ショウタのお願い
2
「おい、泰代」
部屋の中にノックもせずに飛び込んでくる。
「何? ノックしてって何度も言ってるじゃない――」
私はいつもの事だと、ベッドに横たわりながら、雑誌を読んでいる。
「大変だ! ゲームの最速先行販売が秋葉原であるみたいだ」
何かとても深刻なことが起こったように、低い声でお知らせをしている。
「――だから?」
「お願い、付いて来て!」
突如、真剣な眼差しから眉を潜めて潤んだ眼差しを向けている。
「明日近所のお店で買えばいいんじゃないの?」
「今欲しい!」
「私、大学から帰ったばっかりで疲れたから嫌だ」
「お願い! 『トゥウェルブ・バルドル』だよ?」
「知らん――無理だよ」
「お願いだから!」
「……」
私は無視をすることにした。
「お願い! お願いって言ってるでしょ」
とうとう床の上をぴょんぴょん跳ねて、字団駄を踏む。
「姉ちゃん、一生のお願いだから!」
「あんた、これで何度目の一生のお願いなのよ。駄目なものは駄目」
「そんなこと言わないでよ、姉さん。頼むって」
「こんな遅い時間に出歩くなんて無理に決まっているでしょ。だいたい母さんが許わけないじゃん」
わかっていた。こうなっては暴走が止まらないことが……。
姉の呼び方の三段活用で最上表現がある。その一番の上の呼び方はお姉様ではない。
「ネーネ……お願い……今日プレイしたい、したいったら、したい!」
――とうとう来たか。
私はこのネーネという呼び方が苦手だ。心の奥底の母性本能が疼きなぜか道徳的かつ教育的判断力が鈍ってしまうからだ。いつもこれで折れてしまう。
「お、おっ……お願いだから! お願い!」
翔太は私の甘い性格に付け込めば嘘泣きで押し通せることをわかっている。末っ子のスキル「あざとさ」を発動させる瞬間だ。
「今五時、秋葉原まで往復したら、門限に間に合わないよ」
「うっ……うわーーーーん」
翔太は手に入るのが絶望的だとわかると号泣モードに移行する。
「無理だから、私下に降りて、ご飯の手伝いしてくるね」
――駄目だ、駄目だ。こいつを甘やかせることは良くない。
(お願い! 今日プレイしないと死ぬから――ネーネ!)
自分の部屋を出た後にも関わらず今日の翔太は往生際が悪い。
母は台所で夕食の準備をしている。
「上が騒がしかったけど、何かあったの?」
「いつもの我儘モード――付き合ってらんないわ」
「今度は何なの?」
母は怪訝そうにすることもなく淡々と聞いてくる。
「今日秋葉原でゲームの先行販売があるみたい」
「あら、それが欲しいのね」
階下から翔太が降りてきて、今度は母を説得しようとする。
「ヒロちゃん、うっ……今日先行発売のゲームが欲し……いっ……グッス……」
母さんは子どもたちに「お母さん」と呼ばれるのが嫌らしく下の名前で呼ばせている。
私はヒロちゃんなんてこの年では恥ずかしいので、母さんと呼ぶようになった。
――相変わらず泣く演技は天才子役並に上手いな。母さんも絶対無理って言うに……。
「そうね、母さんは夕食を作らないと行けないし――泰代あんた行ってあげなさい」
「えっ?」
私は母の意外な言葉に目を丸くした。
「何言ってんの? こんな時間から行ったら九時過ぎるよ」
「あなたの大学の近くなんだから、送って行きなさい。こんなに欲しがっているんだし」
「母さん、翔太には甘いよね。私がこれぐらいの時はすごく厳しかったじゃない」
いつものやり取りだ。私も翔太には甘いが、母は特に甘いのだ。
「そうだったかしら? 覚えてないわ」
にっこりと笑い、その場を流す。
「じゃ、行くぞ!」
さっきの泣き顔はいざ知らず。通常モードにいつの間にか変身していた。
「ちょっと、私は嫌だって言ったでしょ。明日大学も一限目からテストだし、無理」
翔太は私の顔をねめつけている。
「わかったよ……」
そういうと翔太は電話機に向かいどこかに掛けようとしている。しかし、一瞬考えだし、今度は居間のテレビの前の私の携帯電話を使い出した。
「ちょっと! それ私の携帯だから――勝手に使わないでよ!」
――といってもロックが掛っているから安心かな。
「もしもし、圭兄?」
(お掛けになった電話は電波の届かない所か電源が入っていないため掛りません……)
(くそ!)
――汚い言葉を使いやがって、しかも母親が聞こえないように……。
圭兄とは、私の幼馴染で同い年の圭祐だ。現在は医学部に在学しており、医者の卵である。圭祐は私に小さい頃から一方的な片思いをしている。だが、私には興味があまりないので、彼の期待に応えられないことを申しわけなく思っている。
――そうか。私からの携帯からだと圭祐が出る確率が上がるためか……。
「圭兄……出ない」
「あいつも忙しいんだよ――明日買いに行こうよ」
「いや、いや、いや、いーーーーーーや!」
今度は本気で泣いているようだ。嗚咽混じりに泣いている。
――かわいい……いや、駄目だ、私。ここは心を鬼にしないと……。
「わぁーー」
咳払いや鼻水を垂れ流して、床の上に転がりまわり始めた。
「ネーネ、付いて来てよ! お・ね・が・い!」
「今日も明日もあんまり変わらないよ、ねぇ? さぁ、ご飯食べよ」
「……」
今度は不貞腐れモードに移行だ。私達の視線をわざと集めるように体を窓際の方に横にして、悲壮感を醸し出している。
十分ほど経過して、携帯の着信音が鳴り出した。
――しまった。携帯はソファーの上にある。この距離だとあいつの方が近い。
圭祐は私に会うために絶対に断らないと思う。それは同時に私が強制的に付いていくことを意味するのだ。これは何としても先に私が電話にでなければいけない。
「「うりゃー」」
携帯電話というビーチフラグを争うがごとく一斉にソファーに向かう。
「も――もしもし」
勝者はわずかコンマ二秒の差で私が応対できた。
(よう、何かようだったか? デートの誘いならいつでもいいぞ)
「ふざけないで! 何でもないから翔太がいたずらで掛けちゃって」
眼下にいる翔太の表情が何かを企んでいることを教えてくれる。
「圭兄! 助けて! たいへん! お姉ちゃん代わってよ」
近所迷惑もお構いなしの大声で圭祐に聞こえるように電話に向けて話しかける。
(おい、翔太に何かあったのか? 今帰りだから向かえるけど)
「すぐに来て! お願い! 後生だから」
ものすごく必死になって私の体をよじ登ってくる、少しでも話し口に近付くために。
「ごめんね……圭祐。本当に何もないから――融通が利かなくなっているだけだから」
「ゲーム! ゲームが発売! 秋葉原に行くの! 付いて来て、圭兄!」
(あぁ、『トゥウェルブ・バルドル』の先行販売か――行ってやっていいぞ)
「うちの問題だから、圭祐もこんな我儘な奴に構わなくてもいいよ……」
圭祐とは話している間に、いつの間にか翔太は私の谷間までよじ登って来ていて、不意に私の手から携帯電話を取り上げる。
「もしもし、圭兄? 姉ちゃん秋葉原に連れってくれない……うっ、どうしよう」
(今から行くから家で待ってろ!)
「本当に? ありがとう! なんなら今日は家に泊っていっても……」
翔太は圭祐が私を好きなことを知っている。そのためか、さりげなく家に呼んだり、外食に誘ったりとませたことをする。
「――ちょっと」
私はすぐに翔太から電話を取り上げ、圭祐に謝罪し、私が付き添うことを伝えた。
(俺もそのゲーム買う予定だったから、連れて行ってやってもいいんだぞ)
「ごめん、こんなくだらない御使いに付き合わせるわけにいかないからいいよ。じゃあ」
――グイグイとあなたアプローチしてくるからいいです。
と、内心思いつつ電話を切った。
「なんだ――結局姉ちゃんが来るんだろ。さっさと腹くくれよ」
したり顔でこちらを見ている。
「さっさと用意しなさい」
「ラジャー!」
準備するために翔太は急いで自分の部屋に走っていく。
「ショウちゃん、走らないの」
「はーい」
母は相変わらず翔太には甘い。私が子どもの頃にはこんなことしたらお説教だったのに。
私はこんな風に弟に日々翻弄されている日々を送っている。煩わしいと感じる反面、かれの我儘にこれまで必要以上に応えてきたためか、心の奥底で喜びを感じている部分もある。男の子の幼さとは女にとって凶器である。
身長が低いせいか弟はよく小学低学年に間違われる。まるで、常緑樹の椿の木が晩秋に切り倒され、冬を迎える頃に脇から新芽が生えて、美しい新芽のまま成長を止めている薄緑の葉のようだ。