4.夜、再会
コンコンっ
静かな廊下に、小さなノック音が響く。散々、部屋の前で迷った挙句、意を決してノックした割には、自信のなさを感じる音だ。
小さな音に関わらず、廊下と同様に静まり返った部屋から「陽奈、どうぞ」と言う、太一の声が聞こえてきた。
どうしてわかったのだろう?
そう思いながらも、ドアを開けて部屋の中に入る。太一が大きめのデスクトップのパソコンの前に座って、こちらを見ていた。
太一はゲームオタクなのだ。一日のほとんどをこの部屋で過ごし、食事とお風呂以外は、ほとんど外出はしない。大学卒業と同時に、大手銀行に就職したがすぐに辞めてしまった。今はよくわからないパソコン上で仕事をしているようだが、太一と違って機械音痴な(世間一般ぐらいは使えるが、太一に比べれば音痴となる)陽奈には、太一のやっていることはちんぷんかんぷんだった。はっきり言って、一日中遊んでいるようにしか見えないのだが、一応陽奈と同様、生活費を入れているようなので、それなりには稼いでいるようなのだ。
陽奈と太一が生まれた際、両親がその可愛さから“太陽のように明るく元気に育ってほしい”と、“太陽”の漢字を使い、兄に“太一”妹に“陽奈”と名付けたのだが、陽奈はまずまずとしても、太一に関しては、全く真逆になったと言っても過言ではない。
そのありえないほど透き通った肌を見る限りでは、太陽とは無縁の生活をしていると思うより、他ない。
「何?」
入ったまま、何も言わない陽奈にしびれを切らして、太一から口を開く。いつもなら、言われなくてもペラペラと話をし続ける陽奈だが、今度の件は……少々どう切り出していいものか迷う。
「あのね……」
「爽との外出に付いてこいって話なら、僕は行かないよ」
「……っ!? なっ……なんで、分かっ……!」
「なんかね……デジャブーがしたんだよね。昔から陽奈は、爽と出かけようって予定ができるたびに僕を誘いに来るんだよ。その時の、顔……がね」
「顔?」
いったい自分はどんな表情をしていると言うのか?
「苦痛に歪んでるともいえるんだけど……。……まあ、いいや、僕が言ってもね。とにかく何、図星?」
「ぐっ……」
太一の勘の良さには毎度、驚きを越して、頭が下がる。
図星。全くにその通りだっただけに、どのように太一に伝えればいいのか、陽奈は息を詰まらせた。
――――――
話は1週間前にさかのぼる。
爽との再会から1ヶ月、陽奈の動揺に反して、爽とは会うことはなかった。と言うのも、お店がオータムフェアーを開催し、朝は早く、夜は遅くかなり忙しかったので、爽どころか、お店のスタッフ以外、話を交わしたのは両親と太一ぐらいだろうと思う。実際、爽は実家が引っ越したとあって、こちらでは一人暮らしをしているので、陽奈の母親が何度か爽を食事に招いているようだったが、もちろん会うことはなかった。
しかしながら、爽のことを思い出さなかったかというと、そうはいえない。ふとした瞬間に、爽からかすめ取られたキスの感触や、あのとんでもない発言を思い出す。そのたびに胸の中がざわざわと騒ぎ出して、落ち着かなくなるのだ。
この先も爽と幼馴染でいる限り……あんなことが続くのだろうか。
実のところ、陽奈はあまり恋愛経験が多くない。もちろん、一通りの経験はあるし、処女ではないのだが、付き合うことになっても、あまのじゃくな性格が災いし、いつも可愛くないだの言われて、自分自身も気持ちのモチベーションが上がらず、続かなくなってしまうのだ。
もちろん今でも、幼馴染と恋愛をする気はない。
しかし、やっと繋がりかけた爽との関係を、断ちたくないと願う自分の気持ちを捨てきれずにいた。
どうして、今更そんな感情が生まれるのか、理解出来てはいなかったのだが……
その日も、例のごとくあわただしく残業を終え、店を出た直後のことだった。
「陽奈ちゃん、乗ってってよ」
駅に向かおうとしていた陽奈を呼び止め、声をかけてきたのは、今年の夏からアルバイトをしている店長の息子、須王 稀羅男だ。
息子と言っても、商品の製造には全く興味が無いらしく、ホールで接客をしている。大層な名前だが、毎日店の商品を食べすぎたのではないかと思うぐらい体型はずんぐりしており(要は太っている)、その顔の中央に大きく鎮座した低い鼻が、一段と稀羅男の魅力を半減させる。加えてすぐにキレるし、人の話を聞いていないので同じ接客スタッフも手を焼き、陰で皆から嫌男と呼ばれている。陽奈の店は、地元でも名の知れた人気店だけに、スタッフの人数も多く、本来ならホールのアルバイトとなれば陽奈とはあまり接触のない人物であった。
しかし、ここ1ヶ月なぜか良く話しかけられる上に、帰りの時間が一緒になると、「送るよ」と、声をかけられるようになった。(もちろん毎回断る)
はっきり言って、キラ男は陽奈のタイプと程遠い。陽奈はもっとすらっとして、筋肉質でがっしりした男の人が好きだ。
そして、それ以前にキラ男は現在18歳であり、年下は論外である上に、明らかに免許取り立ての男の車に乗る勇気もないと言うものだろう。
げ……またぁ~……
毎回やんわりと拒絶の意思を伝えるものの、一向に響かない様子に、呆れると同時にうんざりしてしまう。
そもそもいったいなぜ、私?
「まだ電車があるので」
「でも暗いし、何かあったら大変でしょ」
あなたと帰る方が、よっぽど危険な気がしますけど……
「大丈夫ですから、須王さんも気を付けて帰ってください」
「……気を付けて……僕を気遣ってくれてる」
はぁ? ガキは早く帰れって言ってんのよ!
キラ男は何か期待を込めた瞳を陽奈に向け、じっとこちらを見つめていた。陽奈の顔は明らかに不快感を表していると思うが、それに気が付いた様子もない。
店長の手前あまり粗末には扱えないと気を使っていたのだが、それがますますキラ男の意味不明な行動に、拍車をかけてしまった気がする。
さっさと……帰ろ……
「じゃ……」
そう言って踵を返そうとした時、パッと陽奈の手首を、ずんぐりむっくりしたキラ男の手が掴んだ。
ぞぞぉぉぉ……!?
ねっとりと湿った肌と、肉球でもついているかと思うほどの肉厚な指の感触を感じた瞬間、寒気を感じてとたんに鳥肌が立つ。
「離しっ……」
とっさに声が出て、手を振り払おうとするが、思ったよりもキラ男の力は強く、その手はびくともしなかった。
「今日こそはと思って、陽奈さんのために車に乗ってきたんです!」
「は?」
ていうか、陽奈さん!? どの口が言って……
「そもそも陽奈さんと二人きりになりたくて、パパに買ってもらったんです。ほら今週の日曜日、久しぶりに陽奈さん、休みでしょ? 僕もなんで、良かったら、一緒にドライブ行きませんか~? その相談も兼ねて、今から一緒に~……」
ぞぞっ……
その言葉に、さらに全身の毛穴が危険信号のように立ち上がった。
気持ち悪い。気のない相手からの好意とは、こうも嫌悪感を感じるものだったとは。
「行きませんし……離してください!!」
陽奈はきっぱりとそう言い放ち、必死で腕を振り払おうと何度も腕を振った。
「遠慮しないで」
「してないからっ……!?」
陽奈の抵抗むなしくその手はびくともしない。抵抗と拒絶の意味を込めて、全力睨みつけた。
「気の強い年上の女性って……好みです。パパもママのドSで苛めてくれるところに惚れたって言ってて……僕もそっち系なんですよね」
あんたの趣味なんて知らないわよ! ドSでもないし!
さりげなく店長の性癖を聞かされても、全く興味もなければ、キラ男に対しての嫌悪感をいっそう強めただけだ。
しかしながら、キラ男はさらに嬉しそうに笑顔で陽奈を見つめていた。
ちょっと……やばい?
キラ男は―――――陽奈の拒絶を微塵も感じていない。
「さあ、乗って!」
その声と共に強い力で、陽奈の手を掴んだかと思うと、車の方へ引っ張られる。
「やだっ!」
腰を引いてその力に抵抗する。
このままじゃ……乗せられちゃう! 嫌だ!!
その時だった。ーーーーーー背後に人の気配がしたかと思うと、ふわりと肩を誰かに抱かれる感覚がした。
同時にキラ男に引っ張られていた腕の力が軽くなる。驚いて掴まれた手首に視線を向けると、キラ男の手が別の大きな手に掴まれていた。
え?
とっさに顔を上げようとした瞬間、ふっと鼻孔に覚えのあるジュニパーの香りが届く。その香りにハッとすると同時に、覚えているよりもずっと低い声が頭上から聞こえた。
「離せ。嫌がってんだろ」
「なんだ、お前!」
その声に引き寄せられるように、顔を上げる。目の前に、予想していた通りの人物、爽の横顔が見えた。
爽は仕事帰りなのか、こげ茶色の細いストライプの入った半袖のシャツにシンプルなスラックス、紺のネクタイを締めていた。爽のスーツ姿なんて初めて見た。仕事終わりにどこかに寄っていたのか、幾分か着崩したシャツの首元からは男らしい鎖骨がのぞかせていて、微かに漂うお酒の匂いに、妙な大人の男の色気を感じた。
そして何よりも、めったに人前で怒りを表さない爽が、明らかに不機嫌なオーラを発している。そしてそれだけでも意外なのに、見たことのないほど挑戦的で威圧的な雰囲気を漂わせていた。
爽は陽奈の肩に回していた手で、ポンと優しく頭を叩くと、そのままキラ男のずんぐりとした低鼻を掴んだ。
「ふっんがっ」
豚が憤慨したのような息遣いが聞こえたかと思うと、キラ男の手がパッと陽奈から離れた。それと同時に爽の身体がキラ男に滑らかに近づいたかと思うと、キラ男の「痛たたたた!!!!」と言う声が響いた。
どういった動きだったかは不明だが、爽がキラ男の手を背中でねじり上げていた。
「やめっ、止め……ひぃぃぃ~~~!!」
大袈裟と思われるほど大きな奇声が、まだ寝ぬらぬ繁華街の夜の街中に響いた。キラ男は苦痛の表情を浮かべて爽に懇願を繰り返している。展開の速さにぼんやりとしていた陽奈は、後ろを向いたまま爽が「陽奈」と呼んだ声に、ハッと我に返った。
「こいつ、知り合い?」
「あ……店長の息子なの」
「ふ~ん、ずいぶんぼんくらな息子みたいだね」
「……どっ……どうかな?」
一応従業員ともなれば、めったなことは言えないだけに、爽の言葉に全面的に賛同しつつも、あいまいに返事を返す。
「まあ……いずれにせよ、ちょっと分からせとかないとね……」
「え?」
爽はそう言うと、ねじり上げていた手をさらに上にひねりあげる。
「ひいぃ~折れっ、折れ……!?」
「あんたの返答次第でもそうなるかもね」
「ひっ……!」
「おいガキ、離して欲しければ、その理解力の乏しい頭によく留めておけ」
「なっなっ……」
「わかったか?」
「ひぃぃぃ……痛っ痛っ」
「聞いてんのか? ガキ」
「わかっ……分かりました、分かりました!! きっ、聞きますから……」
その言葉に爽は、鼻で笑うとさらに冷静な口調ながらも凄味のある声色で話し始めた。
「俺は普段はあまりものにも人にも執着しない性質でね。でも自分のもんと決めたものを他人に触られるのがたまらなく我慢ならない」
……爽?
「陽奈は俺の女だ」
―――――は?
「わかったら、金輪際近づくな。半径10m以内に入るんじゃねーぞ。陽奈のことあれこれ想像するのも無しだ。俺以外の奴の脳内に、陽奈がいること自体、我慢ならない。言っとくけど、普段俺が見てねーからわからないと思ったら大間違いだ。この忠告に2度目は無いと思えよ。次はこんなもんじゃ済まさねーからな」
爽はそう言うなり「わかったか?」と、キラ男に念押しする。キラ男はあまりの痛さと恐怖で大声で「わかりました!わかりました!言う通りにします」と叫んでいた。
その言葉を聞くなり、爽はパッとキラ男の腕を開放する。
「さっさと行け」
そう言って未だ苦痛の表情で腕をさするキラ男の背中を、無情にも蹴り上げた。前につんのめったキラ男は意味不明な言葉をつぶやきながら起き上がり、陽奈に目もくれず転げるように車に乗り込みその場を去って行った。
……いったいなんだったの?
爽の剣幕に圧倒されてキラ男が去って行った後を、陽奈は呆然と見つめた。
「陽奈。大丈夫か?」
ポンッと肩を叩かれて、ハッと我に返る。顔を上げれば先ほどキラ男に苦痛を与えていた人物とは思えないほど涼しい顔をした爽が、陽奈を心配そうにのぞいていた。
「そう……ちゃん……」
「他にあいつになんか、されたのか?」
その言葉にとっさに首を振る。その仕草を見て、爽はホッと表情を和らげた。
あ……いつもの、そうちゃんだ。
先ほどの爽の様子は今までに見たことのない彼の一面だった。あの威圧感、剣幕、そしてとっさに出た嘘には驚いたが、要するに陽奈を助けてくれたのだ。
そのことを自覚した瞬間、陽奈の中にうれしさが広がった。
お礼を言おうとして、口を開いた時、爽の背後から爽を呼ぶ声が聞こえた。
「爽く~ん!」
可愛らしい女の人の声だ。その声に二人が振り向くと、人をかき分けて真っ白なフリルのワンピースにストライプのシャツを腰でくくったロングの髪の女性が、爽と陽奈のところに近づいてきた。
「山口さん……」
爽がその女性を見てそうつぶやく。その山口と呼ばれた女性は、爽と目が合うとうれしそうに笑顔を見せた。
ドキッと胸の奥の方で鼓動が打つ。
……誰?
こんな時間に一緒にいるなんて……もしかして―――――彼女?
「突然いなくなったので、探しましたよ~」
山口はそう言うと、爽の斜め前に立ち首を傾げながら、そっと爽の二の腕に手を添えた。
「主役なのに、いなくなっちゃ困りますよ~」
そう言いながら、爽に添えた手を揺らす。山口は背中側に立つ陽奈には気が付いた様子もなかった。
女性から見ると、少々媚びたような仕草に見えないこともないが、親しげな相手に向けたスキンシップなのかもしれない。陽奈からは爽の表情は見えないが、こんな可愛い女性からのスキンシップならうれしくないはずはない。
しかし主役? 何のことだろう……
「ごめん、ちょっと……」
「あっちに帰りましょうよ~まだ私が……」
「弘子ちゃん、見つかった?」
爽の言葉を遮るように話し始めた山口の背後から、軽快な男の人の声が響いた。
その人物も爽と同じようにスーツを着ていた。そして親しげに“弘子”と呼んだ山口の肩に、手を置いて、爽に向きなおった。