秋めいて和服姿
翌日、昨夜、夜風に当てていた着物を手に取る。
くんくん…
鼻を近づけにおいを嗅ぐ。
「ふむ。臭いはだいぶ取れてるな」
しかし、気にならない程度だがまだ微かに残っている。
着物を部屋に取り込み壁に掛け、机の引き出しの中を漁る。
何にしようかな。白檀と和服の組み合わせだとお線香を思ってしまう人もいるだろうから…伽羅香?本当は、このウールの着物柄だと、もっとモダンな香りが似合いそうなのだけれど、生憎私の手元には無かった。
買っとけばよかったなぁ。○○良品とかで売ってたし。
伽羅香だと少しイメージが違くなってしまいそうだけど、まぁ仕方ない。私の好きな香りの一つなのでそれにする。
壁に掛けた着物の前で香をたく。
細い煙がゆらり、と立ち昇り着物に絡みつき、這うように上へ上へと昇っていく。
ゆっくりと伽羅の香りが部屋中に広がる。
「さて、何にしようか」
香りづけしている間に、この着物に似合いそうな帯を探す。普段使いの着物だから名古屋帯か半幅帯か。押し入れのプラケースの中を物色する。しばらく探しているうちに一本の帯を掴む。
「…これにしよう」
手に取ったのは白地に柿色の格子柄半幅帯。着物が割と目立つ色柄なので、帯はあっさりとしたものにする。
それと、肌着と襦袢と――――必要な小物を次々取り出す。
こう言っては何だが、私は自分で着物が着れる。特に習った訳ではないので、自己流だ。
公園のおばあちゃんも言っていた。
―――昔は着付けなんて習い事はなかった。母から子へ、子から孫へと、当たり前のように、その家その家の着方を伝えていた。だから今の様に、こうでなければならない、なんて細かな決まりは、本当はないんだよ。もっと自由でいいんだよ―――。
着物に興味を持ち、努力し始めてから既に十年ほど経つ。
始めは着れなくて、着れなくて、一日中頑張っても着れなくて、泣いていた。それでも諦めなかった自分を、今は褒めてあげたい。この頃はご年配にも褒められる。
こうありたい、と思ったものに近道なんてない。楽して手には入らない。私はそう感じている。
さて、次は軽く髪をアップにする。きっちり結い上げるのは嫌いだ。緩めにふわぁっとお団子ヘアにする。
ここまでして、やっと遅めの朝食を済ませる。
二階へ戻り、軽く薄化粧をし、いよいよ着付けだ。
着物とともに伽羅香の微かに甘い香りをも纏う。
身頃を合わせ紐でキュッと縛る。自分好みに襟を抜き、手際よくシュルシュルと着付けていく。
帯の結びは何にしようかなぁ。…うん。変わり片流しで、あまり長めにしないでいこう。
帯結びも簡単なものなら、今では自在に自分好みに調節できる。
一通り気付け終わり、姿鏡の前で全身をチェックする。いつもと違う私がいる。すらりと細身に見えるのは、この縦に繋がった柄のおかげだろう。多分、黒色も効果を出していると思う。古い着物なのに、今の私が着てもおかしくはない。着物って不思議だ。
最後に、まだつけてなかった口紅を選ぶ。ちょっと落ち着いたローズ色の口紅をし、髪に小さな赤い玉簪一つ。目立たないくらいが丁度いい。
「これで良し」
さぁ、外へ出よう。お天気も良い。小さな手提げをひょいと持ち、母のいる一階へ降りて行く。
「ちょっと出かけてくるけど、何か買ってくるものある?」
そう声をかけると、ふっと母がこちらを見る。
「あら?」
驚いた顔をした後、すぐ笑顔になる。
「いいじゃない、その着物。そんなのうちにあった?」
「これは以前隣のおばあちゃんから貰ったものだよ。ちょっと袖が短かったから、自分で直してみたんだ」
と言って、袖口をつまんでピンと伸ばして見せる。
「成程、昨日から何かしてるとは思ってたけど、やるじゃない。似合ってるよ」
自然と笑顔になる。
「今度貸してよ」
「勿論」
笑顔で答える。
「ところで、買い物はいいの?」
と再度私の問いに、
それなら―――とお茶葉を買ってくるよう頼まれる。
「ちょっとした散歩だから、昼には帰って来るよ」
そう言い残し、玄関へ向かう。
ここでちょっと迷う。
下駄にするか、草履にするか…。どっちだって良いのだけれど。
「ん~、今日の気分は―――」
と言いつつ手にしたのは、赤と白の縦縞の、細めの鼻緒が継げてある桐下駄。
これ、私のお気に入り。
普通の下駄より少し細身で、これを履くと足も小さく見える気がする。アスファルトを歩いてしまうと、すぐに傷んでしまうけど、まぁたまにはいいかな。
カタ。カタ。
桐下駄の小さな音を心地よく聞きながら外に出る。
爽やかな秋の晴れ間。そこかしこに咲く金木犀が懐かしさを呼ぶ。
折角だから駅前のお茶屋さんに行く前に、少し遠回りをして公園へ行こう。
カタ。カタ。カタ。カタ。
桐下駄の音が、時を少しづつゆっくりにしていく―――。
そんな気がした。