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35.木洩れ日の集い

 社員専用のドアを開けると、木漏れ日に暖められた優しい空気が頬を撫でていった。

少し前までは薄手のコートが手放せなかったのに、あっという間に春の柔らかな空気が陽奈の住む町を包み、生け垣の木々は若草色にキラキラと輝いている。

 世間でいう休日である日曜日は陽奈にとってそのほどんどは仕事であり、それが当然だったとはいえ今日のような陽の光が届く真っ昼間に外に出ているという事実は心を躍らせるものだった。早番を終えこの後は爽に会えるのだという事実が、より陽奈の心を浮き立たせているのだろう。

3月は仕事が忙しく人事の異動による歓送迎会に加え度重なる爽の出張と、ここしばらくまともなデートをしていない。先週も遠方に出張があるということでほとんど会えなかったのだ。

しかし今日は違う。朝には帰途につくらしく、陽奈が仕事が終わる時間には最寄りの駅についているころだろうということだった。

すれちがったら嫌なので、携帯を取り出し店の前で『今終わりました。もう家?』と簡単なメールを送ってみる。

こんなに天気がいいのだから、返事次第で駅まで迎えに行こうかとも考える。

何よりも早く会いたいのだ。

はやる気持ちでじっと画面を見つめながら爽の返事を待っていると、店の扉が開くと同時にその視界の端に重そうな荷物を抱えた人物がよたよたと歩く姿が映った。

 何事かと視線を上げる。

 店のロゴの入った袋の中でも一番大きな紙袋3つを重そうに抱えた小柄な女の人が、こちらに向かって歩いてくる。どうやらケーキの箱を水平に保つことに神経を集中しているようで、左右に広げられた腕は重みで少し震えていた。どう考えても一人で抱えるには多すぎる量だ。

 駅に向かうのだろうか?

 とっさに店のスタッフに声をかけて手伝いを頼もうかと考える。時々大量の注文があった時などは先方に出前をすることもあるのだ。今回も量からいってそれに相当するに違いないし、休日とはいえスタッフ一人ぐらいはなんとかなるだろう。

そう考えた矢先視線の先で、女性の持つ袋が一つ腕から滑り落ちようとし始めた。とっさに駆け寄って間一髪袋が地面に落ちる前にキャッチする。そしてその紙袋を改めて抱え直した。


「よかったらお手伝いします」

とっさに出た言葉だったが、しかしもともと大した用事などないのでそうすることが正しいような気がしていた。爽には早く会いたい。しかし少しぐらい遅れたところで爽は怒ったりしないし、まだまだたっぷり時間はあるのだから。

突然の荷物を持たれたことに驚いてか、弾かれたように女性が顔を上げた。そして陽奈と視線を合わせた瞬間、「あっ」と声を上げた。

その声に陽奈自身も女性の顔に改めて関心を向け、同様に目を見開いた。


「あ……」

「確か……あなたは……」

 茶色の丸い目を戸惑ったように泳がせながら必死でその記憶を呼び寄せているらしい。陽奈自身もそんな彼女から視線を外すことなく、茫然とその様子を見つめていた。

 やがてその驚きが収まると、その記憶をゆっくりたどりながら慎重に口を開いた。


「朝倉課長さんの……彼女さんですよね?」

―――――名前はなんだったかな……?

 陽奈の言葉に彼女自身も予想が間違いでなかったことにホッとしたのか、肩の力を抜いた。


「はい。千歳 杏実と言います」

「私、覚えておられますか? 私朝倉さんの会社の上司の娘の……」

「笠井さん……ですよね?」

「は、はい」

 あんな一瞬の出会いだったのに、顔どころか名前まで憶えられていたとは少し驚く。それほどまでに彼女にとって印象的な出来事だったということなのだろうか。

あの日の出会いは、陽奈に対する爽の誤解を解くきっかけとなった。自分も知らないところで何年にも渡り飛び交っていた噂について否定する機会が訪れたことは、まさに奇跡としか言いようがない。そしてあの出来事のおかげで二人の関係がまた一つ近づいたといってもいいのだ。

 しかし勝手に巻き込まれた朝倉課長は迷惑以外の何物でもなかっただろうと思う。もちろん、その彼女も同様だ。

 後でパパが朝倉課長にきちんと謝罪したようだと爽から聞かされていたが、陽奈自身はそれですべて終わったとは思っていない。もう一度会って自分の口からきちんと伝えなくてはいけないと感じていたのだ。


「すごく……偶然ですね」

 千歳はそう言うと優しそうな笑みを向けてきた。初めて会った時も感じたことだが、彼女の取り巻く雰囲気は柔らかく細やかな女性らしさを感じる。その笑みも裏は感じず、陽奈のことを疎ましく思う気持ちは微塵も感じられなかった。

 そんな態度が、より居た堪れない気持ちにさせる。

 

「あの……その……この前は父が本当に申し訳ないことをして、朝倉課長さんと千歳さんにはご迷惑をおかけしました……本当にすみませんでした」

しどろもどろにそう言葉を紡ぐと、千歳はきょとんとした表情を浮かべたのち、やがて思い出したように慌てて言葉を切った。


「そんなっ……あの時は突然で……私こそ変な誤解をしてしまって妙な態度をとってしまったかもしれません。後で笠井さんのお父様のことを颯人さんから聞きましたけど……本人は全く気にしてなかったみたいですから、本当にお気になさらないでくださいね」

「でも……」

「こんなこと言える立場じゃないんですが……それより笠井さんこそ大丈夫でしたか?」

「え?」

「なんだか……自分の知らなかったところで話が進んでいたなんて怖いですよね……絶対嫌です。お父様にどんな理由があったとしても、笠井さんの人生は笠井さんのものです。怒って当然だと思います。まして颯人さんと会ったこともなかったなんて……ひどすぎますよ」

 千歳はそう言うと、陽奈に真剣な視線を向けてきた。まるで自分自身のことのように語る千歳の様子に驚いて言葉を失う。


「それに新人歓迎会の話も聞いて……笠井さんと一緒にいた幼馴染の“梶原さん”でしたか? その梶原さんが真剣なのをいいことに颯人さんまで平田さんとつるんでからかうなんて……」


―――――からかう? 


「確信がなかったなんて言い訳にならないと思います。そのせいで救急車で運ばれたなんて……命にも係わることなのに……しかもその話をしながら笑うなんて!」


……救急車?


「私、怒っておきました!! 他人の気持ちをなんだと思ってるのって! ……でも結局は『あいつに気があるのか』って話が妙な方向に行ってしまって……全然効果ない感じでしたけど。でも笠井さんの気持ちを考えれば当然のことで……」

「あの……千歳さん……」

「はい?」

「それ……何の話ですか?」

「それ?」

「救急車って……」

 陽奈の言葉に千歳は驚いたように目を見開き「ご存知なかったんですか?」とつぶやく。それは意外だという千歳の態度、先ほどの話を整理すると要するに……


「まさか―――――爽が……運ばれたんですか?」

 千歳は陽奈の言葉に申し訳なさそうに小さく頷いた。そして何か言おうと口を開いたときそんな千歳の背後に大きな人影が映り、その陰に彼女の体が後方に引き寄せられた。


「杏実。こんなことにいたのか」

「……颯人さん!」

 千歳の背後には、あのカフェで人目をはばからず彼女に愛情を注いでいたイケメン、朝倉課長が立っていた。

 仕事途中なのか春らしいベージュ色のスーツに青い線の入ったシャツを着て、同色のネクタイを締めている。一見ただのシンプルなスーツながらさらりと着こなしている姿は誰もが振り返るであろう存在感を示していた。現に周りの女子の視線が一気にこちらに向き、“彼女だろうか?”と訝しんで値踏みする様子がひしひしと感じられるのだ。途端に居心地が悪くなって千歳を見ると、彼女はその視線に気が付くことなく朝倉を振り向いて、何やら必至で話をし始めた。

 朝倉と言えば早々に、千歳の手元を見るや明らかに不機嫌そうな様子となり、初対面の時と同様に陽奈に気づくことなく目を細めて口論を始めた。

 あれ……喧嘩?

 突然始まった二人のやり取りに周囲の視線を集めていたことも忘れ、じっと聞きいる。


「誤解です……フミさんは悪くなくて……」

「ばか言え! だったら、なんでこんな量を一人で抱える羽目になってるんだ」

「……それは……休日出勤の職員に差し入れするからって」

「なんで休みのお前がそれを取りに行く? 今日は夜勤だろうが! きちんと身体を休めねーと体調崩すぞ」

「……そんなことわかっ……」

「わかってない。そうやって何度倒れたか記憶ないのかよ」

「そんな、大げさです!」

「大げさなわけあるか! だいたいな……お前が甘い顔をするから毎回毎回良いように使われるんだぞ」

「それは……」

「もういい。フミ婆には俺から言っておく」

「颯人さん!」

「今後杏実を勝手に使うなって……」

「勝手にじゃないんです!」

「これは俺が持っていく、貸せ!」

 朝倉はそう言うと千歳の持っていた袋に手を伸ばした。千歳は朝倉の意図を感じ取ったのか、突如弾かれたように一歩下がりその腕を拒んだ。


「嫌です!」

「杏実!!」

 必至で言い返す彼女を一喝するように朝倉は鋭い視線を千歳に投げかけた。千歳はその勢いに体をびくりと震わしたが、やがて意を決したように顔を上げた。目には涙が溜まりその声は小さいが確固たる意志を持った声色だった。


「……フミさんは……悪くないです」

「だからぁ……!」

「フミさんは関係ないんです。無理強いされたわけじゃなくて…………」

 そんな彼女の様子に呆れたように朝倉はため息をついた。どうやら先ほどからのやり取りはこのケーキの袋を巡っての諍いらしい。くわしくはわからないがそれを彼女自身に無理強いした人物がいるとかいないとか、まあそんな内容のようだ。先ほどから厳しい表情を浮かべる朝倉は、少々強引な物言いのようだが彼女を想ってのことらしい。しかし千歳はそんな朝倉のため息に悲しそうに瞳を揺らし、顔を伏せ持っている袋の取っ手を強く握った。


「だって…………会いたかったんです……」

「ああ?」

「颯人さんは……きっと私が一人で取りに行ったら来てくれるからって……フミさんが教えてくれて……」

「は?」

「この頃ずっとお互い忙しくて……家でも顔も見てなくて………でもフミさんには会いに来てるって聞いて……」

「………は?」

「今日も昼にはホームに寄れるって連絡があったって聞きました……少しの時間ぐらいならって。だから……ふっ二人で話すならその機会しかないって思ったんです……仕事の邪魔をしないで一緒にいれる方法ってそれぐらいしかないじゃないですか!」

「…………………は? 杏実……ちょっ……」

「おばあちゃんのところで待っててもよかったのは分かってます。でも……てっ……」


―――――て?

 妙な話の展開になってきた二人を固唾をのんで見守る。その奇妙な所で言葉を切った千歳は、躊躇する気持ちを持て余すように袋の取っ手をぎゅうぎゅうと掴んだ。顔は赤くその必死な姿は女から見ても可愛らしい。


「………てっ、て……」

 その先の言葉をまだ発せられない。じっとその様子を見つめる陽奈の視線の先で、千歳が目を泳がせながらも朝倉のある一点に注がれていることに気が付いた。


「手、ですか?」

 ズバリと言ってのけた陽奈に千歳はその涙目の瞳を見開いて顔を上げた。その言葉がどこから来るものなのか確かめようとしたような仕草ではあったが、その視線はバチッと朝倉と交差し、千歳の頭の中からはその疑問はたちまちに吹き飛んでしまったようだ。そしてみるみる顔を紅潮させやがて開き直ったようつぶやいた。


「そうです!! て……手を繋ぎたかったんです! 颯人さんに触れたくてもおばあちゃんがいたら……二人きりじゃないと出来ないじゃないですか。だから……私がフミさんに頼んだんです。もしかしてって……待ってたんです………勝手なことして……ごめ……」

 千歳が捲し立てる様に言い放った言葉は最後まで発せられることなく、次の瞬間にはその身体は朝倉によってすっぽりと抱きすくめられていた。


……おお!!

 ドラマのようなラブシーンが今まさにリアルに目の前で繰り広げられている。陽奈はその心が浮き立つような光景に思わず魅入られ、心の中で歓声を上げた。

 テレビを見てその主人公に共感することは皆無だった陽奈だが(本も恋愛ものは全く読まなかった)、先ほどまで話をしていた人物だったからだろうか、不思議ことに千歳の苦悩と喜びがまるで自分のことのように感じられ嬉しくなる。

 そしてそんな陽奈が見守る前で朝倉は抱擁を解き始める。その手はやがて千歳の肩に移って……

 ゴクリっ

 その次の展開を予期するように思わず息を止めた時、その乗り出すような陽奈の体が後方に傾いた。そして何かが頬をかすめる。温かい感触――――


「ただいま」

 その温もりや優しい声は体の隅々まで響き渡り、たちまちにその記憶を呼び覚ました。陽奈のどこもかしこが覚えている、聞き間違うことはない、大好な声だ。

 爽が帰ってきた―――――!

心の奥底から溢れんばかりの喜びが湧き上がってその思いが彼の名を呼んだと同時に、爽は陽奈の身体を優しく包み込んだ。



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