36.不思議な縁
「お帰りなさい!!」
「ん……」
爽は短く返事を返して陽奈の唇に掠めるようなキスを落とした。そして嬉しそうに笑顔を見せた陽奈を見て困ったように目じりを下げ、何やら唸り声を上げた。
「そうちゃん?」
「うぅ……陽奈可愛すぎ……このまま持って帰りたい!!」
その声にうれしくなって背中に回した腕に力を入れる。するとそれに反応するように爽の抱擁も強くなった。
帰ってきた!!
その腕の強さが今彼がそこにいるのだと証明している。その温もりに香りに自然と心の中に嬉しさが広がっていくのだ。
「待ってたのよ」
「うん。よし、帰ろ……じゃなかった! そうだ……う~ん、でもダメ。……ちょっと待ってて」
爽はそう言うと、名残惜しそうに一度陽奈を抱きしめてからくるりと体制を変えた。その視線の先は、すっかり頭から飛んでいたが先ほどから陽奈を釘付けにしていた二人であり、爽はためらうことなくその一歩を彼らに向けて踏み出した。
そしてまさにあと数センチでその唇が重なり合う二人の間に―――――
「課長、おつりです」
その言葉とともに千歳と朝倉の顔の間に爽の手が差し込まれ、その手の中でお札がぶらりと揺れた。突然の爽の行動にびっくりする陽奈の目の前で、それ以上に驚きの表情を見せた二人の顔が見える。
「なっ……梶原!」
「課長。俺をあの人達に押し付けて行ったかと思えば、何してんですか?」
どうやらこの二人、先ほどまで一緒にいたらしい。出張と言っていたが、朝倉も一緒だったのだろうか。
爽は感情のこもらない声色で朝倉にそう言い放つと、突如キスを遮られたことで驚きから覚めきれない千歳にちらり視線を向けた。そしておおよそ本心ではない口調をにじませ「お邪魔してすみませんね」と意地悪そうな笑みを浮かべる。
その声に千歳は我に返ったのか、弾かれるように朝倉から離れた。
「あっ……」
千歳が離れてしまったことで朝倉は名残惜しそうにその手を彷徨わせる。爽は二人の様子にまったく興味がないのか、そんな朝倉に平然と話しかけた。
「恥ずかしくないんですか? ここ道の往来ですよ」
さっき自分にキスしてきたくせに、どの口がそう言っているのかと疑う。しかもここは陽奈の店の前……実際“道の往来”よりたちが悪いのだ。
千歳はそんな爽の言葉に顔を真っ赤にして俯いてしまった。
可哀相に。
「煩い、黙れ。しかも……なんで梶原がここにいる? 帰ったんじゃないのか?」
朝倉はにべもなくそう言い放つと、不機嫌なオーラを纏い爽を睨み付けた。しかしそんな視線にも爽は怯むことはない。
「言われなくても帰りますよ。でも……もう一仕事頼まれたんで……」
「もう一仕事? 誰からそんな……」
怪訝そうに眉を顰めた朝倉に爽が言葉を発しようとした時、その横からのんびりした声が響いた。
「朝倉~僕だよ」
聞き覚えのある声に視線を向ける。そこにはいつだったか話をした、あのへんな爽の上司“平田”が気だるそうに首を傾けてこちらを見つめていた。
紺のスーツ姿に明らかに高そうなブランドの小型旅行用のスーツケースを持っており、恐らくこの人も出張帰りなのだと思われる。
「平田……なんでお前まで……」
「ん? ちょっとこっちの事情で梶原に頼み事したんだよね」
「事情?」
「うん。くそ面倒な部長を僕に押し付けてさっさと行っちゃったじゃない? いい加減あの狸に我慢も限界だったしさ、憂さ晴らしに梶原に邪魔してこいって言ったんだよね」
「は? 邪魔……?」
「朝倉が飛んでいくなんて、杏実ちゃんのことしかないでしょ? だから~」
そう言うと平田は「予想通りで俺ってやっぱすごいよね」と一人で納得するように何度か頷く。そして何の裏もないと勘違いしそうな無垢な笑顔を張り付け、爽に向き直った。
「梶原、なかなかいいタイミングだったよ」
その笑顔と裏腹に言動が悪魔だ。
「そうですか? どっちかと言うと、そんなことより俺は彼女と帰りたいです」
爽がそう言うと、平田は爽の隣に立つ陽奈に視線を向けた。
一瞬、平田は陽奈を思い出したのかのような表情を見せ、すぐに極上のスマイルを持って「あれ~陽奈ちゃんじゃない?」と親しげに話しかけてきた。
その声にようやく朝倉も陽奈がいることに気が付いたのか、同様に驚いたような視線を向けた。同時に千歳が朝倉に一言二言話しかける。すると朝倉は何度か頷いた後陽奈に向きかえって会釈するように軽く頭を下げた。
千歳が陽奈があの件を気にしていることを話したのかもしれない。陽奈自身もここで話を蒸し返すわけにもいかず、迷った末同様に会釈を返した。
確かに千歳の言ったように、今の朝倉の様子からもあの噂の件を気にしている様子は全く窺えなかったからだ。これでよかったのかもしれないと思う。
そんな陽奈の思いを遮るように、まったく状況を無視したかのような平田の能天気な声が再び陽奈の耳に届いてきた。
「びっくりしちゃった~陽奈ちゃんがなんでここにいるのさ?」
初対面に近い知り合いともいえない間柄にかかわらず、さっきからその親しげな呼び方はなんなのだ。瞬時に不快感を露わにし言い返そうとした陽奈だが、この無駄にキラキラした笑顔を向けられたことで、たちまちにその意思が萎み言葉が出なくなってしまった。
本能的にこの人物は危険だとわかっているのに、その笑顔はどこまでも無垢で天使のように光り輝いているのだ。まるで目の前の自分こそがちっぽけで、この人物を疑うなんてそれこそが罪であるかのように感じる。
違う違う……騙されちゃダメ……
陽奈が戸惑って言うべき言葉探していると、突然爽が二人の間に割ってきた。
「主任、彼女に気安く話かけないでください」
「え~……だって」
「だってもくそもありません。あなたのその節操のない視線を陽奈の視界に入れることすら嫌なんで」
「節操ないって、ひどいなぁ~」
「ほんとのことですから」
「……分かってないな。僕は人のものには手を出さないよ」
「嘘つかないでください」
「嘘ってねぇ~……まあ人のもんでも、相手がその気なら別だけどね~」
「くずですね」
「くずって……はははっ! 梶原のそういうとこ好き」
「好かれたくないです」
「ははは……」
相変わらず上司に向かって遠慮のない爽だが、以前朝倉が面白がっていたように、平田にとっても好ましいもののようだ。普通なら許されない事のように思うが、その二人に関しては例外らしい。
その後も平田に対して断固接触を許さない爽の姿勢に、平田はやがて諦めたように苦笑を浮かべた。
「……まったく梶原も……一途だね」
「普通ですよ」
「う~ん……まあそれもいいんだけどね。でも……今日はもうひと押し欲しいんだよね」
「なんですかそれ?」
「面白味が……足りない」
「面白味?」
「そう。朝倉の心底嫌そうな顔見れたことはよかったんだけどさ、もう少し物足りないんだよね」
随分な言われように朝倉は呆れたように「あほか」と呟いている。
「最高のパフォーマンスのためには多少仕掛けが必要だけど、成功した時は得難い喜びが待ってるんだ。それを手に入れたい」
「……その感覚はわかんないです」
「ふふふ……」
「もう帰っていいですか?」
「せっかちだな~そうだ、なんなら僕が見本見せてあげ……」
「平田、いい加減にしとけよ。くだらないこと言ってる暇あったら、帰れ」
しびれを切らしたように朝倉は平田と爽のやり取りを遮った。そしてさらに爽に向かって「こんなやつ無視してさっさと帰れよ」と言い放つ。
「朝倉、冷たい」
「あほか。お前はさっさと帰って、退屈しのぎにどこぞの不特定多数の女に温めてもらえ」
「ふ~ん……不特定多数……ねぇ。なら、これもその一人に入れてもいい?」
平田はそう言いながら、朝倉の隣でそのやり取りを見守る千歳を指さす。
「殺すぞ」
「ふふ……怒ったぁ」
不快感を露わにした朝倉に悪びれもなく笑いかけた。そしてそんな二人のもとに近づいて強引に朝倉の手を持ち上げると、千歳の手にその手を絡ませる。
「……まったく、アメちゃんは相変わらず悩殺的に可愛いよね」
そう言って呆れたようにため息をついた平田に、朝倉は不信感をあらわにして睨みつけた。
「何をする」
「僕らにつべこべ言ってないでさ、早く杏実ちゃんの期待に応えてあげなよ」
「……お前に言われる筋合いは無い」
「人前でキスしようとしたくせに手ぐらいなんてことないでしょ。時間は大切にしなくちゃ」
飄々と言い放つ言葉に、横から千歳が顔を引きつらせ口を挟んだ。
「……聞いてたんですか?!」
「偶然聞こえたんだよ。微笑ましくってさ、笑っちゃった……どこの中学生てね」
「中学……」
「褒めてるんだよ。あんな風に甘えられて朝倉も男冥利に尽きるじゃない。ね、朝倉?」
突然話をふられた朝倉は千歳の手を握ったまま、曖昧に返答を返した。
「ふふ。だから少し協力したくなったんだよね。だってね…………あっ、ちょっと待って」
平田はそう言うと、突然スーツのポケットに手を入れた。そしてそこからバイブで振える携帯を取り出し、通話ボタンを押した。
「あ……はい。そうですね、大丈夫です。……はあ、別に気にすることないんじゃないですか。ふふふ……最高です。はい、では……」
平田はひとしきり電話の相手と会話を交わすと、通話状態のままその携帯を朝倉に手渡す。
あれ?
その場にいたメンバー全員が平田の不可解な行動に疑問を抱いたとき、朝倉は促されるままにその携帯を耳に当てた。
「……え? 社長?」
「ふふ」
驚いて発した朝倉の言動に平田は満足そうに笑顔を浮かべた。ほぼ初対面の陽奈にもわかるような含みのある笑いだ。その笑みに爽が呆れたように平田に話かける。
「平田主任……何考えてるんです?」
「梶原。ほら見てよ……寸止めに寸止めを食らう瞬間の朝倉だよ」
「はぁ?」
「久しぶりに彼女に甘えてもらったのに梶原に邪魔されて、やっと二人きりになれると思った瞬間に今からまた寸止めを食らうわけ」
「本当に社長ですか?」
「あたりまえじゃん」
「主任はあらかじめ知ってたんですよね」
「もちろん。だから梶原に追わせたんだから」
「なんで初めに課長にそう言わなかったんです?」
「……ふふ、面白いから」
「は?」
「これだよ、絶妙なタイミング……。あいつを困らせると、思った以上の反応が見れるから暇つぶしになるんだ」
―――――暇つぶし!?
「……鬼ですね」
「僕は言わなかっただけで、特に罪はないでしょ」
「まぁ……はあ……」
呆れたような爽の背後から、徐々に不穏なオーラを醸し出し始めた朝倉の姿が見えた。千歳もそのことがわかるのか、目を吊り上げて電話口に向かって抗議する朝倉をハラハラ十不安そうな瞳で見つめている。
「……………え、今からですか? 俺、さっきこっちに………それは分かりますけど。いや、30分待って……はぁ? そんな無茶苦茶ですよ……わかりましたよ!! 行きゃいいんでしょ、行きますよ。……但し……覚えててくださいね、伯父さん」
朝倉はその言葉とともに未だ電話口から声が聞こえる電話をさっさと切ってしまった。
「颯人さん……?」
「杏実。実は……」
不安そうな千歳に向き直り朝倉が何か話そうとした時、突如千歳の手に握られていた袋が平田によって奪われた。
「さ、杏実ちゃん行こうか~」
「え?」
「は?」
「朝倉ね、今から急ぎの仕事入っちゃたんだよね~。さっき社長から僕に至急朝倉を探して伝えてほしいって電話が来たんだよ。残念ながら少しの猶予もないみたい」
平田はそう言うと千歳の肩を持って朝倉からさりげなく引き離し、気の毒そうな表情を浮かべて千歳に話しかける。
「すぐ伝えたら可哀想かなって。ほら、杏実ちゃん"手を繋ぎたい"って言ってたでしょ……まあその願いだけは叶えてあげようかなって思ったんだよ」
「はぁ……?」
「よかったね」
「何が“よかった”だ!! 平田、今すぐ杏実から離れろ!」
「やだなぁ……僕は今から朝倉の代わりに杏実ちゃんをエスコートしてあげようとしてるんだよ。僕だって出張で疲れてんのに。ほら、一人にしたら可哀想かなって優しさを見せてんのに、その言いぐさはないんじゃないの?」
「誰もそんなこと頼んでねーだろう!」
「え~……」
「さっさと帰れ!」
「そんなこと言っちゃって……じゃあ朝倉は、こんなか弱い杏実ちゃんに“この重い荷物を持って”、“今から”、“一人で”、“勝手に行けばいい”―――――っていうわけだね?」
「……そっ、そんなことは……」
「言ってない? でも僕の好意を断るってことはそう言うことでしょ?」
話の展開はすべてこの一物ありそうなキラキラ男、平田が主導権を持っているようだ。決して強制しないのに痛いところを突くことで彼の思い通りに進む朝倉の反応に、焦ったように千歳が口を挟んだ。
「颯人さん!! 私一人でいいので!!! 平田さんの言うことなんて、むしろ一人のほうが……」
その千歳の様子は遠慮しているというよりも……本気でそうにみえるのは気のせいだろうか。
「……くそっ……」
「ほらほら……大切な杏実ちゃんのためには意地張らないほうがいいんじゃない?」
「颯人さん!! ダメです!」
「く……」
「ふふふ……異存なしだね」
そんな二人を見比べて平田は楽しそうに笑うと、完全に傍観者になっていた陽奈と爽に振り向いた。
「ね、面白いでしょ?」
「……どこがですか」
「せっかく見本見せたのに……やり甲斐ないなぁ~」
「だから、俺は帰りたいんで……」
「ふ~ん……まあいいよ。なら帰りなよ」
「いいんですか?」
「なんで僕が止めるわけ。じゃあ、それももらおうかな?」
「それ?」
爽が怪訝そうに聞き返すと、平田はずいっと陽奈に近づき突然陽奈の腕を掴んできた。
「何するんですか!?」
「え? だって彼女の持ってる袋も杏実ちゃんの荷物でしょ?」
「え……そうなのか?」
平田に腕を掴まれながら爽の問いに頷くと、平田は満足そうに陽奈の腕から荷物を取ろうとした。しかしその手は爽によって引き離される。
「俺がやります」
「そう……?」
「そうです」
爽は憮然とした表情を浮かべながら陽奈から荷物を受け取った。陽奈が小さく「ありがとう」と言うと、爽は蕩けるような甘い笑顔を見せ荷物によって赤くなった腕を優しく摩る。
その後ろで感情の読めない笑みを浮かべながら平田がじっとそんな二人の様子を見守っていた。
「ふふ……梶原も可愛いね」
「……なんですか?」
「いや……僕はどっちでもよかったんだけどね。上司としては可愛い部下の願いを叶えてあげようとしただけなんだけどなぁ」
「なんすか、それ」
「なんだろうね?」
「わけわかんないです。じゃあ、平田さんこれ……」
「梶原。一度君がそれを持ったら、もう帰れないよ?」
「……は?」
意味ありげにつぶやいた言葉に爽は目を細めて平田を見やった。その沈黙はやがてもう一人の被害者によって破られる。
「確かに……その手があったか」
朝倉はたった今閃いたといわんばかりに目を輝かせ、その考えを自らに称賛するかのように何度が頷いた。
「あ~あ……ほらね」
そう言うと平田は苦笑交じりのため息を漏らし、憐れみの表情を爽と陽奈に向けた。それと時を同じくして平田の後ろから、朝倉がやや強い口調で爽に呼びかけた。
「梶原。平田と“それ”持っていけ」
そう言って投げかけた朝倉の視線は爽の手に握られていたケーキの袋に注がれていた。爽は瞬時にその意味を理解して、心底嫌そうに不服の声を上げた。
「はぁ?!」
「場所は平田が知ってるから、はじめっから杏実が行く必要はなかったな。……よし、杏実は今すぐ帰れ」
「ちょっと……朝倉課長!」
「お前、俺に借りがあんだろうが。これでチャラにしてやる」
「なっ……」
「ほらほら……そうなったでしょ? あ~あ……残念、また野郎とかぁ」
「平田さん! 俺は帰りたいって言って……」
「うん。まあそうなんだけどね……もともと朝倉がアメちゃんと僕が行くの許すわけないし、一人も嫌だし手伝ってね」
「そ……そんな……」
「じゃあ、梶原頼んだ。杏実も気を付けて帰れよ」
朝倉は早々そう言うと、千歳に別れのキスをしてその場から立ち去った。本当に急いでいたのだろう。
千歳はそんな状況に少々ついていけていないのか、朝倉が見えなくなった後でもしばらく戸惑ったように視線を右往左往させていた。そんな千歳に追い打ちをかける様に平田は「じゃあね~」軽快な挨拶を投げかけると、陽奈に楽しそうな視線をよこしてから爽を引きつれその場から去って行った。
あっという間の出来事だった。
気が付けば千歳と二人、店の前でぽつんと取り残されていた。
「あの……」
「はい……」
「………」
何かに促されるように千歳と陽奈は視線を交差させた。そしてしばし沈黙の後、二人は向き合ったまま同時に小さく噴き出した。
「……すっ、すみません。笑っ……たりして……彼氏さん連れていかれちゃったのに……くっく……」
「くっく……朝倉課長って……本当に無茶苦茶強引ですね………」
「いっつもそうなんです……」
「あはははは……」
ひとしきり笑い終わった後、千歳は陽奈に柔らかい視線を送ってきた。
「笠井さん。もしよかったら……彼氏さんをお借りしたお詫びにお茶をごちそうさせてもらえませんか?」
「え?」
「もう少し話してみたいなって……ダメですか?」
「もちろんいいですけど……あ、でも……後で朝倉課長に怒られませんか? すぐに帰ったほうが……」
陽奈がそう言うと、千歳は今になって朝倉のことを思い出したらしく顔を青くさせて瞠目させた。しかし心の中に葛藤があるのか「でも……少しだけなら……せっかく話してみたいし。黙っていれば……」などとぶつぶつ独り言を呟いている。
千歳とは不思議な縁だ。
もし父親が自分と朝倉と結びつけようと画策しなければ、爽が誤解しなければ、たとえあのカフェですれ違ったとしてもこうして話をするようにはならなかっただろう。出会ったきっかけが噂という嘘や誤解で結び付けられていたのに、不思議なことにそれが正しかったのだと思えた。
だからこうすることも自然に思えた。陽奈は困ったように考え込む千歳の手を取って笑いかける。
「じゃあ、30分だけ」
「……え?」
「この店のカフェ入ったことあります?」
「いえ……でも……」
「黙ってれば大丈夫ですよ。千歳さんに新作の私のケーキも食べてみて欲しいし……」
「私の……?」
「ここ、私の仕事場なんです。パティシエなんで」
「ええ~!!! そんな……笠井さんの職場だったんですか!?」
「ふふ……はい」
「じゃあ……はい! 行きます。笠井さんのケーキ是非……」
「では、行きましょう」
千歳を誘導して店の隣のカフェの扉に手をかける。まだお昼時なのでデザートオンリーのこのカフェの店内はそれほど込んではいなかった。同僚が陽奈に気が付いて笑いかけてきた視線に応えながら、ふと後ろを振り返る。
「楽しみです。どんなケーキがおすすめですか?」
「今は……イチゴだと思います」
「イチゴ! 私大好きです」
「そうですか?」
「はい! でも笠井さんが作ったケーキがいいのでどれか教えてくださいね」
「“陽奈”でいいですよ?」
「え?」
「よかったら―――――陽奈ってよんでくださいね」




