つらいよ、ねーねは……。
3
夜の十時を過ぎたぐらいだろか。突然、私の部屋のドアが勢いよく開く。
「おい! 泰代。社会の宿題教えろ」
翔太はノックをいつもせずに部屋に押し入る。
「いきなりびっくりするじゃない、ノックぐらいしてよ」
「……。たいへんだ。明日、日本の気候について調べとかないといけなかった。」
「ちょっと……ノックしなさいという話聞いていたの?」
私がノックをしないで入ると、大騒ぎするくせに、どうやら私の部屋は例外らしい。
「教えて!」
「ごめん無理……。こんな遅くまで起きていて、お父さんに言うわよ」
「……それは嫌だ。それよりも教科書には詳しく載ってないからわかんないよ」
「嫌だ。私これからお風呂入って寝ようと思っているし」
翔太の言葉をそのままオウム返しをしてその場をやり過ごそうとする。
「お前、有名私大だから、これぐらいわかるだろ? ねぇ、姉ちゃんお願い……」
「断る。上から目線でなんか腹立つし、宿題なんだから自分でしなさい」
「姉さん……お願い」
「……No!」
「ネーネ、Could you please help me with my homework?」
(結構、発音じょうずだなぁ……その表現中二ぐらいで習うんだけど……)
「Out of your way. I’ll take a bath」
「Fuck you!」
「I told you many times “don’t use F words", huh?」
「You pissed me off. もういいよ、自分でやるから!」
翔太は顔を真っ赤にして、自分の部屋に戻った。親に起きていることがばれないよう静かにドアを閉めて。
(なんなの、あいつ……それはこっちの台詞だから)
私にとって一日の至福の時間はバスタイムである。好きなシトラスの香りの入浴剤を入れて半身浴でその日の疲れを癒す。
今日は昼から講義がなかったので、昼の一時から夜九時まで近所の喫茶店でアルバイトをした。疲労もこのバスタイムには極上のスパイスになる。
ゆっくりと無為な時間を過ごしている贅沢感がたまらない。
(コンコン)
風呂のドアから何やらノックする音が聞こえてくる。
「……おばんどす」
翔太だ。本日二度目の不法侵入だ、それも真っ裸で……。
「……」
声にならない悲鳴は沈黙という形で表現され、お互い数秒見つめ合う。
「お背中流します」
「……間に合ってます……あんたさっき入ったでしょ……」
「そう遠慮なさらずに」
「……もう体洗ったから」
「圭兄電話でないし……手伝ってお願い」
大事なところを隠しもせず、アソコも首を下に垂れ、落ち込んでいる様は精一杯の演技だろうか。
「……わかったわ。教えるから、取りあえず出て行こうか?」
「うん」
そういうと、大人一人でも狭い浴槽のバスタブに遠慮しながら入ってくる。五年生にもなって姉と一緒にお風呂に入る弟の心理はいかなるものか……。
根負けした私は、半時間かけて日本の気候について覚えている限り、翔太に教えた。
「なるほど、よくわかったし、すべて暗記した」
「もういいでしょ?」
「えへ。あと、パソコンでまとめたプリント作ってね。ドッスンが俺に発表してほしいってお願いされたからさ」
(し、しまった……。これのせいか……知識だけの発表ならネットの動画で事足りるが、プレゼンテーション形式だと資料を作らないといけない……)
「資料作成までは嫌なんだけど……手書きでなんとかしてよ」
翔太は秀才といえども、字が汚く、パソコンにも疎いため資料作成をすべて押しつけようとしている。
「さっき、『わかった』って言ったじゃん。キャンセル不可でーーす」
真っ白い歯をむき出しにして微笑んでいる。
「じゃ、朝までにお願いねー。俺もうあがるわ」
獲物を仕留めて、食欲を満たし切った後のライオンのように私を突き放し、風呂場から立ち去る。
(ムカツキ……)
もう少しお風呂に浸かっていたい気持ちがどこかに飛んでいき、私もすぐに浴槽から出る破目になった。
最悪である。この後は好きな本を読んで、眠くなったらそのまま……という計画があったのに、翔太のせいで私が代りに宿題をすることになるなんて――さらにそれを簡単に承諾してしまう自分にも怒りを覚える。
弟の奔放さに振り回されている自分が情けなく感じつつ、気が付けば、机のパソコンを開けて資料作成に取り掛かかる。
どうでもいい副教科の課題を代わりに親にさせていた家庭が身近あったのをふと思い出した――圭祐の家だ。医学部に進学させるため、家庭や図工などの課題はすべて入試には関係がないと母親が肩代わりをしていたのを知っている。あの時の、あいつのお母さんのたいへんさをこの若さで体験できるとは思ってもみなかった。
(最初のページはタイトルを付けて、下に学年とクラスと名前を表示させて……あれ、あいつ何組だっけ?)
翔太の組とどんな資料にしたいかを聞くために、翔太の部屋に向かう。
「翔太、あんた何組だっけ?」
(電気を点けっぱなしで、気持ちよさそうに寝ている……)
「おい、資料作ってるんだけど……ちょっと起きて」
「……ムムム……何だよ?」
「あんた何組だっけ? あとどんな感じの資料にしたいの?」
「……一組だよ! そんなことも知らずに俺の姉をしているのかよ。形式は何でもいいから、終わったら机に置いておいといて!」
(The anarchy in sister’s and brother’s relationship!)
呆れながらも、小さい頃から与えられたミッションをこなしていくことには慣れている私だ。翔太に布団を掛け直し、静かにドアを閉めて自分の部屋に戻る。
一端、資料を作り始めると、凝ったものにしたくなり、体裁の良いものに仕上がる頃には夜中の三時を回っていた。
日本の主要都市の雨温図やら偏西風の風向きやら気象庁からデータ引用などを盛り込み大学のレポートでS評価を貰えるぐらいの資料を完成させた。
「ちょっと、やりすぎたかな……」
暗い部屋の中で、パソコンの画面の前で独り言を呟く。
(まぁ、誰かに作らせたことがわかって、恥かくのも勉強の一つだしな……。よし、客観的な事実をもっと記載して、最後に私の文才ある素晴らしい考察を入れといてやろう)
――親バカならぬ、弟バカな私である。
真夜中の静寂をいつもより早く破られ、朝を迎える。
我が家は都心部から少し離れた自然豊かな郊外にあるため、日の出前はキジバト、少し後にはスズメやカラスの鳥の囀りが聞こえてくる。
睡眠時間が三時間だったため、強烈な眠気が襲ってくる。それでも、翔太を起こしに行かなければいけない義務感が重力の方向を変える。
「……翔太、起きなさい」
「……」
(今日の五分延長願いは何回だろうか)
「……ね、姉ちゃん? 昨日の資料できた?」
「出来てるわよ……全体を簡単に説明するから早く起きて」
「うん……」
今朝の従順な翔太は新鮮で、素直に言うことを聞いてくれた弟に驚く。よほど充実したプレゼンをしたいに違いない。六時半過ぎから、半時間ほどかけて、日本の六つの気候の特色を詳しく説明してあげた。
「すべて暗記した……瀬戸内の雨が少ない原因をどう説明するかが曖昧だったから、姉ちゃんの話をしてみるよ」
(やだ――かっこいい)
真剣な眼差しで手を顎に当てて資料を確認している弟は、仕事ができるビジネスマンのようで胸がときめいた。
「……が、がんばってね」
「無理をさせてすまない」
(何この甘く低く囁くような感謝の仕方……素敵だわ。寝ぐせがすごいけど……)
「何だよ? さっきから俺の顔ジロジロ見るなよ」
「な、何よ。せっかく作ってやったのに、もっと感謝しなさい。それに寝ぐせ……」
「あっ――もうこんな時間じゃん。早く準備しなきゃー」
(圭祐が言っていたように、私が思っている以上に聡明で利発な子かもしれない。もう少し精神年齢も上げてもらえるといいのだけど……)