原爆投下
1 原爆投下
「本日朝 広島市に新型爆弾が投下される 被害甚大」
昭和20年(1945年)8月6日月曜日の朝でした。
部隊の通信機から当時23歳で通信長を務めていた私の耳に突然その連絡が飛び込んできました。
「広島がやられたそうだ!」
「新型爆弾とはどんなものだ!」
「被害甚大とはどの程度だ」
われわれの部隊内はこの一報によって騒然としてすぐに私は広島城内の地下防空壕にあった陸軍の司令部に問い合わせたのですが何度やっても電話がつながらない状態なのでこれは司令部そのものが壊滅しているのだと直感しました。
その後、広島方面に飛行機で偵察に出ていた部下達からも被害状況が逐一入ってきましたがどの報告も今までの爆弾とは明らかに威力が違うものであること、しかもその爆弾がたった1発であったこと、広島市内は空から見ると真っ黒になっていること、広島城を中心に一瞬にして壊滅して市外へ非難しようとする一般市民が蟻のように列を成しているということを聞きました。
私は原爆が落とされた広島市からわずか南西70キロしか離れていない山口県岩国市内にあった日本海軍岩国航空隊の通信長としてこの日勤務していたのです。
この日は原爆投下の少し前の午前7時9分に「アメリカの大型爆撃機1機が飛来中、警戒されたし」という報告をすでに受けていました。
しかし爆撃機の数が少ないのですぐに警戒解除となり「護衛もない爆撃機1機で何ができる」と全員が朝日で銀色に光り悠々と飛ぶB29爆撃機を見ながら思ったものですが実はこの1機は先発した天候観測機であとに続く爆弾を投下する本隊の3機に広島上空の天気良好を伝えて原爆投下が決定されたのです。
みなさんもご存知のように昭和20年8月6日午前8時15分、人類史上初の核兵器が広島に投下されました。
当時の広島は広島城内に陸軍第5師団本部、宇品港には陸軍船舶司令部などがありまさに軍都としての機能と威容を誇っていました。
広島市の人口の内訳は一般市民が29万人、軍に関係していた人が6万人でその合計35万のうち14万人が何千度という熱と爆風と放射線で犠牲になってしまったのです。
その中にはみなさんと同じ年頃の学生もたくさんいて学校や勤労先で被爆して亡くなった数は数え切れません。
翌日東京の大本営では原子爆弾対策委員会をひらき対策を検討したようですが時すでに遅くその明後日8月9日午前11時2分長崎市でも原子爆弾が投下されました。
この原爆でも長崎市人口24万人のうち6万4千人の尊い命が犠牲になりました。
われわれ軍人はこのころ「マッチ箱1つの大きさで都市を壊滅させる爆弾があるそうだ」という噂をすでに耳にしていました。
またこの爆弾が従来の火薬を使ったものではなく「ウラニウム」という物質を使うことも知っていましたがおそらくこの戦争には間に合わないだろうと全員が思っていたのです。
しかし実際にアメリカ軍は巨額の資金と豊富なスタッフ、十分な時間をかけてこの原子爆弾の開発を成功させて太平洋戦争に間に合わせたのです。
「この新型爆弾を最初に作った国が戦争に勝ち世界を制する」
といわれていたように日本は長崎に2つめの原爆を投下された1週間後にアメリカを含む連合国に無条件降伏をしたのでした。
8月15日正午、岩国の基地内においてラジオで天皇陛下の玉音放送を聞いた私は戦争に負けて悔しいという気持ちよりも死んでいった多くの戦友たちの顔を思い浮かべながら
「今までの苦しい戦いはいったい何だったのだろうか?死んでいった多くの友人や仲間達の死は結局は犬死にだったのであろうか」
と自問自答したのでした。