最後の教えと、少しの別れ
一晩泊まった後に、オカカ王は庭先にある森の、その木の一本を見ていた。
ツノ族の胸の高さの部分と、更に根元の部分の樹皮がはがれていた。
この木に対して、シャケが張り手や蹴りの練習をしていたことは余りにも明らかである。
もちろん、普段から過酷な環境に置いている彼にとって、そこまで辛い訓練ではなかったようだが。
「へえ、これで練習ねえ」
「おう、大変だったぜ」
基本的に、強くなりたければ筋肉を付ければいい。
もちろんある一定の水準に達している格闘技者にとって、過剰な筋肉は行動を阻害するだろう。
だが、極めて一般的な考えと同様に、強くなりたければ筋肉は必要である。
筋肉で体重が増えれば打たれ強くなるし、打撃力も上がる。当たり前のことだ。
そして、ツノ族の成人男性であるシャケは、当然最初からある程度の実力は持っていた。
それが水準ぎりぎりだったとしても、彼はひ弱な人間ではなく、戦闘民族ツノ族の男。
故に、少々鍛えれば十分な成果が期待できた。
「そりゃあよかった……本当に悪いなあ、タロス王」
「なあに、ちょいと狩りを一緒にした程度だ。熱心にやってくれたから教え甲斐もあったよ」
「へへへ……ヨル族の人が別嬪でしたからねえ」
少なからず、そう言う面もあったのだろう。
別に頼んだわけではないのだが、ユリの部下の黄色い歓声が特訓中の彼の耳に幾度となく届いていたのは事実だ。
案外、彼女達もこういう汗くさいのが好みなのかもしれない。
「この埋め合わせはきっちりするからよ、ほらお前ももっと頭下げろや」
「へへへ……本当にありがとうございました……」
「嫁ができると良いな」
仲睦まじい妻を足元に置きながら、ダイ族の王はツノ族の二人を見送ろうとしていた。
しかし、その前に最後に教えておくことがあったのだ。
これだけは、どうしても教えておかなければならないことだった。
「それでだ、シャケ」
「お、おう……」
タロス王はとても大真面目な顔になって、シャケの両肩に手を置いて、膝を曲げて彼と目線を合わせて話をしようとしていた。
最初から、最後に教えなければならないことがあったのだ。
「お前は多分、これから村に帰って、ケンカとかをすることになるだろう。だがな、その時気を付けなくちゃいけないことがある」
「へ、へえ……」
「勝ちすぎるな」
「……?」
「お前は確かに強くなった。ひいき目を抜きにしても、ここに来る前よりも体ががっしりとしているしな。だから、そこは心配していない」
「おう」
「だがな……一発で殴り倒したり、或いは一方的に殴りまくって倒したら駄目だ。そこそこには殴らせてやれ」
仮に、タロス王が相手を一発で殴り飛ばしても、そんなには問題にならないだろう。
タロス王はダイ族の王であり、故に強くなければならない。彼が一撃で自分の氏族を殴り倒しても、歓声が上がることは有っても罵声を浴びせられることはない。
それはオカカ王も同じである。仮に彼へケンカを売る誰かがいたとしても、一撃で倒そうが一方的に殴り続けようが、それでも文句や不満は出てこない。
でたとしても、それは少数派であり無視するべきことだ。
だが、シャケがそれをやれば、もしかしたら不評をかうかもしれないのだ。
「お前は痛いのが嫌いだと言ったが、大抵の奴は痛いのが嫌いだ。そして、お前が気持ちよく相手を殴っている分、相手は気分が悪くなるもんだ。その辺りを考えて戦え」
「……」
「頑張ったって、俺の教えたとおりにやったって、負けるときは負けるもんだ。そんなに気にすることじゃない。それよりも、他人に嫌われすぎないようにした方がいい」
「タロス王」
「そうだ、俺は王だ。だが、氏族の者からは慕われてねえ。俺が慕われるように振る舞わなかったからだ」
世界が変わらないなら、自分が変わるしかない。
しかし、タロス王は如何にして変わるべきだったのか。
それはもはや誰にもわからない。
だが、少なくとも好かれようとはしていなかった。
つい先日まで、氏族の者を嫌っている事を、隠す気もなかった。
「お前はそうなるな、俺の様になるな。孤独を気取っても、困ったとき誰も助けてくれないぞ」
「うす……」
「いくらお前が強くなったからって、何人もに襲い掛かられたり、後ろから殴られたり、寝込みを襲われたらそれまでなんだ。もちろん、いざって時は仕方がないが、勝ちにこだわって酷い真似をするな」
角を使うな、眼を付くな、金的を蹴り上げるな。
その辺りの事は、きっちりと教えておいた。
だが、いざとなるとしてしまうかもしれない。
それが心底心配で、彼は何とかそれを止めようとしていた。
「お前は自分の村で一生呑気に楽しくやりたいんだろう? 住めなくなるような真似はよせ、いいな?」
「わ、分かったぜ……」
「よし、それなら安心だ。オカカ王、シャケの事は確かに返したぞ」
真剣な表情も収まり、もはやただ弟子の出立を喜ぶ師匠の目だった。
元々大したことを知っているわけではないし、初めて他者に教えたので上手くやれたのかはわからない。
だが、惜しみなく与えたつもりだし、きっちりと受け取ってくれたように思える。少しばかりケンカの仕方を教えただけだが、それでも伝わったものはあると思う。
「頑張れよ」
「はいっ!」
心底嬉しそうな夫の顔を見て、マリーも嬉しそうに顔をほころばせていた。




