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ショタフリ  作者: ひろきょ
19/19

お姉ちゃんだって何やかんやで今があるのよ

泰代ちゃんの子ども時代です。誰か一人でも待ってて読んでくれるとうれしいな。

 四章



                 1



 私、橘泰代十一歳だ。小学五年生でどこにでもいる普通の女の子のである――ところが、近所の人達や学校の生徒からは聡明で礼儀正しく、さらに器量も良いと非の打ちどころのない神童として崇められている。

 確かに私は妙に大人びていて、物事を沈着冷静に考えることを常としている。こんな風に客観的にかつ小学生らしくない言葉で自分のことを分析し形容する始末だ。別の意味で神がかっている、と情けなくなる感じることもいつものことだ。

 こんな風になってしまった原因は、間違いなく子育てにおいて厳格な教育方針を第一の優先事項として掲げている父のせいだ。父は今時のやさしいお父さん像の路線を大きく逸脱した――あいにく私からは恐怖の対象でしかない――存在だ。

 物心ついた頃から、箸の持ち方から言葉遣いまで様々な礼儀作法を徹底的に叩き込まれた。少しでも反抗すると、あれやこれやと小言を貰い、ひどい時には手を上げられたこともあった。また、将来は普通の人間として生きていけるように学力も必要だということで、ご丁寧に習い事のフルコースを提供していただいている――それも毎日だ。

こんな小学生らしからぬライフスタイルは、他のクラスメイト達のものと比べると異常だ。それでも、そつなくこなしている自分がいて習い事を強いられる虚無感と資格・技能取得などから得られる達成感を交互に享受しているせいか、辞めたくても辞められないジレンマに陥ってしまっている。――まさに八方塞がりだ。

 それとは別に、父の教育のおかげで学校生活は優越感に浸りながら過ごせている。テストでは毎回満点を取ることが当たり前だし、礼儀正しいため、皆から頼りにされるし、かわいいく優しいからと男女ともに受けが良い。


私は望まなくても絶えず称賛を浴びるクラスの中心人物だ。

 

インドのカースト制度で例えるなら、間違いなく私は学校においてバラモンの良い家系のお嬢様だ。そういった部分では高い教育費を毎月払ってくれて、人前で恥じない言動を教えてくれてきた父には感謝をしている……もちろんそんなことは認めたくない素直になれない自分をいる訳だが……。


 「おはようございます!」

 私は起きてすぐに父と母に大きな声で私から挨拶することが義務付けられている。

 「おはようさん」

 「おはよう」

 父は相変わらずの仏頂面でそっけなく挨拶をするが、母は毎朝やさしく微笑んで声を掛けてくれる。

 「昨日は寒かったね。夜中に寒さで目が覚めちゃった」

 「昨日の天気予報では一番の寒さになるって片山さん言っていたからね」

 片山さんとは母のお気に入りの気象予報士だ。最近の気象予報士は母曰くイケメンが多いらしい。私から見れば十人並みというか、ただ個性が強い大衆向けの雰囲気を醸し出した大人の男性であるという認識でしかなかった。

 「お母さん片山さんのこと好きだよね」

 「かわいいのよ。新米さんだから緊張している姿とか、よく原稿読むのを噛んでしまうところとか。男の子って感じがして」

 「私は頼りない印象だな――二枚目と言うか三枚目でしょ?」

 朝から母とたわいもない女話に花を咲かせていると

 「さっさと、顔を洗って、歯を磨いて来なさい‼」

 父は不機嫌そうに冷たく言い放つ。いつもの言動なので慣れている。私はそそくさと洗面台に向かう。今日は寝ぐせもなく気分がいい。お気に入りのハイドロキシアパタイト配合の歯磨き粉と電動歯ブラシで歯を磨き、緑茶入りの洗顔料を泡立てネットを使い、軽くなでるように顔を洗う――いつもの日常が始まる。

 「早く食べてしまいなさい。学校に遅れるわよ」

 「うん、大丈夫だよ。すぐ食べるから」

 「今日は強い雨が降っているから早めに家を出ないと駄目よ」

 「えー、お母さん送ってよ」

 少し困った声をして、母に甘える。

 「ふざけるな‼ 学校なんて目と鼻の先にあるんだから自分で行きなさい‼」

 ものすごい剣幕で私を怒鳴りつける。

 「……いや……冗談だよ」

 いつも通りの大声ではあるが、何事もなかったかのように出し巻き卵に手を伸ばす。

 「良志さん、朝から怒鳴るのを止めて下さい!」

 母は感情的な父を牽制するのが上手だ。感情的な者に感情的に反応すると駄目だという道理を十分にわきまえている母は自身の独特に作り出す穏和な雰囲気で父を抑える。

 「――わかった」

 父は母にそう言われると小動物のように大人しくなる。父と母はとても愛し合って結ばれたそうだ。心から大切にしている母の懐柔に今までの威勢はいずこに、という具合に狂犬ケルベロスから愛玩チワワに豹変する。私は母に対しては贔屓だと、父に感情的なることは苦手な人物の性格に似てしまう――そういった嫌悪感を抱いていたためか特に文句を言ったり、反抗をしたりしなかった。

夫婦円満は大事なことだし、そんなつまらないことで父に歯向かうのは賢明ではないと、距離を一定に保つ策を徹底している。そして、このような場合、早めに朝食を食べることも……。

 ――本当にお父さんってよくわかんない人だな。お母さんばっかりやさしくして……。

 父への不平・不満はたくさんある――そんな時は悲観的に考えたくても、この後、夜遅くまで続く教育地獄コースをどう乗り切ろうか考え始める頃にはとっくに前向きになってこられた……そうこれまでは。


 「いってきます」

 「いってらっしゃい」

 「雨だから車に気を付けなさい。おまえはすぐぼうっとするでな――」

 「……うん、わかってる」

 憂鬱だ。何故かがんばる気力が湧いてこない。原因は今週から学校が始まるからだ。しかも今日は天気がとても悪い。一二月の冷雨で体がどんどん冷やされていく。どんより曇った空がどこまでも続き不気味に笑いかけてくる――私を嘲笑するように。


学校だけならまだいい。休み時間がそれなりにあり気が休まるからだ。問題はその後の習い事だ。月曜日はそろばんと塾、火曜日は習字と水泳、水曜日はピアノと英会話。木曜日はパソコン教室と違う教室の英会話。金曜日はまたそろばんと塾。最近は全国小学模試で五十以内にランクインできたので、N中学合格させるため、と土曜日と日曜日に父母自ら家庭教師学校として学校の復習兼中学入試対策の五時間コースが先月から始まった。

学校が終わると、通期ラッシュのサラリーマンの如く家に走り帰り、各教室に向かう、一つ終わると次の習い事の始業前のカウントダウンが始まる。二つ目の習い事には徒歩では間に合わないので、母が一つ目の習い事が終わるタイミングに車と一緒に待機しており、もう一つの教室へ強制送迎される。 

こんな生活が小学生から始まり、学年が上がるにつれ、一つずつ習い事が増えていった。

最近は特に気が休まる時なんて皆目なく、心はいつもこんな感じの曇天だ。

 「やっちゃん、おはよう!」

 同じクラスメイトの萌ちゃんだ。私の仲が良い友達のクラスメイトだ。

 「……おはよう、萌ちゃん。」

 「どうしたの? 元気ないね」

 「……そんなことないよ……それよりもすごい雨だね。啓太君もおはよう」

 「……おっ――おはようございます」

 萌ちゃんの後ろから少し顔をのぞかせて小声で挨拶をする。啓太君は小学一年生だ。とても恥ずかしがり屋さんである。萌ちゃんは面倒見が良く、やさしいため、彼はお姉ちゃんにべったりだ。

 「ちょっと、ちゃんと挨拶しなさい。あと濡れるから離れて!」

 「……うるさいなぁ。おはよう、って言っただろ?」

 「そのハムスターが鳴くような小さい声のおはよう、とは挨拶ではありません」

 啓太君は澄まし顔で何も悪びれた様子もなく萌ちゃんの腰に手をまわし抱きついている。

 「はい、はい、はーい」

 「――やっちゃん、ごめんね、バカな弟で」

 そう言っているやっちゃんは、苦笑しながらも、お母さんみたいにうれしそうな顔をしていた。

――小さい時の男の子って全身全霊を掛けて甘えてくるから見ていておもしろい。

 「ママがバカって言ったほうがバカって言ってたもん!」

 「はい、はい。ケイタも今バカって言ったよ」

 「ふん。ムカツキ……」

 啓太君は不満そうにほっぺをはち切れんばかり大きくさせる。

 「あっ……遅刻しちゃうよ。急ごう、やっちゃん」

 「うん」

 ――姉弟っていいな……なんだか毎日楽しそうだ。

 もやもやしていたが、この姉弟漫才と仲良く二人で手をつないで登校している後ろ姿を見ていて、少し穏やかな気持ちになり、学校へと私達は急いだ。


                 2



 学校の正門を駆け足で通り抜けて、下駄箱の正面にあるハンガーに急いでカッパを脱ぎ掛ける。下駄箱前のスノコに飛び乗り自分の靴に履き替えているところだった。もうすぐ始業のベルが鳴りそうであたふたしているので、うまく上靴に履き替えることができない。

 「へへっ。遅刻するぞ! お先」

 その時、見慣れた姿の男子が私の後ろを駆け抜けていく。

 「あんたも遅刻でしょ! ふざけないでよ」

 彼は隣に住んでいる幼馴染の圭祐だ。浅黒い切れ長のいじわるそうな目をしている奴だ。一年中半ズボンを履いていて、こんな季節に寒くないのか、と私は呆れる始末だ。男子なのに赤色が好きで、毎日違う種類のトマトみたいな帽子を後ろ被りで登校している。

 「俺はいつもこの時間に来て間に合っているから平気だし――えっへん」

 わざわざ振り向いて小馬鹿した視線を送ってから、教室に向かっていった。

 「マッハのダッーーシュ」

 「……バッカじゃないの」

 圭祐は能天気な奴でクラスにおいておふざけ男子の代表だ。保育園の頃から小学生に上がるまではお互いの家でよく遊んだものだった。しかし、今は幼馴染のよしみで仲は悪くないが、以前のような関係でなくなってしまった。昔は私の言うことに「うん、やっちゃんの言うことなんでも聞く」と従順だったのに、今は上から目線で茶々を入れてくる。そろばんと英会話が一緒だけど、何しに来ているのかわからない――真面目に取り組んでいないのだ。


 始業のベルが鳴る前に何とか席に着くことができた。

 「やっちゃん、おはよう」

 「おはよう、なっちゃん」

 なっちゃんは萌ちゃんと同じくらい仲良しの友達だ。曲がったことが大嫌いで、性格はさばさばしているボーイッシュな女の子だ。髪も女子バレーボールをしているため短い。さっぱりとした性格をしているため、私との相性が良い。

今月は席替えで隣の席になれたので、普段より楽しく授業が受けられたり、休み時間はいつもより沢山おしゃべりができたりする。

 「今日遅かったじゃん。すごい雨だったもんね」

 「うん。風も強かったから大変だったよ」

 「――お前がとろとろ歩いているからだよ」

圭祐はいつも私の感に触ることを言ってくる。それにいちいち構うのは正直面倒である。

 「あんたの方が、遅く家を出たし、私と同じくらいギリギリ登校したでしょ?」

 「でも俺の方が早かっただろ? とろとろ歩かなかったからな」

 「――そう」

 それ以上はまともに返答しないように決めた。それでも執拗に圭祐は話しかけてくる。

 「今日そろばんだろ? 遅刻しないように一緒に行ってやってもいいぞ――おまえとろいからな……」

 やんちゃそうに笑いながらも、何やら難しい本に目を通しているようだ。

 「別にいいわ」

 腹が立つ。でも、皆の前では感情的になれない。清楚で利発で上品な優等生という私にとっては名誉とも不名誉ともとれるレッテルが枷になり、条件反射のように常に冷静かつ気丈に振舞ってしまう。ただでさえ憂鬱な状態なのに、圭祐のおふざけが癇に障り、心が炎症し始める感覚を味わった。

 「なんだよ、機嫌悪そうだな。ちぇ……」

 圭祐の罰が悪そうな様子を見てやろうとした時、始業のベルが鳴り、同時に担任の先生も入室してきた。

 「――今日の号令は誰だ?」

 「はーい。俺でーす」

 「早くしなさい」

 「失礼しましたんごぶ!」

 クラスの何人かがクスクス笑い出した。

 「藤田君、ふざけないで」

 「コピーザット。規律、気をつけ――レーシック!」

 圭祐はFPS――アクションシューティングゲームが好きだ。特に海外もののゲームが好きで、その中の登場人物が英語でしゃべるものだから、わからない表現なんかは私の通っている英会話教室の外国人の先生に意味を聞いたりしている。ちなみに「コピーザット」は無線用語らしく「了解」という常套文句らしい。こいつはゲームをする際、自分の二階の部屋で窓を開けてプレーすることがよくある。なので、すぐ隣の私の部屋までゲーム内の銃声が聞こえてくる始末だ。昨日も午後からこの件で一悶着している。


 「うりゃ、喰らえ。圭祐ブレイクショットー。バン、バン、バン‼」

 私はその時――貴重な休息時間に、お気に入りのクラシックを聴いていた。

 「圭祐、うるさい‼ 窓ぐらい閉めてゲームしてよ。近所迷惑よ」

 「はい、はい。おまえの声が一番うるさいから」

 「今休んでいるところだから、騒がないで、わかった?」

 「ふん。俺も息抜きしているところだから別に何してもいいだろ」

 圭祐は勢いよく窓をピシャリと閉める。

 「ヒア・カムズ・ボス‼ 圭祐イレイサーショット。シュイーン‼」

 窓を閉めてもかすかに聞こえてくる圭祐の声に私は怒りが収まらなかった。


 止まない悪ノリに今度は皆一斉に笑い出す。

 「――はい静かに。今日の連絡事項を伝えるから聞いてね」

 圭祐は、へへんと笑い、なぜか得意げに私を見てくる。

 ――痛い奴め……キィー。

 と思いつつも、真剣に先生の連絡事項を真剣に聞いているふりをして無視をする。下手に構うとエスカレートする――こいつとの長年の付き合いでわかっているから……。

 朝の会が終わると、圭祐の周りには多くの友達が集まっていた。

 「おまえ、ふざけ過ぎだよ」

 「圭祐君ったら、おかしいことばっかり言って」

 こいつは男女ともになぜか人気がある。私にはその人気がわからなかった。同じクラスに限らず他のクラスの女子もこいつを好きだという子が沢山いて、私にはそれが不思議でしかなかった。

 「まぁ、俺は生粋のナチュラル・エンターテイナーだからな」

 ――ちょっと英会話習っているからって調子にのって……まぁ発音はいいけど。

 「圭祐くん英語上手だね。どこの英会話教室行っているの?」

 圭祐が好きでバレンタインには毎年チョコをあげている早希ちゃんが尋ねている。

 「駅前のとこだよ」

 「私も行こうかな」

 「おもしろいよ。外国人のケヴィン先生がいい人でさ……」

 家が隣でよく窓から話しかけてきたり、月曜日、水曜日、金曜日の習い事でも話しかけたりするから圭祐の声には正直飽き飽きしている。おまけに今月の席替えでこいつが隣の席だ。いくら幼馴染で仲が良かったといえども、うっとうしくて仕方ない。

 「今日、三時間目と四時間目に図工があるね――楽しみだな」

 目の前には萌ちゃんが立っている。

 「……私も楽しみなんだ」

図工は私の好きな科目だ。何も考えずに、ものづくり等の与えられた課題に没頭できるからだ。いや、白状すれば、楽でサボれるからというのが正直なところだ。

 「図工はサボり教科だからね」

 隣の席のなっちゃんが呟く。

 「そんな正直に言いすぎだよ」

 一瞬ドキリとした。なっちゃんに私の心が読まれたのかと内心ひやひやしたが、そんなことができるエスパーなんてこの世にいるわけがない、とある動画サイトで見たし、私は慌てず平静を装った。

「私も勉強が嫌いし、時間割が全部図工でもいいな」

 ――わかってんじゃん、萌ちゃん。

 と心の中では、なっちゃんに拍手喝采である。

 「今日新聞紙でお面を作るんだって」

 不意を突いて三人のガールズトークに圭祐が加わってくる。

 「そうなの……なんで知ってるの?」

 「姉ちゃんの時もあのメガネが担任で、この時期はお面を作って教室の後ろに飾るらしい」

 「みんなに見られるから、うまく作らないといけないね」

 早希ちゃんも押し掛けるように会話に入ってくる。

 「ねぇ、圭祐君はどんなお面をつくるの?」

 「俺? そうだな……泰代の怒った顔のお面でもつくってやろうかな」

 「――えっ、私――学校でそんな顔したことないよ?」

 「なんだよ……家ではものすごい剣幕で二階から俺に文句言う癖にさ」

 「あれは圭祐君がしているゲームの音がうるさいからだよ」

 「圭祐君っていうなよ。いつ通りで圭祐って呼べよ、気持ちわりい……」

 反論と文句を投げつけてやりたいが、感情的になってはいけないと自分に言い聞かせる。

 「萌ちゃんとなっちゃんは何を作る? 三人同じお面にしようか?」

 その場に流れる気まずい雰囲気を変えるため、積極的に彼女達と話そうとする。圭祐は相変わらず女心に無頓着ですぐに他の男子と馬鹿話を始める。ひとまず災難から逃れられた気分だった。

 「弟が節分を楽しみにしているから、鬼のお面にしようかな」

 「それいいね。啓太君、喜ぶと思うよ」

  萌ちゃんは顔を緩め、目を細める。萌ちゃんはいつも弟を第一に考えているようだ。

 「萌ちゃんの弟はかわいいよね。私のは全然だよ」

 「なっちゃんとこの弟もかわいいよ……妙に大人ぶっているところとか」

 「そうなんだよね。最近生意気になってきて――小さいときは萌ちゃんの弟みたいにかわいかったのに、今では『あっち行け』、『うざい』しか言わないから」

 「そんなこと言うんだ。啓太もそうなるのかな?」

 「ぜっ――たいになるから、私が保証する――弟はうざくなる。今のうちにかわいい弟の幼少期を楽しんでおきたまえ」

 三人は楽しそうに大声で笑う。みんな不思議そうな顔をしてこちらを向いていた。ただ一人早希ちゃんを除いて……。

 一時間目の始業のベルが鳴る。ここ数週間まともに休んでいないせいか、少し疲れが溜まっていて体が重くだるい。

 ――さぁ、今週もがんばるぞ




 学校は私にとっては比較的安住の地である。授業も簡単で先生に当てられてもすべて答えることができるし、友達には不自由していない。一部、圭祐が好きな女子からは嫌われていることには薄々感づいているが、気にしないようにしている。いや気にしなくてもいいといったほうが妥当だろう。

 私はこのクラスの事実上の女王だ。何も横柄に振舞って権力を振りかざす悪女ではない。スクールカースト最上位に君臨しているせいか味方が多いのだ。従者のごとく味方が私に良からぬ影が近づいてくる前に、いつの間にかそれを揉み消されているといった感じだ。

先日も私が嫌いな女子が数人ありもしない悪口をひそひそ話していたが、萌ちゃんを筆頭に倍の人数で燻っていた火を消化してくれたことを知っている。萌ちゃんは、正義感が強い。少し道から逸れる者が現れると、まるでPTAを仕切っているボスママのように牽制する役目を買って出る。

 一方、圭祐はここでは王とも言える。こいつ絶えずふざけた態度で道化師を演じているが、実はかなり頭が良い。父親が医師で母親が弁護士という秀才のサラブレッドだからだ。学年の首席を私とこいつで独占しているため先生もこいつのおふざけには目をつむっているのが現状だ。王と女王が幼馴染ということもあり、皆うかつに悪いことはできないと俯瞰している。

もちろん私も圭祐も権力の蜜の味に酔いしれることは可能だが、ほとんどの日々が平穏に過ごせている――私達があえて平和の輪を乱すことは不条理極まりないことだ。ましてや圭祐は単細胞でこのような腹黒いことを考えていないだろう。

 私は時に、裏では腹黒いことやあざとさをこんな風に胸に抱え込んでいる。そのため表に出さないように思いっきり愛想が良い笑顔と優しい言動で隠すようにしている。圭祐が絡んでくると調子が狂い外面が良い女の子を演じきれないこともあるが、クラスではなんとか憧れの女子像を現状では保てている。


 一時間目と二時間目が終わり、給食までの四時間目までは待ちに待った図工の時間がやってきた。

 「はい、今日はみんなにお面を作ってもらう」

 圭祐の言っていた通りだった。正直、何を作ろうかまだ決めていない。

 「俺、エイリアン作りたいです」

 圭祐が手を挙げる。こいつは本能の赴くままに生きている。ある意味うらやましい。

 「――そう言えば、おまえのお姉さんも変わったのを作っていたな」

 「四谷怪談に出てくるお岩さんだよ。姉ちゃんガチの妖怪マニアだから――変わった奴だから妙なもんを作りたがるんだよな」

 「おまえの作ろうとしているものも対して変わらないぞ……」

 「先生、全然違います。エイリアンは地球外生命で崇高な異星人であって、公にされていませんが、生存が確認されています。米国の首相は彼らが政治・軍事などに介入をしていることをほのめかしているニュースもあり、姉ちゃんの古典的な人間な力を超越した空想上の化け物とは……」

 「……そうですね。先生もそういうのは嫌いじゃないよ、藤田君」

 先生は長くなりそうな圭祐の話を遮ろうとする。

 「要は、お姉ちゃんは架空の世界に憧れを抱いていて、僕の現実的なロマンに対するものとはまったく異なるもので、家ではエイリアンと妖怪がどちらかより素晴らしいという話で大ゲンカになったりします」

 男子は大笑いし、女子の多くは話の内容はともかく饒舌に知識を披露する圭祐の雄弁な姿にときめいている子もいるようだ。

 「……うん。姉弟で自分の好きなものを熱く語り合うこと。先生は良いと思う……」

 先生も圭祐を相手にするのが煩わしそうだ。すぐにお面の作り方を淡々と話していく。ほとんど多くの子ども達にとって主要教科は退屈で、家庭や体育や図工などの副教科には熱心に取り組むものだ。特に今日は自分で創造できる自由な時間を二時間もあるのだから真剣な眼差しを黒板に向けて先生の話を聞いている。


 一通りの説明がされて、五人ずつペアになって作るように指示された。

 「やっちゃん、一緒にやろうよ」

 萌ちゃんが真っ先に駆け寄って来てくれる。

 「――私もいい?」

 なっちゃんも当然チームに入ることに抵抗はない。

 「俺もいいだろ? 席が隣だし、立って相手を探すのって面倒くさい」

 なぜかこいつも花の女子組に加わろうとする。

 「私もやっちゃんと組みたいな」

 「私も」

 仲のいい子がぞくぞく寄ってきてあっという間に定員オーバーだ。

 「圭祐、俺らのところ来いよ。俺もエイリアンつくるわ」

 圭祐のサッカークラブの友達が誘っている。

 ――男子って変なことに同調性があるから馬鹿だ。

 「行った、行った。お誘いは断っちゃ駄目だよ――こっちは女の子で楽しくやるから」

 「なんだよ……気を遣ってやって損した。はーぁ……」

 朝の啓太くんみたいに露骨ではないがどことなく拗ねているようだった。

 「やっちゃん、私……他のチームに行くよ」

 後から加わってきた良美ちゃんが遠慮している。

 「いいよ、いいよ。圭祐君、男子に誘われているし、私も良美ちゃんとお面作りたいな」

 良美ちゃんは申し訳なさそうにしていたが、私とチームを組めることがわかるとうれしそうな顔をした。

 「おい、おまえ、何話しているんだよ。早く来いよ」

 「おう。行くよ」

 手を頭の後ろに組んで、大股で誘ってくれた男子たちに向かって歩いて行く。

 ――あいつ、よく女の子のチームに入ろうとしたな。いくら相手探すのが面倒くさくても普通男子と組むだろうに……。ホントよくわからん奴だな……。


 お面づくりは順調に進んでいった。風船を膨らませて、その上から適当にちぎった新聞紙を水で薄めた糊を塗り、貼りつけていく。およそ一センチの厚さになったら、今度はコピー用紙のちぎったものを貼りつけて真っ白なお面にする。さらに乾かして絵具で各々の好きな動物や人物などを描くという、世界で一つだけのお面が完成するのだ。

 細かくちぎった新聞紙を風船の面に貼りつけて、厚みのある層にする作業は、地味に時間が掛った。結局ほとんどの生徒が新聞紙を半分程度、貼りつける作業だけで終わってしまった。

 「先生、全然時間足りないよ。もっとしたい」

 工作が大好きなこうちゃんが訴える。

 「――私も」

 萌ちゃんも同じ意見だ。それが誘い水となって皆で図工の時間の延長を願い出る。

私達の担任の奥村先生はちょっと変わっている。みんなが分数の割り算がなぜ掛け算になるのかを説明できるまで授業が延長に延長を重ねて、結局終日算数漬けの日もあったり、日本の四大公害問題の一つとして有名な水俣病の問題をどうとらえて何を思い感じたのかを皆で議論をしたりする。もちろんその授業も議論が白熱して丸一日社会の時間になった。こんなことがしばしば起こるから時間割があってなさそうな日は少しわくわくする。

「……そうだな。じゃ、六時間目まで延長だ」

歓声があがり、先生の株も少しあがるであった。

「もうすぐチャイムがなるから、作りかけのお面はロッカーの上に置きなさい。給食の時間です。手に糊がたくさん付いているので、しっかり手を洗うように」

 ちぎった紙一枚一枚に糊をはけで付けていくが、結局ボールに入った糊に直接紙を入れて手で貼りつけたので、各々おじいさんやおばあさんの粉が噴いたような手になっていた。

 皆一斉に手洗い場に行ったので、順番待ちの列ができていた。

 「――手がなんか気持ち悪いね」

 萌ちゃんが唇を尖らせて気持ち悪そうに手をこすっている。よほど不快に感じているに違いない。

 「乾き切ってカサカサしているから丁寧に洗わないといけないね、こりゃ」

 「泰代!」

 振り向くと圭祐が私の後ろに立っている。

 「ほら、俺の糊あげるよ」

 左手の掌にたっぷりの水のりが奴の手の中にある。右手で私の左手を掴み、糊を塗りつける。

 「……」

 いきなりの出来事だった。かすかな悲鳴が喉から飛び出そうだったが、なんとか我慢できた。

 「何するの? 困るんだけど……」

 「これで乾いた糊を湿らせると、洗う時、落としやすくなるぞ」

 得意満面で助言をする圭祐。小鼻を広げて、「どうよ」と言わんばかりの自信のありようだ。

 「……言い分はわかるけど――これはやっちゃいけないぐらいの分別はないの?」

 周りの皆は喧嘩が始まりそうな雰囲気を感じ取りながらも、ただ静観している。

 「うーん……わからないかな」

 発破を掛けるように、いじわるそうな視線を私に送る。

 「何か言うことはないの?」

 骨折り損に終わることを明らかだが、私は謝罪を促した。

 「おまえが俺に言うんだよ――糊を落としやすくしてくれてありがとう、ってな」

 圭祐も私のただならぬ雰囲気を感じ取るが、引くに引けない様子だ。

 「……圭祐君に言うことなんか何もないけど――そっちは謝ってよ」

 「――謝ってよ~」

 相変わらず圭祐はふざける。私の声色をまねしてどうしても謝りたくないといった感じだ。

 「……私……トイレで洗ってくる」

 泣き出しそうだった。泣き顔なんて見られたくないので、すぐにその場を立ち去る。しかし、蚊の鳴くような嗚咽混じりの声でみんなに泣き出しそうなのがバレているだろう。

――あぁ……腹立たしいのとくやしいのと情けない感情が押し寄せる。何なのよ、あいつ……すごく嫌な奴だ。

 「藤田君、ちょっとやりすぎなんじゃない?」

 気の強いなっちゃんが責め立て始める。

 「――おう、悪かったって。ごめん」

 慌てている素ぶりは隠そうと、目を半分つぶり口角を上げておどけて見せる。

 「私に謝るんじゃなくて、やっちゃんに謝りなよ!」

 周りはなっちゃんの味方だった。いくらクラスで王として君臨している圭祐も、従者にクーデータを起こされたかの如く非難され狼狽している。いたたまれない気持ちになり圭祐もその場を立ち去ろうとする。

 「……俺もトイレで洗ってくる」

 「絶対あいつ謝らないよ」

 「まぁまぁ、なっちゃん……これでやっちゃんのおふざけもしばらく止むと思うし……」

 鼻息を荒くしたなっちゃんを萌ちゃんがなだめる。

 「……まったく……本当に困らせるんだから」

 最後に一つ小さなため息をついた。しかし、いくつかの水道水からの流水音によって、それはかき消されていた。


                       4



 世間では精神的・身体的なストレスは病の一種として曖昧に扱われる。私はものごとをあやふやにしておくことが嫌いだ。要はストレスとは人間が不平や不満などを感じる際に生れる苦痛の一種だと私は定義している。

急速な時代や文明の変化により、私達のライフスタイルは半世紀、いや四半世紀すらのものでさえ凌駕するほど劇的な変化を遂げている。

そんな状況で大人達は無理やり情報化社会の競争率が高い仕事をする傍ら、子どもたちは熾烈な受験だけの勉強に従事しなければいけない。私は不遇な時代に生れて、心底悲観している――ただ、狭い視点でしかものごとを見られていないことに気付かずに……。 

ストレスのキャパシティは人それぞれだと言うが、受け入れられる心器の量は同じだと思う。ただ、ものごとに嫌悪を感じる前に前向きに取り組めるか消極的に逃げ腰になるかでストレスという邪気が入ってくる量が変わるだけだと生意気ながら考えている。

このような確固たるストレスの発生原理がわかっているため、勉強やスポーツでもわからない所やできない所は調べたり、誰かの助言を求めたり、それらを私生活でうやむやにしてストレスを溜めないようにしてきた。つまり、私は食わず嫌いにならず、どんなものごとでも前向きに取り組むことができる自信があった。――うまくストレスを発散させているつもりになっていた。そう、両親の土日の家庭教師が始まる前までは……。


 今の私は学校と習い事に加えて、父と母の家庭教師により精神的にも肉体的にも処理しきれないほどの量のストレスを感じるようになってきている。毎日、心身共に休まる時がなかいからだ。以前は土日に友達と遊んだり、漫画やアニメを見たりと、ガス抜きができていたことが事実上禁止されてしまっている状況なのだ。

 強いストレスや終わらない義務を目の当たりにすると、人間というものは不思議だ――おいしいご飯も食べた気にならないし、楽しいことも思いっきり楽しめない。やはり、人はある程度、人生を謳歌するため一定の怠惰は必要とする生き物だと考える。

かといって、他の手段で発散しようにも大人のようにお酒や煙草を嗜んだり、友人と買い物やカラオケや足つぼマッサージなどの娯楽やリラクゼーションで発散させたりすることは子どもだけでは到底できない。

 習い事が毎日のように続くと、学校の授業なんて不必要に感じてしまい、毎日の通学が時間の無駄なように思え行きたくない時がある。それぐらい塾の講義では学校の授業内容より先に進み、高度な問題を解かせている。今の私は、社会の中で生きていく上で人との繋がり重んじること、コミュニケーションン能力の育成のために学校に行っているようなものだ。

 それに圭祐の件のこともある。最近、あいつの悪ふざけについていけない。今も、さきほど件で辱めを受けた怒りが収まらない。なんとか人前で涙することは堪えられた。だが、泣きかけて少し赤くなった目を、次の給食の時間に、皆に見られることだけは自分のプライドが許せなかった。私は自分の弱さをさらけ出せない愚かな人間だ。


 「――よう」

 圭祐はきまりが悪そうにトイレの前に立っている。

 「なに?」

 誰の視線もないことがわかっているので、野暮に応じる。

 「――そんな怒ることないじゃん」

 素直になれないようだ。往生際が悪いのも大概にしてもらいたい。

 「……怒ってないから。」

 冷たく返事をするだけに留めておく。

 「――だからさぁ……その……」

 「給食の時間だから私行くね」

 私は敢えて謝る機会を与えなかった。

 「……」

 圭祐は人差し指を右耳に突っ込み、格好がつかないまま恥ずかしそうにしている。

 「――じゃ」

 私自身も居心地が悪い場に長居したくないので、逃げるように教室に向かった。


 給食の時間は縦か横の席の列の子たちと日替わりで食べることが決まっている。運が悪いことに今日は横の列のクラスメイトと食べる日だった。そう圭祐と一緒に食べなければならないのだ。

 「さぁ、今日は横の列のグループで一緒に食べましょう」

 先生の指示で皆が皆机を移動させる。圭祐は窓側の席で、廊下に向かって私、もちゃん、蓮くん、桃花ちゃんという座席の順番だ。

席を移動させる時、いつもならすぐに私の正面で食べられるように圭祐は席をくっつけてくるけど、今回は違った。

「蓮、俺と食べようぜ。昨日のアニメの話ししようぜ」

「いいぞ――」

 蓮君も先ほどの騒動を見ていて、私達の気まずさを理解しているためか返事は即答だった。圭祐にもこの蓮君のやさしく気遣いできる所を見習ってほしいぐらいだ。

 「やっちゃん、桃花ちゃん、私と机くっつけてくれる?」

 笑顔で、さりげなく萌ちゃんも気を利かせてくれる。心無しか皆の視線が私の背中に突き刺さってくる。今は平静を装うことで精一杯だ。

 「今日のカレー、グリンピース入りだ、萌ちゃん大丈夫? なんなら私が食べてあげるよ」

 だまっていると落ち込んでいる印象を与える。それを避けるため明るくハキハキと話すことに努める。

 「いいよ。この間、啓太に好き嫌いあるのをバカにされたから、今日はがんばるよ」

 「萌ちゃんも真面目だね。私も弟いるけど、そんなこと言ったら叩いちゃうよ」

 「きゃー、おそろしいお姉ちゃん」

 私達は目配せをして笑った。二人ともすごくやさしい。

 ――ありがとう。

 給食の時間での私達のグループはチーム男子対チーム女子のきれいな派閥ができあがっていた。給食の時間にうるさいほど構ってくる圭祐が蓮君とふざけて男同士の会話をしている――席順をして初めてのことだ。圭祐も明るく振舞っているが、長い付き合いで動揺が収まっていないことが不器用な態度と声色でわかった。

 その後、五時間目と六時間の図工の時間は不思議と作品づくりに没頭できた。学校生活におけるつかの間のリラックスタイムで、今月からずっと抱えてきた不良性を一瞬忘れられた気がした。しかし、時折、この後のそろばんと塾のことが頭によぎると、この不良性がまだ外に出せていない、むしろ徐々に膨らんでいく現実に気づく。

 ――私大丈夫かな?こんな気持ちのままではストレスの受容体に多くの邪気が流入してくるかも……がんばらなきゃ。

 結局、昼からの二時間連続の図工の時間に変更になっても、皆お面が完成することがなかった。雨のせいで湿気が多く、思いの外、糊が乾くのに時間が掛り、着色や装飾ができなかったからだ。続きは来週ということになった。お面はロッカーの上に正面が向くように縦らかして置くことになった。ほとんどの子たちが白い紙を張り終えた段階まで仕上げていたので、能面みたいな無機質な面が並んでいて、かなり薄気味悪い雰囲気の教室になる。

 帰りの会まで空は曇り続け、雨も勢いを止めない。この後、四時からそろばん教室に向かわないといけない。私は憂鬱でしかなかった。

 「先生。明日は図工の時間は入れないの?」

 お面づくりに没頭していた子が無駄だとわかりつつ、横やりを入れる。

 「明日はいつも通りの時間割になります。連絡事項も特にありません。雨が強いので、みなさん気をつけて帰ってください」

 一礼をして、みんな蜘蛛の子を散らすように教室を出る。

 「やっちゃん、さよなら。」

 「うん、またね。」

 「今日そろばんでしょ? 気をつけてね」

 啓太くん言い聞かせるみたいに穏やかに萌ちゃんは別れを告げる。

 「……」

 いつもなら「一緒にそろばんに行こう」と誘ってくる圭祐も今日は何も言ってこない。

そわそわしながら何か言おうとしている様子は斜視により確認できたが、敢えて逃げるように教室を出た。

教室は家から少し離れた坂道の多い住宅街の中にある。普段でもぎりぎりで教室に辿りつくが、このような雨の日は少し遅れることが多かった。

 急いで家路に向かい、着いたらすぐに着替えそろばんのバックと塾用のバックの二つを手に取り、一人でそろばん教室に行った。


 不運にも今日は大雨で足元が悪かったせいで、十分ほど遅刻してしまった。

 「泰代ちゃん、いらっしゃい」

 「こんにちは、先生。よろしくお願いします」

 そろばんの木村先生は子持ちの主婦ということもあり、すごく愛想が良く、柔らかな物腰で生徒を扱ってくれる。私はやさしく声を掛けてくれる木村先生が好きだ。先生は生徒を家族の一員として迎えたいという方針で、私達が入室する際は必ず「いらっしゃい」という暖かな言葉を真っ先に投げかけてくれる。

 「……遅れてすみません」

 「こんな雨だもの。気にしないの。圭祐君はもう来ているよ」

 「……そうですか」

 「珍しいわね。いつも一緒なのに……」

 先生は私のぎこちない言動からすぐに私の心情を察したようだ。

 「さぁ、準備をして、やっちゃん。一級合格に向けてがんばろう!」

 「……はい」

 相手に気を遣わせてしまい申しわけない気持ちだ。せめて彼女のこの好意に応えるために私は精いっぱいの笑みを向けることしかできなかった。

 そろばん教室の席は基本的に自由でどこに座ってもいい。圭祐は時折、私の方に視線を向けている。今日は圭祐ともう話したくない。私は一番遠い入口側の席を選んだ。

 ――心配しなくてもあんたの隣なんかに座らないわよ。こんな時ぐらい無関心を装えないのか、あいつは……。

 私は今年の六月に、上級といわれる二級に合格することができて喜んでいた。これで履歴書にも書けるようになったし、やめられる。母親にもやめる許可をもらったし、習い事が一つ減ることにも舞い上がっていた。

しかし父が何を思ったのか最近のそろばんは易化しているため、段位をとるまで続けなさい、というご指令が下された。私は今時、そろばんなんて学歴のアピール材料にもならないことはわかっていた。二級までの計算能力があれば大学入試も十分に事足りるぐらいだ。やめさせもらえるように懇願したが、どうしても首を縦に振ってもらえなかった。

「準備はできましたか?」

「はい」

「三十分以内で解けるように、一級は全問正解しようとしなくていいからね」

「はい」

先生は百均の亀さんのキッチンタイマーのボタンを押す。

――今日こそは合格点をとらないと。

一級の問題は二級の問題と違い桁数がおそろしく増える、一つの級が違うだけで日常生活においては異常とも言える大きな数を処理する必要がある。今の級は百億単位の計算を扱う退屈かつ孤独な戦いを強いられる。

今日の私は全く集中できなかった。日々の疲れと圭祐との学校のいざこざが重なったのかもしれないが、そんな瑣末な問題のせいにはしたくなかった。

みとり算が十五分ほどで終わり、かけ算に入ろうとした時だった。少数第三位未満を四捨五入する、とある問題がどうしてもうまくできない。気分を落ち着けてもう一度挑戦してみるものの、意図しない珠を弾いてしまい答えがぐちゃぐちゃになった。

――精神統一……ここからでも巻き返しはできる。

 またまたワンタッチボタンを押してご破算をしてやってみる。今度は小数点の指の位置が把握できずにどこに移動すればいいのかわからなくなった。いつもの平静に対応できる自分はどこかにいってしまったようだった。

 ――もうこれだからそろばんは嫌いだ。

 もともとそろばんなんて大嫌いだった。正直、小学生の算数の授業で使う数なんてしれるので四級取得で辞めてもよかったぐらいだ。木村先生の指導でここまで来られたけれど、どうやらたった今、私の心の中の忍耐の糸が切れたようだ。

 「ちょっと、泰代ちゃんどうしたの?」

 気付けば私は教室を抜け出していた。さっきは何とか泣くことを堪えられたが、今度はどうしても抑えることができないと判断したからだ。幼子のように人前で泣きじゃくることだけはどうしても自分が許さなかった――自分自身に負けた気がするからだ。


本日、私は爆発したのだ。


 日々気が休まらない生活に耐えられなくなったのだ。今まで溜まりに溜まっていたストレスを矜持や負けない心という栓で押さえ続けてきたが、炎症を起こした赤い腫れものから膿が出るように吐き出してしまった。それも同時に泣き声と嗚咽のセットだ。

 家には母親がいるので、帰ってこの状況を説明するのは嫌だった。どこかへ向かうことは考えないまま、私は傘もささずに坂道を走りながら下っていく。

 恥ずかしさを感じることがないよう勢いよく走り続けているので激しい雨音と荒い呼吸音だけしか聞こえない。ところが、それらは突然聞こえなくなった。誰かが私の手を掴んで止めてくれたからだと理解するには数秒要した。

 坂道をちょうど下り終えたところで圭祐によって止められたのだ。

 「――おい、どうしたんだよ。おまえらしくないな」

 「……うるさいなぁ。放っておいてよ!」

 「――ごめん……俺のせいだよな?」

 素直で申しわけなさそうに圭祐は謝る。

 「違うから!」

 「何が違うんだよ。俺……悪かったって……今日の俺のせいで集中できなかったんだろ」

 「違うから!」

 こいつの前で泣きじゃくるのは一生の恥だと思ったが、今は感情がぐちゃぐちゃしてコントロールがうまくできない。

 「じゃ、何なんだよ? 言わないとわかんないだろ?」

 「……言いたくない」

 「――わかった。じゃ、送っていくよ」

 「いいから!」

 「良くないから!」

 「……こんな時間に帰ったらダメだもん……」

 突き放すようにその場を立ち去ろうとするが、圭祐は手を離さない。

 「――風邪引くから……おまえの家厳しいからな。帰りたくなかったら、しばらく俺ん家にいていいからさ」

 「……」

 圭祐がこんな気遣を滅多にしないせいか私は今とても驚いている。普段はふざけたことばかりしたり、くだらない話をしたりと頭にくることばかり言うくせに……。

 途方に暮れていて、どうすればいいのかわからない。今更そろばん教室に戻るのは恥ずかしかったし、家に帰るのも忍びなかったので、圭祐の家に行く選択肢しか残されていなかった。


 「ただいま」

 見慣れた初老の女性がゆっくり私達を迎えてくれた。圭祐のおばあさんだ。

 「まぁ、圭祐ちゃん。今日は早いのね」

 「ちゃん付けで言わなくていいから」

 少し背伸びをしたい年頃だ。しかし、おばあちゃん子の圭祐は遠慮がちに反抗する。

 「泰代ちゃん、いらっしゃい」

 圭祐のおばあちゃんはすぐ私の異変に気づいて、目を丸くした。動揺をした素振りを一瞬見せ「どうしたの?」という尋問が来ることが予想できた。――雨でびっしょり濡れて、目を赤く腫らした人を見たら誰でもそう発言することは自然だから。それなのにおばあさんは何も言わずただ微笑んでいる。

 「ゆっくりしていってね。今日は寒いでしょ。今、ココア入れてあげるから」

 「さぁ行こうぜ」

 「……お邪魔します」

 立派な玄関から大きな水槽が見える。きらびやかな熱帯魚のカーテンがとても綺麗だ。ただ、一匹だけ赤い金魚が目立って泳いでいる。小学校に入って初めての夏休みに縁日の金魚掬いで捕ったものだ。圭祐が金魚すくいで一匹も捕れずに泣いたものだから、私ががんばって一匹だけとってあげた小さな金魚だった。

 「まだ生きていたんだね……金魚。なんか他の魚と違って浮いているよ」

 「俺が毎日餌をやっているからな。よく食うから一番デブ魚になったんだ。名前はヤッケさんだ」

 おかしな名前にクスリと笑ってしまった。

 ――本当にこいつは何を考えているのかわからない。おそらく馬鹿と天才の紙一重の子どもなのだと思う。

 「餌やってもいいぞ」

 少し恥ずかしそうに、頬を人指し指で掻いている。

 「……うん」

 熱帯魚と金魚の餌を二つ渡され餌を与える。魚達は水槽に手をかざすと条件反射で水面に寄って来た。熱心に食べている魚達を見ていると喧嘩したことがどうでもよくなってきた。

「おまえ、風邪引くぞ。タオル持ってきてやるから、先に俺の部屋に行ってろ」

 圭祐の部屋に行くなんていつ以来だろうか。二年生まではよく遊んでいたが、学年があがるにつれ、異性と遊ぶことがあまりなくなってしまったようだ。

 階段を上がり、廊下の奥の部屋が圭祐の部屋だ。入ってみると、典型的な男の子の部屋だった。ものというものが散乱していて、心なしか何か匂って来る。大量のゲームソフトが床に散らかっている。座るところがなかったので、それらを片づけようとした。その時、ドスンドスンとすごい大きな足跡が迫ってくる。

 「はい、タオル!」

 ものすごく慌てた様子で入ってくる。

 「風邪引かないように念入りに拭いとけよ!」

 おそらく家にある一番大きなバスタオルを持って来たようだ。わざわざ広げて私に掛けてくれた――それもかなり雑に。

どうやら部屋の片づけを急いでするためのようだ。今更片づけをしても一度見てしまっているのに……。

「今日はたまたま片づけしていない日だからな。いつもはこんなんじゃないから!」

「お構いなく……急に来たから。私も手伝おうか?」

「――いいよ。だから拭いておけって」

 圭祐に羞恥心を感じさせないように、わざとタオルで視界を遮るように見せて時間を掛けて髪を拭いた。

 「本当にたまたまだからな!」 

 「……わかってるって」

 ドアのノックする音が聞こえた。

 「圭祐ちゃん、入るよ」

 おばあちゃんは、お盆を片手に持ち、静かに部屋に入ってきた。

 「だから、ちゃん付けで言わなくていいから」

 「はいはい、わかったわ、圭祐ちゃん……圭祐くん」

 「――うーん……もういいよ」

 泰代は少し吹き出す。甘やかされている孫の典型的なモデルだと感じたから。

 「泰代ちゃん、お母さんに電話しておいたから」

 「えっ!」

 ドキリとした。

 「大丈夫!五時半の塾は私が送迎をしますということをお伝えしておきました。時間をみて、そろばん教室にいって私が荷物を取ってくるから今日はゆっくり過ごしなさい」

 「……ありがとうございます……気を遣っていただいてすみません」

 「そんな丁寧な言葉遣いしなくてもいいから。昔のやっちゃんの話し方で大丈夫だから。今日は夕ご飯も食べていきなさい。泰代ちゃんの好きな唐揚げにするね」

 「うん、ありがとう!」

 圭祐のおばあさんは私のおばあさんと同じくらいやさしい。無性に滋賀のおばあちゃんが恋しくなった。


 ――それから暫く二人の間に重い沈黙が流れた。


 私は今のこの状態で、さきほどの状況をうまく説明できる自信がない。圭祐は勉強机の椅子の背もたれを前にして落ち着いて座っている。先に口を開いたのは圭祐だった。

 「……おまえ……最近何かあったのか?」

思いがけない一言に私は驚いた。てっきり、さきほど泣いていた理由を聞かれると思ったからだ。

 「……」

 首を垂れたまま口を一文字に結ぶ。

 「疲れているっていうか――精神的にまいっているんじゃねえの?」

 普段は繊細の欠片もない圭祐に気持ちを見透かされて心臓が縮みあがりそうだった。

 「……うん」

 「俺でよかったら聞いてやるぞ」

 心なしか普段の幼稚な圭祐の言動とまるで違う大人な発言にほんの少し相談してみたくなる。

 「……言いたくない」

 「そうか――無理に言う必要はないよ……。お前の家は習い事よくさせているから体大丈夫かなって心配していた」

 おそらく圭祐は、私が最近するべきことが山積していて、疲労困憊しながら対応している状態が分かっているみたいだ。長い付き合いだと、クラスの皆がわからないような些細なことでも気付くものなのだと、理解してくれる人がいる安心感でつい口を割ってしまう。

 「私……もう駄目かも…そろばんだけじゃなくすべての習い事を辞めたい。今月から土日までお父さんとお母さんの家庭教師が始まって全然気が休まらないから……辛い」

 いままで押さえてきた感情は、まだ出し切れていなかったようだ。再度、恥ずかしながら圭祐の前でかわいくない嗚咽混じりの号泣を披露してしまっている。

 「そうか……じゃ、そろばん辞めようぜ! 俺も正直お前が行っているからつい惰性で通っているだけだし――それに今のご時世そろばんなんて使わないからな。計算なんてエクセルの関数や電卓で事足りるし、俺はあそこに行っている理由は、適度な計算能力と集中力を養うだけだと割り切っているぞ」

 「馬鹿じゃないの? うちのお父さんが段位とるまで辞めさせないと、言っているから無理だよ」

 私は遮る。

 「そろばん二級とれたら履歴書にも書けるからそれで十分だろ? 大体さ――俺たまに高校数学を勉強しているけど、億単位の計算なんてしないから。四級位で十分だよ。もういいじゃん」

「あんたに何がわかるって言うのよ‼」

「泰代――」

「駄々をこねている子どもを諭すみたいに言わないで――私はあんたみたいに秀才型じゃないから。人よりも何倍も努力しないといけないの」

「俺と同じで学年トップだろ? そろばんぐらいで成績は響かないって……」

「そろばん一級の方が就職する際にアピールになるかもしれないじゃない!」

 もう自棄になっていた。

「お前は何を目指しているんだ? 会計士や国家公務員とかになるのか? それでもそろばんは必要ない! 俺が保証してやる」

 「みんなが私に期待するから、それに応えないといけない。――何でもできる子だって。それになんか続けてきたものを途中で辞めるって自分が負けたようで嫌なの」

 「どうしてお前は自分で自分の首を絞めるんだ? なにごとも努力することは大事なことだよ。でも、人というのは自分でできる量が生まれた時に決められている。お前はマルチ――いやトリプルタスク以上のものを抱えて、全部うまくやろうとしている。さらに悪いことに、自尊心や思いあげりが強いため、できなかった時に自分が悪い――まるで罪人のように自身を罰しようとすることが駄目なんだよ」

 「私が勝手に決められない」

 「じゃ、俺が決めてやる――このままじゃ破滅する。そろばんぐらいは辞めろ!」

 ものごとを論理的に考える大人に諭されている気分だ。そんな者に小さな子どもみたいに扱われている私は自分を心の中で笑った。いつもの冷静な私はそこにはいない。むしろ久しぶりに感情的になれる喜びすら感じるほどだ。

 「じゃ、私の将来がぐちゃぐちゃになってもいいの?」

 「そうなったら、俺が養ってやる!」

 「えっ……」

 思いも寄らない圭祐の言葉に驚愕し、かすかな声が不意に出た。圭祐は真剣な目で私を見つめている。私はこれ以上、何も言い返さなかった、いや言い返せなかったのだ。

 「……ばーか、冗談に決まってるだろ。お前みたいなめんどくさい女と一生一緒だなんてご免だね」

 「なによ! 私もあんたみたいな優しさの欠片もないような奴なんて願い下げだし」

 呟いた声に対して圭祐の返答はない。

 気まずい空気がつかの間流れた後、おばあさんが再度やって来た。

 「夕ご飯できましたよ。さぁ、やっちゃんも一緒に食べましょう。」

 ――いいタイミングだな……それにしても圭祐ってほんと何考えているかわかんないや。

 夕食は三人で一緒に食べた。おばあちゃんは圭祐の小さい時の話をしてくれた。赤ちゃんの頃、歩いたり、話したりするのが他の子と遅れていたこと、あまりに落ち着きがないので将来をどうなることやらと心配していたこと等だ。今となっては杞憂に終わっているが、圭祐への深い愛情が話す素振りや顔の表情でたくさん伝わってきた。

 「泰代ちゃんみたいな子が圭祐のお嫁さんになってくれるといいのだけど……」

 先ほどの件もあり、二人ともおばあちゃんの突然の縁談にあたふたする。それをみておもしろそうに笑っている。

 「おばあちゃん、泰代の家までの送迎のふり頼んだよ。俺も乗っていくから」

 これ以上、大事になる前に圭祐は話を遮る。まだ、少し照れ臭そうにしている。

 「はいよ――悪いことするのってぞくぞくするね。バックも教室から取って来たよ。そろばんの先生が心配していたけど、圭祐と喧嘩したことにしといたから」

 「……だな」

 「気を遣っていただいてすみません」

 「そろばん教室の先生の方には俺からうまく言って謝っておくから、おまえは何も言うな」

 ――こいつ案外やさしい奴なんだな。それでも好きにはなれないけど……なんだかローストナッツみたいな臭いがするし……。


                       5



 私の父はかなり厳格で頑固な性格だと言ってよい。しかし、これらの語句のみで彼のすべての性格を形容するべきものかと考えてみると違ったりもする。父は二人兄弟の二男で末っ子であるため、翔太のようにあざとい面を持ち合わせていたりする――人と合わせるきめ細やかな気遣いができる、と器用な部分もあるのだ。

父は外面が非常に良い。女性がさり気なく口角をあげて孤を綺麗に描いたような優しい笑みを人前で向ける。ある人にとっては、とても良い印象を与える一方、ヘラヘラしていると悪い印象も与える――以前、町内の夏祭りで、甘やかされた社長のバカ息子のようにご機嫌をとっていると、町内の人に小声で馬鹿にされていた場面を目撃したことがある。

 動物で例えるなら、父は二面性を持ち合わせたオオカミさんとヒツジさんだ。当然、私にとっては前者の動物として恐ろしく振舞うのだ。

 

 「……父さん……習い事いくつか辞めたい。多すぎて疲れたよ……。」

 「――駄目だ。すべてはお前のためにやっていることだ。少しは我慢しなさい。」

 「だって、土日の家庭教師の授業もあるんだよ――今の気持ちのままじゃ全部うまくこなせないよ――そろばんだけでも……」私は啖呵を切ろうと努めたが、父の高圧的な態度にしり込みする。

 「土日の空いた時間に休んだり、友達と遊んだりできるやないか」

父はなだめることもなく冷酷に泰代を突き放す。

 「……勉強した後ってすごく疲れて、その後、何もしたくなくなっちゃうの――お父さんもお母さんもN中学合格させるためとはいえ指導が厳しすぎるよ――小学生に五時間ぶっ続けで休憩なしの授業はさすがに私には無理だから」

 父の教育心は熱い。若干、狂気じみた指導もある。さらに、勉強のことになると母も普段のやさしい態度を一変させる。一度教えられた基本的事項を忘れていると、ヒステリックになり覚えるまでノートに反復練習を強いる。こんな両親の熱血指導に正直うんざりしていた。

 父は私の悲痛な訴えに目を合わせず、ただ黙ってソファーに座り、参考書を読んでいる。この時の彼は、子どもには人権がないものだ、と言わんばかりに私を扱っているような気がした。私はただ父の態度に対して嫌悪感のみ抱いていた。最終的にもう我慢できない、としびれを切らした私は部屋に逃げ込み、貯めていた全部のお小遣いを抱えてひとりでに家を飛び出していた。


 ――今振り返ってみるとお笑いに聞こえてしまうが、当時の私はもう二度とこの家に戻るこことはないと飛び出したのだった。


当然どこにも行くあてもなく、気が付くと携帯電話に登録してあった祖母の番号に掛けていた。

 寒空の下、何の音もしない静寂の住宅街の中、むなしく呼び出しのコール音だけが耳元で鳴っている。規則的に反復する無機質な音にいたたまれない寂しさを感じた。また、何度も電話しても出ない祖母にいら立ちを感じつつ、私は大胆にも祖母が住んでいる滋賀に行くことに決めた。

 私はファンタジー小説が好きだ。子どもが主人公で、今いる現実世界とは違う異世界に飛ばされ、試練を乗り越えていく常套的なプロットに惹かれる。苦労や困難を乗り越えている純真無垢な子どもに自己投影をして、その主人公の気持ちになって通過儀礼を共に経験する陶酔がたまらないのだ。


――まさにそんな冒険がこれから始まる。


 私の心は不思議と踊っていた。お盆や正月の年二回、父と一緒に帰省しているので、新横浜駅の新幹線から米原までの切符の値段や買い方などはわかっていた。許可もなく家から離れる――ましてや遠くの県外にだまって逃避行することに後ろめたさを若干感じつつ、券売機にタッチパネルを慣れた手つきで操作していく。以前、父が切符の買い方を教えてくれたことが思い出したが、そんな些細なことが頭によぎってしまう自分に幼心でわからないままのいら立ちを感じる。

 改札を通り抜けた時だった、携帯電話が突然鳴り出した。相手は祖母だ。私は急いで電話に出た。

 「もしもし、やっちゃん。電話くれた? 元気にしてるんか?」

 おばあちゃんの声を聞くのは久しぶりだ。私の中の琴線に触れたのだろうか、やさしい不意に祖母の声に、普段愛情に飢えていた私は、周りの騒がしく行き来する人々の目もお構いなしに泣きだした。

 「おっ…おばあた…ん、私…お父さん嫌いになったの。家出していまおばあちゃんの家に行こうとしてる……。」

 「……何かあったんか?」

 「私もう……疲れた――私はお父さんの人形じゃないの。」

 その後、祖母は何かに察したように、暫く沈黙を保った後、

 「いいよ。おばあちゃん――米原駅の改札で待っているから、おいで!」

祖母は子守唄のようにやさしく囁いた。

 

 新幹線にいざ一人で乗ってみると緊張する。見慣れた都会のビルの風景から、郊外の町並みそして茶畑へとめまぐるしく景色が変わっていく。ドキドキしているにも関わらず、茶葉の生産量は静岡が一位で次が鹿児島で……確か京都は五位くらいだったと、無意識に受験のことを考えている自分が恐ろしい。トンネルの抜ける度に、どんどん家から離れていく恐怖を感じていく。

 2時間弱の乗車の後、岐阜羽島の後のトンネルを抜けると、美しい銀世界が広がっていた。この瞬間、小説やアニメの異世界に行く主人公の気持ちがこれほど心細いものかと改めて感じることができ、人々がこれらのメディアに疑似体験を求める理由がわかったような気がした。

滋賀の米原駅に着くと改札の前で祖母が今か今かと不安そうに立っていた。ばつの悪そうに私が改札を出ると、眉間にしわを寄せて心配していた顔が、私の姿を捉えた途端、父のヒツジスさんマイルのように口角を上げて笑って迎えてくれた。父のヒツジさんの部分はおばあちゃん譲りだと思いつつ、自然と涙があふれて出た。暫くはおばあちゃんから離れることはできず、ただ抱きついて泣きじゃくっていた。

 「――やっちゃん、いらっしゃい。よう来てくれたね。おぼあちゃん、うれしいわ。来るまでにやっちゃんの好きな鮒寿司こうといたったで、おばあちゃんと一緒に食べよ」

私は怒りもしない祖母のやわらかな表情に素直に事情を説明そうと思った。目が潤んで視界が眼鏡をとった霞んだ世界の中にいるようだ。でも、祖母のやさしい笑みだけははっきりと見える。

 「よしよし……何にも言わんでいいから……さぁ、おばあちゃん家に行こう。」

暖かな手を冷たい私の手に重ねる。

 「……うっ……うん」

 嗚咽なのか返事なのかわからない返事をする。


 私は黙ったまま、手をひかれてエスカレーターを降りる。待たせてあったタクシーにおばあちゃんと一緒に乗り込み、祖母の家に向かった。


 祖母の家は簡素な平屋建てであった。初めてここを訪れた際、幼い私の目から見ても戦後間もなく建てられたバラックのような貧しい住まいだ、という印象を持ったことを鮮明に覚えている。

こんな家に育って来た父だから当然貧しさ故に性格がねじ曲がり、やさぐれて今の父の二面性の性格を作りだした諸悪の根源みたいなものだと勝手に思いを馳せる。――自身も当時やさぐれていることなんてお構いなし、女子はある意味楽観的と悲観的な光と闇を抱えし儚い存在なのだ。


 「さぁ、こんな汚い家でごめんやけど、あがってな。」

 祖母の私になぜこんなことになったのかと、尋問したい気持ちがぎこちない動作からひしひしと伝わってくる。それでも、子ども心を傷つけまいと平静を装っている祖母の言動が、ませていた私にはうれしくもあった。父と違いちゃんと人権を認めて接してくれている、それも幼い子どものような甘ったるい、憐れみ深いだけの陳腐な言葉はあえて使わずに……代わりに沈黙を守り、やさしい眼差しを向け、見守ってくれる守護神のような存在だ。――これが祖母をますます好きになった理由の一つでもある。

 悲しみに途方に暮れていた私は、何の言葉を発することもなく祖母の家にあがりこんだ。祖母の家はおばあちゃんの臭いがした。私はこの臭いが好きだ。世間一般では加齢臭――年寄り臭い独特なエイジングノート――として邪険に扱われてしまうものだが、なぜか私にとっては安心する精神安定剤のような働きをする香りだ。そんな同年代の子ども達が考えないことを、私は頭の中で形容して表現する変わった子どもだ。


 盆と正月と同じように居間まで案内された。屋内にも関わらず屋外と同じくらいとても寒い。滋賀は十二月の中旬を過ぎると冬盛りが始まる。――雪が訪れるのだ。祖母の家は滋賀の北部にあり、日本海側に面しているせいで、冬がとてつもなく寒いのだ。塾の社会の授業で見た雨温図で十二月から二月にかけての降水量が高く、あぁこれは降水量ではなく降雪量だ、と講師に説明される前に自身で納得したことを思い出した。


 ――私……結局、勉強のことばっかり考えていて馬鹿みたい。


 祖母は私が来ることを知って、すごく豪華なごちそうを用意してくれて待っていてくれた。食卓には子持ちの鮒寿司が置いてあった。

実のところ、メスの鮒ずしは大変高価な珍味として滋賀県民に愛されている伝統的な発酵食品である。オスには卵がなく、安価だが、祖母の私を元気づけようとしてくれていることが、この夕ご飯からも伺える。さらに実のところ、私はこの食べ物がとてつもなく嫌いだ。――いや、違う……好きだという誤解を祖母に与えた私が悪いのだ。


 ある事件は私が九歳の時起きた。

家族と一緒に祖母の家にお正月ということもあり家族総出で泊まりに行った時だった。この時も食卓にお寿司や揚げ物のお惣菜や祖母が家庭菜園で育てた野菜の煮物などを用意してくれ、大ごちそう(・・・・・)だということで舞い上がっていた。

しかし、何か、この世のものとは思えない臭いを発している食品があった。そう鮒寿司さんだ。この臭いを何にたとえて良いのだろうか? チーズの腐った臭いか、はたまた思春期の代謝の良い男の子の部活後の足の臭いと言うべきか。あまりにも強烈な刺激臭で私の顔が歪もうとしたが、「臭い」と、一言でいうのはあまりにも稚拙すぎるし、この時からすでに父の厳格な教育で育った私は人様に失礼な言動は絶対にしないようにと徹底的に叩き込まれていたので、私は歪んだ険しい顔をする代わりに、満面の笑みを保ち続けた。そして、うれしそうに鮒寿司を勧めてくる祖母の親切心に応えるために、震える手を押さえてこの発酵物を口持ちに運んだのだった。

 「おいしいね。」

喜びに満ちた笑顔で祖母の瞳をしっかり見て、大きな声で言った。その時の祖母は、とてもうれしそうに見えた。

 「――そうやね。少し高かったんやけど、泰代ちゃんのためにがんばって買うた甲斐があったわ。」

 「私のためにありがとう。すごくうれしい。ありがとう」

 天才子役ばりの演技で乗り切った自分を褒めたいと思いつつ、口に広がる腐敗臭と魚独特の生臭さが相まって何度も吐き出しそうになったが、祖母の自己犠牲を無駄にしまいとご飯をこれでもかとかき込む。

鮒寿司は米麹と一緒に漬けこみ発酵し熟成するので、この臭気物はいいという白いご飯のドレスをまとっている。地元の人はこの飯をおかずに白いご飯を食べる人もいるという。それを食べる派の一人が父だ。父さんはうまいうまいと私の五倍のペースで食べていく。私が食べなければいけない分も食べてくれるのでいいのだが、腐ったご飯をおかずに白いごはんを食べている父は頭がいかれていると思った。また、父が発話する度に鮒寿司さんの香りが彼の口から漂う――悪魔のデヒューザーとして。

母も最初は抵抗があるのか顔を引きつらせながら食べていたが、お酒が入るとおつまみとして合うのか父の同じようにぱくぱく口元に運び、見事な二台目となっていた。ここは煉獄、誰も踏み入れてはいけない混沌とした世界だ。私は小学生から国語辞典を読むことが趣味だったので、身の回りにある状況を難しい言葉で表現することを好んでいた。

それよりもこの時は鮒寿司が食卓の大皿で出てきて良かった。なぜならみんなでハイエナのようにこれを突いて食べるので、誰がどのくらい食べたのかわからないからだ。

 こんなことから鮒寿司の第一印象は最悪で、味も言わずもがなだが、祖母はあの時の私のことばを覚えていてくれていたことをうれしく感じる。そして、今度は鮒寿司の大皿盛りが直卓の中央を彩るのではなく、私が独占できるようにお味噌汁の前においてあった。それもうれしく思わなければならなかった。






4章のパート2をアップしました(5月6日)

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