5.おかしな上司
「梶原が急に消えるから、弘子ちゃんが心配して探してたんだよ」
爽の目の前に立つスーツの男性は、そう言いながら穏やな笑顔を見せた。
「平田主任。すみません……」
「僕は面倒になって帰ったか、誰かお持ち帰りしただけだろうって思ってたけど……なに? ナンパ? やるね」
「は? ……ナンパですか?」
「だって……ほら」
そう言うと、その平田と呼ばれた男性は陽奈に視線を向けた。突然、視線を受けたことに驚いて目を見開くと、その男性はそんな陽奈に優しそうな笑顔を見せてきた。
無意識のうちに陽奈の心臓が、ドキッと脈を打つ。
それもそのはず、明るめの髪に整った顔立ちに甘いマスク。とんでもなく優しそうな笑顔だったのだ。どんな女性でもその笑顔を見ればたちまちに恋に落ちてしまいかねないだろうと思えるほどに、とにかくかっこいい男の人だった。
陽奈も例外なく、反射的に顔が赤くなっていく。その時どこからか不機嫌そうな舌打ちが聞こえてきた。
「……平田主任。陽奈に色目使わないでください」
「ふ~ん、陽奈ちゃん……ね。可愛い名前」
平田はそう言うと、爽の背後に立つ陽奈の方に近づいてきた。
“平田主任”? もしかして……この人は会社の上司? ということは、この可愛らしい女性も、仕事関係の知り合いなのだろうか……彼女ではなく?
「初めまして、陽奈ちゃん。梶原の上司の、平田 裕之といいます。梶原がどんな手を見せたかは知りませんが、良かったら僕のことも知ってみませんか?」
「……は?」
爽と、この二人の関係をぼんやりと考えていた陽奈は、突然のイケメンの言葉に素っ頓狂な声を出す。
……今、なんて?
陽奈がまじまじと、この変わった言葉を発した爽の上司を見つめ返そうとすると、その両目を大きな手でふさがれた。
「陽奈、見なくていい! 平田主任も、いい加減にしてください!」
「ふふふ……梶原、珍しい反応~」
「ナンパじゃないんで。店を出たら陽奈が見えて、ちょっと困ってそうだったから来ただけです。変な誤解しないでくださいよ」
「ふ~ん。そんなに怒るところをみると、梶原の彼女?」
「……主任に説明する義務はありませんので」
「ふふ~興味惹かれる切り返しだなぁ~。彼女との、関係を知られるのが嫌とみた……と言うよりは、彼女のことを隠しておきたいのかな? さては太富豪の深淵のお嬢様なのかな?……こう見えて、既婚? 君たちはつまり……」
ちょっと……そうちゃん!
爽が曖昧に答えたばっかりに、この上司にあれこれと迷惑な想像をされる羽目となっているらしい。爽に訂正するように、さりげなく視線を送るが、爽は陽奈の方を一切見ない。しかもこともあろうか、さらにとんでもない切り返しをした。
「どう思われようと、構いませんよ」
「へ~」
その言葉に平田はニヤリと面白そうに笑った。その隣で、山口が陽奈に批難を込めた視線を送ってきた。
なんで……! もうっ!
「私たちはただの幼馴染です!」
しびれを切らせて、爽と平田の会話に割ってそう宣言する。
「あれ? なんだ……幼馴染かぁ~」
不本意ながら、残念そうな声を上げる平田と、驚いたような表情を見せる山口の姿が映る。山口においては、やがてちらりと陽奈にその視線を向け、まるで“ただの幼馴染だったんだぁ?”というようなあざけ笑うような表情を見せた。
嫌な感じだ。どうやら山口は、爽に気があるらしい。
「梶原の幼馴染……」
平田は再度、その言葉を頭の中に繰り返すように、呟いた。
そして何か思うことがあるのか、その言葉とともにじっと陽奈を見つめてきた。
このイケメンは爽の上司……ということは、父親の仕事関係者と言う事だ。
もしかして、爽と父親が知り合いであること知っていて、爽の幼馴染が父親の娘と気が付いたのだろうか。
もちろん陽奈は、父親の仕事場には行ったこともないし、全くの部外者だ。
しかし専務の娘ならば、礼儀としてきちんと挨拶はしておいた方がいいだろうか?
「初めまして、笠井 陽奈と言います。そうちゃんの上司だそうですね。実のところ、私の父もそちらの会社で働いております……もし、お知り合いで有れば、父のこともよろしくお願いいたします」
そう言って深々と頭を下げる。あまり関係はないだろうが、一応礼儀として挨拶をしておいて悪いことはないだろう。
すると陽奈の言葉に、平田は「お父さんが……?」と、呟いた。
しかし同時に、突然、爽が陽奈の手を取った。
「すみませんが、俺、これで失礼します。こいつ、送っていくので」
「え?」
爽の言葉に驚いて顔を上げると、爽が不機嫌そうな様子で陽奈の手を引き、踵を返して歩き始めた。
「えっ……そうちゃん! 私、一人で帰れるよ!」
とっさに、そう爽に呼びかける。
二人を置いて行っていいのだろうか?
“主役”とも言っていた。もしかして何か、爽に関する飲み会が開かれて…………あっ!
「爽くん!! 待って!」
陽奈がある結論に行きついた時、山口が大きな声で二人を呼び止めた。
その声に陽奈は足を止め、後ろを振り向く。山口はその陽奈の視線をすり抜けて爽に近づくと思うと、おもむろに爽の腕を取った。
「待って。みんなで渡したいものがあるの。それに私も……せめてそれだけでも……」
その言葉に、一瞬陽奈を掴んでいた爽の腕の力が弱まった。
やっぱり……あれだ……
迷った様に山口を見つめる爽に、陽奈は呼びかけた。
「……私、一人で帰れるし、みんなのところに帰って?」
「駄目だ」
「でも……もしかして、そうちゃんのお祝いだったんじゃないの?」
「え……?」
「今日、誕生日でしょ?」
「……覚えてたのか?」
「……。とにかく、行って……」
そう言って、爽に掴まれていない手を使って、爽の手を引き離す。しかしそのまま離れようと後ろに下がった陽奈を、爽の手が再び捉えた。
「駄目だ。なおさら、帰るな。送るから……少し待ってて」
爽はそう言うと、陽奈がうなずくまで念押しし、山口と繁華街の向こう側に消えていった。
今日は“爽の誕生日”だった。
“覚えてたのか?”
今日この時、会った時は一瞬飛んでいた。でも、忘れたことはない。
お祝いできなくても……
「今梶原についていけば、君のお目当ての人もいるよ?」
「ひゃっ……!」
突然背後からそう呼びかけられて、驚いて声を上げる。とっさに振り向けば、先ほどのイケメン上司、平田が陽奈のすぐ後ろに立っていた。
「びっ……びっくりした……。一緒に行かなかったんですか?」
「君、笠井専務の娘さん、でしょ?」
平田は陽奈の質問には答えず、ニコニコとそう尋ねてきた。
どうやら、先ほどのあいさつで父親との関係が結びついたらしい。おそらく“笠井”と言う苗字は社内では珍しいのだろう。
「はい」
「ふふ……やっぱり。だから梶原は紹介を渋ってたわけだ」
え?
「……どういう意味ですか?」
「君は……社内では有名だからね。まあ……知ってるとは思うけど」
「有名? なんで……」
「今日は企画部も一緒なんだよ?」
「はぁ……?」
“企画部”?
何のとこだろう。父親の管轄部署は良く知らないが、飲み会に父親が来ていると言うことだろうか?
「行かないの? それとも、梶原に遠慮してる?」
「は?」
「梶原の歓迎会での啖呵、良かったよ~。やっぱり梶原に軍配が上がるのかな?」
この人……さっきから何を言ってるのだろうか?
日本人とは思えないほど色素の薄い茶色の瞳を輝かせて淡々と語る様は、この事柄がたまらなく面白いと言った雰囲気だ。
さっぱり、意味不明なのだが。
「でも諦めるしか……」
「すみません!」
「はい?」
「さっきから、何を言ってるのか、さっぱりわからないんですけど。どなたかとお間違えじゃないですか?」
「え? ……だって、君、専務の娘さんでしょ? もしかして娘って2人いるの?」
「娘は……私だけです。もう一人双子の兄がいますけど」
「じゃあ……」
「私が有名って、どういう事ですか? 私、全く父の会社のこと知りませんし、行ったこともないんですけど」
「え?」
初耳という雰囲気で、平田が大きく瞳を広げた。
いったい、なんなのだ?
そう思いつつ、言葉を続けようとして、ハッとある事実に行きつく。
「……あっ!? もしかして……父が私のこと、会社であれこれ話してるんですか?」
実のところ、陽奈の父親は娘を溺愛しているのだ。昔から、陽奈がごくごく平凡なことをしても、父親には200%美化されて映るらしく、近所や友人に誇張されて伝わることは珍しいことではなかった。そのたびに、陽奈は他人から多大な期待や賞賛を受ける羽目になり……。
物心がついたころより、陽奈が再三訂正してきたことにより、少しはましになってきたように思うのだが、根本のところでは、陽奈が大人になっても変わっていないと思う。
それゆえに、”勝手に社内に陽奈のことを話している”という説は……大いにあり得る。
「……笠井専務……?」
「すみません……私の父、職場ではどうか知りませんけど、家ではかなりの親バカなんです……。すごく優しくていい父親なんですけど、昔っからなぜか私のことを良いように誇張して、自慢してペラペラ話すんですよ。訂正するのも大変で……ほんとこっちは迷惑してるのに……再三、知らないところで言うのはやめてって言ってたのに……もうっ、信じられない!」
まさか、会社にまで及んでいたとは……!? 噂? 冗談じゃない!
「ははぁ~なるほどね……」
陽奈の言葉に平田はそうつぶやくと、納得したように何度かうなずいた。
なんとなく、この人の言動はどこかずれている様な気がしてならない。人を馬鹿にしているようには感じないが、かといって同じ視点でものを見ているわけではない。
徹底した傍観者と言えるのか……一言で言えばーーーーーーー変な人だ。
「ようやく合点がいったよ」
「はぁ……」
何に?
こちらはあなたのおかげで、疑問だらけですけど。
「専務かぁ……梶原に……ふふふふふ」
この人……やっぱちょっとおかしいかも?
何に対してなのか、一人で笑い続けている平田から離れるように、一歩一歩後ろに後ずさっていく。
5歩下がったところで、平田から背を向けて走り去ろうとする。しかしその腕を敢無く掴まれた。
「待った……まだ聞きたいことがあるんだよね」
キラ男ほどは嫌悪感は感じないものの(キラ男のように、手の感触がねっとりとしていないからだろう)、反射的にその手を振り払う。渋々振り返ると、出会った時と同じようなキラキラした笑顔で、陽奈を見つめる平田の姿があった。
先ほどは、この笑顔にドキドキしたものだが、危ない人物だと位置づけしつつある陽奈の目には、危険人物にしか見えなくなってしまった。
「何か?」
「君、梶原の幼馴染なんだよね?」
「はい」
「ぶっちゃけ、梶原のことどう思ってるの?」
「は?」
「好きだったりする?」
「……どうして、そんなこと聞くんですか?」
初めて会った人になぜそんなことを答えなくてはならないのか。
それに、これはデジャブだ――――――昔の……同級生から同じように聞かれていたころの感情がよみがえってきて、無性に腹が立ってきた。
「興味があるから」
「興味? 男女が幼馴染なら、恋愛関係になるかもって?」
「そうだねぇ……」
「やめてください! そう言うの、一番嫌なんです。絶対ありません。私とそうちゃんが、恋愛するなんて……そうちゃんとは恋愛しないって決めてるんです。だから好きなんて……ありえません!」
感情が高ぶって、まるでせきを切ったように言葉がこぼれていく。こんな見知らぬ人に取り乱すつもりはなかったのに。
陽奈の言葉に、驚いたように目を丸くしていた平田だが、何を思ったのか、やがてニヤリと笑みを浮かべた。
「へぇ~決めてるかぁ……」
「そうです」
「なるほどねぇ~それって絶対なんだ」
「絶対です。そうちゃんも同じ意見ですから、今後は……」
「ふぅん~。あのさ、梶原って結構モテるよ?」
「は?」
「こっち移ってきて早々、社内の女の子からアプローチ受けてるみたいだし……ほら、さっきの弘子ちゃんも、今日は結構値の張るプレゼント用意してたよ。年もそこそこだし、独身。僕には敵わないけどきれいな顔してるし、誰にでも人当り良いし、仕事できるしね。極め付け、今彼女がいないとなると、女性にとっては買いでしょ。陽奈ちゃんは、そう思わない?」
その言葉の数々に、胸の奥がじくじくと疼く。この感情を意識しようとすると、さらに頭の隅の記憶の欠片が邪魔をする。
ダメ……ダメーーーーー!
「私には関係ありませんから」
そう言い切る。
そうだ、ずっとそう思ってきたのだから、これからだって変わらない。
私達は変わらない。
「ははは! 関係ないかぁ~。それは、取りつく島が無いね~」
平田はそう言って、楽しそうに笑う。良く笑う人だ。
何がそこまでおかしいのかさっぱり不明だが。
「変な人……」
思わず心の内を声に出してしまう。その言葉に平田は気を悪くした様子もなく、イタズラっぽい笑みを見せた。
「あれ? 僕に興味が出てきたのかな」
「残念ながら全く。そのままの意味です。“変”だと思っただけです」
はっきりそう言い放つ。この人のように、男女間の言葉遊びを楽しむのは苦手なのだ。すると予想通り、その言葉さえもうれしそうに「あはははは……!」と笑い始めた。
「噂とは別の意味で、気が強い女性だね!」
“別の意味”とは、どんな意味があるのかわからなかったが、気の強い女性とは何度も言われてきた言葉だ。
元彼にもそれが原因でこじれることも何度もあった。男性は自立した女性が好きだと言うが、本心は従順な女性が良いのだと、身を以て知っている。
とはいえ、自分に嘘をつくなんてまっぴらごめんだ。ましてや、気のない相手まで気を使う必要もないと言うものだろう。
それに、不思議なことに平田の言葉には否定的な意味は込められていない気がする。変な人だが、悪い人ではない気がする。
「……あの、ところで、その私の噂ってどんな噂なんですか?」
「ああ~……」
陽奈がそう言うと、平田は言葉を詰まらせた。
「う~ん……それはね」
「それは?」
陽奈が平田の言葉を反復すると、平田は人差し指で“こいこい”と指示する。
陽奈がその仕草に平田の方へ顔を近づけようとすると、突如背後から腕が伸びて来て、後ろに抱き寄せられた。