プロローグ
「んっふふー」
今夜のあたし――油上千佳、24歳――は足取りが軽い。
どこか楽しい所にお出掛けかって?
残念、帰るところ。勤め先の天ぷら屋から帰宅中なのさ。あ、天ぷらと言っても1回で諭吉さんとお別れしなくちゃならないような店じゃなくて、持ち帰りの総菜屋ね。どうしてそこなのかってのは、単純な話、天ぷらが好きだから。好きなものに囲まれた職場って素敵でしょ? 美味しそうに揚がる天ぷらを見る度に心がうきうきと弾むのさ。
まあ、いくら好きでも仕事中には食べられいんだけどね。商品を食べちゃったら商売にならないもの。毎日天ぷらを揚げながら食べたいのをじっと我慢しなくちゃならないのは少し切ない。
でも、そうやって我慢するからこそ、仕事上がりに貰った売れ残りを食べる時に感動が増すと言うものさ! 時間が経ってるから衣が少しべちゃっと湿気ってたりはするんだけど、それでも美味しいものは美味しい。
それにしても、我ながら毎日食べているのによく飽きないと思う。
だからって訳でもないけど、将来的に持ちたい自分の店も天ぷら屋なのだ。勿論、今勤めている店と同じ持ち帰りの店ね。
そりゃあ、諭吉さんを相手にするような店で味を極めてみたいなんてことを思わなくもないけど、あたしの舌がそこまで肥えてないから総菜が分相応と言うもの。だからそこは諦めてる。それに、庶民的な店の方が沢山の人に食べて貰えそうじゃない?
尤も、その資金が貯まるのはいつになるやら。給料は高くないから、切り詰めてもそんなに貯まってくれない。だから順調に行っても20年後とかになっちゃう。考えたら気が重くなる。
だけど今はそんなことは忘れようじゃないか。
「海老、えび、てん、天!」
そう、今日の夜食は海老天だ!
店は閉店1時間前には厨房の火を落として調理済みのものを売り切るだけになる。海老のような高価な食材はそれより早い2時間前にはもう追加を揚げない。他の食材より1時間も早い訳よ。それでいて割と人気だから売れ残るなんて奇跡に等しい。
ところがなんと、その海老天が今日は売れ残った! そして、そしてなんと、それを貰うことに成功した! 少なくとも2時間以上前に揚げられたものだからって何だ! 海老は海老、いつも食べたいと思っていた海老なのだ!
今日はその海老をただで食べられるんだから、足取りも軽くなろうと言うものさ! 天にも昇って行けそうに軽いのさ!
車のヘッドライトか何かの光が後ろから照り付けて、目の前が少し眩しく、白くなったりしたら、ちょっとだけ雲の上でも歩いているような感じがしない?
◆
「何てこと……」
呆然。変に眩しかったのは確か。だけど、その眩しさが無くなったら真っ白な世界に立っていたなんて何の冗談? ほんとに天に昇ったってか!
どうやら元凶は目の前でへらへらしている自称女神。本物かも知れないけど、自称にしか見えないから自称を付ける。そう見えるのはその容姿のせいね。女神と言えば銀髪金眼とか金髪碧眼とかのイメージだけど、この女神は茶髪黒瞳だ。顔付きも美人だけど東洋系。まあ、黒髪ショートのあたしと対極をなすような、少しウェーブの掛かったふわふわな髪は女神っぽくなくもない。白いロングドレスも女神らしい。だけどそれだけだ。背丈もあたしと大差ない。
その自称女神はここが神域だと言った。そしてあたしに「異世界で邪神の復活を阻止しようとしている人間達を手伝え」だなんて言う。意味が分からない。
「どうしてあたしなの?」
「間違っちゃった。てへっ」
女神は舌を出した。あの時、あたしの近くで事故に遭う人を連れて来る筈だったって。
それを間違えた? それって無くない?
それにそのいかにもおちょくってますって仕草は何なの? 妙に癇に障る。
「あら? どうしたのかしら? 握り拳なんて作っちゃってぇ」
「『間違った』で済むことじゃないでしょ!」
「でもぉ、間違っちゃったものは仕方ないしぃ」
両手の人差し指をほっぺたに添えて首を左右に傾げる女神がムカつく。妙に可愛く、似合ってるから余計に。
「どうやったら間違うのよ!」
「んー、たまたまあんたが対象の近くに居たから?」
女神が下あごに人差し指を当てて、可愛く首を傾げる。ころっと騙される人が居そうな仕草だけど、勿論今のあたしには通じない。
「たまたまって……。早くあたしを元の場所に戻しなさいよ!」
「んー、それは無理!」
「なんでよ!?」
あたしは死んだ訳じゃない。単に拉致られただけだ。理不尽にも程がある!
「だってぇ、今から代わりを探すなんてめんどくさいしぃ」
「めんどくさいで済ますなーっ! 元々ここに連れてくる筈だった人はどうしたのよ!?」
「死んだわよ?」
きょん、と首を傾げる女神。妙に可愛いところが腹立たしい! 死んだなんて当たり前に言うところもムカつく!
「女神なら死んだ人を生き返らせて送りなさいよ!」
「あー、それこそ無理!」
「はあ!?」
「だってぇ、そんな全能の神みたいなこと、あたしにできる訳ないでしょーっ! あーっはっはっはっは!」
「こんの、糞女神がっ!」
「あーっはっはっはっ! ねぇねぇ、今どんな気持ち? ねぇ、どんな気持ち?」
「うっざーっ!」
女神はぴょんぴょん跳ねながらあたしの周りを回って挑発してくる。捕まえてやろうとすると、するりと躱されてしまう。
もう! 憎しみで女神を殺せるものなら100回くらい殺してやるのに! 勿論、比喩だけどね……。
思いっきり睨んでも、この糞女神はまるで応えない様子だ。ほんとにムカつく!
「あら、結構美味しいわね」
女神が何やらもぐもぐ食べている。口からその端っこがはみ出ている。
あれは……、エビの尻尾!? まさか!?
とにかく荷物を。店で貰った天ぷらは……。
無い。持っていた筈の海老天が無い! やっぱりあれはあたしのか!
「返せ! あたしの海老天ーっ!」
「もう食べちゃったもーん」
「うがーっ!」
頭を掻き毟らずにいられない。禿げたらどうしてくれる!
あたしの海老天が! あたしの海老天が! 食い物の恨みは怖ろしいんだと思い知らせてやりたい!
「プーックスクスクス。だけど、そろそろあんたをからかうのも飽きてきたから、もう送ってあげるわね。ごっきげんよぉー」
女神が腕を振った。
あ……、意識が遠く……。だけどここで気を失っては……。
だけど瞼が持ち上がらない。必死になってもちょこっとだけ。だけどその視界の端に女神の顔がチラッと見えた。
何で? 何であんたが辛そうに、寂しそうにしてるのよ……。
「あ、そうそう。海老天美味しかったから、一応チートな身体と便利な魔法を1つ付けてあげたからねぇ」
途切れ掛けた意識の片隅に女神のそんな声が聞こえた。