33.過去から紡がれた想い
――――――愛し……てる?
「どうしようもなく、陽奈が好きでたまらない。いまさら諦める方法なんて見つからないんだよ。生まれたときから……俺はずっと陽奈しか見えていないんだから」
そういうと、爽は困ったような表情で見つめ、やがて何か諦めたように目を伏せた。
「いつからだったか……きっと俺が怪我した後ぐらいだよな……急に俺とは絶対恋愛しないって言い始めただろう? あの時は幼くて……まだ自分の気持ちに気が付いてもなかった。ただ俺の中で陽奈は特別で……それだけでいいと思ってたんだ。でも……段々陽奈に惹かれていくにつれて、そうもいかなくなった。どうして俺だけが陽奈の対象外なのか、そのことを考えるとイライラしてきて……しかも俺のことを嫌っている風でもないのに、近づくと避けられる。その理由は……たとえわかったとしても、だんだん陽奈の隣にいることが辛くなってきた。そんなとき陽奈が俺と幼馴染で迷惑してるって言ってるのを聞いて……」
あ……――――――あの、中学2年の冬の日だ……!?
「陽奈の天邪鬼は十分わかってたし、意地を張って心にもないことを言ったんだってことはわかってた。でも……俺も限界だったんだよ。陽奈に触れたくて、お前を俺のものにしたくてたまらなかったから。だから離れることにした。陽奈のことを徹底的に自分の中から追い出したんだ。……時々、陽奈が寂しそうな視線を向けていたことには気が付いてたけど、ずっと傍にいることができないなら、今苦しんだ方がましだって思ってた。これ以上、俺のことを何とも思ってない陽奈に“それでいい”って言って笑いかける自信がなかったんだ」
爽はそこまで話をすると、小さく「ごめんな……陽奈は何も悪くなかったんだよ」と静かにつぶやいた。
その言葉に、思わず首を横に振る。
謝ることなんか何もない。
逃げていたのは……自分を偽っていたのは、陽奈も同じだ。爽に惹かれたくなくて、爽を見なかった、理由をつけて爽を遠ざけた。そうすることで自分を守っていたのだ。
しかし爽の想いを知った今、そんな陽奈の行動は爽を犠牲にして成り立っていたのだと気づかされた。爽へ踏み入れることを許さない壁を作った陽奈の行動に、気が付きながらも口にしなかった爽の想い……自分のためだと言ったけれど、それは違う。陽奈の奥深くに潜むトラウマに、きっと爽は気が付いていたのだと思う。爽を踏み入れることが、陽奈を傷つけることだと気づいていたのだ。だから離れた。
そんな爽の優しさ……自分に対する深い愛情に胸がぎゅうっと締め付けられるような気がした。
どうして……もっと早く気が付かなかったんだろう。
「吹っ切ろうと思って、いろんな女と付き合ってみたりしたんだけどね。それなりに楽しかったけど……しばらくするとやっぱりつまんなくなるんだよね。家が隣ともなると、定期的に陽奈のことも視界に入るし……何よりも、事あるごとに太一が邪魔するし」
「……太一?」
ここにきて、太一の名前が出てきたことに驚いて、思わず口をはさむ。爽は、その時のことを思い出したように顔を歪ませると、嫌そうに話を続けた。
「具体的になんか仕掛けてくるんじゃないけど……瞳が責めてくるんだよ。嘲るような冷たい瞳で睨んでくるんだよね。陽奈と太一……基本似てないけど、二人とも目はおじさん似でしょ? 表情とか雰囲気とかもどことなく似てるし、そんな太一の瞳を見てると陽奈を思い出すんだよね。まるで陽奈から『嘘をつくな』って言われてるみたいに思えて……まああいつはそれもわかってやってたんだと思うけど」
太一がそんなことを……
陽奈と爽が疎遠だった時、太一は陽奈に爽の話をしなかった。離れてしまった幼馴染に陽奈がどんな思いを抱えているのか知ろうともしなかったし、太一にとって興味がないのだと思っていた。
しかし……それは違ったのかもしれない。
太一は待っていたのだ。二人が自分で答えを見つける時を……
「そんなことを繰り返してたら、次第に本当にバカみたいだって思えてさ。いつまでも同じことしてもしょうがないって思った。……だから、意地でも近くにいてやろうと思って帰ってきた。転勤先で陽奈が朝倉主任のことがずっと好きでアプローチしているって知ったときは驚いたけど……もう関係なかったんだ……」
そういうと、爽は逸らしていた視線をゆっくりと陽奈に向けた。そして、優しく微笑んだ。
「陽奈、好きだよ」
「そっ……」
「重いだろ? 20年越しだからね」
そういって開き直ったように、意地悪そうな笑顔を向けてきた。
まっすぐで偽りのない爽の気持ちと笑顔。その瞬間、目尻から大粒の涙が零れ落ちた。次第に堰を切ったように涙が溢れだし、目の前に見える爽の姿が霞む。
言葉が出てこない……しかし、爽の姿を失いたくなくて、必死で爽から視線を外さないように顔を上げた。そんな陽奈の頬に大きな手のひらを滑らすと、爽は呆れたように陽奈の涙をぬぐった。
「そっ……そっ……んくっ……」
名前を呼びたいのに、涙と嗚咽がそれを邪魔する。そんな陽奈の様子に、「ぶはっ」と爽は噴き出して、やがて包み込むような優しい瞳を向けてきた。
その瞳が……私を愛しいと言っている―――――
「……なに?」
「わっ……わたっ……私も……す、好きだよ」
陽奈が必死にそう言い切ると、その言葉に驚いたように、爽はその栗色の瞳を大きく見開いた。頬に添えられた手の動きが止まり、爽の緊張をその手から伝わってくる気がした。
心臓がドキドキと跳ねるように脈を打つ。こんな風に思いを伝えられる日が来るなんて……ほんの少し前までは思いもしなかった。しかしどうしても伝えたくなった。その蕩けるほど甘い瞳に、伝えなくてはいけないと思った。
好きだと……陽奈のことを愛してると言った、爽。そして素直に好きだと答えた陽奈にどんな反応を見せてくれる?
フリーズしたようにしばらく動かなくなった爽だが、やがてぎこちなく視線を逸らすと短く「……ん」とだけ、言葉を発した。
――――――ん?
どういう返事だろう。?
もしかして……伝わってない? 必死で言った言葉だっただけに、声も小さくなってしまっていたし、言葉もとぎれとぎれでうまく伝わらなかったのかも……?
「待って……聞こえてた? 私ね、そうちゃんのこと好き。すごくすごく好き」
「わっ、わかった!」
「本当? 伝わってる? さっき太一に言ったこと、本当だよ……そうちゃんに会えるだけで、近くにいれるだけで幸せなの……すごくドキドキするの……伝わってる?」
「ひ、陽奈……それ以上は……」
「大好き……そうちゃん、大好……っん」
次に続く言葉は爽の唇によって遮られた。深く、そしてやがてついばむように何度も陽奈を覆い、かすめ取っていく。
何度も交わしたキスなのに、今日のキスはいつものそれとは何か違う気がした。
――――――甘い……
「好……き」
酔いしれてしまいそうな体で、爽のキスに答えようと、彼の首に腕を伸ばした。爽はくぐもったような笑いを漏らすと、さらに陽奈の腰を自らに引き寄せキスを深めてくる。お互いの唾液の絡まる音以外何も聞こえなくなった。
愛おしくて自然に涙があふれてきた。こんな風に気持ちを伝えることができる日が来るなんて、思ってもみなかった。
その思いに爽が応えてくれるなんて。
好き―――――この溢れんばかりの思いを受け止めて……
どのくらいそうしていただろう。お互いの唇が擦れて腫れ上がるほどにキスを繰り返していた爽が、そっと体を離してきた。
そして名残惜しそうに顔を上げた陽奈の瞳をじっと見つめて、熱い息を吐き出した。
「陽奈……」
小さく名前を呟きながら、乱れて頬に流れた陽奈の髪を後ろに撫で付け、そっとその頬に手を添わせる。
爽のキスで熱く敏感になった肌には、そんなわずかな刺激さえ甘美な愛撫に思えてきて陽奈は吐息を漏らした。
「そんな可愛い顔して……」
「え……?」
「止められなくなるよ。……このまま閉じ込めて帰したくなくなる」
「そう……ちゃ……んっ」
再び唇を塞がれる。貪られるようなキスを受け、その激しさに息をつくこともできない。身体がしびれて、自分の力ではその指一本さえ動かすこともできなくなり、ぐったりとその肢体を爽の腕に預けた。
やがてその激しさが優しいものに変わり、唇は頬をたどり、首筋に軌跡を残すように触れてくる。
「……ぁ」
陽奈が甘い声を漏らすと、爽は顔を上げ困ったように陽奈を見つめてきた。
「帰さないと……やばいよなぁ。あいつに後でなんて言われるか……」
「あい……つ……?」
思考が働かない頭で、ぼんやりと爽のつぶやいた言葉を反芻する。爽はそんな陽奈の唇に素早く軽いキスを落とした。
「でもなぁ……」
考えをまとめるかのように、陽奈を強く引き寄せ幾度もその唇にキスを繰り返しながら、爽はぶつぶつを呟いている。
陽奈はただそのキスに応えることに必至で、爽が何を言っているのかまでは頭が回らないのだ。
いつの間にかソファーに押し倒されて、浴びるような愛撫を受けていた。そして爽の唇が陽奈の耳朶を食み、舌がに差し込まれた時、背中に強烈な刺激が走ったかと思うと思わず声を上げた。
「やぁ……んっ」
その声に爽は我に返ったように、バッと顔を上げて陽奈を見下ろした。陽奈はけだるい体をそのままに視線だけ爽に向ける。
「……やばい。きた」
「きた?」
「もう無理。……行こう」
爽は陽奈を抱き上げ、そのままリビングのドアに向かう。
「そっ……そうちゃん? どこへ……」
「俺の部屋」
そうちゃんの部屋?
その言葉の意味を理解した瞬間、顔が真っ赤に染まる。先ほどまで何度も深いキスをしていたのに、今更意識すると恥ずかしくなって顔を伏せた。
「ちょっと陽奈。あんまり可愛い顔しないで」
「え?」
「部屋までもたない……」
「んん……っ」
抱き上げられた不安定な恰好のまま、玄関から階段に続くホールで爽のキスが降ってきた。陽奈は爽の首に腕を回し、体を乗り上げてそのキスに応える。
好きよ……何度でも触れて。
陽奈がその身体ごと爽にゆだねようとした時―――――
ガチャガチャ……ガチャン
「たっだいまぁ~!!」
鍵穴が大きな音を立て回されたかと思うと、そのドアが軽快な声とともに豪快に開け放たれた。
階段手前で爽に抱き上げられ、そのキスに没頭していた爽と陽奈はその音に思わず視線を向けた。
聞き覚えのある声、そして……
「爽ちゃん、お父様がサプライズで帰還……んんうぇ!?」
「お父さん、どしたの? あれ、爽? ……と、陽奈ちゃん?? え? 何……ええええぇ!!!」
小さな家のホールにその二つの声がこだまする。驚いたようなそれでいて楽しそうな声を発したのは何を隠そう、この家の本当の主人。爽の両親、小次郎と和歌子だった。
そしてその二人の後ろから飄々と顔を出したのは……
「あれ? まだお取込み中だった?」
「……太一!?」
その人物を見た瞬間、陽奈は我に返ったように声を上げ、爽から体を離し地に足をつけた。
反射的に太一に駆け寄ろうとした陽奈の腕を爽に掴まれる。
「そうちゃ……」
無意識の行動を制止されたことに驚いて、陽奈が振り返ると、爽の鋭い視線で一瞥される。
「無自覚のブラコン!……こんな時まで持ってかれてたまるか……」
「え?」
そんな二人の横から面白がるような太一の声が聞こえてきた。
「おじさんとおばさんがサプライズで帰ってきたって、さっき僕に連絡くれたんだよね。駅まで迎えに行ってたんだ」
「お前…………前から知ってたな?」
「あれ? わかっちゃった? まあもともと僕がおじさん達に爽が出張から帰ってくる日を伝えたからね。そうしたら今朝になって連絡があってさぁ~。いや~爽喜ぶだろうね……なんて、おじさんと盛り上がって……」
「じゃあ……さっき俺らを部屋から追い出したのは……」
「そろそろ迎えの時間だったからね」
「太一ぃぃ~~~」
「一応、時間はあげたでしょ?」
「こんのっ……!!」
「……易々とあげないよ」
太一は意地の悪い表情でそう言い放つ。その後も「ぶっ殺す……っ」と物騒な暴言を吐いた爽に、余裕の笑顔を向けいつの間にか隣にきて陽奈と爽を引き離した。
陽奈は腕を引っ張られたことに驚いて顔を上げると、太一はしたり顔で笑いかけてきた。
「まとまったみたいじゃん?」
「……うん。まあね」
「太一! さっさと陽奈を返せ!!」
改めて爽と想いが通じ合ったのだと、実感させられたような気がして、恥ずかしくなってしどろもどろで返事を返した陽奈の背後から、爽の怒声が響き太一に掴まれたもう一方の手首を爽からも奪われる。
二人に同時に引っ張られるような形になり、二人に戸惑いの視線を向けようとした陽奈のもとに、先ほどから陽奈たちの背後でざわざわと声を上げていた二人の会話が聞こえてきた。
「お父さん!! どうしましょ~!!」
「和歌ちゃん……どうもこうもないだろ。爽はつまり……陽奈ちゃんと……恋人同士ってことだよ。要はあの男の寝首を掻ってやったということだ。ゆくゆく我々は、陽奈ちゃんから“お義母さん、お義父さん”と言われるということだよ」
「まあ、まあ!!」
「陽奈ちゃんに“お義父さん、お背中を流しましょうか……”なんて……」
お背中?
「こら、親父!! どさくさに紛れて、変な妄想すんな!!」
「……あ、聞いてたんか」
「そうですよ、お父さん。それを言うなら、私でしょ……! 温泉なんか行って……陽奈ちゃんと一緒にのんびりと……あぁ、私、女の子が欲しかったのよねぇ!!」
「母さんも、微妙にむかつく願望話はやめてくれよ」
『え~!!』
爽は太一から掴まれていた手を陽奈から引き離し、陽奈を抱き寄せた。そして明らかに落胆を見せる和歌子と小次郎に、これ見よがしに陽奈の手に絡ませた自分の手を見せつけ、なんでもないことのように言い放つ。
「陽奈は俺のもんだから、親父たちには渡さない」
独占を高らかに宣言されて、ドキンッと胸が大きな音を立てた。恥ずかしいけれど、嬉しい。
今までは幼馴染としてのわずかなつながりしか持てなかった陽奈が、今は爽に独占され特別な存在なのだと証明されている様に思えて、胸の中があたたかくなる。
そんな気持ちを携えて陽奈が爽を見つめると、爽は人目もはばからず陽奈の唇に軽いキスを落とした。
「……っ!」
驚いて口を押えると、爽はそんな陽奈を優しく見つめた。
「俺のもんだからね」
「……もうっ」
そんな仲睦まじい二人を見て、和歌子と小次郎が「そんなぁ……」「独り占めはいかんぞ……」とぼやいた。隣の太一は苦笑を浮かべている。
「まあおじさん達には……当然の報いかもね」
報い?
太一の言葉が気になって陽奈が問いただそうとした時、突如玄関ホールに耳を切り裂かんばかりの怒声が鳴り響いた。
「ななななな……何をやってるんだぁ!!!!」
驚いて向けた視線の先に、陽奈の父親が茫然とした表情を浮かべ、小次郎たちの後ろ
に立っていた。
「あ~あ……うるさいのが来ちゃったね」
太一はその言葉にそぐわないほど冷静な声色でそう言い放つと、陽奈の背中を押して部屋の奥へと押し込み始めた。爽も太一の意図を理解しているのか、陽奈の手を引いて先ほどいたリビングのほうへ足を進める。
背後からは火を吐かんばかりの父親の声がこだましていた。そしてそれに反発するような小次郎の罵声が聞こえてくるのだ。
「ねえ……太一……あれって?」
「無視、無視。もうちょっと時間稼げると思ったんだけど、早かったね……久しぶりに会ったから、しばらく続くよ。今日は爽と陽奈のこともあるし……収拾つかないから、あとは母さんたちに任せよ」
太一の言葉に戸惑いの視線を爽に向けると、爽も困ったような笑顔を向けて同意の言葉を返した。
「まあ、そういうことだね」
どういうこと?
人が変わったように言い合いを繰り返している父親を何度か振り返りながら、陽奈は二人に引き連れられてその場を後にしたのだった。




