妻の退屈と、ついでに夫の落胆
およそ、タロス王にとってマリーとは『清潔』で『上品』で『教養』がある上に自分を好いてくれている、という少女だった。
ただそれだけでこの上なく嬉しいのに、人形のように可愛らしい容姿の持ち主だった。戦場で一目ぼれしてさらったので当然だが、好みド直球だった。
彼の言うところの余計な属性、つまりはよくわからない性癖や趣味があるわけでもなく、極めてまっとうに普通の性格をしていた。
もちろん、三メートル半の異氏族に心底惚れ込む、というのは特殊な性癖ではないかという点には議論があるのだろうが。
とりあえず、夫婦関係は円満だった。その証拠として、タロス王以外の一切の男がいない彼の屋敷で、彼女は懐妊した。
魔王様も大喜びの慶事であるのだが、マリー一人がやや複雑そうな顔をしていた。
「マリー……」
ダイ族の領地の中で数少ない文化文明を感じることができる場所、タロス王の屋敷の中でマリーはやや退屈そうにしていた。
ある意味、最初の問題に立ち返ったとも言えるだろう。タロス王が彼女に対して気にしていたことは、こんな人里離れたところにいては退屈ではないだろうかということだった。
そして、実際退屈だったのである。
無理もない話だ、タロス王自身自分の領地で何か退屈を紛らわすだけの何かを用意できる自信がなかった。
文化が乏しいということは娯楽が乏しいということである。もちろん、魔王シルファーの依怙贔屓によって彼女は特権階級であり、妊娠中であるにもかかわらず労働をしなければならない、という立場ではない。
まだお腹は目立っていないが、体調の変化は著しい。長時間の移動や運動は体に悪いだろう。
知識や経験の豊富なユリが面倒を見ている以上、適切な妊婦への指導も行える。
要するに、彼女は健康を損ねることはない。
ただ……暇なのだ。何一つとしてすることがない。
「いえ、ぜいたくな悩みだとは思うのですが……」
「いやいや、深刻だとも。うむ」
当たり前すぎて麻痺していたのだが、マリーは基本的に外で新しい刺激に触れることを好んでいた。
先祖であるシルファーの治める九氏族の領地を、夫と共に回る。
それはある程度安全が保障されている、楽しい旅だったのだ。
夫が何もないと卑下しているこの土地での生活も、妻にしてみればそれなりに楽しかった。
それが、今後長期にわたって制限される、というのは彼女としては面白くなかった。
というか、完全にやることがなくなってしまったのだ。
もちろん、妊婦に仕事を極力させないのは当たり前だ。特にマリーの場合、本人がさほど大柄でもないのに、ダイ族の子供を産むのである。その負担は双子や三つ子にも匹敵するだろう。
なので、することが無いのはいいことだが……。
退屈というものがどれだけ辛いのか、かつて日本人だった彼にはよくわかる。
乞うどころかさらって嫁に来てもらったのだ、その辺りの不満は極力なんとかしたいというのがせめてもの誠実さだろう。
そして、それは貴族などの特権階級では普通の事でもある。
「マリー、できる限りのことをするつもりだが……何かしてほしいことはないか?」
「そうですね……では、本等があれば……」
「本……文化的かつ文明的な……」
本、それは文化の集合体であり、知識を記す物である。
まず前提として文字があり、製紙技術が無ければ成立しない。
それでようやく一冊の本が完成し、そこからさらに一般へ普及するとなると識字率や紙を大量生産する技術が必要となり……。
ようするに、ダイ族に無いのである。
「本をご存じなのですか?」
非常に今更なことを聞いてくるユリ。
確かにダイ族に生まれれば、その存在に触れることは無いだろう。
そもそも字を知っていることがないからだ。紙だって知らないだろうし、本の存在意義も理解していないだろう。
「……まあいいんだが……あるのか、本」
「本ですか。ないわけではないのですが何分前大陸の共通語なので。今の人間が使っている言葉とは大分違います」
アンドラが速やかに答えていた。そして納得の理由である。
十の氏族がこの大陸に降り立って二千年以上経過している関係上、人間の文字も相当変化している。少なくとも、マリーが読める文字は無い。
とはいえ、それは人間の都合。
長寿である魔人からしてみれば、前大陸から生きている者もいるのであえて新しい言語を使用する理由がないのだ。
言うまでもないことだが、魔人以外で文字を操る氏族は存在しない。
「……アンドラやユリさんは読めるのですね?」
「はい」
「ええ」
「ではその読み書きを教えてください!」
目をキラキラとさせながらマリーがねだっていた。
どうやら、考古学にも大分興味があるらしい。
さほど体を動かさずに済む趣味が見つかったようで何よりなのだが……。
妻の尊敬の目を奪われたようで、タロスはやや寂しそうにしていた。




