不眠症の僕
僕が眠れないというのは世界が眠れない事だ。僕はそう思う。
僕は不眠症だ。毎日、毎日眠れない。一人暮らしなので外に出る事もある。深夜に街の中を徘徊するのは奇妙な愉悦感がある。君も一度、ぜひやってみるといい。
ただ、そうは言っても、毎度毎度外に出るのも面倒なのでたいていはベッドの上でずっと横になっている。電気を消したり、点けたりしながら、ただ重苦しい「時」が過ぎ去るのを待っている。
人と会って話している時間とか、仕事や学業に精を出している時間、そういうものは本来の意味での「時間」とは呼ばない。時間とはもっと重苦しい、あえて言えば哲学的なものだと思う。人が時計を見て、カレンダーやスケジュールに用事を書き込み、友達や恋人と待ち合わせる時間…そういうものは「時間」じゃない。時間とは深夜、たった一人でベッドの上で見出すものだ。重苦しい夜の中、自分の身体が全宇宙に感じられ、その重みに自分が押し潰されそうになる…その感覚、その積み重なった堆積こそが「時間」なのだ。
うっかり時間論なんかを始めてしまったが、そんなものをやるつもりじゃなかった。僕は僕の不眠について話したかったんだ。君に。
確かに、ベッドの上、ひとりぼっちでいると時間というものを確かに感じられる。それは実存の「時」とでも言えばいいのかもしれない…。哲学的に言えば。僕はベッドの上でまんじりともしない。
僕は大学生で…大学三年生で、将来に不安を感じている。就職はどうしようとか、卒業に単位は足りているかなとか、そういう事が気にかかる。「将来」。その言葉が僕の身にも重く降りかかる。だけど、そういう言葉は嘘なんだと、不眠症は僕に教えてくれる。病気というものにも利点はある。
なぜならば、僕の目には老齢になった僕がやはりベッドの上でーー同じベッドでーー孤独を見出しているのが見えるからだ。それが僕の将来で、僕はそういう円環構造の中にいる。それが僕の時間であり、人生であって、外で人に合わせて振る舞っているのはただ仮面を被っている時間に過ぎない。それはごまかしの偽の時間。本物の時間は孤独とベッドの結合にある。
正直に打ち明けると、大学ではそれほどうまくやれていない。いや…外見にはそうでもなく、そこそこ楽しそうにやっているように見えるかもしれないし、必要に応じて愉しげな、馬鹿のできる大学生を演じてはいるけど、本心はそうではない。不眠症の事も話していない。「顔色悪いね」と言われた事があるけど「体質的に貧血気味なんだ」と言ってごまかした。相手は「ふーん」と言っていただけだったけど。
一度だけ、危なかった事がある。同じゼミの桜井さんに言われたのだ。「鈴木君、大丈夫?」って。僕は「何が」と微笑んで返した。うまく笑えたと思うけれど、桜井さんはなんだか心配そうな表情を浮かべていた。僕の顔を見て、何を読み取ったのか、「ううん、別にいいの。大丈夫ならいいの」と言った。僕の心はその時、なんだかざわざわとした。桜井さんの質問は、ただの世間話よりももう一歩踏み込んだものに感じたから。
まあ、それはいいんだよ。ただの雑談だし。それよりも、不眠だ。僕は不眠という泥沼の中にいて世界を見ている。
目が覚めている、一日中ずっと目が覚めているというのは不思議なもので、それは世界が途切れる事がないという事だ。世界はいつまでたっても始まらない。なにせずっと続いているからだ。不眠はね、永遠という罰を課せられたという事なんだ。終わりも始まりもないメビウスの輪。それが不眠だ。
横になりながら、僕は世界を眺める。暗闇の中で目を瞑って、いや、時には開けたりして、世界を見つめる。世界はざわついている。何かを言っている。だけど、それは僕とは何ら関係がない。何せ、奴らは「眠れる」んだ。…よろしい、世の中の人間を二つに分けよう。眠れる奴と眠れない奴と。この二つは、絶対にわかりあえない。眠りが素直におとずれる人は、言ってみりゃ仏教の「涅槃」を獲得したようなもんだ。最高だよ、眠れる人というのは。
僕は考えてみたんだけれどね、眠れる人は、頭が僕のようにカラカラと動いていない。僕の不眠症は頭の回転と関係ある気がする。頭がカラカラカラカラ、ずっと回っているんだ。ハムスターが夜中に一人でカラカラ車を回すみたいに。あれに近い。僕の頭もずっと回っている。グルグル。
それはきっと刑罰なんだ、と思う。僕がこれほどまでに世界に切り離されているのは、僕が考えるせいだ。考える。これは恐ろしい事だよ。僕は自分の脳髄から逃げられない。脳。こいつが僕を破壊するんだ。僕の内蔵を、腕を、足を。すべてを破壊してしまう。
僕は夜眠れない。それは恐ろしい時間だ。
いくつかの時が堆積して、部屋が不安に包まれ、神経はピリピリとする。誰もが眠っているのに僕だけが眠れない! これはどんな事だろう。僕一人が目覚めている。その恐怖。
だけどその恐怖を君が体験する事はない。ああ、悔しいね。いつか君にも味わってほしいな。来る日も来る日も眠れない、という日々を。その中で、君ははじめて時間の真の姿を目の当たりにするはずだ。人間達…眠れる人間達がただの動物だってわかるはずだ。奴らは…冬眠中のクマのようにぬくぬくと眠りやがる! …まったく、腹立たしいね。
それでも、僕はただ自分に耐えてベッドに横になっている。最近気づいたけれど、忙しく働いている人、来る日も来る日もやる事がある人、こういう人っていうのはとても怠惰な人なんだ。これは冗談じゃなくて、本当だよ。人生の意味について考えるのから逃げているんだ。逃げる…逃げるためだけにスケジュールを入れているんだ。仕事をして、デートをして、食事をして、眠る…。だけど、それは人間の生じゃない。じゃあ、人間の生はどんなもんだって? …それはとっても恐ろしいものなんだよ。丁度、今僕がやっている事だ。眠れない。これだ。ただ自分の存在の禍々しさを感じる事。宇宙の真空に囲まれたちっぽけな地球、その中のさらにちっぽけな自分に思いを巡らせる事。何かが起これば、すぐに死んでしまったり気が狂ってしまう弱い一本の葦…これが「僕」だ。僕は僕を見つめる。
そうやって僕は僕の中に落ちていく。毎夜、毎夜、落ちていく。それが不眠の夜というものだ。
だけど、そんな夜にも朝日はやってくる。夜が明ける、この真の感動が味わえるのも不眠症患者に限っている。
僕は不安なんだよ。深夜、もう夜は明けないんじゃないかって考えるんだよ。このまま、永久に夜のまま、世界の誰も目覚め出さず、小鳥も歌わず、草木も太陽を見ないんじゃないかって考えるんだ。頭の中にあるのは宇宙の真空だ。真っ暗な真空がどこまでも続いている。どこまでもどこまでも…。人類なんかとっくに滅びちゃってさ。
そんな考え、自分への不安、世界消滅の不安に身を委ねていると、少しずつ夜が明けていく。カーテンを閉めていてもわかる。少しずつ、世界が白んでいくのが。
やがて、朝が来る。朝と呼ばれるものがやってくる。不眠を経験していない人間にはそれはただ「起きなければならない時間」だけど、僕にとってはそうじゃない。それは奇跡だ。この世の奇跡なんだよ。不眠の、カラカラと回る、回り続ける意識からすれば、夜明けとは奇跡以外のなにものでもない!
そうやって夜が明けていく。だけど、その感動は人には伝える事はできない。不眠を体験した人でないとこれは…「世界に朝があった」という驚き。これは奇跡だね!
そうして、僕はまた新しい日ーーそう呼ばれるものーーに旅立っていく。その日は、学校かもしれない。休みかもしれない。だけどどっちでもいい。僕の本番、僕の人生の重点は夜にあるんだから。
朝が来て、僕はその頃にようやく、うとうとして少しだけ眠る…眠れる時がある。その時は朝日に抱かれているような感覚になる。
僕は人とは違う。僕には夜が昼で、昼は夜だ。目覚めて人と話したりし、何かをしている時はまさしく眠っている時だ。死んでいる時間だ。僕の人生は夜に始まる。夜から夜へ。夜の中からまた違う夜へ。違う僕へと、時間の中を蛇行していく。
だけどそんな僕にも朝日は必要だ。どうしてだろう。考える事に疲れたのだろうか。それとも本当は、嘘くさいみんなの生活に憧れているのだろうか?
とにかく僕はそんな日々を送っている。いつか僕にも眠れる時が来るのかもしれない。そういう時が来たら、きっとこの文章は恥ずかしいものに感じるだろう。当分は眠れないだろうけど。最近、思うのはさ、僕が死んで棺桶に入ったら、その時はさぞ安らかな表情をしているんだろうなって。だって、やっと「眠れた」んだからね。それはそれは、安らかな表情をしていると思うよ。
だけど……つい考えちゃうけど、死んだ後もまだ眠れなかったら、嫌だね。あの世でたらい回しにされてさ。そうなったら、すごく嫌だな。だから、僕が死んだら安らかに眠れるようにして欲しい。それだけは絶対に叶えて欲しい。最近は、それを神様に真剣にお願いしているんだよ。僕が死んだら安らかに眠れるように、とね。
さあ、もう夜だ。夜が来た。多分、今日も眠れない。君は…もう寝るのかい? そうか、こんな大切な時間をもったいないな。でも、おやすみ。多分、僕は君が見ない夢を現実に見るよ。世界の真の姿を、僕自身の姿を今日もまた見るよ。だけどそれは君には伝えづらい事なのかもしれないな。おやすみ。きっと、君が目が覚めた時には世界は真っ暗だ。そうして、僕が眠った時には世界は太陽で…本物の太陽で明るくなる。そんな気がする。最近ね、そういう気がするんだ。イメージが湧くというか…。
それじゃあ、おやすみ、君。僕はこれから不眠の海にダイブするよ。僕はベッドが恋人なんだ。やらしい意味じゃなくてさ。僕は今日も眠れない。そうして僕は僕になるんだ。いつものようにね。それじゃあ、おやすみ。また、明日の朝ね。それじゃ、しばしの間、サヨナラ。
ほら、電気を消すよ。君は電気を消さないと眠れなかったろう。親切にも電気を消してやる僕。君とはもう会えないかもしれないな。…いや、なんでもない。それじゃあね。また明日。
サヨナラ。




