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法華経の超大奇跡。この教典の真義がわかればあなたは宇宙とコンタクトできる、 カルトで異端の大乗経典。極私的法華経論考 法華経を読み解く 日蓮、石原莞爾、宮沢賢治。改訂増補版

作者: 舜風人

 大奇跡。超奇跡の教典それが法華経だ、

 それをこれから、不肖この凡夫わたくしが縷々解き明かしてゆくのであるのだが、、、


まずいきなりで恐縮だが、


法華経の4つの真理(奥義)をまず冒頭にあらかじめいきなり示しておこう。


1、あなたは実はブッダの悟りに既に達している聖なる仏性(佛光知)を内蔵した「ブッダの子」なのだ。  (だがあなたはそれに全く気付かない?)


2、この大三千世界(宇宙)は、永遠のブッダ(久遠仏、エターナルブッダ)の放つ

  大光源世界(法身佛の世界)であり

  そこには無尽蔵の仏光パワーが充ちている、(だがあなたはまったくそれにきづかない?)


3、だれでも、、あなたでもその宇宙のエネルギー源にいつでもコンタクトできる、そしてコンタクトできたときあなたもまた、永遠のブッダ(エターナルブッダ)となりうるのである

(だがあなたはそれに全く気付かない?)


4、衆生すべてがこのように仏性を内蔵し、エターナルブッダとなりうる可能性を秘めている、

  無知で愚かで酒浸りでばくち好きのそこのあなたにもにもそれはたぶんある。

 (だが誰もそれに気づかない?)




さあ、、、どうでしょうか?


この4つにあなたは即納得できましたか?

分かった

納得できた

ハタと気づいた


、、という人はこれから以下の文章はもう読む必要はありません。

なぜなら、、そういうあなたはもうすでに法華経の深い奥義に達している菩薩 (ボーディサッタ)だからです。


さて


この4つが良く分からない

理解できない

意味不明、


という人は以下の私の法華経解説をお読みくださいますように、、、。


それでは、、、どうぞ、、




法華経、正しくは妙法蓮華経  (サッダルマ・プンダリカ・スートラ)という。

インドで紀元1~2世紀ころ成立したといわれている大乗経典である。

サンスクリット原典では「正しい教えの白蓮」という。

まあ、

大乗経典、、数々あれど、、こんな変わった?異様な?経典はほかにない?のである。

私見では、一風変わった大乗経典の双璧ですね。

え?じゃあもう一つは?

それは浄土経典類ですかね。?


そもそも

大乗仏教 (マハーヤーナ)というのは、原始仏教の、戒律主義、出家僧院主義、分析主義、理論仏教、エリート主義

から脱却してより、

霊感的な

つまりはカルト的・超能力志向の仏教の分派(異端派)である。

シャカの死後、しばらくすると、仏教教団は次第に意見の相違から分派していった。

やがては、大きいくくりでは上座部と大衆部の2大分派に分かれた。


出家や獨座瞑想、戒律や、語学論、知識論、アビダルマを重んじた一派は上座部を結成して、いわゆる小乗仏教といわれるものになった。極論すればこれは自分さえ悟ればOK、とする一派である。

これをごく単純化して言うと、、、

無知蒙昧な俗家信者なんかどうでもよい、、という、、、ある意味エリート主義の仏教。。

ごく一部の頭の良いエリートが、俗人から遠く離れて山奥の僧院に籠り、

そこで、難解なアビダルマ仏教哲学を研修して四諦。瞑想。八正道などの修行に励み、

自分だけサトればいいや。

みたいな、、。。それが上座部仏教です。

その中心概念は、諸法無我、四諦、八正道、12因縁です。

現世の諸現象を瞑想して修行してサトリ現世の苦悩から脱出する(涅槃寂静)を得る、

それが小乗仏教です。

ある意味、、、、これは宗教というよりも「分析哲学」です。


信仰の喜び

神との融合

救済される恩寵

癒しと救済

帰依のよろこび

魂の避けどころ


そういうものこそが「宗教」でしょ?

原始仏教にはこういうものが一切、ないのです。

在るのは

自灯明

法灯明だけです。


冷静に分析し自分の知恵にたよれ(自灯明)

世界の法則を分析してそれによって自分の法則としなさい、(法灯明)

え?これって、、宗教ですか?

違うでしょ?

哲学ですね、というか倫理道徳の類ですよ、


あわれな

迷える

愚かな

悪の誘惑に弱い

酒浸りの

女好きの

そんなどこにでもいるような

おろかなる一般衆生を救済してくれるようなやさしくて厳しい「神」は

原始仏教の、どこにも、どこにも出てこないのです。

つまり原始仏教とはいわゆる、一般的に皆さんが想像するような「宗教」ではないのです。


原始仏教って、分析哲学的な「人生哲学」?でしかないのです。

まあ、牽強付会、してしまうとですね

古代ギリシャのディオゲネス (犬儒学派) とか、、

エピクテートスとかマルクス・アウレリウスなどのストア派

みたいなものなんです。


これはまた、南伝仏教とも言われて東南アジア方面に伝わったのはこの系統の仏教である。


さて大衆部は、その後さらに進化?して大乗仏教グループを作った、大乗仏教は、そういう上座部派仏教を乗り物が小さい、、と言って自分たちは「大」きな「乗」り物なのだと称した。

では大乗仏教とはいかなるものだったのか?

あえて大乗仏教とはどういうものかといえば

ごくごく単純化して言い切るならば


死と苦しみと戒律の仏教(原始仏教)から

生と喜びと解放の仏教(大乗仏教)へ

出家主義から在家主義へ

エリート主義から大衆主義へ

否定主義から大肯定主義へ

戒律主義から大生命主義へ

現実のお釈迦様から久遠仏(永遠のブッダ)の世界へ

難解なアビダルマ仏教から、壮大なファンタジー仏教へ


と言えるのではないでしょうか。


この大乗仏教はチベットや西域、中国蒙古に伝わっていった。


当然日本にもこの系統が伝わることになる。


大乗仏教も様々に分派して、その教説も様々に分派したが、、なかでも、

法華経を奉ずるグループはまあ一種異様な?グループであり今の言葉でいえばカルトグループでしょうか?当時のインド宗教界においてすら、かなり異端でした。

法華経宗派?はインドではその後、振るわずに、、しばらくのちには、インドでは絶滅しています。

インド人のフィーリング?には合わなかった?のでしょう?



だが経典(法華経)は漢訳されて中国へ伝わりそこで天台宗になります、さらに日本に伝わって伝教大師の日本天台宗になるのです。さらにあの日蓮が心酔して「日蓮宗」となり今や、世界中に日蓮宗は広がっているのです。法華経というのはある種の「自己啓発」みたいな側面があるので欧米人にも受け入れられやすいのでしょうね?



さて、、、本題に戻ります。

法華経グループはなんとあの実在の釈迦を久遠佛(永遠のブッダ)として象徴化して、つまり、、永遠化したのである、つまりもう現実に居たあのBC5世紀の修行者シャカではなくて

永遠の昔から現在そして未来へと永遠に存在し続ける久遠仏として絶対化したのである。,


そして、あのBC5世紀のお釈迦様とはそういう久遠佛の1化身にすぎないというのだ。

当然この法華経に登場する釈迦も絶対者としての霊感者としての久遠仏の仏陀の説く、霊的なお話が法華経なのである。この宇宙にはそもそも永遠のブッダ(覚者)なる絶対者が存在して過去現在未来に普遍的にその永遠のブッダは化生,化身、してくるというのだ。

のちの密教シークレット・ブッディズムにおける「大日如来」のような宇宙仏の先取り?であろうか?

永遠のブッダがしろ示すこの世界。

そこではすべてが巧妙に仕分けられて、各分際に満たされているはずだ。

まあこのようにぶっ飛んだことを言い出したのが大乗仏教グループの中でも最も異端派といっていいだろう法華経グループなのである。これではもう原始仏教からは隔絶したもう別宗教(新宗教)ですよね?


のちのちの、明治の日本などにおいては、サンスクリット原典による原始仏教の研究がすすむと、法華経の空想性や、霊感主義があまりにカルトであるために、これは正しい仏教ではないとする学者も出てきたのである、

いわゆる「大乗非仏論」である。

確かに原始経典、たとえば「スッタニパータ」などの教えからはかけ離れた空想的な悟りと超能力のお話ばかりが法華経である。


スッタニパータでは、「誘惑に負けないで犀の角のように一人で歩め」「老人が若い妻を娶るのは修行のさまたげになる」とか、そんな実用的な?教え。戒めというか戒律・処世術ばかりである。

原始仏教はあくまでも冷静なる現実主義仏教である。

この苦しみの現実からどうしたら救い、安寧。和平心が得られるか

それが原始仏教です。

死後の救いとか、、死後に阿弥陀浄土に生まれ変わるとか、

即身成仏とか、霊的な超能力とか、、そういうものは、原始仏教には一切ありません。


ましてや、法華経のように、この経を信じ、授持するなら大奇跡が起こるというようなことは一切書かれては居ないのである。


法華経神秘主義ともうべき教えがこの経の本体であろう。


正に不思議なこと神秘なことのオンパレードである、ファンタジー小説みたい、、といっても過言ではない。


ただし、法華経とは、この経を信じなさいとは書かれているがでは法華経ってどんな教義・カテキズモなの?といわれてもそこんところは実は何一つ書かれていない。


実は、、、、、法華経とは「法華経はすばらしいですよ」ということしか書かれていないお経なのである。


どこがすばらしいのか。どういう教えなのか。は、、ついに一切明かされないで終わってしまうという摩訶不思議な経典なのである。こんな教典はほかにはない、

つまり法華経とは、、映画の予告編みたいなものであって、期待感だけ煽っておいて、さあ結局、、

その映画の肝心のサワリとか。ネタバレとかオチとか一切書かれてないのである。

映画ならば本編を映画館で見ればオチも結末もわかるわけだが、、

法華経の本編?、、、は?、、、、、どこにもないのです。


法華経に書かれていることとは

「この世のどこかに法華経という実に素晴らしいお経がある」

「そこには素晴らしい教えが説かれている」

「その法華経を信じるならば大奇跡が起こる」

「実はお釈迦様はこの法華経を説くために生まれてきたのだ」

「だからこの教典を受持して世に広めなさい」


そういう文言が繰り返し 繰り返し 説かれたお経、、それが法華経なのです。


で、、、?


肝心のその教えそのものについては最後まで読んでみても、一切書かれていないのです。

おいおい、ふざけるなよ。

これじゃ騙されただけじゃないか。ということですよね?


だが、、、、、


そう思うようでは、

実は?

まだまだあなたの修行が足りないのである。

方便品にはこう書かれている。

「法華経の教え(サトリ)はすごい難解で仏様にしかわからないものである」

つまり法華経の教えの奥義は

まだまだあなたのような初心者には感得できないレベルなんだよ、

だから

あなたは

今は

法華経という素晴らしい教えがあるということを

ただ信じなさい

素直に受け止めなさい

法華経というものを受持しなさい

そうやって信じ続けたらいつかあなたの悟りの段階が深まれば

自然と法華経の奥義が悟れるようになるでしょう。

、、、、、、、、、ということなのである。


そもそも法華経とは仏教哲学の理論書?ではない。

描かれているのは久遠仏の描き出す壮大な宇宙ファンタジーである。

だから法華経にアビダルマのような哲学的な理論構築?を求めても無駄である。

理路整然とした哲学書ではない、むしろその対極のなんというのか、荒唐無稽なファンタジーなのである。

法華経とはその壮大な宇宙ファンタジーによって

「ああそうか、この宇宙のどっかには法華経という究極の教典があるんだな」

、、と、真っ白い心で受持すべきものなのである。

受持とは、、すなわち、全身全霊で受け止め信じることである。

そうすることでしか法華経ワールドに没入することができない、

そういうお経なのである。

つまり

法華経とは


「信によってのみ悟得(感得)せよ」


それしかない、、という教典なのである。


そういう意味においては法華経はまさに「カルト」そのものです。

でも宗教って大なり小なりすべて「カルト」なんですよ。

だって宗教って合理的な科学なんかじゃあないのだし

信じるという一点で覚知すべきものなんですから。

そういう意味ではすべての宗教は「カルト」なんです。


だがそうだとすれば?

「原始仏教」ってあれ?カルトじゃあないぞ?


さて、、本題に戻りますが、、、



法華経、サンスクリット原典を直訳すれば、「妙なる白蓮の教え」となる。


法華経とは法華経というすばらしいお経がありますよ、ということで全編終始しているお経である。


しかしその宇宙的な壮大なファンタジー性と、狂熱的な信仰心と、霊性で古来より多くの人をひきつけてきた。

日本では


聖徳太子、空海、最澄、日蓮、道元、


近代では、宮沢賢治、石原莞爾、牧口恒三郎、など、


なかでも宮沢賢治はその遺書で

「私の使命はこのお経を広めることでした』と告白するほどの熱心さだった。


その童話は法華経についての賢治の理解し受持した、広報・宣撫であったというのである。


だがそれにしても、法華経がこのように一部の人を強烈に魅了する秘密は何だろう?


ほかの経典にはない特徴である。

こんな仏典は他にはない。


一言で言えば壮大な久遠佛(永遠のブッダ)たる、世尊が描き出す宇宙にその魅力がある。

そしてそのカルトな霊的超能力の宣布である。

各人が久遠佛であり、人は誰でも超能力者である。


それに気が付けばすぐにでも人は無限の宝蔵からその能力をくみ出して使えるのだという教えはかなり魅力的だろう。


「あなたはまだ気が付かないかもしれないが実はあなたの中には無限の宝が内臓されているんだよ」


、と。教えるお経はほかにはないからである。


そして信心の功徳として、心のそこから信じるなら何でもできると説くお経も他にはない。


観音様を信じるなら刀で切られても一切傷つかない、海に落ちてもおぼれない、火に焼かれてもまったく平気である


そう説くお経もまた、他にはありえないからである。


こうした超能力、信仰心の功徳。個人の久遠佛化、壮大な宇宙観、

などなどが多くの悩める人々をひきつけたのであろう。


だが一方では、、


「法華経とはまるでからくり箱のようなものだ。


 剥いても剥いても出てくるのはより、小さな空き箱ばかり、


 とうとう最後の小さな箱を開けてみればその箱も空き箱だった」


そういう人がいる。


私もそう思う一人である。


法華経という経典は


教え(教説)を説かない経典である。


原始経典の「スッタニパータ」などは明快に教え・戒律。処世訓、八正道。四諦、諸法無我を説いているのとは大違いだ、


法華経のどこを読んでもいわゆる、教義らしきものが書かれていないのだ。


そこに書かれているのは久遠佛の醸し出す壮大なファンタジーな

宇宙的な幻想世界であったり、


あるいは法華経の根本教義とは関係のない?たとえ話、


ばかりである。


あるいはこの経典(法華経)を奉じるものは救われるとか


この経典は素晴らしいとかの称賛ばかりである。


たとえばたくさんあるたとえ話のなかには


「常不軽菩薩」のたとえ話がある、


彼(常不軽菩薩)は誰に対しても私はあなたを軽んじませんといって


誰にもお辞儀して回ったという、究極の無抵抗主義?非暴力主義である。


杖で撃たれたり瓦片を投げつけられたりしても拝み続けた。


だが末期に至ったとき、これで彼は悟りを開き成仏、するることができたという、

この常不軽菩薩という、存在はまさに

宮沢賢治が理想とするまさに「デクノボー」の姿そのものである。


が、、、このたとえ話では、

これだけでは法華経の根本奥義は?いまだわからないままですよね。


このようにそれらしい訓話というか

比喩というか

そういうオハナシ(物語)は沢山出てくるのだが、、

法華経を全編読み通してみても


結局根本教義は一切明かされないままで終わる、

だから期待してどんな素晴らしい教えがあかされるんだろうかと、読んだ人は「あれ?」って感じで拍子抜け?ですよね?



まあ久遠仏という現実のブッダを神格化した存在が究極の教えを説くんですから


早々簡単に教えを安易にタネアカシ?ではだめだということなのであろうが


それにしても何一つ教えとか教義らしきものは書かれていないのが法華経の実態である。




では何が書かれているか


それは先ほどから繰り返し私が述べているように


「この経典は素晴らしい」、


「この経典を信じなさい」。


「この経典を信じれば功徳は果てもない。」


切られても死にませんとか

海に落ちても溺れませんとか


高いところから落ちても怪我一つしませんとか、


そして延々と続く久遠仏の壮大な宇宙的なファンタジーワールドの描写、描写、、、。また描写


さらには


なんか意味深な?たとえ話ばかりである。


三界火宅、衣裏宝珠、長者窮子、化城喩品、薬草喩品などなど、、、。


まあ。


そんなに簡単には初心者には根本奥義は教えられませんよという


あるいはたとえ教えたとしても未熟なあなたには理解すらできないでしょう、、という、、


事なのかも知れないが


でも?

これでは


法華経の真実は


読んだ人各自が


勝手に?


これだといえば

それでも


OKということにもなりかねない。


事実こうしたあいまいさが


後年


法華経の解釈に


影響して


曲解して?独自の


独善的な宗派を作り出したということも否めまい。


何しろ


法華経の教えはこれですということが


全く法華経自体に述べられていないのであるから


そういう意味ではもしかしたら?


日蓮というひとは、法華経を我田引水した、あるいは深読みしすぎた?

最強の「誤読者」なのかもしれない?


これは法華経とは、教義は明かさない教典というのだから仕方のないことでもあるが。


法華経を読んで各自抱いたイメージが


それが法華経の真実一乗なのかもしれない。

というのがある意味、法華経の結論でしょうね。



だから、あえて言わせてもらえれば



私にとっては法華経とは


こんなイメージだ。


(以下、まったく私の個人的な解釈であることをお断りしておきます}




人間とは気が付かないが

実は誰もが久遠仏の分身を宿しており

誰でもほとけになりうべき存在なのである。

しかし

殆どの人はそのことに気づきもしないで無駄に一生を終わってしまうのが現実の哀れさだ、

だから一日も早く気づきなさい、

あなたは本当は佛なのですよ。

あなたには仏の無限の宇宙エネルギーが秘められている。

一日も早くそれに気づきなさい

そして衆生とあなた自身ををそのエネルギーで救済するのです。

そして久遠佛の素晴らしい永遠世界で永遠の悟りの世界で、衆生とともにに生きるのですよ。





私にとっては法華経とはこんな奥義の


経典であると信じている。


その意味では


私は法華経信者であると言えるだろう。


つまり、



法華経の最奥真理はただ一つ。



この経を信じる者は救われるということである。

1点の疑いも持たずとにかく信じなさい。

そうすればとんでもない奇跡的な救いが訪れるというものである。


まさにカルトそのものである。


で、その経の内容とは、どんな教えなのかというと、

法華経には何も書いてないのである。

とにかく信じなさい。

この経を受持しなさい。

それだけである。


それが延々と続くだけである。


たとえば法華経の中に観世音菩薩普門品という章節がある。

これは独立して、観音経とも言われる。

観音様信仰の根本経典である。


この観音経に

観音様を信じれば、

刀に切られても一切傷つかない。

海に落ちても決しておぼれない、

観音様はどんな困難苦境も必ず救ってくれるとある。


ただし、もしほんの少しでも疑念を抱いたら、

それは達せられないという。


とにかく信じなさい、

そうすれば救いは無限であるというのが法華経の教えである。


観音霊場はこの観音様の絶大な救世救人の力に対する信仰から広まったのである。


法華経には、かく救われるというたとえ話が非常に多い。


こうした法華経の要点は


1、人間全て仏性を持っている、人はみんな仏様である。そのことに早く気が付きなさい、


2、宇宙には広大無辺のエネルギーが満ちている。そのエネルギーはあなたが悟れば使いたい放題なんだよ。、

3、霊魂は永遠である。永遠に旅を続ける永遠のブッダの生まれ変わりそれがあなたなんだよ。


4、菩薩行こそ人間の使命である。究極の利他行に生きなさい。それこそがあなたの生まれた意味ですよ。

法華経の要点とはこんな風だと私な思っている。



ところで法華経には意味深な?たとえ話がいっぱいあるので以下いくつかの有名なものについて

概説してみたい。


(なお原典そのままの引用ではありません。かなり私なりに意訳?脚色しています)



〇長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品) のたとえがある。


幼少の時にかどわかされて家を出たまま、困窮して諸国を放浪していた長者の息子が、ある日運命に導かれて、父である長者の城に至り、その城で長者の子供であることを知らずに掃除夫として働くことになります。長者は勿論初めて見た瞬間に自分の息子と分かったのですがだまってその成り行きを見守ったのです。

息子は二十年間、真面目に仕事をして信用を得、長者の財産の管理を任せられるまでになります。そのうち臨終の近づいた長者は親族・国王・大臣などの前で、この息子が自らの子供であることを明かし、一切の財産を譲ることを宣言します。


これは人間誰でも凄い能力を持っているのだが、いかんせん、、それに気がつかずに一生終わってしまうことが多いというたとえばなしである。貴子流離譚のお話でもある。生まれ尊い子どもが故あって諸国を放浪し苦難の道をたどりやがてその身分がわかって幸せになるという、民話のパターンである。

そうだ、貴方も長者の息子なのだよ。それに気がつかないだけなんだよ。

早く気がついて長者の道を歩みなさい。そう仏陀は教えているのである。

昔昔、インドのあるところに、それはそれはたいそうな大金持ちのマハラジャがいたそうです。


そのマハラジャには一人息子がいたそうです。


ところが、この息子が幼いとき、旅芸人の一座に、かどわかされて、

連れ出され、悪党どもは身代金を取ろうという算段。


しかし旅芸人の、一座はその取り分で仲たがい、そのドサクサでこの子は

またしても、一座の男に連れ出されて、挙句の果ては、その連れ出した男も所期の目的を果たさず野垂れ死に、


結局は誰知ることもない貧民街におっぽり出されて、物乞いとなってしまいました、


もちろん幼い少年には、自分がどこの子供であるかが良くわかりませんから帰るすべもありません。


物乞い仲間もまさかこの少年が大富豪の一人息子と知る由もありませんでした。


そうして物乞い仲間とあてどなき放浪するうち、瞬く間に月日は過ぎていったのでした。


もちろんその間マハラジャは八方手を尽くして探し回りましたがようとして行方がつかめないのでした。



そんなある年のこと、何年かが過ぎて、息子は放浪の果て、神のご加護でしょうか?

自然に故郷のマハラジャの住む土地に流れ着いたのでした。


そしてある日少年は、父親の住むお屋敷の前に立って物乞いをはじめたのです。


中を物珍しそうに眺め、門番に物乞いをしていたのです。


そして偶然、マハラジャが城の塔からその様子を眺めていたのです。



遠眼鏡で街の様子を見ていたのです。

そして門のところに望遠鏡を向けると、

少年の物乞いが居ます。


しかしはっと、何かを感じるものがあったのです。


息子の面影にあまりにも似ていたのです。


早速マハラジャは門番に命じてその少年を邸内に入れて、

話を聞こうとしたのでした。


しかし少年はこんな大豪邸の主人が自分に何のようだろうかと思い、

何か恐ろしい目にあうのではないかと恐れて震えて逃げ出そうとするばかりでした。


仕方なく何がしかの路銀と食べ物を渡してどこにいるかと居場所だけ聞いて


返したのでした。


しかしマハラジャはもうわかっていました。

あのあごの特徴そして背中の大きなほくろ、指の大きな怪我のあと


間違いありません。

あんなに探し回った

わが息子です。


しかし信仰深いマハラジャは決してあせりませんでした。


いきなりわが息子よと言ってもこの少年は、驚き疑い逃げ出すだけだろうと。


マハラジャは門番に言いつけて少年の居場所に赴かせ、

「どうだい?あのお屋敷で便所掃除人が必要なんだけどお前してみないかい?給金はもらえるよ」

といわせたのです。


少年はもちろん喜んで飛びついてきました、


そうして掃除人から初めて次第に目をかけてやり、

邸内のいろいろなことを少しづつ教えていったのでした。


数年が瞬く間にたちました。

そのころこの少年はいや、青年はお屋敷の会計係までして財政までまかされていたのでした。


マハラジャはふと重い病気にかかりました。

余命の少なきを知ったマハラジャはもう良いだろうと、

ある日屋敷のすべ手の人々を大広間に集めました、


そうして青年を呼び寄せました。


「皆さん。実は長いこと隠していたのですがこの青年は幼いときかどわかされた

私の息子だったのです。これこれのわけで今まで伏せていましたが

わたしも老い先短い今、真実を発表します。

この子がわたしの全財産を引き継ぐのです」


そういうと老マハラジャは満足げに息を引き取りました。





皆さんこの法華経の寓話からなにを悟りますか?


わたしはこう解します。


1、わたしたちはこの汚辱の世で道に迷い惨めな暮らしに甘んじている。

2、しかし、実はあなたは(久遠仏の化身)なのだ。

3、自分の本当の姿も知らずあてどなく迷う人生。

4、しかしもし仏の真理に気づくならあなたは無限の宝庫を開くことも出来る。

5、早く知りなさい、仏の見えざる真理を、そして宝の蔵を開けなさい。




法華経には、また、


〇衣裏繋珠(えりけいしゅ、五百弟子受記品) のたとえ話がある。


ある貧しい青年が富豪の家の宴会に遊びに行った。富豪はその貧しい青年を歓待し酔いつぶれるまで飲み明かした。しかし富豪はその夜に商用で遠くに旅だたなければならなかった。


で、その酔いつぶれた青年を哀れと思い誰にも知らせずにそっと青年の衣服の裏に高価な宝珠(宝石)をいくつか縫い付けておいて旅立ったのである。

さて、あくる朝、目覚めて青年は富豪が旅立ってしまったことを聞かされて、すごすごとそのお屋敷を後にしてまた、放浪のたびを続けるしかなかったのだった。


衣の裏に、とても高価な宝珠をそっと縫い付けておいたことなど露知らずに、諸国をさ迷って

長い日々を過ごし、、今,こじき同然になって再び富豪の住む御屋敷の前を通りかかったのである。


それを見つけた富豪は、驚いて呼び止め、「一体、君は何をしてるんだ。僕が君のために服の裏地に縫い付けた宝珠に気がつかなかったのかね?あれを売れば一生でも十分なお金になろうというのに」と、告げたのである。


このたとえ話から私はこう解釈します。


①人はどんな人でも

衣の裏にとんでもない宝珠(宝石)が隠されているのだ、ただ、それに気がつかないのである。気がつかずに貧しく一生を終わってしまうのである。


②気がつけば今生の貧弱から、すぐにも開放されるのに。

悲しいかな、誰も自分の衣の裏にそんな宝石があるなんて思いもしない。そうして一生を

貧窮と後悔で送って終わってしまうのだ。

光明の知恵あるブッダは、

「早く気がつきなさい、そうしてそれを見つけて一刻も早く豊穣(宇宙エネルギー)を手に入れなさい」

とおしえているのだ。


③衣の下の宝珠とは何だろう?

それはあなたの中にある「仏智」であり「無限の宇宙エネルギー」である。

だが哀しいかな。あなたは、自分には、そんな物はないと思って一生をむなしく送って死んでしまう。

早く気づきなさい、あなたは仏の化身なんですよ。

あなたのそのみすぼらしい破れ衣の下には実は、光り輝く宝珠が、、宇宙エネルギーが隠されているんですよ。


、、、、、、、、、、、このたとえ話はそう、教えているのである。





ところで、、法華経といえば観音経、観音様というくらい

観音経は有名だ、正式には観世音菩薩普門品という。


さて皆さんは観音様をご存知だろうか?

霊場めぐりの33箇所の観音寺などで知っている人もいるだろう。


観音様とはいったいなんだろう?


これは法華経の中の1章節に観音菩薩普門品というのがありそこにいろいろと観音様の功徳が説かれているのである。


そこに語られているのはまさに不可思議極まりない、信じがたい?ことである。


観音様を信じれば刀で切りつけられても一切傷つかないし、

海におぼれても大丈夫だし、毒を飲まされてもまったく大丈夫だしと、

そのほかさまざまな危害が加えられてもまったく大丈夫だととかれている。


さて、これは本当だろうか?

というか、

疑ったら、、この観音力は現れないという。


心の底から信じれば観音様はあらゆる手段で我々を助けてくれるというのだ。


まさに「観音妙知力」である。


これを現代人はおそらく一笑に付すだろう。


だが、世の中に不思議なことはあるもので、がんが一瞬で消えたとか、

まさに、神の助けで間一髪、難を逃れたとかそういう事実があるものなのである。


世に霊能者といわれる人も、難病を治したり、運命を好転させたりしている事実もある。


すなわち、信じることは、偉大なパワーを秘めているのである。

信じる力は絶大である。信じれば山だって動かすこともできるのである。

そしてこの架空世界・人間界では、その人が信じるように人生は展開していくという黄金律も存在するのである。結局、、人生というものはあなたが思い描いたようになっていくのである。

よくも。。。。悪くも、、、。


キリスト教にもこの「信念のマジック効果」のお話が多く出てくる、


たとえば、、

昔、イエスキリストは

盲人と道で会った。

盲人はイエスの評判を聞きつけてこういった。

「私の目が見えるようにしてください」

イエスは言う。

「本当に見えるようになりたいのか?」

「そうです、ほんとに見えるようになりたいのです」

イエスは言う

「では、この人の願うようになれ」

すると盲人は目が開き物が見えるようになったのである。


さてここで、注意していただきたいのは、

ここでイエスは「私の霊能力で見えるようにしてあげた」とは一言も言っていないということです。

ただ、、「あなたの願うようになれ」としか言っていないのである。


人はもし心の底から信じたなら、

とてつもないスーパーパワーを発揮できるのである。

卑俗な例では「火事場のばか力」がそうである・

イエスはそれを確かめて、この盲人に暗示しただけなのだ。

あなたの信仰心がこの奇跡をもたらしたのですよ。

私はそれを手助けしたに過ぎませんよ。

イエスはそういっているのである。


観音様もまさにそれである。

観音経という経典は、まさに、

人間の信じる力の偉大さを、

マインドパワーの偉大さをあらわした、

いわば最古の?自己啓発の書であると言っても良いであろう。


信じるものは救われるのである。

ゆめゆめ疑ってはならない。


人生で大事なことは


信じること、(あなたの中には秘められた宇宙パワーがある、それに早く気づきなさい)


愛すること、(究極の無償の愛で愛するのです。菩薩行を行うのです)


希望をけっして失わないこと(久遠仏の仏世界は必ず顕現できる、)


この3つである。



以下、観音経の原文です。




妙法蓮華經観世音菩薩普門品第二十五偈




爾時。無盡意菩薩以偈問曰。世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音 具足妙相尊 

偈答無盡意 汝聴観音行 善應諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 發大清浄願 

我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦 假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 

火坑変成池 或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没 或在須彌峰 為人所推堕

 念彼観音力 如日虚空住 或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛 或値怨賊繞

 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心 或遭王難苦 臨刑欲壽終 念彼観音力 刀尋段段壊 

或囚禁枷鎖 手足被[紐]械 念彼観音力 釋然得解脱 呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力

 還著於本人 或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害 若悪獣圍繞 利牙爪可怖 

念彼観音力 疾走無邊方 [虫元]蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去 雲雷鼓掣電 

降雹[樹]大雨 念彼観音力 應時得消散 衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦

 具足神通力 廣修智方便 十方諸國土 無刹不現身 種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 

以漸悉令滅 真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰 無垢清浄光 慧日破諸闇 

能伏災風火 普明照世間 悲體戒雷震 慈意妙大雲 [樹]甘露法雨 滅除煩悩焔 諍訟經官處 

怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散 妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念

 念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙 具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量?

 是故應頂禮 爾時持地菩薩。即従座起。前白佛言。世尊。若有衆生。聞是観世音菩薩品。

自在之業。普門示現。神通力者。当智是人。功徳不少。仏説是普門品時。衆中八万四千衆生。

皆發無等等。阿耨多羅三藐三菩提心。 


さて、

日本では、このような法華経はどのように受け入れられたのであろうか?

誰もが知るようにその代表者は「日蓮」であろう

ただしここでは、日蓮宗の歴史については浩瀚に渡るので、しばらく置いておいて、、


その後の明治以降には特異な

日蓮神秘主義とも言うべき思想家が明治以降多数輩出してきた。

それに少々触れてみたい。

例えば、、


田中智学    国柱会総裁

木村鷹太郎   日蓮を日の神とした、超古代史家

北一輝    「国体論及び純正社会主義」で有名な国家社会主義者、

鷲谷日賢    霊界の統一による世界平和を説いた日蓮僧

井上日召    右翼日蓮主義者、

石原莞爾    日蓮を信奉した軍人・軍事学者

宮澤賢治    法華文学による世界救済を説いた文学者。

江川忠治    死なう団の首魁。


そしてここで


そういう日蓮神秘主義の代表としてここに私が特に取り揚げるのは、


まずは

石原莞爾である。


彼、石原莞爾は欧州戦史を丹念に研究した。

そして勿論熱心な日蓮信者だった。


彼のテーゼは、世界最終戦争論である。

これは近い将来、世界が2大陣営に分かれて最終戦争を行い、それに勝った陣営が、世界を支配するだろうという思想である。


そしてわが日本がもしその最終戦争に勝利すれば、その後世界から戦争はなくなり、

法華経の理想社会「一天四海皆帰妙法」が実現すると説いたのである。


この最終戦争は天皇を信仰するアジア、王道日本と、天皇を信仰しない覇道アメリカとの間で起こると石原は考えた。


もしアメリカが勝てば最終平和は実現しない、しかし、日本が勝てば、八紘一宇の理想世界が実現するとしてそのために「昭和維新」を唱えたのである。


また日、韓、満、中、蒙の5族協和による欧州対抗を説き、「東亜連盟」の重要性を、説いた。

これは満州国の実現で現実味を帯びてきたが、


更に産業革命によって欧州に負けない基礎作りも説いていたのである。


これらの彼の説はほとんどが法華経の予言による、仏説に対するほとんど妄信的な信念でもあった。


「日蓮宗本門の戒壇を日本国に設けて、日本国の国体による世界の統一」というのが彼の最終的な結論でもあった。


彼の夢見た最終戦争後の世界帝国とは、神話の帝国でしかなかったのかもしれない。


彼は満州国の運営をめぐって甘粕正彦と齟齬をきたして志半ばで追放されてしまった。


その後は半ば引退状態ですごし、終戦を迎えて、そのため戦犯にも問われずに、、昭和24年に没している。




さて、、、、


次の、、日連神秘主義の法華経信者の巨星とは?

それは

宮沢賢治である。


彼の童話とは彼の法華経信仰と現実生活との苦闘の跡そのものであり

修羅の苦悩であり、その壮絶なる戦いの吐露なのである。

一般に言われているような

ホンワカした、みんなよい子的な人畜無害なホワイトメルヘンではないのである。


ある意味、現代風に言うならば賢治童話とは究極のブラックメルヘンなのである

たとえば、、

彼に「くもとなめくじと狸」という少々怖いお話があるのをご存知だろうか?


ここには当時は許されただろうが、今は差別用語として許しがたい表現もあるので、

そのまま引用するのは差し控えるが、


地獄行きのレースをするこの呪われた三人の短い人生がおぞましくつづられているのである。

あの、ユートピアニスト?の賢治からは想像もできない、

いわばホラ-小説のような陰惨な世界がここにはあるのである。


くもも、なめくじも、たぬきも

平気で獲物を殺し食ってしまうし、無慈悲に殺して何の罪の意識もまったくない。


機械的に残忍に殺す様子が面々とつづられる。


これは果たして子供に読ませていいものかと考えざるを得ないほど、はっきりいって残忍だ。


次に、

「土神と狐」という作品では、

椛の木に恋した土神が

なんと嫉妬に我を忘れた土神が恋敵の狐の体をねじって投げつけ、容赦なく踏みつけて殺すのである。

ストーカー殺人?なのである。

これは果たして童話なのか。


其れとも異常なストーカーまがいの犯罪小説なのか?


宮沢賢治を、甘ったるい人畜無害な童話作家とおもっていないだろうか?


とんでもないことだ。彼は人間心理の怖いところもしっかりみつめているのだ。

人間の心の中には天使も居れば悪魔も居る。

まるっきり善人も居ないし丸っきりの悪人もいない。

というか、人はそのときそのときで悪魔にもなれば天使にもなる

人間深層心理の闇は深い。

さらには

グスコーブドリの伝記ではもっと危険な思想が子供に宣言されるのである。

ブドリは冷害をとめるために、最後まで自ら火山に残り火山の大爆発で

死を持って衆生を救う。身を捨てて衆生を救済するという宗教の究極の命題なのだが、

これは童話のテーマとしてどうでしょうか。

これが童話だとして、、

右も左もわからない、いとけない子供にですよ、

「衆生の幸福のためになら自身の死をもって奉仕することもありうる」、と教えてるんですよ。

もっと言うなら子供に向かって自殺奨励してるんですよ。

これってヤバくないですか?童話ですよ、子供対象ですよ、

賢治童話を甘ったるい、そこらによくあるような「良い子ちゃん童話」と見誤ってはならない。

賢治童話は究極のダークファンタジー。ブラックメルヘンなのだから、、、、。

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こういう賢治の童話とは、、、

それはまさに捨身飼虎のジャータカ譚にルーツを発するものであるが

釈迦の過去世の功徳譚の集大成である。

そのように仏陀は過去生で幾多の功徳を施してからこそ、

仏陀(覚者)になり得たわけである。

飢えた子連れのトラを見つけた過去のある時代の釈迦の前身は

このままでは親子とも飢え死にしてしまうことを哀れに思い、

なんとトラの前に我が身を投げ出して食わせてトラの親子を救ったのである。

それが捨身飼虎というオハナシである。


また、ジャータカ譚(本生譚)に

こんなお話がある。

兎、狐、虎が3匹いた。

そこへおしゃかさまがきた。

3匹は何とかお釈迦様をもてなそうと

虎は、森に行って獲物を捕まえてきてささげた。

狐は森に行って、木の実を拾ってきた。

しかし兎は森に行っても何も得られなかった。

兎はお釈迦様にこういった。

「私はなにもありませんでした。ですからこの私をドウゾ食べて下さい」というが、焚き火の中に

身を投げたのであった。

お釈迦様はそれを見て直ちに兎を神の列に列したのであった。

というお話である。

一身を捨てて尽くす。

まるでどこかの国の忠君愛国のような。

だが本來これはそうではなかったはずだ。

この教えは肉体などといううつしみの仮の形を捨てろということだ。

しかしこれを物心もつかないような子供に童話として語っていいものだろうか?

何もわからないような子供にこれを語り奨励するって?

自殺奨励?を童話で語るって

モロ危険童話ですよね?



さて回り道はこのくらいにしてそろそろ今回のまとめに入ろうか、


そもそも法華経というものを、成立史的に見るならば

大乗運動の一分派としての

法華経グループが

この衆生救済・在家主義。久遠仏思想を前面に押し出した教団として成立した、

それはインドで2世紀ごろといわれている。

その教団の教理の集大成が「法華経」である。

法華経グループの信者は当時のインドでも結局多数派にはなれなかった異端派グループだった。

その証拠に、法華経がやがてインドでは消え去ったのである。


さて、、、法華経、

正しくは「妙法蓮華経」という、

この経について語りだしたら、きりはない。

実はそのころのインドでも、この法華経一派は異端視されて

やがてはインドでは消滅してしまったという事実である。

それくらいインド本家でも一風変わった?宗派だったのである。

ただし、この経文だけは漢訳されて中国に伝わり日本にも伝わった。


そしてなぜか?日本人はこの教典にひどく魅されてしまった?

すごいマッチングしてしまったのだ。

なぜか、どっかが日本人の心性に合致する要素があったのであろう。


中でも、それが、、のちのち、日蓮の心を強烈に捉えた。

法華経の行者、日蓮と自称したくらいだからそのほれ込み方は尋常ではなかったろう。

日本人と法華経とのマッチングの典型である。

宮沢賢治も青年期に法華経とめぐり合い、

後に、「私の一生はこの経典を広めるためだったのです」とまで言わしめている。


そんな一部の人々を魅了してとらえる法華経の教理は

先ほどから私が申し述べているように、、実は教典自体には何もかかれてはいない、


だが私なりに深読みして?教義をを要約すれば、


そのまず根本にある要素の一つでおそらく日本人の心をとらえた最大の要素が、、、、



菩薩行であろう。

衆生救済である。

自分ひとり悟ってもダメ。

衆生が救われない限り、アラハン、獨覚、声聞、縁覚、観音、ボーディサッタの救済もない。

これが法華経の最大要素の一つである。


であるから、日蓮宗ほど、常に社会への働きかけを重視する仏教教団もない。

今に至るまで、政治に対して関わろうとするのはそれがタメである。


鎌倉幕府に直訴した日蓮である。

今も、宗教系の政治団体といえば日蓮系と決まっているのを見ても明らかだろう。


宮沢賢治も「まず社会が救済されなければ個人の幸福もない」と断言する。


個人救済より衆生の救済が優先される。

法華経の

菩薩行

衆生救済という法華経の要素が日本人をとらえたという一面は大きいのだろう。




さて最後に、、、


総括的に「法華経」なるものをまとめてみるならば、


この経典は、哲学的に、分析的に読み解くものではないという重大な?事実であろう。

そもそも法華経とは仏教哲学の理論書ではない。

そういう論理的に分析しようとして法華経にアプローチをしてみても、ちんぷんかんぷん?

これって、壮大なほら話?の、連続?、、、、でしかないであろう。

なんじゃこれ?ほら話?、、っていうのが法華経、、、、という結論で終わりであろう。


そうではなくて


この経典は、

心で感じるべきものであり。

体得すべきものであり、

感得すべきであり

受持すべきものであり

信じ切るべきものなのである。

感じ取れ

全身で受持しなさい

心の底から信じ切りなさい、

それこそが法華経なのです。


そういう、、なんというか、


象徴的な意味深な?

象徴文学

比喩文学?

アレゴリー文学としての宗教的な壮大なる宇宙ファンタジー?、、


それが法華経の真実なのだから

ムリに分析しようとしたり

合理的に

論理的にせんじ詰めようとしたら


法華経はまさに荒唐無稽な嘘話?ほら話?ばっかりでしかないじゃないか



っていう結論でオワリですものね。




そうではなくて、、


考えるのではなくて、心で観じるのです。


真っ白い心で「受持」するのです。


無心に信じ切るのです。


疑うことなく菩薩行(利他行為)をするのです。


わからなくても、、、

荒唐無稽でも、、

とにかく信じ切る

そうすることで

やがてあなたの魂の段階が深まれば

自然と

法華経の真理が観えてくる

感得できるようになる


それが、、法華経なのです。

そこにしかこの経典の神義は無いのですから。



南無北斗妙見菩薩

北斗七星の化身霊験あらたか


南無七面天女

身延山に棲む龍神の化身


南無鬼子母神

破邪顕正の鬼の女神  インド名 ハーリティ


南無八大竜王

アンダーグラウンドの世界を支配する蛇の化身


南無大黒天

インド名マハーカーラ インドでは暗黒界を支配する神

日本では福の神に転化


南無帝釈天

インド名インドラ。仏法の守護神



南無毘沙門天

天部に属すr仏法の守護神


南無摩利支天   インド名 マリーチ

陽炎の化身、あらゆる災難から守護してくれる


南無観世音菩薩  アバローキテシュバラ  インド名

観音さまである。この菩薩はあらゆる災難からあなたを守ってくれる


南無阿修羅神

アシュラは元魔神であるが仏法に帰依して守護神となった


南無持国天

大地を支える神


南無常不軽菩薩

究極の無抵抗主義の実践者


南無弥勒菩薩  インド名 マイトレーヤ

56億萬年後に現れた衆生を救済する神


南無普賢菩薩

普賢菩薩は、法華経を信じるもののために

白い巨象に乗って現れ、あらゆる悪霊から

守るのです


南無文殊菩薩   インド名 マンジュシリー



南無地蔵菩薩  イド名 クシティガルバ



南無薬王菩薩

あらゆる病をいやしてくれる神


南無妙音菩薩

妙音菩薩は変幻自在であり34もの姿に化身して法華経信者を守るのです。


南無勢至菩薩

迷えるものを仏法の道に導いてくれる神


南無八幡大菩薩

日本神話の武運の神


南無天照大神

日本神道の最高神、アマテラス


南無弘法大師

真言宗開祖、空海


南無伝教大師

天台宗開祖、最澄


南無釈迦釈牟尼佛  ナーム・シャーキャムニブッダ

仏教の開祖、実は釈迦は過去現在未来に渡って「久遠仏」(永遠のブッダ)として

2万回も生まれ変わって人々に法を説いてきたのである。






南無妙法蓮華経    ナーム・サッダルマ・プンダリカ・スートラ


南無妙法蓮華経    ナーム・サッダルマ・プンダリカ・スートラ


南無妙法蓮華経    ナーム・サッダルマ・プンダリカ・スートラ


南無妙法蓮華経    ナーム・サッダルマ・プンダリカ・スートラ


南無妙法蓮華経    ナーム・サッダルマ・プンダリカ・スートラ


南無妙法蓮華経     ナーム・サッダルマ・プンダリカ・スートラ




以上の諸神、諸仏、諸菩薩の御名、そしてお題目を毎日、


無心に、真っ白い心でとなえてみてください、


分からなくてもいいのです。

というか、むしろ、下手に論理的・分析的に読むなどは害悪です。

無心に

真っ白い心で

信じ切るのです。

受持するのです。

全身全霊で受け止めるのです、


無心に唱えれば必ずなんらかな良き変化が、


好転が必ずあなたに訪れるでしょう。




もっと、極端に言えば


これら諸神、諸菩薩の中で、


あなたが気に入った?というか、これは相性がいいというオーラが出ている


一神、一菩薩の御名だけを毎日無心に唱えても、その効果は変わりません。


たとえば、「南無観世音菩薩」と毎日1000回唱えるのです。


そうすればやがてある日あなたはふと気づくだろう、

そこにはいつのまにか、

あれ?どうなってるんだろう?

わたしって、、解脱している、、、、

白光の光明に包まれている、、、

諸神、諸菩薩に囲まれて

御曼陀羅の蓮弁の座に浮かんでる

そういう

まっさらな、ご自分を見出すことでしょう。


これこそが法華経の光明力であり

観音妙智力なのです。

だから

決して疑ってはなりません。

信じるのです。

感得するのです。

受持するのです。


永遠のブッダが、しろ示す、この大千世界で

あなたは永遠の命の讃歌をご自身で

発露・開眼するのです。

それこそが法華経の奥義なのです。


あなたは自分をみすぼらしい、みじめな、貧しい、孤独な、、見捨てられた、

存在だと信じ切っている


だが、、


本当は


本当のあなたとは、



あなたは実は、、とんでもないような巨人タイタンなのです。


あなたは実は素晴らしい宝石を胎内に秘めているのです。


あなたは既に限りない悟りの境地に達しているのです。


そのことに一日も早く、気づくのです。


そうして永遠のブッダの


知恵と豊饒とを

今すぐにでも

手に入れるのです


あなたはこのことを信じますか?



それともほら話だといって全く信じませんか?





すなわち

究極的には。、


法華経とは


あなたが


この教典を


信じるか?



信じないか?



法華経なんてものは荒唐無稽なほら話だけさ、とあっさり切り捨てるか。


あるいはまっさらな心で全身全霊で信じ切り、法華経を受持できるか。



全ては、、、あなたの二者択一にかかっている、、、ということなのです。


それこそが


すなわち


この


「法華経」という、この魔訶不可思議なる仏教教典の奥義なのです。



あなたは信じますか?



それとも?











付記


原始仏教については私の


原始仏教の思想原理  大乗仏教との異質性 冷静なる求道者としてのブッダ

http://syosetu.com/usernovelmanage/top/ncode/1204879/


を参照くださいませ






私の仏教研究シリーズ


「極私的仏教考察」全19作品もご覧くださいませ



極私的仏教考察



上記をコピーアンドペースとドロップして検索してください



付け足し

今NHKの100分で名著シリーズでは

「法華経」を放送中ですが、、、

これは通り一遍のまあ上っ面だけの

「解説」ですから

信仰という意味での法華経の神髄は

無視していますから

余り参考にはならないでしょうね。


法華経とは私が縷々といてきたように

信じて「受持」すべきものであり

学術的に解説などしてみても無意味だからです。


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[一言] 詰まるところ、悟りの書なんでしょうね法華経って。 一は全なり、全は一なり。 空は密であり、密は空なり。 何を悟るか貴方次第と。 なお、消臭系が末法思想云々言ってるけど、 原始日蓮(宗)的な…
[良い点] 法華経の記事を色々調べていたが、よく調べられていてかつ体系的であった。歴史的な分析もされていて素晴らしいです。法華経を調べる際に立場はどうであれ目を通しておいた方がいいと思います。 [気に…
[一言] 法華経ってなんというか、庶民向けなんですよね。岩波書店版を読破したとき、「やたら長くて論理性は薄いけど、幻想的で希望を抱ける感じのいい話だなー」って素朴な感想を抱きました。逆に色々と持て囃さ…
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