差し上げて」

「はい」

バケットに命じられ、ソルトが夫妻を庭へと誘導する。

(ちょ、お父様お母様――!この悪魔と2人きりにさせるとロクな事になりませんよ!!)

キャロルは心の中でそう叫ぶがその声は届かない。

「娘さん想いの良いご両親ですね」

「ええ、ちょっと過保護過ぎるのは困りものですけれどね………」

ミナミはそう言って寂しげに目を伏せる。

「私はもっと深く歴史を学びたいのですが……皆口を揃えて、女性は年頃になれば、家庭に入るものだと言うばかり……あっ」

ミナミは口を噤み、

「いけませんね、父も母も私のことを案じてくれているのに……こんなことを言って」

と、ぎこちない笑みを浮かべる。

「良いじゃないですか」

「え?」

「夢を持つことはとても素敵な事だと思います。僕はミナミさんのそういうところ、好きですよ」

(く、口説きモード入った――――!)

バケットはミナミとの距離を一気に詰めにかかっていた。キャロルとスパイスは2人の様子をハラハラしながら見守る。

「ミナミさんの愛する歴史の偉人達も夢を持ち、その実現を目指したからこそ偉業を成し遂げられた筈です」

「!」

「夢は人を動かす原動力になる、僕はそう思います」

(金で人を動かすアンタがよく言うわ――!)

本心とは裏腹の言葉に、キャロルはツッコミを入れずにはいられない。

「フランセ様も夢をお持ちなのですか?」

「ええ、僕にも叶えたい夢があります。僕達似た者同士かもしれませんね」

(アンタのおどろおどろしい野望とお嬢様の純粋な夢を一緒にするんじゃない)

キャロルは間を開けずツッコミを入れる。彼を動かすものは、夢と呼べるような綺麗なものでは無い。虐げられた者が持つ、憤り、嫉み、憎しみなどの、もっと汚くどす黒い感情から生まれるものだ。

「…………ありがとう、フランセ様。フランセ様はとても真っ直ぐな心をお持ちなのですね」

(お嬢様、騙されないで――!ソイツの根性はひねくれまくって、心も真っ黒です――!)

そんなキャロルの心の中での訴えは、もちろんミナミには聞こえない。

「ミナミさん、たった一度きりの人生なんですから……自分に嘘をつかず正直に生きた方がいい」

(この世の嘘を全て背負ったようなヤツが何言ってやがる――)

白々しい態度のバケットに、キャロルの心の中のツッコミは止まらない。

「…………フランセ様」

バケットの言葉を聞いたミナミの目がウルウルと潤み始める。

(おお……?)

「…………フランセ様、私……っ!」

(…………!)

ミナミの反応にキャロルは確信した。バケットの作戦が功を奏し、彼女の心が明らかに揺らいでいるように見える。

(これは……確実に効いている……)

ごくりとキャロルは生唾を飲んだ。

「私……貴方様にお会い出来て良かった……」

ミナミは立ち上がり、バケットの手をガッチリと握った。2人はそうしてしばらく見つめ合う。

「……」

すっかり良い雰囲気になっている2人を見て、キャロルは何故か胸がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。

(このまま、バケットは彼女と―――? )

そして、ミナミは口を開く。

「私、貴方様のおかげで勇気が湧いてきました!お父様とお母様に大学に行きたいという私の正直な気持ちをきちんとお話してみようと思いますわ……!」

彼女は迷いを振り払い、ハツラツとした表情でそう言い放った。

(えっ……?)

(え??)

予期せぬミナミの発言に、キャロルとスパイスは唖然としている。大学に行きたい……それはつまり―――。

「姉さん……もしかしてこれ……バケット、フラれました??」

スパイスがわなわなとキャロルに耳打ちする。

「……そうみたいだねぇ♪」

キャロルはご機嫌そうにニッと笑った。


「お母様、お父様、ごめんなさい!」

食堂に戻ってきた両親に、ミナミは頭を下げた。

「私、本当は大学に入って歴史学の勉強がしたいのです!だから、まだ結婚は考えられませんの!!」

「みっ、ミナミ……!?」

ミナミの告白に、伯爵夫妻は心底驚いている様子だ。

「伯爵、私からもお願いします」

「フランセ殿……」

「どうか彼女の願いを叶えてあげてください。彼女は若いのに自分の意志をしっかり持っていらっしゃる。芯の強い素敵な女性だと思います」

バケットはそう言ってミナミの背中を後押しした。



結局、フランセとミナミの縁談の話は白紙になり、スクウォッシュ伯爵夫妻はバケットに申し訳ないと謝りつつ、フランセ邸を後にした。

「良かったの?縁談の話、ナシになっちゃって」

自室に戻ってきたバケットにキャロルは問いかけた。

「予定通りだよ。伯爵に良い印象を抱かせたまま、円滑に縁談を断るにはどうするのがベストかって考えていたからね」

バケットは何でもない事のように、いつもの軽い調子で答える。

「ふ、ふーん……」

(なーんだ、元々断るつもりだったのか……)

バケットの言葉に少し安堵した自分に気が付き、キャロルはドキリとする。

(何ホッとしてるんだ私。こいつが誰と見合いをしようと関係ないのに……)

「それで?」

「!」

バケットに顔を近づけられて、不意をつかれたキャロルは赤面する。

「君は終わるまで、僕を待っていてくれたのかな?」

「はあっ!?そんなんじゃないわよッ!」

キャロルがムキになって言い返すと、それを見たバケットは可笑しそうに笑う。そのまま彼はくるりと身を翻し、部屋の奥へ向かうとクローゼットを開いた。

「私はアンタが見合いなんて言うから、からかってやろうと思っただけで!…………ちょっと!聞いてる?!」

キャロルが話をしている間に、バケットはジャケットを脱ぎ、着替え始める。

「飲みに行くよね?」

いつもの洋装に着替え終えてクローゼットを閉めたバケットは、そう言ってキャロルの方を振り向いた。

「……」

キャロルは目を据わらせ、物言いたげな表情をしていたが、ただ一言、「…………行く」と短く返事をした。



社長室で仕事に勤しんでいたバケットは、青年がひょっこりと扉から顔を出したのを見て、あからさまに眉を寄せた。

「よー、フランセ。元気にしとったー?」

「えー……、何か用……?」

「何やねん、その嫌そうな反応。相変わらず愛想無いやっちゃなぁ」

背の高い細身の男―――ズキーニはスティックス商会の連絡係だ。誰の味方という訳でもなく、ただ強い側につく風見鶏、のらりくらりと生きているように見えてしたたかに自分を生かす道を探している計算高い男だ。

「うちのボスから伝言や。ミックレイスの開発者、ケイ・シバヅが失踪した。直前に妙な男達が商会管轄下の研究所を嗅ぎ回っとったっていう話や。ひょっとしたら、お前が関わっとることも漏れとるかもしれへんぞ」

「ふぅーん、そう。気をつけることに越した事はないね。ありがとう、近いうちにまた店に顔出すよ」

バケットは特に慌てる様子もなく、興味なさ気にズキーニの話を聞いている。

「ま、バーニャ・カウダ社が倒れたら、スティックス商会も共倒れやからなァ。

ほんま悪いやっちゃで、ボスのこと誑かしていつの間にかズブズブやもんなぁ?」

「人聞きが悪いなあ。懇意にして頂いているだけだよ」

柔らかい笑みをたたえたバケットに、白々しいわぁとズキーニが苦笑する。話を終えたズキーニはバケットに背を向けようとして、あ。と振り返る。

「そうや。お前がいつも使っとるうちのバーのVIPルームやけどな」

「ん?」

「据え置きのライター壊したんお前?」

「あ、それ?うちの連れ」

「やっぱりかお前!出禁にすんぞ!」

悪びれもせずさらりと答えたバケットにズキーニが激昂する。

「僕じゃないってば。僕の連れのゴリラがついカッとなって何でも壊しちゃうんだよ」

「いや、なんやねん、そのゴリラ……どんな猛獣連れ込んでくれとんねん……」

バケットの発言にやや混乱気味のズキーニは悩まし気に頭を押さえる。

「てか、ここ1年くらい頻繁に連れてくる女の子らも誰やねん!色男が3人も女子連れ込んでやらしぃわ~、うちそんな店ちゃうねんけど?!」

「そういうのじゃないって、ただの幼なじみだよ」

「ただの幼なじみな訳あるかい。せやったら一体、毎月何回同窓会やんねん!」

うらやま……けしからん……とズキーニは口の中でもごもご言っている。

「まあ、お前のすること、とやかく言わへんけど、女遊びは程々にな。そろそろ恨まれて刺されるで?天下のバーニャ・カウダ社長の死因が痴情のもつれとか洒落にならんし……」

「ははっ、何それウケるw」

「何わろとんねん……忠告はしたからな?」

ケラケラと笑うバケットを見て、呆れたような顔をしたズキーニは、片手をひらひらと振りながら部屋を出て行った。

「さて……話の途中で余計な邪魔が入ったね。出てきていいよ」

バケットがそう言って促すと、クローゼットの扉がキィと音を立てて開き、キャロルとスパイスが姿を現した。

「誰がゴリラよ」

「自覚あるじゃないか」

「うっさい」

バケットが、ふふ。と笑うと、キャロルはムスっとしかめ面をする。

「そういう訳で、君達にはケイ・シバヅ氏の行方を探って欲しい。成るべく商会よりも早くね」



 雪のちらつく夜。ベージュのコートを羽織って深めに帽子をかぶった軍人がとある洋食店を訪れた。

「……久しぶりだな、鬼斬」

軍人はカウンターに腰かけ、厨房にいる小柄な男性に話しかける。雪の中を歩いてきたのだろう、軍人の肩の辺りに薄っすらと雪が積もっていた。

「お前は……」

鬼斬は武骨なその顔を見て緊張を覚え、すっと目を細めた。


「ケイ・シバヅ……?」

金髪の男は厨房の片づけをしながら軍人の話を聞いていた。

「ああ、バーニャ島に住む町医者だ。彼には国家反逆罪の容疑がかけられている。実は1週間前、バーニャ島で違法薬物の捜査を行っていた部下2名が密会している男達を取調べようとしてケイ・シバヅに返り討ちにあった。報告によれば、奴は鬼を3匹従えて向かってきたそうだ……」

「鬼を従える、人間……」

「何をする気かその目的は俺達にも分からない。ただ奴が良くないことを企んでいるのは確かだ。報酬は払う。お前にケイ・シバヅの捕縛に協力してもらいたい」

「……」

 軍人はそう言って、ケイ・シバヅの写真を懐から取り出した。



バーニャ島のマーケット裏手にある高級中華料理屋には2人の男の姿があった。1人はメガネをかけ、上物のスーツを着た聡明そうな男。もう1人はレザージャケットを羽織った体格の良い男だ。メガネの男が女性の店員に耳打ちをすると彼女は頷き、店の奥まで彼らを案内した。

紺色の天蓋に包まれた薄暗い個室に入っていくと、円形のテーブルについて待つ白髪交じりで小太りの中年男性、ケイ・シバヅの姿があった。シバヅは警戒をしているようで、男達を品定めするようにジロジロと見ている。

「ここまで後をつけられなかっただろうな」

メガネの男はシバヅの警戒を解こうとにっこりと愛想よく笑う。

「もちろん……会えて嬉しいですよ、ドクター。決心はつきましたか?」

「ああ。スティックス商会はミックレイスの技術をもって、富を得ることしか考えていない……私はもっと自由な環境で研究がしたいのだ。それを叶えてくれるのであれば喜んで君達の仲間になろう」

シバヅは落ち着かない様子で、テーブルの上で指をしきりに動かしている。

「もちろんです。私達はドクターが研究にだけ集中できる環境を用意しますよ」

メガネの男は余裕たっぷりに言ってのける。

「それでドクター、マスターデータの在り処はどこなのです?」

「悪いがまだ君達を完全に信頼したわけじゃない。私の身の安全が確保されるまでそいつの在り処を明かすことはできないよ」

「ふむ、まあいいでしょう」

シバヅの言葉にメガネの男の顔が少し曇るが、笑顔は崩してはいない。

「可能なら私の研究所からいくつか検体を持ち出したい。きっと君たちの求めるものもそこにある」

「なるほど……」

シバヅが含みを持たせて言うと、メガネの男の目が鋭く光った。

「商会も政府も血眼になってあなたを探している。長居すれば隠れ家を特定されやすくなりますから、決行するのは早い方がいいでしょうね。丁度2日後に式典行事がある。周辺の警備が薄くなるのでその日を狙いましょう」

「上手く行くのかね?」

シバヅは不安そうに聞き返す。

「安心してください。私達には協力者がいる、必ず成功させてみせますよ」

メガネの男はそう言ってニヤリと不敵に笑った。しかし、彼らは気が付いていなかった。女性店員に扮したスパイがこっそり彼らの話を盗み聞きしていたことに―――。



キャロルとスパイスは人通りの少ない路地でバケットと落ち合って、状況を報告し合っていた。

「……つまり、シバヅは海外逃亡を企てていて、それを手引きしている勢力がいるという事だね」

「はい。施設内の資料や式典時の警備体制まで把握されていました。やっぱり商会内に裏切り者がいる可能性が高いですねえ」

そう言って、スパイスは密会をしていた男達の似顔絵を描いた紙をバケットに渡す。

「どうでもいいけど君、絵が上手すぎるね……。ソルト、この似顔絵調査部に回しておいて」

「はい」

バケットから流れるように似顔絵を受け取ったソルトは、それを見て不可思議なものを見たような顔をした。

「商会の裏切り者が誰なのかはこちらで怪しい人物を調べておくよ。シバヅに関しては、待っていてもいずれ研究所に戻ってくる。それまでは泳がせておいて問題ないだろう」

「あのさ、ちょっと聞いていい?」

それまで黙って話を聞いていたキャロルが口を挟む。

「ん?」

「今更だけど、このミックレイスっていうのはどういう技術……」

「……社長、お時間です」

ソルトが遮るようにバケットに耳打ちする。

「ごめん、話はまた今度ね」

バケットはキャロルの手を口元に引き寄せ、にこりと上品に笑う。

「ちょ……」

「それではお嬢さん、また今度お食事でもご一緒させてください」

それは今こちらに歩いてきた男性にナンパ現場だったように見せかけるためのカモフラージュ――という名目のキャロルへの嫌がらせだったのだろう。バケットはキャロルの手の甲にそっとキスを落として……そして、すぐにハンカチで口を拭いた。拭くくらいならやるなとツッコミを入れたかったが、今目の前で起こった事象が衝撃的すぎて、キャロルはバケット達の姿が見えなくなるまでその場でしばらく固まっていた。

「うえぇっ……」

「ねえさんww」

数秒遅れてやってきたキャロルのリアクションにスパイスが吹き出す。バケットに他の女と同じような甘ったるい態度を向けられるなど、気持ちが悪くて吐き気がしそうだ。キャロルはバケットが消えて行った方を恨めしそうに睨みつけていた。



それから2日後。


バーニャ島は常日頃から賑やかな場所ではあるが、今日はより一層人が多かった。マーケットや商業施設は買い物客で溢れ返り、あちこちに吊り下げられた三角旗や提灯等の飾りが目につく。

「すごい人混みだな、今日は何かのお祭りかぁ?」

「こんな歴史的な日に立ち会えるとは運がいいね!今日はバーニャ島と大陸を繋ぐ橋が開通するんだ」

地元の商人が観光客にチラシを渡す。チラシにはフォイョ大橋開通記念セールという文字がデカデカと踊っている。

「ああ!今、ニュースで話題になっている世界で一番長い橋か!」

観光客は海に掛かる大きな人工物を見上げて、ほおと感嘆の声を漏らす。

白く巨大な吊り橋には、鋼鉄のワイヤーが扇のようにかかっており、H型の大きな2本の支柱がゲートのように口を広げている。

「キャアアアア!!」

途端、群衆から高い悲鳴のような声が上がり振り返ってみると、バーニャ・カウダ社のフランセ社長が車から降りてくるところだった。バーニャ・カウダ社は橋の建設に多額の出資をしているスポンサーである。フランセは橋の開通を記念する式典に参加するために現れたのだ。

「フランセ様!おめでとうございます!」

「おめでとうございます!フランセ様―!」

あちこちからフランセを祝福する声が上がる。

「フランセ社長、この度はおめでとうございます!」

「どうか一言だけ!」

「念願叶った今のお気持ちを聞かせて下さい!」

新聞記者達が我先にとフランセを取り囲んで質問を投げかける。進行方向に立ちふさがろうとする失礼な記者もいたが、フランセはにこやかな表情を崩すことはない。

「この橋が世界の流通を担うことを考えると、今からとてもワクワクしています。ここまで辿り着く事が出来たのは、ひとえに地元の皆様の応援のお陰です。

これからも末永くバーニャ・カウダ社をよろしくお願いします」

フランセの一挙手一投足にいちいち歓声が上がる。熱を帯びた異様な雰囲気が街を包み込んでいた。


夕刻。日が沈み始め、辺りが薄暗くなってきても、まだまだお祭は終わらない。

街では人々が酒に酔いしれ、歌ったり踊ったりのドンチャン騒ぎだ。フィナーレには橋のライトアップと3万発の花火が予定されており、港の周辺にはますます人が集まり始めていた。

時を同じくしてキャロルとスパイスは、バーニャ・カウダ社が所有するホテルの最上階にあるバーを貸し切って、ケイ・シバヅの隠れ家を見張っていた。

建物の立地はもちろんだが、全面がガラス張りの窓になっており、外の景色を一望できるので見張りにはうってつけの場所だ。しかし、朝からこうして見張っているにも関わらず、夕刻になっても中々ターゲットが動く気配は見られない。流石に緊張感を保っていられず、2人はすっかりだらけてしまっていた。

「あんなに大きいものが、ホントに建っちゃうんですもんねぇ……」

「……うん……」

「楽しそうだなあ……お祭り行きたかったなあ……」

「……うん……」

下には祭を楽しむ群衆がいて。目の前には酒があって―――何の拷問なのだ、これは。

「何だってこんな日に……」

スパイスは双眼鏡を覗き込みながら、ため息を漏らし、キャロルも気が抜けたような返事を繰り返す。


「阿呆面2人組」


声に驚いて振り返ると、バケットが小馬鹿にしたような笑みを浮かべて立っている。だから、アンタは気配を消して後ろに立つんじゃない。

「うるさいなあ……」

(今朝方までの聖人君子様は一体何処へ行ったんだ、詐欺野郎……)

キャロルはチッと舌打ちをする。

「まだ動かないみたいだね」

「まーね」

バケットはキャロルの座っているカウンター席の右隣に腰かけ、彼に続いて店内へ入って来たソルトがその傍らに控えるように立つ。

「主役が抜け出して、こんなトコに来て良かったの?」

「一通り挨拶は終えてきたからね。今は皆、用意された催し物に夢中だよ」

そうこう話しているうちに、夕日が完全に水平線に吸い込まれてゆき、ついに橋のライトアップが始まった。夜の闇にくっきりと白い橋の巨大なシルエットが映し出される。間髪入れず空気を切る火薬の音が聞こえたかと思うと、橋を背景にして花火が彩るように大輪の華を咲かせた。ここからでは声は聞こえないが、人々の盛り上がりもピークに達していることだろう。

「ようやく、この島に船以外の移動手段が出来たのね……」

かつては牢獄のように思えたこの場所に、自由が生まれたのだと思うと感慨深い。キャロルは故郷の変わり様をしみじみと想った。

「まだまだ、これからもっと忙しくなるよ。ビジネスの拠点として特別行政区を作り、国内外の企業を誘致するんだ。これが成功すれば、ここが本当に世界の中心になる」

花火の作り出す幻想的な夜景と、バケットの話す魔法のような言葉が相まって眩暈がしそうだった。酔いしれるようにしばらく静かに花火を見ていると、ふと、バケットは今どんな気持ちなのだろうという疑問が、キャロルの心の中に浮かんだ。平然としている様に見えて、実は嬉しかったりするのだろうか、それとも―――。

キャロルはバケットの横顔をちらりと盗み見てハッとする。

(何それ、どういう気持ち……?)

花火の光の眩しさに細められた彼の目は余りに穏やかだった。見たことのない優しい表情にキャロルは思わず息を飲んだ。ふと、こちらに気づいたバケットと視線が混じり合う。キャロルは気恥ずかしくなったが、バケットが真っ直ぐにこちらを見ていて、射貫かれたように目を逸らすことができない。

バケットは、ふふ。と小さく笑った。

「楽しいでしょう? 世界が動いているのを間近で見るのは」

バケットに問われて我に返り、キャロルは顔を背けるようにして窓の外を見る。

「………そうね」

世界を変える、私達がその一端を担えているのなら。

「悪くない………」

「素直で宜しい」とバケットは満足そうに笑った。


「ああああああああー?!」

突如、スパイスが双眼鏡を手に、身を乗り出して叫ぶ。

「ちょ、どうしたスパイス……」

気が狂ったかと疑ったが、どうやらそうではないらしい。

「ねえさん!対象が隠れ家から出たみたいです!」

「ようやく動いたかっ!」

キャロルは待っていましたと言わんばかりに、椅子から勢いよく立ち上がる。

「厄介事は商会と政府の猟犬に押し付けていい。君達の役割はマスターデータが敵対組織の手に渡らないようにすること、だからね」

「ふん、分かってるさ!」

「任せといてくださいよ!」

バケットの警告に対して、キャロルは鼻を鳴らし、スパイスは意気込んで、バーから飛び出していった―――。


「わっ!」

「おっと、すまないね」

バーから出た瞬間、キャロルは黒いロングコートの身なりの綺麗な白髪交じりの初老の男性とぶつかりそうになる。

おかしい。今日はフランセの名義で貸切りにしているはずなのに。

(誰だ、さっきの……?)

キャロルは一瞬不可解に思ったが、今はケイ・シバヅを追いかけることが優先だと思い直して先を急ぐことにした。

「おじさん、こっち」

バケットはバーに現れた男をカウンターへ手招きする。

「おじさんは止めなさい、おじさんは……」

男――ペペローニはそう言って苦笑した。ペペローニはスティックス商会のボスで、この街の影の支配者として恐れられている人物だ。バケットがスティックス商会の構成員として裏稼業に関わっていた時期から、ペペローニはバケットに目をかけてきた。バーニャ・カウダ社の設立も、ペペローニの後ろ盾を得て成し遂げられた経緯があり、バケットにとってはパトロンであり、親同然の存在でもあると言える。

「しかし……橋の開通日を狙うとはなあ」

ペペローニはバケットの隣の席に座って窓の外を見る。

「今日は島中お祭り騒ぎですからね。市街地は警備が手薄になるし、人混みにも紛れ込みやすい。仕掛けるには絶好のタイミングですよ」

「折角の祝いの日に水を指すようで悪いな」

「いいえ」

ペペローニの言葉に、バケットは薄く唇に笑みを浮かべる。

「政府からも刺客が送りこまれたそうで、このまま高みの見物と行かせてもらいたいものです」

そう言って、街を見下ろしたバケットの目には何の感情も浮かんでいなかった。



パァン!

パァン パァン!


花火の音に紛れるようにして、銃声が鳴り響く。ここは市内の中心部に位置する生物研究所だ。研究所は内部が見えないように5Mの高さのレンガの壁で囲まれており、広い敷地内にはいくつかの棟に分かれて建物が立っている。この研究所では今、まさに商会員と襲撃犯による激しい銃撃戦が繰り広げられていた。全身を黒い戦闘服に身を包んだ戦闘員を含む12名の襲撃犯は、花火の打ち上げ開始と同時に研究所の正門を奇襲した。対する商会の警備部隊は40名。襲撃に備えて非戦闘員は退避済み、警備の人員を増強し、厳戒態勢で望んでいたにも関わらず、商会側は劣勢を強いられている。

「おいおい、聞いていた話と違うぞ……っ!」

「強すぎる……コイツら絶対ヤバイって……!」

商会員2人はレンガの壁に隠れて銃撃をやり過ごしていた。実力も、武器の装備も桁違い。明らかに襲撃犯は戦闘に慣れた精鋭の部隊だった。銃撃が止み、襲撃犯側に一瞬の隙が生まれる。

「今だ、応援呼んでこい!」

パァン

「うわあっ」

しかし、飛び出した商会員の男は一斉に銃撃を受けて、倒れてしまう。

「くっそお!」

商会員の男が身動きを取れず、壁際に隠れていると、足元にコロコロと何かが転がってくる。

「しゅ、手榴弾……!」

ドォン!

爆発音とともに煙が上がる。戦いが始まってから、ものの十数分で辺りは静かになった。戦闘員達は、商会側の生存者がいないことを確認する。

「正門付近オールクリア」

部下の報告を聞いた隊長らしき男は頷き、隊員達に指示を下す。

「数人逃がしたな……応援を連れて来る可能性が高い。A部隊は正門で待機し、敵を迎え撃て。B部隊は予定通り、シバヅ殿を護衛しつつ、南棟で対象物を回収せよ」

「はっ」

隊員達は敬礼をし、素早く自分の配置につく。

「シバヅ殿、参りましょう」

「ああ」

シバヅは彼らに促され、6名の護衛と共に施設の奥へ向かった。



「ボス!」

黒服を身に纏った強面の黒髪の男が慌てた様子でバケットのいるホテルの最上階のバーに現れる。

「ご歓談中、申し訳ございません。急を要する事態があり……」

この男はカブラ。スティックス商会の幹部、警備隊長を務めるペペローニ直属の部下だ。忠誠心は強いが頭の固い頑固者で融通が利かない所がある。

「構わん、報告しろ」

ペペローニはカブラを向き直り、足を組み直した。

「はい。例の海外勢力が生物研究所を襲撃し、正門を守っていた部隊が壊滅……侵入者多数の模様です」

「ほう……警備部隊では歯が立たなかったか。相手は相当訓練を受けた人間ようだ」

カブラの報告を聞き、ペペローニの目が鋭く細められる。彼らの深刻そうな様子を見て、バケットが可笑しそうに笑った。

「商会の皆様方は久しく敵対勢力が居なかったせいで平和ボケされてしまったのでは?」

カブラは額に青筋を立て「……糞餓鬼」と小さな声で呟く。

「こらこら、冗談を言っている場合ではないぞ、バケット」

ペペローニは子供をあやすような口調で言う。

「おそらく非合法組織の類ではありません。外国軍の特殊部隊の可能性も……」

カブラの見解にペペローニはどうしたものかと顎髭を撫でた。

「全く、とんでもない相手に目をつけられてしまったものだな」

マフィアと言っても所詮はチンピラの集まり、プロの戦闘員の相手は荷が重いだろう。

「敵方には施設の構造も熟知されているようですし、このままですと制圧されてしまいます……いかが、なされますか?」

「領地内で好き勝手されるのは面白くはない……が、かといって最終手段を取りたくはないなあ」

カブラはバケットの方をちらりと見て、フンと笑みをこぼした。

「出し惜しみを……いるではないですか、この状況を打破できる切り札が」

「……ふ」

バケットが刺すように冷たい視線を送りながら薄笑うと、カブラが「うっ」と息を飲む。

「うちの広告塔を汚れ仕事に使うのは気が引けるが……フランセ」

「ふふ。一つ、貸しですよ」

ペペローニに促され、バケットはにっこりと笑って承諾する。

「海外勢力の侵入を許し、シバヅを逃がしたのは商会の落ち度だ。できる限り条件は呑もう」

「そのお言葉お忘れなく……ソルト」

「はい」

ソルトはバーカウンターの裏に設置されている隠し金庫を開くと、黒い箱を取り出してバケットの前に持ってくる。箱を開くと中には、45口径の回転式拳銃が収められていた。バケットはレバーを引いて銃の装填数を確かめる。立場上、こういう役割からはいい加減足を洗いたいものだが、商会との繋がりが切れない以上は仕方がない。それにペペローニに貸しを作っておくのも悪くないだろう。

(さて、何を条件にしよう―――ああ、そうだ。まずは無能な商会員を数人ばかり消してもらわないと)

「久しぶりだな。お前がそれを使うのは」

ペペローニがしみじみと言う。かつて、スティックス商会に所属していたバケットが圧倒的に任されることが多かった仕事は、薬の運び屋でも、人身売買でもない――――暗殺だった。



喧騒から離れた場所に、市街を風のように駆け抜ける小柄な金髪の男の姿があった。彼は政府の命でバーニャ島に派遣された捜査官である。彼の任務は国家反逆の罪に問われているケイ・シバヅを捕らえる事である。銃声を聞きつけた捜査官は、辿り着いたその先で大きな建物の塀に突き当たっていた。

「ここか……」

外観から想像するに何かの工場か、研究施設のようだ。隣接する建物を利用して壁伝いに塀を駆け上がり、建物の敷地内に降り立つと、すぐに目に飛び込んできたのは、全身黒ずくめの戦闘服を身につけた怪しい男達の姿だった。

「誰だ!」

彼らは捜査官の侵入に気がつくと一斉に銃を向けてくる。

パァン

1人の戦闘員によって引き金が引かれる。捜査官は咄嗟に戦闘員目掛けてスライディングをして銃弾を避けると、すれ違いざまに懐から刀を抜き、男の腹に強烈な打撃を食らわした。そのまま間発入れずに、近くの戦闘員の銃を叩き落とし、そのまま突き上げるように顎に一撃を食らわせる。あっという間に2人の戦闘員が倒されたのを見て、それを近くで見ていた中年男性が悲鳴をあげる。

「ひ、ひいっ!!」

声の方を振り返るとそこにはケイ・シバヅの姿があり、捜査官は目を見張った。

「お前は……」

捜査官は急いでシバヅの後を追いかける。そうして行き着いたのは施設の中でもひときわ大きな建物だった。窓が付いておらず、外からの光や音は一切遮断されているようだ。

(何だ、ここは……)

正面の扉を開けて中に入ると、そこには下駄箱とロッカールームがあり、エアシャワールームに続いている。さらに奥に進むと大きな丸いハンドルの付いた重々しい鉄の扉があった。扉の前に立ち、中で妙な気配が蠢いているのを感じ取った捜査官はブルリ、と身震いをする。意を決して扉を開くと思わぬ光景が彼の目に飛び込んできた。

フロアを埋め尽くさんばかりの培養液のカプセル、その中には沢山の鬼の姿―――――。

生きたままの鬼がチューブに繋がれており、大人の個体から、子供の個体まで揃っている。

「これが、シバヅの、研究……?」

捜査官は衝撃を受け、わなわなと身震いをする。

「まさかここで、人工的に鬼を作っているのか……!?」

 かつて世界中の人間を食らい尽くし、人類を破滅の寸前まで追い込んだ恐ろしい魔獣の脅威は今もまだ記憶に新しい。その鬼を利用してシバヅは一体何をしようとしているのだろうか。もし、これが世に放たれればどれだけの被害が生まれるのだろうかと想像すると彼は体の震えが止まらなかった。

「見られてしまっては仕方がないね」

男の声が部屋の中に響く。見るとシバヅが吹き抜けとなっている2階部分からこちらを見下ろしていた。

「政府が寄越した刺客というのは君かね」

「シバヅ、お前は何故こんな事を……国家転覆でも企んでいるのか?」

捜査官はシバヅを睨みつけ糾弾する。

「人聞きが悪いなあ。僕は人類を救うために研究をしているだけだよ」

シバヅは飄々とした態度でそう言ってのける。

「人類を、救う……?」

全く状況に適しているとは思えない言葉に捜査官は怪訝な表情を浮かべる。

「このバーニャ島には戦後、禁忌として葬られたはずの研究物が流れついてくる……知っているかね、鬼の体は人体に非常に酷似しているんだ。しかし、人々の鬼に対するアレルギー反応は異常だ。鬼を恐れるあまり、鬼についての研究の一切を禁止している。鬼のもつ力は凄まじい可能性を秘めているというのに……」

シバヅはそう言って悲嘆する。

「自分の研究欲を満たすために、世界を危険に晒す通りがあって良いはずがない!」

捜査官は感情をあらわにしてシバヅを怒鳴りつける。

「危険などないさ。私のミックレイスの理論は完璧なのだから!」

シバヅは手を広げ、自信に満ちた表情を浮かべる。

「ミックレイス……?」

捜査官は聞きなれない言葉に疑問を浮かべる。

「鬼の体の一部を人体に組み込んで、飛躍的に身体能力を高める医療技術……それがミックレイスだ」

「何だと……!?」

「これらは正確には鬼ではない。遺伝子を組み換え、食人衝動を抑えることに成功した生体。あくまで医療用に作られたパーツさ。鬼の臓器は人のものより丈夫で、移植の際に拒絶反応もなく馴染みやすい……」

シバヅが徐に本棚にあるファイルを手に取って広げてみせると、そこには幼い子供達の写真があった。

「見たまえ。彼らは通常の手術では助からない末期患者だった……だが、ミックレイスによって体のパーツを交換し、命を救われたのだ」

シバヅは微笑み、慈愛に満ちた表情を浮かべた。

「これまでの医術では救うことの出来なかった数々の命も、ミックレイスならば、救う事ができる。私は研究を続け、もっと多くの命を救わなければならない」

シバヅはそう言って両手の拳を握り閉める。彼からは自分の正義を信じて疑わない強い意志が感じられた。

「海外には私の手術を待っている患者達もいる。今、私を捕まえることは助かる可能性のあった命を見捨てることだぞ、その覚悟が君にあるのか!?」

「っ……どんな理屈を並べようが……お前は、犯罪者だ!」

シバヅの言葉には捜査官は怯まず刀を構えた。

「分かり合えないか……悲しいよ」

シバヅが壁についたレバーを引き下げると、1階部分にあった床の隠し扉がゆっくりと開かれ、中から鬼が何体も連なって出てきた。

「こいつらはミックレイスの副産物でね。お前達、相手をしてやりなさい」

シバヅは捜査官に背を向けると、2階の部屋の中へふっと姿を消した。

「ま、待て!」

鬼達はシバヅの言う事に従い、捜査官に真っ直ぐ向かって来る。彼らの目からは一切の感情を感じられず、まるで意思のない機械人形のようだった。


南棟、オフィスとなっている2階部分のデスクの下に――――シバヅの後をこっそりつけてきたキャロルとスパイスの姿があった。彼女らはシバヅと捜査官の会話を聞いてしまって顔色を青くしていた。

「ね、ねえさん……もしかして私達、とんでもないことに巻き込まれていません?」

「ミックレイスがあんな物騒なものだったなんてね……先に言えってんだ、あのヤロー……道理で大金が動くわけだよ!」

キャロルは忌々しそうに舌打ちする。デスクの下から這い出して1階の様子を見ると、波のように押し寄せる鬼達に押し出されるようにして、捜査官が建物の外へ逃げて行くのが見える。

「とりあえず、鬼はアイツに任せて私達はシバヅを追うよ!」

表の出入り口は鬼だらけで出られそうにない。しかし、シバヅが奥へ行ったということはそちらに出口があるはずだ。スパイスは頷き、キャロルの後について行こうとしたが、シバヅが落としていったファイルの写真が床にばら撒かれているのを見て足を止めた。

「ねえさん。待って……」

スパイスに呼び止められて振り向くと、その手には1枚の写真が握られている。

「こ、これ……どういうことです?」

「…………………は?」

スパイスに1枚の写真を手渡されて、キャロルは頭が真っ白になる。

「………何で………?」

彼女はそこに写っていたものに動揺し、傷ついたような表情をした。


「おやおや、こんな所にネズミがおったとはなあ」


キャロル達は男の声に身構える。シバヅが姿を消した部屋の中から出てきたのは見覚えのある人物だった。

「アンタ………確かズキーニでしたっけ」

「へえ……アンタが商会の裏切り者だったの」

キャロル達にさほど驚く様子はない。というのも事前にバケットから裏切り者である可能性の高い人物を聞かされていたからだ。

「早急に金が入用でなぁ。シバヅを引き渡す橋渡し役をやっただけや」

「なるほどねえ……情報係のアンタなら商会内部の情報を手に入れるのも容易い訳か。バケットの独自の命令で動いていた私達の存在は知らなかったみたいだけど」

ニヤっとキャロルは不敵に笑う。

「ホンマ、アンタらが情報流してくれたおかげで商会からは待ち伏せ食らうし、予定が狂ってもうたわ。もうちょっと穏便に済ませたかったんやけどなあ……」

ズキーニは肩をすくめて、困ったような表情を浮かべた。キャロルはズキーニが話し終えないうちに、隠し持っていた小型のピストルを腰から抜こうとするが……。

「おっと動くなや。アンタらはここに残るんや」

怪しい動きに気づいたズキーニが銃を向けてきて、キャロルはそっとピストルから手を離す。

「この研究施設には証拠隠滅のために爆弾が仕掛けてある……恨みはあらへんけど、交渉材料として人質になってもらうで」

「はあ?馬鹿じゃないの?私達みたいな下っ端が人質として使えると思ってんの?」

「ねえさん、普通、自分でそういうこと言わない……」

キャロルは小馬鹿にしたように鼻で笑ったが、自分の価値を貶めている発言をしていることには気が付いていない。

「商会にとっては人質にはならんやろ。けど、フランセ相手ならどうや」

「はあ?」

フランセの名前が出てきて、キャロルの表情が益々険しくなる。

「それこそ無駄ってもんよ。アイツはアタシ達の事、手駒としか思ってな―――」

ガチャン

キャロルが話している内に、ズキーニは部屋の外へ戻っていくと、扉の鍵を閉めてしまった。

「って、聞けやぁ!!」

人の話を最後まで聞かない失礼極まりない態度にキャロルは憤慨する。

「ねえさん!内側から扉がロックされてます!」

スパイスはこの扉を開けようと試みたが、鍵穴は扉の向こう側にあり、こじ開けるにしても力技では到開きそうにない程頑丈だ。

「あんにゃろ……こちとら何年脱出やってると思ってんだ……舐めんなよっ!」

ズキーニに小物に見られたことが腹立たしくなってキャロルは叫んだ。

「出口を探すよ!スパイス!」

「はいっ!」

キャロルの頼もしい姿に、スパイスも笑顔で返事をした。



(正門に3人。中庭に2人……あと、東棟の2階にも1人。全部で6人か……。内側の3人は死角になっていてここからじゃ狙えそうにないな)

バケットは向かいの建物の陰から、研究所の入り口の様子を確認していた。

彼の身に着けているものは、いつものビジネススーツとは異なり、フード付きの黒いジャンパーとコンバットパンツで身軽な装いだ。

報告によれば侵入者は12名とのことだが残る6名は見当たらない。おそらくマスターデータの回収へ向かったのだろう。

「やれやれ。僕、近距離戦は苦手なんだよねぇ」

フードを深くかぶり直し、バケットは正門に向かって歩いて行く。

街灯を避けて歩き、射程距離ぎりぎりまで近づいたところで腰のホルダーに手をかけ―――…。


パアン

「――?」

バケットが銃を抜いた瞬間には、正門の外で見張りをしていた3人が同時に倒れていた。照準器を完全に無視した早撃ちである。

「誰だ!」

門の内側にいた男達が銃声を聞いて駆けつける。彼らは暗闇の中にバケットの姿を見つけて、銃を構えようとしたがもう遅い。戦闘のプロが扱う自動式拳銃なら尚更、安全装置を解除するためにタイムラグが発生する。

パァン

寸分の狂いもない正確なヘッドショット。あまりに一瞬の出来事で、ほとんどの人間が彼をまともに認識できないまま地面に沈んだ。

「ちょっと、拝借」

バケットが地面に落ちたスナイパーライフルを拾い上げ、見向きもせずに上へ放つと

「おい、何か……」

バシュ

丁度、窓から顔を出した男に頭に見事に銃弾が命中した。

「正門、殲滅完了、と」

バケットは鼻歌を歌いながらライフルを肩にかけ、非常階段から東棟の屋上に登った。施設内をぐるりと見回すと、シバヅが正門に向かって走って逃げてくるのが見える。その近くにはキャロルとスパイスの姿は見当たらない。

「全く……あの子達は仕事サボってどこへ行っていることやら」

南棟の方に視線をずらした時、捜査官が鬼に囲まれて戦っているのを見つけてバケットは、ふふ、と可笑しそうに笑う。

(政府から派遣された捜査官というから誰かと思えば、有名人じゃないか……)

あれは人鬼戦争でいくつもの戦いを勝利に導いた最強の戦士の1人だ。鬼と戦う可能性があることを加味して、その道のプロに依頼をしたという所だろう。

バケットはスナイパーライフルを立て掛け、スコープを覗き込んだ。

「手こずってるなぁ」

1匹の鬼に狙いを定めて――――バケットはトリガーを引く。

「早くこっちにおいでよ。鬼斬さん」


鬼斬は刀を両手にかまえ、襲い来る鬼達を薙ぎ払っていた。回転するようにくるくると飛び回り、斬って、斬って、斬りまくる。何十体と倒しても、次から次へと湧き出てくる鬼に、彼の集中力も切れかかってきていた。向かって来る鬼を頭から二つに下ろしたその時。

ガキン

1本の刀が音を立てて折れる。

「く」

不味い、と思って体制を立て直そうとした瞬間―――パァン!と火薬の音が響き、目の前にいた鬼の頭が吹き飛ばされた。

「!」

突き抜けた銃弾が地面に埋まり、鬼斬は弾の飛んできた方向を振り向く。

「誰、だ?」

目を細めると人影らしきものが建物の屋上に見えるが、姿をはっきりととらえることが出来ない。いや、誰だかは分からないが味方をしてくれるのなら都合がいい。

(このまま突っ切る!)

鬼斬は向かってくる敵を斬り続け、スナイパーは鬼斬の間合いに入らない鬼を撃ち倒していく。武器を振るいながら、鬼斬は不思議な感覚に陥っていた。

(何だ、これ……)

まるで心を読まれているかのようにスナイパーが鬼斬の動きに合わせて援護してくれる。その内、鬼斬にも何処に弾が来るのか、スナイパーの意図が手に取るように分かってきた。スナイパーの攻撃の網を縫うように、流れる様な動きで鬼斬が斬り進んでいく。

(……戦いやすい……!)

数十体はいたであろう鬼が、あっという間に片付いていく。

最後の一匹を討ち倒した時、鬼斬はすぐにスナイパーを振り返ったが、そこにはすでに彼の姿はなかった。



「シバヅ殿、追手が来ます。急いで」

「はあ、はあ……」

鬼斬達を撒いた後、シバヅとその護衛役の戦闘員は研究所を出るために正門へと急いでいた。

(これさえ有れば……また、研究を続けられる……)

シバヅの腕の中には、南棟で回収した研究データの入った記録媒体が抱えられていた。

(ここで捕まる訳にはいかない……私を待っている患者達がいるんだ――!)

しかし、彼らが東棟の建物を通り過ぎた時だった。

パァン

「ひっ」

乾いた音と共に、シバヅの隣にいた護衛の男が倒れる。

「シバヅ先生、お久しぶりです」

何者かに声をかけられ、シバヅの心臓が跳ねる。建物の陰から姿を現したのはフードを被った黒服の男だった。

「国も商会も敵に回して、自分は国外逃亡とはいいご身分ですね」

フードを外してあらわになった顔を見てシバヅの顔が引きつる。

「ふ、フランセ……っ……」

シバヅは頭を下げ、手をすり合わせて必死に懇願した。

「見逃してくれ、この通りだ!私は研究が続けられればそれでいい……商会にもお前にも迷惑はかけない!……お前にはあの娘を助けてやった恩があるだろう!」

「何のことです?先生は随分と恩着せがましいですね」

バケットはシバヅの肩をぽんと叩き、顔を近づけると、

「僕は実験体を提供してあげただけです。お陰で貴重なデータがとれたでしょう?」

と嫌味たっぷりに笑った。

「政府はあなたの研究が国外へ流出することに対し、危機感を覚えています。もちろん、あの技術で大金を得ていた商会にとっても大変な損失です。あなたはもう十分、関わり過ぎてしまった。それなのに迷惑をかけないなんてどうして言えるんです?」

「う……」

シバヅは怯えた小動物のように震えあがっていた。額から首にかけて冷や汗が流れ落ち、息をごくと飲む音が聞こえる。

「そろそろですね」

バケットは、ぱっ、とシバヅの肩に置いていた手を離す。

「こ、殺さないのか……?」

「やだな、そんな物騒なことしませんよ。僕はこれが回収出来ればそれで良かったので」

そう答えたバケットの手には、シバヅが大事に抱えていたはずの、記憶媒体が握られていた。

「あ……」

「それでは失礼します、先生」

シバヅは唖然としたまま、バケットが正門の方へ消えて行くのを見送った。

「シバヅ!」

シバヅが自身を呼ぶ声に振り返ると、南棟の方から鬼斬が走ってくるのが見えた。

「っ………ここまでか……」

シバヅは観念して、その場にぺたりと座り込んでしまった。

(ヤツらに捕まるよりは幾分か、マシか……)

彼は両手を上げて抵抗の意志がない事を伝えた。



シバヅが連行されるのを横目に見ながら、バケットは研究所の近くの路地で迎えが来るのを待っていた。ふと、背後から人の気配がゆっくりと近づいてきているのに気づく。おおよそ予想はついているため、バケットは慌てる様子もなくその人を待ち受けた。

「まだ逃げてなかったの?」

気だるそうな視線を寄越すと、そこには拳銃を向けるズキーニがいた。

「フン、手ぶらで帰れるかい。ホンマはシバヅを連れて帰れれば良かったんやけど捕まってもうたもんは仕方ない。マスターデータと……お前の死体でもあればまだチャンスはある」

「僕に、勝てると思っているの?」

にこと冷笑を浮かべるバケットに、つられてズキーニも苦笑いをする。

「正直、お前と撃ち合いなんてやりとうない。けどなぁ、こっちも死に物狂いなんや」

ズキーニは胸ポケットから小さな機械を取り出した。

「これ何やと思う?」

「起爆装置のスイッチ、かな」

「ご名答、これは研究施設内に仕掛けてある爆弾のスイッチや。そして今南棟の中には誰が閉じ込められとると思う……?」

「キャロルとスパイスか」

バケットの唇から笑みが消えた瞬間、ズキーニは確信した。

「せや……このボタンを押せば、あの子らはどうなるか……分かるよなぁ?」

「…………」

「分かったら武器を寄越せ」

ズキーニの脅迫にバケットは押し黙り、大人しくリボルバーピストルを地面に置いた。

「はは!お前も丸くなったなぁ!覚えとるか?執着は弱みになるて、お前がよく言うてた事やで!」

勝ちを確信したズキーニは、緊張から解放された途端に饒舌になる。

「あの子……キャロルちゃんいうたか?よう一緒に店で飲みよったよなあ?初めて見たわ、お前のあんな楽しそうな顔……、アカンよ、あんなん、他の人に見せたら……あの子が大事やって、言っとるようなもんや」

「…………」

バケットは俯いたまま動こうとしない。

「何だかんだ、お前の事は気に入っとたから、殺すことになってもたんはホンマ残念やけどな……安心せい、苦しまへんように逝かせたるわ」

狙いを外さぬよう、ズキーニは銃をしっかりと両手で構え、バケットににじり寄る。だが……。

「あはっ」

顔を上げたバケットが可笑しそうに笑っているのを見て、ズキーニの顔が歪んだ。

パアン!

右腕を撃ち抜かれ、ズキーニは拳銃を地面に落とす。

「があっ……!」

バケットの手には掌で覆い隠せるサイズのデリンジャーが握られていた。

「は……うう……」

鮮血がぽたぽたとズキーニの腕を伝って落ちる。ズキーニは腕の痛みに顔をしかめながら、バケットの方を睨みつけた。

「お、お前……分かっとるんか?俺がスイッチを押したら爆発してまうんやぞ?」

「ふぅーん……いいよ、押してみれば?」

バケットはわざとらしく首をひねった。

「はあっ?お前の女が死んでもええって言うんか!」

「僕に着いてこられない人間は要らない……死んだらそこまでの人間だったということだよ。ちなみにあの脳筋は僕の女でもない」

「なあっ……」

バケットの冷たく突き放す物言いに、ズキーニは目を見開き言葉を失った。

「しかし……おめでたいね君は。人質をとって勝ったつもりだったの?」

「お前、正気か………脅しやないんやぞ……?」

「勿論。この程度の事で僕が揺らぐと思っていたのなら君は何もわかっていない。僕が他人の為に命を捨てるなんて殊勝な事をする筈がないじゃないか」

バケットはあざ笑うように言った。

「ぐ……っ」

ズキーニは今更ながら、バケットという人間を完全に見誤っていたことを後悔した。キャロルとスパイスと接する彼を見て、人間らしさを見つけたと思っていた。だが、この男は最初から人の情など持ち合わせていない悪魔だったのだ。

「ほら、さっさと押してみなよズキーニ……同時に脳天ぶち抜いてあげる」

バケットは甘く優しい声で囁く。暗く深い闇に飲み込まれるような恐怖に襲われ、ひゅ、とズキーニは喉を引きつらせる。

「くそっ、何なんや……何なんやお前はぁあっ!」

やけくそになったズキーニは勢いで爆弾のスイッチを押す。

ドォ―――ン!

爆発音によって銃声がかき消される。

窓ガラスが飛び散り、壁が吹き飛ぶ。炎は轟々と勢いよく燃え上がり、建物をあっという間に包み込んでしまう。ゆらゆらと炎が死体の影を揺らす中でバケットは小さくため息をついた。

「……君は彼女の事も見誤っているよ。生憎彼女、そんなに大人しい人間じゃないんでね」

と誰にも聞こえない声で静かに呟く。

(追い詰められても、最後まで足掻く諦めの悪さと、そうして生き残ってきた運の強さも含めて。僕が彼女を気に入っているのはそういうとこなんだ)

「やあ、元気そうだね?」

バケットが振り返って満面の笑みを向けると、不機嫌そうなキャロルと、疲れ切った様子のスパイスが立っていた。2人ともよく見るとビショビショに濡れている。

「アンタねぇ、私達が脱出できずに死んでたらどうするつもりだったのよ?」

「その時は無様な君達を思いっきり笑ってあげるよw」

「うわ……ウッザ…………」

キャロルは不愉快そうに顔を引きつらせる。南棟に閉じ込められた後、キャロルとスパイスは鬼達が出てきた地下扉を調べて見事、外へと繋がる水路を見つけ、そこから脱出を図っていたのだった。

「信じてたよ、君は僕の期待を裏切らない。もっと僕のこと楽しませてくれるでしょう?」

バケットが真っ直ぐにキャロルの目を見つめながら問うと、彼女は少し黙って、「はっ」と鼻で笑う。

「アンタを楽しませんのは癪だけど……協力するって決めたんだから。何処までも着いて行ってやるわよ」

「ふふ、そう来なくちゃね」

ギラギラとした目で睨み返してくるキャロルに、バケットは嬉しそうに笑った。丁度良いタイミングで黒い車が道路脇に停車する。ソルトがバケットを迎えに現れたのだった。

「お迎えに上がりました、社長」

「ありがとう、ソルト……というか君達臭いよ。さっさと風呂に入った方がいい」

「うっさい!」

キャロルが赤面するとバケットは「ふふっ」と可笑しそうに笑った。それから彼はソルトに何やら耳打ちし、車へ乗り込んだ。

「……」

「ねえさん〜、私達も疲れましたし帰りましょう?」

「うん……」

(隠し事ばっかり、少しは話してくれたっていいじゃない……)

少し離れた場所で、キャロルはその様子を複雑な思いで見つめていた。



一夜明けて、研究所の前に鬼斬の姿があった。

「……」

事の顛末に彼は複雑な表情を浮かべていた。研究所は不審火で全焼し、中から数十体の焼死体が発見された。何もかもが燃えてしまい、今となってはそこで行われていた研究の詳細も、その研究に誰が関わっていたかもわからなくなってしまった。シバヅはというと警察に引き渡され取り調べを受けているがずっと黙秘を続けているらしい。

(真相は闇の中か……)

 何にせよ、戦力としての自分に出来ることはもうないだろう。後は警察の取り調べと裁判所の判断に任せる他ない。鬼斬はそう考えてこの街を後にするのであった。


その頃、街の拘置所では――。

「出ろ。釈放だ」

「えっ?」

突如、警官にそう告げられたシバヅは目を白黒とさせる。

(どういうことだ?誰が保釈金を……?)

不審に思いながらも、警官に連れられて牢屋を出ていくが、案内された先にいた人物を見て、シバヅは「ひっ」と顔を引き攣らせた。

「身柄、引取りに来ましたよ。シバヅせんせ」

シバヅを待っていたのはスティックス商会のボス、ペペローニであった。

「な、何故アンタがここに……!」

シバヅはハッと口を覆う。

「まさか、政府と商会は繋がって……?」

「今更気づいても遅いですよ。政府のお偉い先生方もミックレイスがもたらす永遠の命の可能性に興味があるみたいでねえ。―――連れていけ」

ペペローニは顎で部下に命じる。

「嫌だ、やめてくれ!あそこには戻りたくない!」

商会員に両腕をがっちりと拘束され、シバヅは連行されていく。

「嫌だぁあああ!」

シバヅの悲痛な叫び声は誰にも届くことなく、闇の中へ飲まれていった。



「あー、ストップストップ」

シバヅを部下に任せて、自宅へ戻ろうとしていたペペローニは、街中でとある人物を発見し、部下に車を止めさせた。

「やあ。お嬢さん達、お食事でもどうかな?」

 ペペローニが車の窓を開けて軽い口調で話しかけると、キャロルとスパイスは警戒して眉をひそめた。


キャロル達はペペローニによって半ば強制的に高級料亭に連れていかれた。装飾された煌びやかな内装、窓の外には美しい庭園が広がっている。

完全な個室に3人だけ。相手はマフィアのボス……流石のスパイスでも緊張しているようだ。だが一方でキャロルは、緊張よりももっと別の感情が腹の中に渦巻いていた。

「…どうしてスティックス商会のボスが私達なんかに声をかけたの」

キャロルは不機嫌な態度を隠すことなくペペローニに尋ねる。

「バケットのお気に入りだって言うから話がしてみたくってね、単純な興味だよ」

ペペローニはにこにこと愛想よく笑っている。

「……強烈だろう? バケットの見せる夢は」

「アイツのこと、バケットって呼ぶのね」

ペペローニとバケットがどういう関係なのか、何となくは理解していた。バケットの手の内もその目的も、彼は全てを知っているのだろう……。

(……気に入らない……)

自分がバケットについて何も知らないことにキャロルはどうしようもない苛立ちを覚えていた。

「まあ、長い付き合いだからね。多分君の知らない彼の秘密も色々知っているよ」

秘密と聞いてキャロルの眉がピクリと動く。

「例えばミックレイスのこととか?」

「そうだね」

噛みつくように切り込んでくるキャロルに、ペペローニは苦笑する。

「もう気がついていると思うが……バケットはミックレイスの被験者だ」

ペペローニの言葉を聞いて疑念が確信へと変わる。

(あれはやっぱり……バケットだった)

キャロル達が研究所でみたのは、頭から右目にかけて包帯を巻かれベッドの上に横たわる痛ましい少年の写真だった。

「……何故、バケットが……?」

キャロルは息をつき、辛そうに顔を歪めた。

「もう10年程前のことになるかな……バケットは力を欲していた。だから私が与えてやったのさ。彼の右目は医療用ではなく、身体強化用、まだ成功例がほとんど無い試作品でね。彼には通常の人間では見えない魔力の流れが見えている。生き物は誰しも少なからず魔力を身に纏っていて、その動きや色から思考を予測し、行動を予知することができるらしい……」

ペペローニは、くくっ、と笑みをこぼす。

「結果的にバケットにアレを与えたのは大成功だったよ。バケットは予想以上の成果をもたらしてくれた。暗殺者としても、もちろんビジネスの方でも、な」

子供を実験台にしておいて喜々として語るペペローニに、キャロルはふつふつと疑念と憤りが湧いてくる。

「バケットは……自分からミックレイスの施術を受けたの………?」

「ああ、もちろん同意の上だ」

同意の上なんて――まだ子供で弱い立場にいたバケットに断われるはずがない。本当はアンタが強制したんじゃないのか。承諾するように追い込んだんじゃないのか。叫び出したいのをぐっと呑み込んで、キャロルは冷静になろうと努めた。

「失うものが無かった彼なりの賭け、だったのだろうなぁ」

「力が欲しいからって……失敗すればどうなっていたかもわからない。そんなのリスクが大き過ぎる……どうかしてるわよ……」

「確かにリスクは大きい。だが、彼にはもう一つ理由があった……と言ったら?」

 ペペローニはそう言ってキャロルに1枚の写真を見せた。写真には病院着を身に着け、顔に包帯を巻かれたバケットが、同じ病院着を着て車いすに乗った少女と笑いながら話す様子が写されていた。

 これは――――!

「ソルト……!?」

キャロルは目を疑う。

「まさか、ソルトもミックレイスを?!」

スパイスは驚いて叫ぶ。

「当時、彼女は心臓に難病を抱えていてね、バケットがシバヅの所に連れてきた頃にはもう酷い状態で長くないということは直ぐ分かったよ……」

確かに昔からソルトは体が弱かった。疲れやすくて発作も多くて……だが、今はその素振りを一切見せていない。

「そうか……ソルトはミックレイスで心臓を取り替えたんですね……」

スパイスの言葉に「ああ」とペペローニが頷く。

「バケットは自らが実験体となることを条件に、彼女の延命処置を頼んできたのだよ」

「!」

(………アイツが……ソルトのために…………?)

キャロルは混乱していた。何もかもが信じられなかった。バケットが、他人のために命を省みない事なんて、あるはずないと思っていた。ソルトがバケットにとってそれ程特別な存在なのか、それとも、これまでの彼の冷酷無慈悲な姿は演技だったのか。何がバケットの本当で、何が嘘なのか―――益々、分からなくなってしまった。



行きつけのバーのVIPルーム。バケットはいつものように、任務後の打ち上げにキャロル達を誘った。

「何はともあれ……これでミックレイスの技術が海外に漏れる心配はなくなった訳だ。任務の成功を祝して、乾杯しようか」

「…………」

 バケットがそう言ってグラスを持ち上げるが、キャロルは一言も発しない。スパイスも何だかそわそわしていて落ち着かない様子だ。

「あれ?どうしたの、ゴリラ。元気ないね、何かあった? もしかして飼育員さんから餌を貰ってないのかな? 可哀そうに……というか、君。無駄に元気だって事だけが取り柄なのにそれさえ無くなっちゃったら何にもなくなーい? 一体、ゴリラから何に退化するのかな〜??」

お前、落ち込んでいる人間相手に、よくそこまでペラペラと悪口を喋れるな。

 キャロルは怒りにプルプルと震えた。しかし、怒りに身を任せていつも通りの口喧嘩に持ち込まれてはいけない。今日はちゃんとバケットと話をしないと思って来たのだ。

「言いたいことは、山ほどあるわよ……ミックレイスがあんな技術だなんて、私聞いてない………」

「ああ、隠していた訳じゃないけど、言う必要はなかったからね。ま、君達にとっては金儲けになれば内容なんてどうでもいい事だろう?」

さらっと言われて、キャロルはまたムカッとくる。若干挑発されている気もするが、ここではまだのってはいけない。

「ええ……もちろん。それについてはまだいいわ……」

キャロルはため息をつき、そして問う。

「10年前、ソルトが病気で死にかけたって本当なの……?」

彼女の真剣な声のトーンを感じ取ったのか、バケットは真面目な顔になった。

「まあね」

「じゃあ………やっぱり…………」

キャロルの睫毛が悲しげに伏せられる。

「アンタがミックレイスの施術なんて受けたのはソルトの病気を治すため……」

「それは……」とソルトが何か言いかける。

「何、言ってんの、君?」

バケットは馬鹿にしたようにニヘラと笑った。彼が真面目な顔をしていたのは、ほんの30秒間であった。

「は?」

「そんなわけないだろう。僕は単にミックレイスの力に興味があっただけさ。実際、色々と便利で助かっているしね。ソルトはそのついでー」

「ええぇ……」

軽い。驚きの軽さ。何だこいつ、悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなるほど軽いぞ。

「そうでしょう、ソルト?」

「……はい……」

バケットに問われ、ソルトはこくりと頷く。彼女は少し辛そうな表情をしていたが、その時、キャロルはバケットの態度に唖然としていて気がつかなかった。

「君ねぇ。どうせ、ソルトを置いて出ていったことに負い目でも感じていたんだろう?」

「ぐ」

図星。ソルトは家族で、妹で、自分達が面倒を見るべきだったのに、バケットに何もかも押し付けてしまったのではないかという負い目をずっと抱いていた。

「ソルトの病気のことも、僕とソルトがミックレイスの被験者だってことも君がいちいち気に病むことじゃない。第一、君がいたとして何ができたというの? そんな下らないことを考えて思い詰めていたなんて、ホントに頭の中筋肉で出来てるのかなぁ?」

バケットはそう言って、キャロルの頭をぽんぽんと叩いた。

「う、うっさいわ……!人が折角心配してやって、ん…………」

キャロルは言い返そうとするが、バケットが頭をぐしゃぐしゃに撫でてくるものだから言葉が遮られてしまう。

「ちょ、やめ……やめんかっ!」

ババッと腕を振ってその手を振り払うと、ふふっ、とバケットが嬉しそうに笑う。

「やっとまともにこっち見た」

「うっ」

キャロルの顔の熱が上がる。一体何に照れているのか、彼女には自分自身の感情の動きがよく分からなかった。

「君、また勘違いしているみたいだけど……僕が進むのは安全な道ばかりじゃない。欲しい物のためならリスクだって負うよ」

「……」

「それに何方かと言えば全力で挑む賭け事が好きなタチでね。僕はいつだって、自分を試したいんだよ」

悪戯っ子のように笑ったバケットに、キャロルはため息を漏らした。

「………はあ……アンタって、本当呆れた男……」

「限りある人生なのだから、多少スリリングな方が面白いでしょう」

「危なっかしいですねえ」

鼻歌でも歌いそうな調子に、スパイスもやや呆れ気味だ。

(ん……いや、待てよ)

はて、とキャロルは今更ながら重大な事実に気がついた。

(思考が予測できるのなら、これまで私が考えていたことも全部筒抜けだったってことじゃ……)

キャロルの背筋がぞっと凍り付く。まさか……まさか―――――。

「どうしたんですか?ねえさん?ねえさーん??」

体をカチコチに固まらせたキャロルの前で、スパイスがおーいと手を振る。

「ふふ、キャロル。今何考えたの?言ってみなよ」

バケットがニヤと意地悪な笑みを浮かべる。

「は?!何も考えてないわよ…!」

何とか取り繕おうとするキャロルに、バケットはにっこりと笑顔を向ける。

「な、何も考えてないったら!」

キャロルがいくら否定しても、バケットは何も言わず、にこにこ笑顔で見つめてくるだけだ。

「そ、そんな顔して……みっ、見るな……見るなぁあぁあ!」

キャロルは腕を振り回して叫び、力尽きて机に突っ伏した。

「はは、あははは!」

バケットは可笑しくてたまらず、腹を抱えて笑う。

「そっか!バケットは思考が予測できるんですよね……!」

スパイスは思いついたようにポンと手を叩いて、

「私、ねえさんが何考えているのか、気になりますっ!」

とキラキラした目でとんでもない事を言い始めた。

「?! 裏切り者かテメー!」

キャロルはガバッと勢いよく顔を上げ、拳を上げてスパイスに怒る。

「残念だけど考えている事がはっきりと分かるわけじゃないんだ。その時の気分とかがぼんやり分かるってレベル?」

「なーんだ、残念~。ねえさんの思考が読めると思ったのにー」

「ほっ」

スパイスが残念そうに口を尖らせる一方で、キャロルは心の底から安堵していた。

「はは、スパイスさぁ。このゴリラの単純な思考なんて、いちいち読む必要あると思う?」

バケットはけらけらと笑うと、キャロルを指さして言う。

「顔見りゃ分かるでしょ」

そこには、む〜っ、と怒って頬を膨らませるキャロルの顔があった。


全8〜9話を予定しています。感想など頂けると励みになります!

次回投稿は9日17時予定です。

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